詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

天皇の「政治的発言」

2017-01-20 12:13:30 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇の「政治的発言」
               自民党憲法改正草案を読む/番外69(情報の読み方)

 2017年01月20日読売新聞(西部版・14版)2面と4面に「天皇の生前退位」を巡る「法整備」に関する記事がある。

(2面の見出し)
退位法整備 意見集約3月中合意/各党協議 「国民総意 見つける」

(4面の見出し)
各党「静かに議論」一致/退位法整備 立法形式なお隔たり

 「(衆参の)正副議長は協議で、2月中旬以降に各党から個別に意見を聴取し、3月上中旬をメドに(各党の意見を)とりまとめる方針を説明し、了承を得た」(2面)ということなのだが、「個別に意見を聴取」することで「国民総意」というものが見つかるのか。
 各党それぞれに「A、B、C、D、E」という意見があったとする。自民党は意見を集約した結果(いちばん多い意見を)Aとした。公明党はB、民進党はC、共産党はD。これをとりまとめるとき、必然的に党員の多い自民党のAという意見が最初に書かれ、それから他の意見が併記されるということが起きる。このとき問題になるのは、どの党の案にもならなかったEが、党にこだわらずに集計するといちばん多いということもありうることだ。個別に集計するのではなく、全体で集計すれば、BやCが多くなるということありうる。だいたい、議論というのは他人の意見を聞きながら自分の意見を変えていくものである。「個別に」とりまとめていたのでは、そういう「意見変更」の機会がない。こういうものは「議論」とは呼べない。
 ここでもまた「静かに」ということばが出てきている。昨年7月、籾井NHKの参院選報道(静かな報道/選挙報道をしないとい作戦)が自民党の大勝を引き起こしたばかりなのに、野党が「静かな作戦」にやすやすと乗ってしまうところが、私にはどうにも理解できない。「静かに」議論している限り、巨大政党の自民党の案だけが目立つ。少数意見は抹殺される。
 民主主義は「個」の多様性を認めるところから出発する。「個別の意見」を排除することで「全体の意見」にするという安倍の「作戦」に乗ってはいけない。この「静かな」作戦を阻止するところからはじめないといけない。
 現行憲法の第十三条 「すべて国民は、個人として尊重される。」を自民党憲法改正草案では「全て国民は、人として尊重される。」と「個」を排除する形で書いている。「個(多様性)」の排除は、天皇の退位問題の議論でも先取り実施されている。いまここで「静かに」議論してしまえば、それはすでに自民党の憲法改正草案を認めることになる。野党はそのことを自覚すべきである。
 安倍は「静かに議論」という作戦を通して、自民党総裁(自民党の意見を代表する)から「国民の総裁」になろうとしている。自民党における支配システムを国民全体に押し広げようとしている。これを「独裁」というのだが、「独裁」を阻止する方法は「烈しい議論」しかない。「静かに」議論していては「個」は抹殺される。

 それにしても不思議でしようがないのだが。
 8月8日、天皇が語ったことは「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」という具合に宮内庁のホームページでは記録が残されている。新聞などでも同じタイトルで掲載していた。つまりこれは天皇の「象徴」の「定義」である。「生前退位」をめぐる「お気持ち」などではないのだ。
 「象徴」について、憲法第一条には、

第一条
天皇は、日本国の象徴であり日本国及び日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。 

 とは書かれているが、くわしい「定義」はどこにも書かれていない。それを天皇は、天皇のことばで、こう言いなおしたのである。

 私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行おこなって来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井しせいの人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

 8月8日のことばのなかでいちばん美しい部分(天皇の肉声)である。国民一人一人によりそうこと、その集大成として国民の統合の象徴になる。天皇がこう「定義」したとき、それはあくまで「国民/国」の「統合」の象徴である。「国民」というのは必ずしも「国家」を前提としない。つまり、「国家(政治体制)」に対して反対する人間も「国民」である。政治とは無関係に、天皇は「国民一人一人」に寄り添い、国民を思い、国民のために祈ると言ったのである。それも

人々への深い信頼と敬愛をもってなし得た

 と語った。
 そして、ここでは「国民」を「人々」と言いなおしている。言い直しながら、単に「寄り添い、思い、祈る」のではなく、「深い信頼と敬愛をもって」それを実行し得たと語っている。
 他の部分にも「人々」は出てくる。これも「政治とは無関係に(政権とは無関係に)」ということである。
 そのことに注目するならば、これは実は天皇の「政治的発言」だったのである。なんといっても「象徴」の「定義」を天皇は自分自身の体験とことばによって語ったのであるから。(どこかの憲法解説書や学者の説を引用したのではないのだから。)
 このことを、私たちはもっと重視すべきである。
 このことばに寄り添って、天皇の問題を考えるべきだと思う。

 「退位」を口にすることが「政治的発言」なら「象徴」について「定義」することも「政治的発言」である。
 それが問題にならなかったのは、安倍が「生前退位」を「政治問題」にすることに夢中になりすぎていたためだろう。安倍が仕組んだ天皇の口封じのことばかりに意識が集中しているからだろう。天皇を引っぱりだして「生前退位」に関する発言を引き出すことができたぞ、と小躍りして喜んでいたのだろう。

 安倍の仕組んだ籾井NHKのスクープによって、天皇は「生前退位」についての発言を強要された。その強要された発言の中で、天皇は二度にわたって「天皇には国政に関する権能はない」と言わされている。(官邸が事前に原稿を検閲している。)
 そうした中で、天皇は「退位の意向」は「示唆」という形で語りながら、「象徴の定義」を「定義」ということばをつかわずにやってのけている。
 ここから「天皇の生前退位」問題についての「反撃」をはじめるべきだと思う。
 「天皇の負担軽減」ということばで語られているものを、もっと具体的にとらえなおし、「象徴」の定義を明確にするところから議論をはじめなければならない、と「政党」ではなく、「政治家」ではなく、ふつうの人々が声を上げないといけない。
 「天皇」は「政権の象徴」ではなく、「人々の統合の象徴」である。
 安倍は、この「人々の統合の象徴である天皇」を「政権の象徴」にすり替えるために、天皇に「生前退位」を迫っている。

 現行憲法が誕生したころ、和辻哲郎は「国民統合の象徴」という文章を書いている。(岩波書店版「和辻哲郎全集」第十四巻に収録)哲学者が発言している。
 いまの状況で、誰か哲学者が「天皇の象徴性」、「天皇の生前退位」について語っているかどうか、私は知らないが、もっと多くの人間が語るべきだと思う。憲法学者は「戦争法」のとき何人か発言したが、「天皇の生前退位」について、天皇が提起した「象徴の定義」について、さまざまな視点で議論すべきだと思う。
 学者だけではなく、「市井の人々」である私たちが、私たちのことばで語る。「静かに」ではなく、大声で語る。そうすることで、「静かな議論」を「騒がしい議論」に変えていく必要がある。
 私は籾井NHKの「参院選報道をしない(静かな作戦)」に7月3日(いわゆる選挙サンデー)に突然気づき、急いで「自民党憲法改正草案を読む」という文章を何日かに分けて書いた。(ポエムピースから「自民党憲法案の大事なポイント」という本になっている。)
 ひとりひとりが「騒ぐ」ことが「独裁」を阻止する力になると信じたい。
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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ポエムピース
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長嶋南子「あき地で」

2017-01-20 09:34:44 | 詩(雑誌・同人誌)
長嶋南子「あき地で」(「zero」6、2016年12月28日発行)

 長嶋南子「あき地で」は「家族史」かもしれない。

草ぼうぼうのあき地に立っている
ここに家があった

庭先で酔った弟が大の字になって寝ている
もう少ししたら奥さんと別れることになる 知ってた?
生まれたばかりの娘は別の男に育てられる
知ってた?

 かつて家があった場所は「あき地」になっている。「あき地」に来て、かつての家族を思い出している。何が起きるか知らずに(あたりまえだが)、生きている。生きてみると、たとえば弟は妻と別れる。生まれたばかりの娘は、妻と再婚した(たぶん)男に育てられる。そうなることを、

知ってた?

 もちろん知らない。何が起きるか知らずに生きている。それが人間である。
 「歴史」を「こんなことがあった」と語るのではなく、「こんなことが起きる、それを知ってた?」と語り直すとき、妙に切ない。そうか、人間は、何が起きるか知らずに生きるのか。起きてから、何が起きたのかを知るのか。
 あたりまえなんだけれどね。

そんなところで寝てないで
奥さんと娘さんのことろへ早く行きなよ
弟はろれつが回らないことばで
姉さん 早く夫に先立たれること知ってた?
こどもが引きこもりになること
知ってた?

 人間は意地悪だねえ。やり込められたら、やり込め返す。姉さんだって何も知らずに、何の手だて(?)もせずに生きているだけじゃないか。
 さて。
 こんなふうに「きょうだい喧嘩」になったら、どうすればいいんだろう。

知らない 知らない
弟がいたことも子どもがいたことも
おかっぱ頭のわたしはあき地でままごとしている
子ども役の弟に
早く学校に行きなさいといっている
行きたくないと子ども役の弟は
大の字になって寝ている
草むらでムシが
知ってる知っている と鳴いている

家があった

 「知ってた?」と聞かれたら「知らない」と答える。
 それでおしまい?
 いや、そうじゃない。
 もちろん、そうなることは知らないさ。けれど、「覚えている」。忘れない。弟が庭先で寝ている。そのときの「だだのこねかた(?)」は、ままごと遊びで弟が「学校へ行きたくない」と「大の字になって寝ている」姿にそっくり。あんたは、いつでもそうだったねえ。
 それは「知っている」こと、だから書かないのだが。
 弟が奥さんと別れたこと、娘が別の男に育てられたことを、「知っている」だけではなく、自分のことのように「覚えている」。夫が先立ったこと、子どもが引きこもりになったことも「覚えている」。それは「忘れられない」。そして、それは「現在形」だ。
 この書かれていない「現在形」が、きっと、

知ってた?

 という「過去形」を引っぱりだすのである。
 ひとは誰でも「現在形」で生きている。「未来」のあるとき、また「知ってた?」とこれから先に起きることを聞くかもしれない。

知らない 知らない

 でも、起きたことは「忘れない」。「覚えている」。
 草むら(あき地)やムシは人間ではないので、人間の、そういう面倒くさい「感情」なんか気にしていない。何にも知らないくせに「知ってる知ってる」と言い立てる。
 そうだよなあ。
 誰かが「知っている」。それは「自分」のなかの「予感」かもしれない。なんとなく、「わかっている」。だから、それを受け入れて生き続けるのかもしれない。
 この詩には「知っている/知らない」(知る)という動詞しかつかわれていないのだが、どこかで「おぼえている」「わかっている」ということばが動いている。
 弟の「思い」は「わかっている」、姉の「思い」も「わかっている」。「わかっている」もの同士の集まりが家族。家族はいろんなことを言い合う。減らず口をたたきあう。でも、それは「わかっている」から。
 そうやって「家族」がつづいていく。

家があった

 は、「家族があった」であり、「家族があった」の「あった」は決して過去形にはならずに「ある」という形でつづいていく。
 長嶋の詩にはいつも「ある」を受け入れる力が強く動いている。


はじめに闇があった
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宮内庁の悲鳴

2017-01-19 12:46:17 | 自民党憲法改正草案を読む
宮内庁の悲鳴
               自民党憲法改正草案を読む/番外68(情報の読み方)

 2017年01月17日読売新聞(西部版・14版)1面に

退位法整備 通常国会で/衆参正副議長が一致/19日に各派代表会合

 という見出し。国会で審議するのはあたりまえのことだが、気になるのは記事中の次の部分。

政府が想定する2018年末の天皇陛下の退位、19年1月1日の皇太子さまの即位に向けて準備を円滑に進めるためには、今月20日に召集される通常国会で法整備しないと間に合わないと判断したものだ。

 順序が逆だろう。審議があって、それから天皇の退位、皇太子の即位の日が決まる。審議の前に退位/即位日を決めておくと、審議にならないだろう。審議がすんでから、日程を決めればいいだけである。その日がいつになろうが、国民の誰が困るというのだろう。誰も困らない。
 大島衆院議長は「法案内容について与野党が足並みをそろえる必要性も強調した」と読売新聞は書いているが、足並みがそろうかどうかは審議の過程で決まること。審議する前に「足並みをそろえる」というのは審議しないことになる。

 2017年01月18日読売新聞(西部版・14版)2面には続報が載っている。

意見取りまとめ3月メド/退位法整備 正副議長が聴取へ

 3月中旬までに各会派の意見を取りまとめ、首相に報告するということなのだが、その記事中に次の文がある。

正副議長は現在の天皇に限り退位を実現させる特例法を想定する政府・自民党と、退位の制度化を訴える民進党などと意見の隔たりがあることから、各会派がそろって議論することには慎重だ。

 これも、奇妙な話である。意見の隔たりがあるからこそ議論が必要である。隔たりかあるから議論しないというのであれば、政府の結論を鵜呑みにするための「アリバイ」工作になる。
 議会の議長が議論を否定するのは、民主主義に反している。

 この日の読売新聞(1面)には別の記事もある。

即位の儀式「元日困難」/宮内庁次長 終日行事過密で

 先に報道された2019年1月1日に皇太子が天皇に即位し、新年号にするという政府の方針に対して、宮内庁次長が意見を述べたというものだ。2面の関連記事がある。

新年行事「特別な意味」/宮内庁次長 皇室の立場を説明

 見出しだけで、十分わかる記事である。
 疑問は、新年行事が込み入っていることは政府(官邸)も知っているはずということ。「新年祝賀の儀」には三権の長が出席している。毎年行われていることであり、どういう日程で行われているか、知らないとしたら、その方が問題だろう。
 知っていて、カレンダーの都合(国民の生活に配慮する)という理由で「1月1日」にこだわっている。
 何よりも問題なのは、「1月1日に新元号(即位)」ということになったとき、宮内庁側の対応はどうなるのか、そのことを官邸が問い合わせていない。交渉していないということである。(少なくとも、宮内庁次長の意見を読む限り、「1月1日」に関しては、折衝がなかったことがわかる。折衝があったのなら、それは「1月1日」説が出た段階で、どこかに書かれているはずである。)
 このことについて、宮内庁側の姿勢は、こう説明されている。

 天皇の公務負担軽減等に関する有識者会議で議論が進むなか、宮内庁は陛下の憲法上の立場に配慮し、陛下が昨年のお言葉で意向を示唆された退位に関する発言を控えてきた。

 注目しなければならないのは「陛下の憲法上の立場に配慮し」である。
 8月8日のビデオメッセージのなかには、「天皇は国政に関する権能を有しない」という意味のことが最初と最後の2回にわたって語られている。(私は、語らさせられている、と受け止めている。文言は事前に官邸が検閲しているからである。検閲されて、了解がとれかことばを天皇は読んでいる。無検閲の文章を読み上げているわけではない。)
 何か発言すれば、それは国政に関与したことになる。憲法違反になる。政府(安倍)は、そう年押しする形で、天皇(宮内庁)の発言を封じている。口封じをした上で、全てを決めようとしている。
 8月8日のことばに、私は天皇の「悲鳴」を聞いたが、いまは宮内庁の「悲鳴」が聞こえる。

 19年は平成30年の節目(30年が終わる)、ということだが、それだけの「意味」で「19年1月1日」が選ばれているわけではないだろう。20年は「東京オリンピック」の年でもある。20年まで天皇が在位すれば、当然、東京オリンピックには今の天皇が出席するだろう。安倍は、それを排除したいのだ。リオオリンピックの閉会式から東京オリンピックの開会式へと、安倍自身が「主役」であるとアピールするために天皇を排除しようとしている。オリンピックは「国家」が開催するのではなく「都市」が開催するもの、主役はアスリートであるはずなのに、安倍は「自分が主役」をアピールするために利用している。
 そうした動きが背後にある。
 「区切り」というだけなら2019年よりも2020年か2021年の方が「西暦/元号」の「換算」が便利になるだろう。さらに「東京オリンピック」が東日本大震災からの「復興」を強調するものなら、被災者に寄り添ってきた天皇のことを思えば、そこまで今の天皇が天皇のまま方がいいのではないだろうか。「東京オリンピック」は国民と一緒に歩んできた天皇と国民の「象徴」となるだろう。
 いったん「〇十年」という「区切り」がいいということになれば、次の天皇も「〇十年」を区切りに退位/譲位、ということになりかねない。「〇十年」の方が国民生活(カレンダー)にとって都合がいい(わかりやすい)ということになりかねない。「国民生活を優先する」という「理由」で天皇の「在位期間」を決めるということもなりかねない。
 「理由」というか「意味づけ」というのは、どうとでも言えるものである。だからこそ、「どういうか」が大事にもなる。「理由」の「実質」を見ていかないといけない。

 「天皇」は憲法の「第一章」にかかげられている。私は天皇制に反対の人間だが(天皇制は廃止すべきだと考えている人間だが)、憲法と国民全体に関係する大事な問題を、「静かな環境(天皇に負担をかけない)」という「口実」で、国民議論の対象外に置こうとする安倍の姿勢はおかしい。それに異論を挟まない衆参の議長・副議長もおかしい。騒ぎ立てない野党もおかしい。

 宮内庁は、やっと声を上げた。その「声を上げた」という「事実」をもっと重視すべきだと思う。宮内庁の悲鳴は天皇の悲鳴でもある。

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井本節山「キンモクセイ・クエスト」、カニエ・ナハ「:Plant Box」

2017-01-19 11:08:05 | 詩(雑誌・同人誌)
井本節山「キンモクセイ・クエスト」、カニエ・ナハ「:Plant Box」(「hotel第2章」39、2016年11月01日発行)

 「hotel第2章」39は「樹木・植物考」という特集を組んでいる。井本節山「キンモクセイ・クエスト」は特集には組み込まれていないのだが……。

夜になるとキンモクハセイを探しに出る。見知らぬ角々に立ちどまっては。
肌寒いくらがりで。風のなかに鼻をくんくんさせる。

甘い、ほのかに燈る、オレンジの灯りを求めて。
角から角へ曲がり続ける。細い糸をたぐるように。

探すこと。かすかな灯りの方向へ。悪意、嫉妬、悲しみ、不安、無関心……
それらはくらがりの数々のノイズの混じった、短い私信であり、
質素な招待状。迷うこと。角々に立ち、鼻先を羅針盤として、選り分けて。

風上へ、遡る。始まりのところへ。
ずっとそうだった。ずっとそうなのだろう。匂いに導かれて、そして角々で迷う。

 「探す」という動詞が「迷う」という動詞に変わる。
 その過程で、一連目「鼻をくんくんさせる」は嗅覚。二連目の「甘い」も嗅覚だが、その直後の「灯り」は視覚。動いている「肉体」がかわる。「細い糸をたぐる」の「たぐる」は何だろうか。「細い」とあわせて、手の感じ(触覚)を、私は感じる。
 そのあとの三連目がおもしろい。「灯り(視覚)」のあとに、「悪意、嫉妬、悲しみ、不安、無関心」がつづき、「数々のノイズ」と言いなおしている。「ノイズ」は聴覚ということになるだろうか。さらに「ノイズ」を「私信/招待状」とも言いなおしているのだが、「私信/招待状」とは何だろう。嗅覚、視覚、聴覚と単純化できない。「私信/招待状」を「ことば」と言い換えてみると、「頭脳」によって、整理、整頓された世界ということになるかもしれない。
 ここに、「迷う」が闖入してくる。
 そうか。肉体を駆使して、何かを「探す」。肉体をとおしてさまざまな情報が入ってくる。輻輳する。一つではないから、「迷う」ということが始まる。
 この変化が、とても自然だ。
 で、「頭脳」の「迷う」のあと、「鼻」がもう一度動き始める。
 四連目に「遡る」「始まり(始まる)」ということばが出てくる。輻輳する感覚のなかで最初に動いたものへと帰っていく。キンモクセイを探すというよりも、自分自身の「肉体」を探すようなおもしろさがある。

*

カニエ・ナハ「:Plant Box」は特集のうちの一篇。

現実の細部に鋭利な深い影を秋。穏やかな、静かな秋の静かな人が放棄された
箱が与える、無限の概念に怖がっていた。存在しない姉妹に似ている。枝折を
読んで、その教えを呼吸するための箱。あるいは幸せだった最後の時。やがて
世界を去ったとき、次の樹にいる二人を結びつける黄金の空に蜂。雲の両端の
それぞれが何世紀にもわたって、熱が生成され。深く離脱している。根も葉も
飛んで美しい。埃の多い木曜日は、長い忘却を取り戻すための夢の中で愛する
人の復活の物語を肖像する。それでやっと、いま、ここにいる理由がわかった。

 「それでやっと、いま、ここにいる理由がわかった。」と書かれているが、読んでいる私は、ちょっと「わからない」。「わかった」とは言えない。
 で、最初から読み直す。

現実の細部に鋭利な深い影を秋。

 ここには、動詞がない。細部に鋭利な影を「与える(つくる)」のが秋なのか。確かに秋は影が鋭利になるかもしれない。しかし、このときの「鋭利」は夏の鋭利とは違う。夏に比べ秋の方が、「深さ」を感じるかもしれない。これはほんとうにそうなのか、たまたま私たちの「文芸」の伝統が秋をそうやって表現することが多いからそう思うのか、判然としない。しかし、私は「鋭利」「深い」「影」ということばと「秋」は非常に「似合う」と感じる。だから

現実の細部に鋭利な深い影を秋と呼ぶ。

 という具合に「呼ぶ」という動詞を補って読んでもいいかなあ、と思う。
 私が「呼ぶ」を補って読んだことばは、また「秋を現実の細部に鋭利な深い影と呼ぶ」という具合に入れ換えることもできると思う。「呼ぶ」という動詞があっても入れ替え可能ということは、呼ぶがない場合はもっと容易に入れ替え可能ということでもある。
 そして、思うのだが、このカニエの詩では、書かれていることが全て入れ換え可能なのではないだろうか。

穏やかな、静かな秋の静かな人が放棄された箱が与える、無限の概念に怖がっていた。

 「人」と「箱」は、どちらが「放棄された」のか。「放棄された」は「放棄した」かもしれない。「人」が「箱」を「放棄した」のか「箱」が「人」を「放棄した」のか。「主語」を変えれば「放棄された(受動)」は「放棄した(能動)」になる。「怖がっていた」のは「人」か「箱」か。もちろん「箱」は「感情」を持たないから「箱が怖がる」というのは非論理的だが、「比喩」としてならば成り立つ。

存在しない姉妹に似ている。

 これも、非論理的なことばであるけれど、この「非論理」そのものが「比喩」なのである。存在しないものに、何かが「似る/似ている」ということは不可能だが、「似る」という動詞は、何かと何かが「似る」という形で成り立っているので、「似る/似ている」という動詞をつかうとき、そこにそれが存在していようが存在していまいが関係がない。だいたい「比喩」というのは、そこにあるものをそれ以外のもので言いなおすことだから、「比喩」は「存在しない(不在)」の証明でもある。
 「きみは薔薇(のように美しい)」というとき、「きみ」は「薔薇」ではない。「薔薇ではない」からこそ「薔薇である」という「比喩」が成り立つ。
 「比喩」のなかで存在と不在が入れ替わることが、「比喩」が成立する条件である。
 だから、というのは論理の飛躍だが、(私は年末から風邪を引いて頭が働かないので、と、ここで強引に個人的な事情を割り込ませて端折るのだが)、この詩では、書かれている「断定」を「断定」されたものではなく、もっと不確かなものへと変換しながら読むべきなのだ。

それでやっと、いま、ここにいる理由がわかった。

 とカニエは書いているが、誰がいるのか。「私(話者)」がいると考えるのがいちばん簡単だ。そう考えた後、では「誰がいないのか」と入れ換えてみる。「愛する人」が「いない」のだ。「愛する人がいない」から、その「不在(長い忘却)」を「取り戻す」ために「夢」を見る。「夢の中で」「愛する人」を「復活」させる。そういうことをするためには、愛する人は「不在」でなければいけない。「不在」を実感するためには、「私(話者)」は「ここにいる」必要がある。「理由」がある。
 植木鉢(プランター)に植物が植えられているのか、植物は枯れてしまって、もう土だけなのか。その「存在」があらゆる「不在」を、しかも「存在した何か」を呼び起こす。「存在」と「不在」が交錯しながら「いま/ここ」が「ある」。

 井本は「探す」から始まり「迷う」にたどりつき、「始まり」へと帰って行ったが、カニエは「探す」という動詞の中に「迷う」ことをつづけている。「迷う」ことが「探す」であると踏みとどまっている。

馬引く男
カニエ・ナハ
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和辻哲郎『鎖国』(和辻哲郎全集 第十五巻)(2)

2017-01-18 20:30:13 | その他(音楽、小説etc)
和辻哲郎『鎖国』(和辻哲郎全集 第十五巻)(2)(岩波書店、1990年07月09日、第3刷発行)

 「後篇 世界視圏における近世初頭の日本」を読んだ。倭寇からはじまり、鎖国がるまでのことを書いている。
 「歴史」や「哲学」のことを書こうとしても、私は門外漢なので、見当外れになるだろう。で、違う観点から書いてみる。なぜ、私は『鎖国』という本が好きなのか。
 信長とフロイスについて触れた部分の末尾。( 426ページ)

信長がひそかにキリシタンになっていると信ずるものもあった。そうでなければ、あのように思い切って神仏を涜することはできないからである、と。この言葉には、フロイスの信長にかけていた希望が鳴り響いていくように思われる。

 「フロイスの信長にかけていた希望が鳴り響いていくように思われる。」この部分に、私は思わず傍線を引く。それはフロイスの「心中」を推し量っているのだが、まるで和辻の思いの表明であるように聞こえる。
 フロイスが信長に期待していたものと、和辻が信長を評価している部分は一致しないのだが、何か重なる。
 もし信長が光秀に暗殺されずに生きていたら、日本は違った国になっていたはずであるという思いが「鳴り響いている」ように聞こえる。ことばに「躍動感」がある。それがそのまま「評価」としてつたわってくる。
 信長と秀吉を比較した部分に、宣教師たちのことばが引用されている。( 508ページ)

秀吉は信長ほどに他人の意見を容れる力がない、自分の意見を他の誰のより優れたものと考えている

(信長は)未知の世界に対する強い好奇心、視圏拡大の強い要求を持っていた。それは権力欲の充足によって静まり得るようなものではなかった。それをフロイスは感じていたのである。ところで秀吉には、そういう点がまるでなかった。これは甚大な相違だと言ってよいのである。

 「これは甚大な相違だと言ってよいのである。」はフロイスのことばではなく、和辻が付け加えたもの。「それは権力欲の充足によって静まり得るようなものではなかった。」も同じ。ここにも「史実/歴史」を超えて、何か、躍動する精神の断定力がある。「未知の世界に対する強い好奇心、視圏拡大の強い要求を持っていた。」は和辻自身を語っているように思える。「事実/歴史」を書きながら、人間を評価し、人間に寄り添っている。というより、その人間になりきって動いている。この感じが、随所にあふれている。
 思わず、「そうだ」と相槌を打ちたくなるのである。
 もう一つ、秀吉に関する評価の部分を引用する。( 511ページ)

民衆を武装解除する秀吉の気持ちのなかには独裁権力者の自信や自尊は顕著であったであろうが、未知の世界への探究心や視圏拡大の要求はもはや存在しなかった。宣教師たちが自分の用をつとめなければ追い払う、--それは前の年にクエリヨに特許状を与えたときの秀吉の腹であった。

 「秀吉の腹であった」の「腹」ということばのつかい方。これも興味深い。「魂胆」という「意味」だろう。もっと簡単なことばでいえば「気持ち/こころ」と言えるかもしれない。(気持ち、ということばは直前につかわれている。)
 しかし、和辻は、ここでは「魂胆」も「こころ」もつかいたくなかったのだと思う。
 「魂胆」には「魂」という精神的なことばと「胆」という肉体のことばが同居しているが、意味の重心は「魂」にあるかもしれない。「魂」はきわめて精神的なことばである。そういうことばで秀吉を評価したくなかった、ということだと思う。
 「腹」は「腹が据わっている」という言い方があるが、同時に「腹黒い」というようなつかい方もある。何か「知的」とは遠い。
 信長を評価するとき、探究「心」、「視」圏拡大というような、抽象的なことば(知的なことば)が動くのと対照的である。
 和辻は「知力」について書いているのだということがわかる。
 「未知」を発見し、「未知」を理解する。それは「世界」を理解するということ、「世界」を統合し直すということ。「哲学」しなおすということ。
 次の部分に、手厳しく、こう書かれている。( 535ページ)

秀吉は気宇が雄大であったといわれるが、その視圏はきわめて狭く、知力の優越を理解していない。彼ほどの権力をもってして、よき頭脳を周囲に集め得なかったことが、その証拠である。

 「鎖国」そのものは家光が発令したのだが、秀吉の政策が出発点ということになる。「刀狩り」から始まっている。つまり、「秀吉が下から盛り上がってくる力を抑えて、現状を固定させようとする方向に転じたとき」( 523ページ)から始まっている。

 秀吉を批評して、和辻は、こうも書いている。( 536ページ)

国内の支配権を獲得するために国際関係を手段として用いるような軍人の一人にすぎなかった。

 これは家康についても同じようなことばで批評している。

 他の「史実」にも触れながら、「結論」として、和辻は、こう書いている。( 546ページ)

当時の日本人に外に向かう衝動がなかったのではない、為政者が、国内的な理由によってこの衝動を押し殺したのである、とはっきり断言することができるのである。
 つまり日本に欠けていたのは航海者ヘンリ王子であった。あるいはヘンリ王子の精神であった。

 この「結論」から、また「前篇」を読み返すことができる。「前篇」との対比で「鎖国」の問題がよりいっそう見えてくる。
 ここでも和辻は「精神」ということばで「知力」(世界を統合し直す力)を問題にしている。
 日本が鎖国へ向かっていたとき、世界の「知力」はどう動いていたか。それを「知力」で語りなおしたのが和辻の『鎖国』だということができる。
 そして、その「知力」で語りなおした「歴史」が、単に「知識」の羅列ではなく、そこに躍動する感情として動いているのが、この本のおもしろいところである。和辻のことばには、いつでも「躍動感」がある。

和辻哲郎全集〈第15巻〉鎖国 (1963年)
クリエーター情報なし
岩波書店
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ルキノ・ビスコンティ監督「山猫」(★★★★)

2017-01-17 09:11:52 | 映画
監督 ルキノ・ビスコンティ 出演 バート・ランカスター、アラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレ

 4K版「山猫」を見た。劇場の上映装置は万全とはいえないようだが、シチリアの光の透明さが随所に輝いていた。冒頭の祈りのシーン。カーテンが風に揺れて輝く。風がカーテンに触れて輝きを増す。反射し、揺れる光が暗い室内を軽やかに舞う。自然の絶対的な美しさ、変わらない輝きのなかで、これから人間の興亡が始まる。

 4K版の魅力は人間描写でも強烈だ。アラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレの魅力は「下品さ」にある、と私は思っている。表情に暗いエッジがある、黒い輪郭があると言えばいいのだろうか。内部があふれてきて、強い輪郭に変わるとも言える。
 クラウディア・カルディナーレが初めてバート・ランカスターの邸宅を訪問し、食事するシーンが印象的だ。アラン・ドロンが尼僧院を襲撃したときのことを語る。クラウディア・カルディナーレが唇をかみ、指で歯をなぞりながら身を傾けて聞く。最後の「オチ」(軽口)を聞いて、クラウディア・カルディナーレが大声で笑いだす。そこが食事の場であることを忘れている。貴族の家であることを忘れている。「文化」を知らない庶民の、生の肉体の本能が炸裂する。だれにも止められない。
 このシーンは何度見ても、ぞくぞくする。クラウディア・カルディナーレが下品に笑いだすのがわかっているのに、その瞬間が待ちきれない。笑い声に、大口に、あ、下品だなあと思いながら、強い力を感じる。こんなふうに下品に笑ってみたいと思う。
 下品さを誘い出すアラン・ドロンの表情もいい。片目を黒い眼帯で覆っている。血や傷は「美形」を生々しくする。傷つくことで、それが「生身」であることがわかる。「生身」が「美形」の内側からあふれてくる。
 「生身」と「生身」がぶつかり、貴族の文化の場/「人工の美」を壊してしまう。(食事が「文化」であるのは、食事のために貴族が服装を変えるところにもあらわれている。食事は「日常」のつづきではないのだ。)文化を壊されたバート・ランカスターが、クラウディア・カルディナーレの笑い声を不愉快に思い、席を立つ。これは、いわば貴族文化の敗北なのだが、クラウディア・カルディナーレは、自分が何をしたか、気づいていないのがとてもいい。
 このシーンは、ストーリー(意味)の上でも、とても重要だ。まだ貴族のままでいるバート・ランカスター、彼は没落していくのをただじっと耐えている。「形式」を保っている。アラン・ドロンは貴族の息子だが、親は財産を使い果たし、完全に没落している。クラウディア・カルディナーレは「成り金」の娘である。「身分」はないが、金は有り余るほどある。美貌もある。アラン・ドロンとクラウディア・カルディナーレの出会いは、落ちぶれてしまった貴族が「成り金」を利用して身を立て直すのか、「成り金」の庶民が落ちぶれた貴族を利用して「名」を手に入れるのか(さらにのしあがるのか)という「せめぎ合い」でもある。「時代」の変わり目が、ここに噴出してきている。
 もうひとつの見どころは、延々とつづくダンスパーティーである。ここでもクラウディア・カルディナーレがすばらしい。バート・ランカスターとのワルツのシーンは、絶対的貴族と絶対的庶民の「対決」の場なのだが、一歩も引けをとらない。リードされながら踊るのだが、ほんとうにバート・ランカスターがリードしているのかどうかわからない。完全に一体になっている。その魅力に、居合わせた客は踊るのを忘れ、みとれてしまう。「庶民」はこれから美しくなっていく。「貴族」はその成長を支える(文化的にリードする)ことが、その生きる道と言っているのかもしれない。(ビスコンティのしていることは、不完全な美を完璧に仕上げるということかもしれない。「生々しい美」が「燦然と輝く輝く美」になるための「形式」を与える、ということかもしれない。)
 4K版は、このダンスシーン以外でも、驚くほど強烈である。控えの間で休憩している若い女性たちを批評して、バート・ランカスターが「いとこ同士の結婚は駄目だ。あの娘たちはまるで猿だ。シャンデリアにぶら下がって騒ぎそうだ」と批評する。着飾っているが、妙に下品である。クラウディア・カルディナーレは「成り上がり」特有の下品だが、貴族の娘たちは「成り下がり」つつあるもの、落ちぶれていくものの汚れにまみれている。汚れを取り払う力がない。ふたつの下品さを比較すると、「成り上がり」の方に生命力があり、それが美しさを生んでいることがわかる。(順序は逆になったが、このあとに、先に書いたワルツのシーンがくる。だから、よけいに美しい。)
 パーティーが終わった後の、寒々とした空気も4K版は強烈に描いている。フィルムとは違った映像のエッジのようなものが、そう感じさせるのだろう。

 随所に出てくるバート・ランカスターの名文句、台詞の強さも美しい。バート・ランカスター自身の「姿勢の美しさ」も際立っている。役どころは五十歳くらい、昔のことばで言えば「壮年」という感じなのだろうが、鍛えた肉体、強靱な印象がある。入浴シーンがあり、そこで裸も披露しているが、贅肉がなく、実際にがっしりしている。このとき何歳だったか知らないが、四十歳でもとおりそうである。その肉体が台詞の力にもなっている。
 ビスコンティは役者の選び方がうまい。
                  (中洲大洋スクリーン4、2017年01月17日)

 *

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海東セラ「たてまし」

2017-01-16 11:22:59 | 詩(雑誌・同人誌)
海東セラ「たてまし」(「ピエ」17、2017年01月15日発行)

 海東セラ「たてまし」はとてもおもしろい。

家は思想の宿りであって、たてましのたびにかたちをう
しなってゆくばあい、すでに流浪にあるとみてとれます。
たとえ別れを惜しんで、柱をいたぎ壁をなでさすりして
も、一見して合理的な思考回路によって三角の屋根から
矩形に台形にすがたをかえ、分裂しては融合し、その頃
には住み手を離れ、アンバランスな両翼で飛びたったり、
すれすれに着地したりの軽業もはじめます。

 「主語」がわからない。「家は」と書き出されるが、これは「主語」ではなくテーマ。家というものは、ということ。次の「思想の宿り」の「宿り」は「名詞」だけれど、「宿る」という「動詞」派生のことば。そうすると、ここから「思想は家に宿る」という具合にことばを読み替えることができる。「家は思想の宿りである」は「思想は家に宿る」を言い換えたものととらえることができる。もちろん、これは「事実」というよりも、ある人の「観点」である。「見方」である。それこそ「思想」である。そうであるなら、「主語」は「ひと」である。つまり「詩人=海東」がほんとうの「主語」であり、「詩人」が「観点/思想」をことばにして動かしている。ことばを動かすとき「対象」として「家」を選んでいる、と言いなおすことができる。「みてとれます」という「動詞」の「主語」は書かれていないが、そこに「詩人=海東」が隠されている。
 「たとえ別れを惜しんで、柱をいたぎ壁をなでさすりして」の「惜しむ」「いだく」「なでる」「さする」の「主語」も「詩人=海東」ということになるのだが、では、そのあとの「三角の屋根から矩形に台形にすがたをかえ」はどうか。「主語」は一転して書き出しの「家」にもどる。もちろん限定的に「屋根は」と言うこともできるが、そのあとにつづくことばを「統合する主語」は「家」と考える方が、ことばの経済学にあっている。ここでは「テーマ」が「主語」となって、「詩人=海東」をのみこんでいくのである。
 たてましによって、家が家をのみこんでいく。もとの家がわからないくらいに増殖していく、という関係が、ここから始まる。
 もちろん、この「家」をもう一度「テーマ」に戻すために、「軽業もはじめます」を「軽業をはじめるのが/みてとれます」という「動詞」を補うことができる。「みてとれます」という「動詞」を補えば、すべては「詩人=海東」が見た世界ということになる。「家」をそういう風に見る「詩人=海東」の「見方/観点/思想」を言語化したものととらえることができる。
 でも、そんなふうにすると、あまりおもしろくなくなる。
 「詩人=海東」の「見方/観点/思想」を言語化したものというようなことは、言わなくてもいいことだし(思想をことばにしていない文学というのはないのだから)、そう断定してしまうと「テーマとしての主語」「語り手としての主語」が相対的に固定化されてしまい、ことばの「流動性」が「図式化」されてしまう。
 書かれているのは「家」であり、書いているのは「詩人=海東」であると固定化するのではなく、書かれているのは「詩人=海東」でもあり、書いているのは「家」でもあるという具合に、「テーマ」と「主語」を入れ換えながら、ことばのなかに迷い込むことが大切なのだ。

住人のなかには、空想の渡り廊下をあるいて鍵のかから
ない自室にこもる者も出てきます。不在のときでも出入
り自由ですが領域は保たれ、なにしろ空中の渡り廊下を
経てゆくいわゆる「はなれ」であるために、卵形の窓か
ら家の断面が書き割りのようにみえて、家族と家族、部
屋と部屋とのつながりが、そのときどきの波形となって
おとずれるのです。

 書き手はというか、家の住人という「主語」は「家族」の数だけ増殖し、それに合わせて「部屋」も増殖する。「たてまし」される。そこでも「ひと」と「部屋」は「テーマ/主語」のどちらにもなりうる。
 こういうとき、それでは「キーワード」は何になるのか。

家族と家族、部屋と部屋とのつながり

 「つながり」という「名詞」が出てくる。これを「つなぐ」という「動詞」にすると、だれが何をつなぐ、という「主-従」の関係が生まれる。ここが詩全体の「キー」である。「主-従」というのは「主語-述語」という関係にも似ている。でも、「つながり」という「名詞」のままにしておくと、そこに「主-従」はない。どちらが主であってもいい。「動詞」は「ある」というニュートラルな「状態」にかわる。「つながり」という「名詞」が「キーワード」だ。
 そして、その「ある状態=つながり」から、

そのときどきの波形となっておとずれるのです

 「波形」は「固定化できない/流動的」ということだろう。
 私がおもしろいと感じるのはここに「おとずれる」という「動詞」が登場すること。
 相互入れ替え可能な流動的な「状態」から「あるひとつの形」が「つながり」として「おとずれる」。
 うーん。
 私は、こういうとき「生み出される/生まれる」ということばをつかってしまうが、そうか海東には「おとずれる」という形で動くのか。
 「おとずれる」というと、私はどうしても「外部」から「おとずれる」と考えてしまう。「生み出す/生まれる」は「内部」から。でも海東は、家の「内部」から「おとずれる」。あるいは家の「内部」が「おとずれる」。「おとずれる」という「動詞」の動きが、私がつかっている「おとずれる」とは違った動きをする。
 「おとずれる」は誰もがつかうことばだが、海東のことばのつかい方は「独自」である。海東語、と考えた方がいい。

 「おとずれる」は「名詞」として言いなおすなら「訪問」というよりも、「インスピレーション」のようなものかもしれない。インスピレーションは外からやってくるのか、内からやってくるのか、わからない。ただ、それは選ばれたもののところに「おとずれる」ものだろう。そう考えると、海東は「たてまし」ということばに選ばれた詩人ということになるのだろう。
 実際、最初から最後まで「設計図」に従って書かれたことばというよりも、何かに突き動かされて、全体がわからないまま(細部もわからないまま)、ことばがことばを呼び寄せながら動き、広がっていく感じがする。
 「詩」の幸福が、ここにある。
 「産みの苦しみ」とは無縁な「祝福された受胎」のような輝きがある。

 「おとずれる」は、詩の書き出しにあった「宿り/宿る」かもしれない、と私は突然思う。何かが「外部」から「おとずれる」。「内部」に入ってきて、「内部」に「宿る」。あるいは「内部」に「宿っていたもの」が「外部」を「おとずれる」。「外部」を「おとずれる」ために、生まれる。そこから育っていくもの/生み出されるものは、「外部」が「主語(主役)」か「内部」が「主語(主役)」か区別しても始まらない。そんなものは相対化し、断定してみても、新しく誕生したものの「内部」にのみこまれていくだけである。
 「内部/外部」も、単なる「便宜」。無意味になっていく。
 「たてまし」は「たてます」という「動詞」になるが、その「たてます」という「動詞」だけがいきいきとした「主語(主役)」になるのだ。

 書いていることが(書こうとしていたことが)、だんだんずれてしまって、何を書いているかあいまいになってきたが、「テーマ/語り手」「主語/主役」の流動化のなかで、何かが「おとずれる→宿る」が「宿る→生まれる」に、「生まれたもの」がさらに何かを「おとずれ→宿り」という変化を繰り返すところが、とてもおもしろい。停滞を知らない。ただ「たてまし」され続ける感じが楽しい。

キャットウォーク―海東セラ詩集
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七月堂
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オタール・イオセリアーニ監督「皆さま、ごきげんよう」(★★★)

2017-01-15 18:53:00 | 映画
監督 オタール・イオセリアーニ 出演 リュフュ、アミラン・アミラナシビリ、マチアス・ユング、エンリコ・ゲッジ、ピエール・エテックス

 ジョージア人(グルジア人)からみたフランス人と言えばいいのだろうか。
 日本人の私から見るとフランス人はわがまま。個人主義。このわがまま個人主義がジョージア人には、どう見えるか。うまく説明できるかどうかわからないが、フランス映画とは少し違う「わがまま/個人主義」が見える。
 最初にフランス革命の時の「ギロチン」が出てくる。貴族が群衆の目の前で首をはねられる。みんな見物に来ている。編み物をしながら、野次も飛ばす。窓から覗き見している人もいる。怖いから目を覆い(?)、それでも見たいと顔を出す。あるいは耳を塞ぐ。ギロチンが終わると、「その首ちょうだい」と少女がエプロンを広げる。簡単に、首を渡してしまう。
 あ、なるほどなあ。
 フランス人は、ほんとうは皆、「見たがり」なのである。他人のことを知りたい。「個人主義」の国だから、他人には干渉しない。干渉されたくない(邪魔されたくない)から干渉しない、を貫こうとするけれど、他人には興味津々。そのくせ、いったん「こと」が終わると、もう関係ない。
 これを、なんと警察署長(?)がやっている。「覗き見」を。ひとりでこっそりではなく、部下をつかって。「他人の監視」ととらえれば、まさに警察。管理社会ということになるのだが、「組織」というよりは、「覗き」そのものが「分断」されている。「個人主義の覗き/わがままな覗き」と言えばいいのかなあ。
 「覗き」だから「全体」はわからない。「全体」は「覗いている人」の妄想のなかにある。それが、そのまま「つきあい」になる。
 「他人」の「全体」のことは知らない。しかし「一部」は知っている。その「一部」をかってに「全体」に拡大し、その拡大した「他人像」と自分をかかわらせていく。これをフランス人は「友情」と呼ぶ。また覗かれた方は覗かれた方で、どうせ覗かれたのは「一部」であって「全体」ではないのだから、どう思われようが気にしない、という感じで「つきあう」。「わがまま」を押し通す形で「一部」を「他人」に押しつけ、それを「友情」と呼ぶ。
 おもしろいのが、若い男がバイオリニストを見かけ、一目惚れする。どうしたらいいんだろう。そんなことを、見ず知らずの主人公(アパートの管理人と、骸骨集めが趣味の老人二人)に相談する。すると二人は「ベートーベンは嫌いだ」「第九はだめだ」と言え、というようなアドバイスをする。「わがまま」を押しつけられたら、それに対して「わがまま」で答える。「自分の意見」しか、言わない。「自分の意見」をどれだけもっているか、が「個人の評価」になる。(若い男が老人に恋の手ほどきを訪ねるのは、老人の方が「個人の歴史」が長い、「個人のわがまま」を多く抱えている、と評価されるからである。)
 この映画を象徴するのは、いま書いた「覗き見」と、もうひとつ、「ひったくり」である。映画の本篇(?)の冒頭に、ひったくりが趣味の姉妹が出てくる。戦利品を自分のものにするというよりも、次々に他人に渡して、遊んでいる。渡された人は、それをまた別の人に渡すという形で遊びに参加する。このとき「ひったくられたもの」が「一部(覗き見された生活)」。それを無関係なひとが共有する。もし、それが自分のほしいものならそのまま「所有」するだろうが、(そこから「親友」を探し出すだろうが)、そうでなければ、また「他人」に手渡す。それがパリという街。「一部」が無数に繋がっていく、と言えばいいのか。
 傑作なのは、このアトランダムの形を象徴する警察署長のエピソード。「こと」が起きるたびに警官が出てくる。警官に対して、市民が「ちょっと待て、いまからきみの上司に話をする」。つまり、警察署長に直談判する、という。アトランダムの「つなぎめ」に自分をわりこませ、誰もが主役になろうとする。電話を受ける署長は自分に関心のないことは知らん顔。(ひったくられた帽子はパトカーを動員して奪い返しに来るのに。)下水まみれで野原(?)に放り出されるが、だれも探しには来ない。
 こういう感じでつづく映画なので、「ストーリー」はない。
 あ、こういう人がいる。こういう「シーン」を見かけたことがある。そういうことが、ただアトランダムに繋がっていく。これが、なんともユーモラスな形で繋がっていく。フランスってばかな国(フランス人って、かわいい)と監督が思っているのかも。
 最初、リードでつながれて散歩している犬が、あとの二回はノーリードで、犬たちだけで横断歩道を渡っていくシーンなんか、いいと思うなあ。犬なのに、フランス人みたいに、みんなひとりひとり(一匹一匹)、歩き方が違う。途中に、ナイフを研ぐ音を聞いて、牛が逃げ出すシーンがあるが、牛の歩き方も、とっても変。あれはジョージア人の見た牛? それともフランスの牛はみんなあんな? というような、どうでもいいことを思ってしまう。
 そういうところも、まあ、私は好きだなあ。
                     (KBCシネマ2、2017年01月15日)



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池井昌樹「泉下」、粕谷栄市「晩年」

2017-01-14 11:02:11 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「泉下」、粕谷栄市「晩年」(「森羅」2、2017年01月09日発行)

 池井昌樹の詩ばかり紹介してもしようがないとは思うのだが、風邪で体調も悪いので、なじみのあるものに近づいてしまう。
 「泉下」は短い作品。

ふるいいえにはえんがわがあり
えんのしたにはあかりがともり
あかりのなかにはかげがあり
かげのどこかにぼくもいて
なんのよりあいなのかしら
なんのおまつりなのかしら
よみがえらないひとたちがおり
よみがえらないひとときがあり
ふるいいえにはいつからか
かげをなくしたぼくひとり
とほうにくれていつまでも
こうしていきてゆくほかは

 とても読みやすい。一行に一つずつの「事実」があらわれ、それを踏まえて次の一行が動くからだ。
 なかほどの二行、

よみがえらないひとたちがおり
よみがえらないひとときがあり

 これが、この詩の「中心」。
 それまでは、「えんがわがあり」「あかりがともり」「ぼくもいて」という「事実」が描かれる。
 しかし、この二行は、「事実」であるにしても「事情」が違う。
 「よみがえらないひとたちがおり」というのは、その人たちはそこにはいない、ということ。
 「よみがえらないひとときがあり」というのは、そのときがそこにはない、ということ。
 「よみがえらないひと」「よみがえらないとき」は詩を書いている池井の「肉体の内部」に「いる/ある」。言いなおすと池井はそのひとたちを思い出している、そのときを思い出しているということ。
 しかし、思い出しているということばをつかってしまうと、「ふるいいえにはえんがわがあり」というのも「思い出」である。実際に池井がその家にいて家を描写しているわけではない。
 思い出の中に思い出がある。思い出すという行為の中に、また思い出すということがまぎれ込む。「こと」が二重になって動いていく。
 だから

あかりのなかにはかげがあり
かげのどこかにぼくもいて

 と「かげ」とともにいたはずの「ぼく」は、

かげをなくしたぼくひとり

 という具合にも変わる。
 「あかり/かげ」「よみがえる/よみがえらない」「いる/いない」は相対化/固定化ができない。常に流動して、その瞬間瞬間に、何かを生み出す。何かがあらわれる。
 この不思議を、池井は、リズム(音楽)にしている。



 粕谷栄市「晩年」は、池井の「泉下」に奇妙に似ている。

 若し、私が、八十歳を幾つか越した老人だったら、私
は、ある大きな港町に住んでいる。路地裏の古い一軒家
で、独り暮らしをしている。
 若い頃から倹約して貯めた金が少しはあるから、まあ、
どうにか生きてはいられる。何もできないし、すること
もないから、相変わらず、貧しい食事をして、つましい
日々をやり過ごしている。

 一段落一段落進むごとに、少しずつ「事実」が付け加えられていく。一気に何かがかわるという展開の仕方をしない。振り返り振り返り、ことばが前に進んで行く。
 そして、「何もできないし、することもない」ので「相変わらず」放心したようにして生きている。
 いや、放心するために生きているといった方がいいかもしれない。
 最後の三段落は、こうである。

 全ては、私が耄碌して、本当のことがわからなくなっ
ているということなのだ。この私が、実は、八十幾つか
の老人なのかもしれない。思えば、悲しい事実である。
 いや、そうとばかりはいえない。むしろ、その逆だ。
私は、恵まれて、天与の夢の晩年を生きている。
 今も、目を瞑れば、私には、はっきりと、それが見え
る。深夜、満天の星の下の港町では、家々のどの窓にも、
花のように、優しい灯がともっている。

 「えんがわのしたのあかり」「窓の優しい灯」と表現は違うが同じように思い出している。池井は「目を瞑れば」とは書かないが。
 そういう「表面的」というか「意味(ストーリー)的」なことよりも、私は、少し別なことを指摘したい。

 今も、目を瞑れば、私には、はっきりと、それが見え
る。

 この文章の「それが見える」の「それ」。
 この「それ」のつかい方が、池井と粕谷に共通している。このために、「似ている」という印象が強くなる。
 「目を瞑ると」と同じように、「それ」ということばも池井の作品にはない。
 しかし、池井もまた「それ」を見たのだ。最初は「それ」という形でしか言えないもの。指し示すことしかできない何か。「それ」を見ているうちに、少しずつ「それ」が何か見えてくる。
 「ふるいいえ」があり「えんがわ」があり、「えんがわのした(えんのした)」には「あかり」という具合である。
 詩の前に、まず「それ」がある。「それ」に導かれて、ことばが動いていく。「それ」は確かに存在するのだが、同時に「不確か」なものでもある。つまり「流通言語」でぱっと指し示すことのできるものではない。だから、振り返り振り返り、少しずつ「それ」が見えるようにしていく。
 その関係は、しかし、逆なものとしても見ることができる。「それ」を池井や粕谷が見つけるのではなく、「それ」が池井や粕谷を見つけ導いているというふうにも感じられる。「それ」が池井や粕谷を見つけるからこそ、「天与」ということになる。
 「それ」と「詩」と「詩人(池井/粕谷)」の関係は、互いに「指し示す」という感じで絡まりながらあらわれたり、消えたりする。最初に「それ」があらわれ、「詩」になるとき、「それ」という「指し示し」は消えるのだが、そのとき「池井/粕谷」も消えて、「詩」だけが残る。「詩=池井/粕谷」という形であらわれる。全てが「天与」のものになる。


池井昌樹詩集 (現代詩文庫)
池井 昌樹
思潮社
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つまずいてみる。(奇妙なことばには、こだわってみる。)

2017-01-13 11:26:01 | 自民党憲法改正草案を読む
つまずいてみる。(奇妙なことばには、こだわってみる。)
               自民党憲法改正草案を読む/番外67(情報の読み方)

 2017年01月12日毎日新聞(西部版・14版)1面「退位後「上皇」使わず/政府方針「前天皇」を検討」という見出しと記事についての感想を書いたところ、フェイスブックで本田孝義さんから、全く逆の報道があると教えられた。

http://www.nikkei.com/article/DGKKASFS11H2W _R10C17A1MM8000/ ((2017/1/12 付日本経済新聞 朝刊)

天皇退位後「上皇」に政府検討 秋篠宮さま、皇太子待遇

 政府は、天皇陛下が退位された場合、その後の呼称を「上皇(太上天皇)」とする方向で検討に入った。皇族としつつ皇位継承権は付与しない方針で、公務など活動のあり方が焦点となる。皇太子さまの即位後、皇位継承順位1位となる秋篠宮さまは「皇太子」の待遇とすることも検討。皇室予算の見直しも含め、20日召集の通常国会に提出する退位関連法案に盛り込む見通しだ。

 秋篠宮を皇太子待遇にするという記事は読売新聞01月01日の朝刊(西部版・14版)に載っていた。その感想はすでに書いた。
 日経新聞の記事で注目したのは、生前退位させられた後の天皇の身分に関する次の部分、

皇族としつつ皇位継承権は付与しない方針

 ここが非常に気になった。
 いったん退位した後なのに、「皇位継承権を付与しない」とわざわざ付け加えるのはなぜなのか。
 天皇がもし自ら「生前退位」をするのなら、「皇位を皇太子に譲る」ということ。そういう人間が「皇位継承権を求める、天皇に復帰する」ことを望むだろうか。

 安倍は、何を恐れ、そういう文言を書き加えるのか。天皇が「生前退位」させられた後、「上皇」という身分になるかどうかはあいまいだけれど、安倍が天皇を退位させた後も、天皇の影響力を恐れている(発言を封じたい)という気持ちだけは、強烈につたわってくる。

 たとえば天皇が退位し、皇太子が天皇になる。その新天皇が急死したら、秋篠宮が天皇になる。秋篠宮が急死ししたとしても悠仁と皇位継承者がいる。高齢の天皇が返り咲く必要性は想定しなくてもいいはず。
 そう想像するとき、私の「妄想」は暴走し始める。

皇族としつつ皇位継承権は付与しない方針

 これは、今の天皇だけを想定しての「方針」ではないのではないか。
 むしろ、皇太子が天皇になって、その新天皇をまた「生前退位」させる。そのときに、退位した新天皇/新上皇(いまの皇太子) に皇位継承権がないと決めておきたいのだと思う。
 「一代限りの特例法」と言いながら「秋篠宮を皇太子待遇に」と決めたときから、それは「一代」の話ではなくなっている。
 皇室内で争いが起きるとしたら、いまの天皇と皇太子の間ではなく、皇太子と秋篠宮。兄弟の争い。誰が「天皇」になるか。継承順位だけを考えれば、皇太子。しかし、皇太子に男子のこどもがいないことを考慮するなら、秋篠宮-悠仁という「皇位継承順位」がスムーズ(?)になる。そういう「権力争い」のなかへ安倍は入っていき、「天皇制」を自在にあやつる。
 日経の奇妙な文章から、私は、安倍がそこまで考えているのか「妄想」した。
 争いが起きれば、安倍に好都合。
 二人を棚に上げて、悠仁を摂政に据え、やりたい放題ということになる。
 「上皇」に皇位継承権はないと決めておけば「争いの種」はなくなるが、なくなればなくなったで、安倍の思いのまま。両にらみで「進路」を描いている。

 籾井NHKが「天皇、生前退位の意向」をスクープしたとき、私は、このニュースのキーワードが「摂政」であると直感した。それも皇太子を「摂政」に、というのではなく、悠仁を「摂政」に、という感じがした。
 キーワード(キー人物)は、そういう意味では悠仁の親である秋篠宮である。
 「生前退位」の意向報道の後、すぐに出てきたのが秋篠宮の「天皇定年制発言」である。また「生前退位意向」のスクープは、秋篠宮の信頼が篤い橋口という記者経由らしいとも言われている。
 さらに、小泉内閣時代、「皇位継承権」を巡り、「女性天皇」も話題になったが、これに断固反対したのが安倍である。そのとき安倍は「女性天皇を認めてしまうと、秋篠宮-悠仁という男子直系の伝統が崩れ、取りかえしがつかなくなる」というような論理で反対している。
 あのときから、天皇の皇位継承のキーワード(キー人物)は秋篠宮と悠仁なのである。そこに焦点を当てながら、安倍の行動をとらえ直さないといけないのではないか。一連のニュースを見直さないといけないのではないか。

 ニュース(ことば)とはおもしろいものである。
 私は昨年の7月3日、衆院選の投票日の一週間前の日曜日までは、どちらかというと政治に無関心という部類に属していた。しかし、あの日曜日に「異変」をはっきりと感じ、それから急いで自民党の憲法改正案の問題点をブログに書いたりした。たいへんな情報操作が行われていると感じたのである。
 情報操作の第一弾が籾井NHKをつかっての「報道しない作戦」である。(すでに第何弾目だったかもしれないが、私が気づいたものとしては第一弾)。報道しないことが巨大政党(既成政党)に有利に働く。だから報道しない。実際、その後の朝日新聞の分析でそれが証明された。若者は自民党しか知らない。政策を吟味して自民党を支持しているのではなく、自民党の存在しかしらないから自民党に投票する。よく知らない党に投票するより、少しでも知っている方が安心である。この作戦を誰が思いついたか知らないが、「宣伝」を逆手に取った画期的な作戦である。
 マスコミもそれに加担しているのだが、マスコミの中にも良心的な記者がいて、ときどき思いもかけないニュースを「ちらり」と報道の中に滑り込ませる。
 たとえば安倍の大失敗に終わった日露首脳会談。それに先立つ外相会談。読売新聞は2面の1段見出しの記事で、ラブロフが「日露経済協力(共同行動)」は5月に安倍から提案したものだと暴露した、と知らせていた。これは、経済協力はロシアが求めているものではない。安倍が提案したのだから、提案は守ってもらわないといけない。ロシアが提案したのではないから、その見返りに北方四島を返還するというようなことはありえない、と事前通告しているのである。外交の「内幕」など、協定が成立するまでは秘密にするのが鉄則だろうに、それを破っているのは、経済協力の約束を守れと恫喝しているに等しい。
 このニュースについて、私は岸田外相の大失態という形で感想を書いた。ラブロフとの会談で、何か失言をし、そのためにラブロフの暴露になったのだ。「日本が金を出すんだから、歯舞、色丹くらい返還すべきである」というような露骨な発言をしたのではないか、と私は「妄想」している。安倍は金を出すのが大好きな人間みたいだが、ひとは金だけで動くわけではない。
 あの1段見出しの記事で、私は日露首脳会談が安倍の大失敗になることも、その後の1月総選挙もありえないと「妄想」した。そして、その「妄想」通りになった。
 どんなニュースでも、どこかで誰かが、こっそりと「目立たない」ことばで真実のありどころを示唆している。私はそれを探して「妄想」するのが大好きである。
 きのう書いた毎日新聞の記事で言えば「有識者会議のメンバー(出席者)」ではなく「有識者会議関係者」、日経の記事で言えば「皇族としつつ皇位継承権は付与しない方針」。私は、そのことばにつまずき、考え始める。
 繰り返しておくと、8月8日の天皇のビデオ放送。そのなかで天皇は「思われます」「考えられます」というような「湾曲表現」をつかっている。テレビで聞いたとき、私は何を言っているかすぐには理解できなかった。それくらい「異様」に響いた。文字で読んでも「異様」な感じは消えない。そこには何か「悲鳴」のようなものが隠されていると私は感じている。高齢になった、天皇は政治に関する権能を持っていないというのも、短いビデオのなかで2回も言っている。これも、私の印象では言っているというよりも、「言わされている」と聞こえる。
 ニュースの大きな「ストーリー」の背後に、見えないもう一つのニュースがある。「つまずきの石」がある。そこに私はつまずき、「痛い痛い」と「妄想の叫び」を上げる。


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天皇の退位後の呼称

2017-01-12 16:52:17 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇の退位後の呼称
              自民党憲法改正草案を読む/番外65(情報の読み方)

 2017年01月12日毎日新聞(西部版・14版)1面に面白い記事がある。朝日新聞にも類似の記事があるが、朝日の記事は「結論」に至っていない。で、毎日の見出しと記事。

退位後「上皇」使わず/政府方針「前天皇」を検討

 政府は天皇陛下が退位した後の呼称について、歴史的に使われてきた「太上天皇」と略称の「上皇」は使用しない方針を固めた。上皇が天皇より上位にあるとして政治に関与した歴史があり、皇位の安定性に懸念を抱かせる恐れがあると判断した。代わりに天皇より上位とみなされにくい「前天皇」や「元天皇」とすることを検討している。

 思わず私は笑い出した。「上皇が天皇より上位にあるとして政治に関与した歴史があり、皇位の安定性に懸念を抱かせる恐れがあると判断した。」というが、天皇は「権威」を目指して「退位意向」を表明したのか。なぜ、そんな心配をするのか。
 こんな懸念が出てくるのは、今回の「生前退位」が安倍の仕組んだものであることを証明している。安倍が天皇を「退位」させたい、口封じをしたいと狙っている。「上皇」という「天皇」よりも上位の位を与えてしまうと口封じができなくなる、そう懸念しているのだ。
 また、今回の「生前退位」が「一代限り」の「特例法」で進められるのなら、今後「上皇」が誕生するはずがない。無意味な「懸念」ということになる。
 「上皇」が存在してまずいのは、次の場合だ。
 天皇が「生前退位」させられ、皇太子が「新天皇」になる。その「新天皇」が気に食わなくて、さらに「生前退位」を迫る。秋篠宮が「新・新天皇」になる。そのとき「新天皇」をどうするか、という問題が起きる。「上皇」にすると、それこそ「上皇」が2代つづき、「歴史」になる。そして、皇太子と秋篠宮の「いさかい(?)」を招くことにもなる。そういう時だろう。
ということは。
安倍は今の天皇の「生前退位」だけでなく、皇太子の天皇即位→生前退位、そのあと秋篠宮の天皇即位を想定しているということにならないか。(私は、このあとさらに悠仁の「摂政」まで想定していると「妄想」しているのだが。)
「生前退位」の意向の表明が、ほんとうに天皇の「自発的」表明であったのなら、天皇が「上皇」になったからといって、その地位を利用して政治に関与するはずがない。そんなことをすれば天皇が嘘をつくことになる。ビデオで「天皇には政治に関与する権能がない」といったのは、「上皇」になることで「憲法」を超え、政治に関与するためだ、ということになる。それでは「象徴天皇の務め」と相いれないだろう。
 安倍は、天皇を「生前退位」させるだけでは、まだ不安なのだ。なんとしても口封じを「完璧」にしたいのだ。

毎日新聞には、次のくだりもある。

有識者会議では「院政期の上皇は権力を持つために退位したので、現行憲法下の象徴天皇と結びつけるのは飛躍がある」として、懸念は不要との意見もあった。
しかし、上皇は歴史的な称号で権威を与えかねず、新天皇に即位する皇太子さまとの「国民統合の象徴の分裂」が起こる懸念がある。「二重権威になっていさかいが起こるイメージがある」(有識者会議関係者)こともあり、使用を見送る判断に傾いた。

これを読むと、「有識者会議」の意見から採用されるのは、「政府(安倍)」の都合のいい意見だけということがわかる。
後段のコメントの「有識者会議関係者」が曲者である。毎日新聞は「有識者会議のメンバー」とは書かずに「関係者」と書いている。「関係者」なら当然、安倍側の人間も含まれるだろう。安倍が天皇の口封じに必死になっていることが、ここからも感じられる。
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「有識者会議」の嘘のつき方

2017-01-12 09:56:13 | 自民党憲法改正草案を読む
「有識者会議」の嘘のつき方
               自民党憲法改正草案を読む/番外65(情報の読み方)

 2017年01月12日読売新聞(西部版・14版)2面に次の見出し。

退位 特例法が軸/有識者会議 論点整理 23日公表

 具体的には、どういうことか。

 論点整理では、退位を実現する法整備として、①特例法制定②皇室典範の付則に根拠規定を置いた上で特例法を制定③皇室典範改正による恒久制度化--の3案を盛り込んだ上で、恒久制度化は難しいとの方向性を示す見通しだ。

 いままで報道されてきたことを考えると②が「結論」になるのだろう。しかし、皇室典範に「付則」を付け加えるのは皇室典範の改正には当たらないのか。「付則」だから「本文(?)」の改正ではないというのは、ごまかしの論理である。「付則」を増やし続ければ、どうなるのだ。
 自民党憲法改正草案には「緊急事態」条項がある。いまの憲法にはない項目である。これを「付則」としていまの憲法に付け加えれば、それは憲法改正ではないのか。「付則」を付け加えただけ、とは言えないだろう。
 もしかすると②は憲法改正の「手法」を探るための予備訓練かもしれない。
 公明党も「憲法改正ではなく加憲」という、奇妙な論理を展開しているが、同じ「嘘のつき方」である。
 「付則に根拠規定を置く」というやり方をいったん認めれば、次から次へと「付則に根拠規定を置いた特例法」が生まれる。
 すでに「戦争法案」というものが「付則」という形はとっていないが、「付則」と同じようにして「憲法」に付け加えられた。憲法の「戦争放棄」を無視して、つまり「憲法違反」の法律が誕生している。「憲法違反」の法律など無効であるはずなのに、「法律」として存在している。
 同じことが次々に起こる。
 「憲法改正」がむりなら、憲法に「付則」をつける。「付則」に「根拠規定」を置いた上で「緊急事態特例法」を制定する。
 絶対に、そうなる。

 2面の記事だけではわかりにくい。4面に御厨座長代理の会見要旨が載っている。そこに、こういうことばがある。

「(特例法か皇室典範の改正かなど)法形式論よりも現在の天皇陛下に限って判断するのか、すべての天皇を対象とする制度をつくるのかということが議論の主眼ではないのか」「特例法による(退位実現の)場合、国会でその都度国民の意思を反映し、状況に応じた慎重な審議ができるので、(典範改正による退位の制度化よりも)リスクは少ない」との意見も出た。

 「一代限りの特例法」は「みせかけ」。「一代限り」を装って「恒久的な制度」をつくろうとしていることは明らかである。しかも、その「恒久的制度」は「その都度」変更可能なもの、つまりその都度「一代限り」を繰り返すのである。「一代限り」が可能のな「特例法」をもくろんでいる。
 誰が天皇か、その天皇がどのような考えを持っているかを見極め、その都度「一代限りの特例法」を定め、対処する。言い換えると、安倍の都合にあわせて、そのときどきの天皇の在位期間を決めるということである。
 まず手始めに、今の天皇を追い出す(口封じをする)というのが、安倍のもくろみである。一度これが成功すると、次は簡単である。「理由」などどんなふうにもつけられる。皇太子の一家には雅子の「健康問題」がある。それを理由に退位を迫り、秋篠宮を天皇にする。しかし、それでは皇太子と秋篠宮の関係がぎくしゃくしそうなので、いっきに悠仁を天皇にする。あるいは「摂政」にし、安倍が「後見人」にして思いのままに「天皇制度」を利用する。
 天皇の問題だけではなく、天皇と権力の問題を関係づけて「恒久法」にする必要があるのだ。権力が天皇制度を利用できないようにする制度が必要なのだが、天皇の「意思」ばかりが問題にされ、権力の「意思」が問題にされないのは、非常におかしいだろう。大問題だろう。

 「状況に応じた慎重な審議」とは「美しいことば」だが、裏を返せば「状況に応じた天皇を在位させる(都合が悪ければ、その都度退位させる)」ということである。
 いまの状況を見ればわかるが、「国会でその都度国民の意思を反映し」ということ自体おこなわれるはずがない。天皇の生前退位意向が籾井NHKによってスクープされてから約半年。国会で天皇の生前退位問題が審議されているか。安倍は「有識者会議」を設置し、審議はそこに閉じ込められている。有識者会議には安倍にとって不都合な人間、たとえば野党の推薦する「有識者」を含んでいないだろう。安倍の「意図」にそった審議しかされていない。「国民の意思」など反映されないのである。

 「19年元日に新元号」。「国民生活への影響に配慮」というきのうのニュースも、非常にふざけた発想である。カレンダーの「年号」が「国民生活」にどう影響しているのか、実態調査をした上で言っているわけではない。単なる口実だ。
 すでに書いたが、いったん「元日に新元号」というシステムが作られると、次の天皇が退位する/即位するのも「元日」に制限される。「元日に新元号」は「元日に新天皇」という形にすり替えられ、「退位」強制の名目ができてしまう。
 カレンダーが大事なら、天皇即位の人「新元号」を切り離せばいいだけのことである。年の途中で天皇が交代したときは、12月31日までを前の天皇の「元号」、1月1日から「新元号」にすればいい。それでは今までの「歴史」との整合性がとれなくなるというかもしれないが、歴史の整合性と国民生活は無関係。国民の暮らしは、せいぜい「元号」が三回変わればおしまい。私は歴史に疎いせいかもしれないが、「明治」以前、どんな「元号」がつづいてきたか、天皇が誰だったかなんて知らない。暮らしのなかで考えたこともない。

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和辻哲郎『鎖国』(和辻哲郎全集 第15巻)

2017-01-12 08:42:09 | その他(音楽、小説etc)
和辻哲郎『鎖国』(和辻哲郎全集 第15巻)(岩波書店、1990年07月09日、第3刷発行)

 風邪で一日中寝たり起きたりしている。遠藤周作の『沈黙』がマーチン・スコセッシ監督で映画化される。それを見る「予習」として和辻哲郎『鎖国』を読み始めた。体力が落ちているときは、一度読んだ本をぼんやり読むのが楽な感じでいい。とはいうものの、目がかすんで字が読みづらい。しかし、夢中になってしまう。
 私は歴史という「科目」が大嫌いだったが、あれは教科書や先生が悪いのだとつくづく思う。和辻の『鎖国』みたいな「教科書」があれば、きっと夢中になっていたと思う。
 前篇は「世界的視圏の成立過程」、後篇は「世界的視圏における近世初頭の日本」。後篇と『沈黙』が重なる。再読したのは前篇。後篇までは一日では読めなかった。ローマ帝国とゲルマン民族の大移動からはじまり、ポルトガルが喜望峰周りでインド洋に進出、スペインがアメリカ大陸を発見し、太平洋横断し東南アジアにたどりつくまでが書かれている。
 「歴史」に詳しい人には既成の事実が書かれているだけなのかもしれないが、そうか、ひとの欲望はこんなふうに動き、時代が変わっていったのかということが、人間そのものの動きとしてわかる。
 そこに、こんなおもしろい文章がある。マガリャンス(マゼラン)の世界一周についての部分。スペインから大西洋を渡り、さらに太平洋を横断し、喜望峰を周り大西洋に出る。アフリカ西海岸のサン・チャゴ島に上陸する。

この際最も驚いたことは、船内の日付が一日遅れていることであった。ビガフェッタはこのことを特筆している。自分は日記を毎日つけて来たのであるから日が狂うはずはない。しかも自分たちが水曜日だと思っている日は島では木曜日だったのである。この不思議はやっと後になってわかった。彼らは東から西へと地球を一周したために、その間に一日だけ短くなったのであった。

 私たちが「日付変更線」とともに「あたりまえ」と感じていることが、「驚愕の事実」として目の前にあらわれてくる。「大陸」の発見は「目」に見える。しかし「日付変更線」は目に見えない。それを「事実」としてつかみ取るには時間がかかるのだが(やっと後になってわかった、と和辻は簡単に書いているが)、これはなんともすごい。「肉体」でつかみとったことが、それまでの「世界」のあり方に変更を強いる。「日付」が違うということを、「日付」があう、という形にするためには、大洋をわたるという大冒険と同じように、知性も大冒険をしなくてはならない。知識を根底からつくりかえなければならない。書かれていないが、ビガフェッタは「日付変更線」を発見した。これはアメリカ大陸の発見と同じように衝撃的である。「ある」とは誰も考えなかったものが「ある」とわかったのである。しかも「見えないもの」が、「ある」。
 ビガフェッタの「日誌」は、

マガリャンスの偉大な業績を世界に対してあらわにすることになった。かくして最初の世界周航は、スペイン国の仕事として一人のポルトガル人によって遂行され、右のイタリア人によって記録されたということになる。これは近世初頭のヨーロッパの尖端を総合した仕事といってよい。

 この和辻の文章の「統合した仕事」、「統合する」という「動詞」のつかい方に、私はとても感動する。そうか、いろいろな「要素」(事実)は「統合する」ことで「真実」になる。どのようなことも「統合する」ちからで「世界」としてあらわれてくる。「事実」を「統合する」ことで「日付変更線」が姿をあらわす。「統合」しないかぎり、それはあらわれない。
 和辻の書いていることも、すでに知られている「歴史的事実」を「統合した」ものである。和辻が発見したことなどない。でも、その「統合」の仕方がいきいきしている。「人間」そのものを浮かび上がらせている。まるで、そこに描かれている人間になって動いているように、私は興奮してしまう。そして、感動する。

 私は和辻の文章がとても好きだ。どうして好きなのか、それをあらわすことばをなかなか見つけられなかったが、「統合する」という動詞に出会って、あ、これだったのだなあ、と気がついた。
 「世界」にあるものを、正しく「統合する」。それが哲学。

( 203ページに、「アフリカ南方の海峡を通って大西洋に出る未知である。」という文章がある。これは「アメリカ南方の」、あるいは「南アメリカ南方の」の誤植だろう。いま、全集は「第何刷」なのか知らないが、訂正されていることを期待したい。)


和辻哲郎全集〈第15巻〉鎖国 (1963年)
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「国民生活に配慮」という大嘘

2017-01-11 11:13:09 | 自民党憲法改正草案を読む
「国民生活に配慮」という大嘘
               自民党憲法改正草案を読む/番外64(情報の読み方)

 2017年01月11日読売新聞(西部版・14版)1面に次の見出し。

19年元日 新天皇即位/元号 半年前までに/政府検討 国民生活に配慮

 きのう2017年01月10日の毎日新聞夕刊の後追い記事。新しい「事実」は「元号を半年前までに決める」ということ。あとは、言い直しである。
 毎日新聞は「国民生活 影響避け」と表現していたものを、読売新聞は「国民生活に配慮」と言いなおしている。毎日新聞は具体例は書いていなかった。読売新聞は書いている。具体例を読み、私は笑いだしてしまった。それから怒りで我慢ができなくなった。
 こう書いてある。

 政府は陛下の退位日を定める政令決定にあわせ、新元号を発表する方向で検討している。2018年前半までには発表したい考え。カレンダーなどの印刷業者や、元号を使った官民のシステム改修などへの対応期間を確保するためだ。

 「カレンダーなどの印刷業者や、元号を使った官民のシステム改修などへの対応期間を確保するためだ。」が「国民生活への配慮」にあたる。同じことを2面で「新元号 円滑以降図る/事前公表 システム改修時間確保」という見出しで書き直している。
 私は何でも具体的に考える人間なので、カレンダーから考えてみる。平成は1月の途中で元号が変わったけれど、「カレンダー」に不都合が起きただろうか。昭和のカレンダーをつかっていたら困ることがあったのだろうか。4月29日の「天皇誕生日」の名称が変わり、12月23日が新しい「天皇誕生日」になっただけで、昭和のカレンダーをつかっていてもなにも不都合はない。カレンダーというのは「年号」を確かめるためのものではなく、「日付」と「曜日」を確かめるときにつかうもの。私の家では「絵」がらが気に入ってオルセー美術館のカレンダーをつかっている。フランス製である。でも、ぜんぜん困らない。「日付」「曜日」は世界共通。「元号」とは関係がない。
 それに途中で「元号」がかわったときは「元年」なので「何年だっけ?」と思い悩むこともない。新元号のカレンダーでないと困る人がいるなら、よほど「頭」の硬い人である。
 「手帖」や「日付入りの日記帳」を買い換えなくてはいけなくて困ったという人が何人いるだろう。
 こんなことは「配慮」してもらわなくても、国民は「自前」の生き方で乗り切る。こんなことを「配慮」と考えるのは、国民をばかにしている証拠である。それをそのまま伝える新聞もおかしい。日常生活が国民の生活から乖離している。きょう天皇が急死し、きょう年号が「平成」から別のものに変わっても、だれもカレンダーをどうしようと悩んだりしないだろう。
 もうひとつの「官民のシステム改修」の問題。私は「システム改修」など知らないから、感じていることを書くだけだが、「年号」の変更というのはそんなに手間取るものか。市役所で届け出をする。届け出用紙に「平成」と書いてあれば「新元号」に書き換えればすむ。新元号に変わったことは誰もが知っているので、「偽造」のしようがない。市民にとっては困ることは何もない。市役所側も用紙の印刷が間に合わないので、とりあえず「修整」で済ませられるだろう。もし、どうしても「正式な印刷されたもの」でないと困るとしても、そんなものは「半年」もかかるわけがない。どこに印刷を依頼しているか知らないが、印刷所にはひな型(ファイル)があるから「平成」を「新元号」にかえるだけ。その日のうちに処理できるだろう。
 コンピュータ処理に「平成」をつかっているところも、単に「新元号」に変えればいいだけではないか。「平成」から「新元号」をまたいで「期間」を計算するときに手間取るとしても、そんな処理が、「手間取る」といえるほど殺到するだろうか。順次処理すれば大丈夫だろう。
 「昭和」から「平成」に切り替わったときは、コンピュータはそれほど普及していなかったと思うが、移行期に何かトラブルがあり、それが尾を引いたという「事実」でもあるのだろうか。
 説明が、あまりにもばかばかしい。

 問題にしなければならないのは、「国民生活に配慮」という「美しいことば」を口実に、「天皇の生前退位」の「結論」が出ていない段階で、「生前退位」を既定事実にしてしまっている政府の態度である。「有識者会議」の「提言」すら出ていないのに、もう「退位/譲位/新天皇即位」の日が決まっている。
 これは「有識者会議」を「天皇の生前退位」を推し進めるための「アリバイ」につかっているという証拠である。安倍は、籾井NHKをつかって「天皇、生前退位の意向」をスクープさせたときから「19年元日に新元号」を想定していたのである。

 「19年」めぐっては、こういう記事がある。(読売新聞1面)。

(有識者会議で、)「平成30年は一つのメルクマール(指標)」との意見が出ていた。陛下も8月8日、国民に向けたビデオメッセージで「戦後70年という大きな節目を過ぎ、2年後に平成30年を迎えます」と、18年が一つの節目になるとの考えを示唆されていた。

 「ビデオメッセージ」には確かに天皇の思いが反映されているだろう。しかし天皇は「無検閲」でそれを発表したのではない。事前に官邸と文言のすり合わせをしていた。その痕跡は、何度も書くが「思われます」「考えられます」というような「婉曲表現」としてくっきりと残っている。「2年後に平成30年を迎えます」が天皇の言いたかったことか、安倍が何としても言わせたかったことか、わからない。一連の動きが安倍によって仕組まれたものであるなら、天皇が「平成30年」を口にしているからといって、それが「生前退位」の期限の「根拠」にはならないだろう。

 前後するが、読売新聞の1面の記事の「前文」に、こう書いてある。

平成30年(2018年)の区切りで天皇陛下の会意を実現するとともに、国民生活への影響を最小限に抑えるため、新元号は元日から始め、事前に公表することが望ましいと判断した。政府は一代限りの退位を可能にする特例法案を20日召集の通常国会に提案する方針で、陛下の即位日は政令で定める法案に明記する。

 最後の一文「陛下の即位日は政令で定める法案に明記する」を読みながら、私は、自民党憲法改正草案の「緊急事態」条項を思い出した。
 そこにこんな一文がある。

緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる

 「政令」で何でも思いのままに国民を拘束する(国民の自由を奪う)というのが「緊急事態条項」だが、それに類似したことがすでに始まっている。「天皇の生前退位」は「緊急事態」ではないかもしれないが、一連の「法律(政令)」を巡る動きはとてもうさんくさい。
 すでに書いたが皇太子が天皇になったあと、秋篠宮を「皇太子待遇」にするということなど「天皇の生前退位特例法(一代限定)」の範疇を超えている。天皇の身分だけの問題ではない。それを「関連法案」という形でごまかしている。憲法、皇室典範そのものを見直さずに、「特例法」「関連法」を積み重ねることで「既成事実」をつくってしまうという作戦のようだ。
 元号がいつかわるかなど、国民の日常生活には直接影響して来ない。そんなものを「国民生活」と結びつけて説明し、「19年元日に新元号」を「事実」にしてしまう。そこから逆に天皇に「生前退位」を迫る--そういう「構図」ができつつある。この「構図」に加担してはいけない。「そうだね、元日に元号かかわると便利だね」などと納得してはならない。元号を元日に変えないとどんな不便があるのか、そのことを問わないといけない。
(風邪で寝ていないといけないのだが、書かずにはいられない。)

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一代限りの特別法は大嘘

2017-01-10 23:11:11 | 自民党憲法改正草案を読む
一代限りの特別法は大嘘
               自民党憲法改正草案を読む/番外63(情報の読み方)

 2017年01月10日毎日新聞夕刊(西部版・4版)は1面に、次の見出し。

19年元日に新元号/国民生活 影響避け/退位関連法案 今春以降提出

 産経新聞の特報の後追い記事らしい。(産経新聞を私は読んでいない。)記事はこう書かれている。

 政府は2019(平成31)年1月1日に皇太子さまが天皇に即位し、同日から新元号とする検討に入った。国民生活への影響を避けるため、新元号は元日から始めるのが望ましいと判断した。天皇陛下が昨年8月に退位の意向がにじむおことばを表明した際に「平成30年」に言及したことや、即位に伴う儀式などの準備に要する期間も考慮した。政府は退位に関する関連法案を今春以降、国会に提出する。

 「国民生活への影響を避けるため、新元号は元日から始めるのが望ましいと判断した」というのは「もっともらしい」ことばだが、非常にうさんくさい。
 これを「前例」にすると、政府がこれまで言っていた天皇の生前退位は「一代限りの特例法」というあり方があいまいになる。むしろ、私が何度も書いたように天皇の「生前退位」の制度化、摂政の設置をもくろむ安倍の意図が露骨に出てきたと見るべきだろう。
 なぜ、私はそう考えるか。
 「国民生活への影響を避けるため、新元号は元日から始めるのが望ましい」というのなら、次の「元号の変わる日」も「元日」が望ましいということになる。いったん「元号」の変わる日を「元日」と決めてしまえば、それを踏襲する方が「国民生活への影響」が少ないということになる。
 「平成31年」の「次の次の元号」が天皇が死んでから決めるというのでは、いまのような、「何日から新元号」なのかわからない状態にもどってしまう。これはいったん「1月1日」が元号の始まりという制度になじんだものにとっては、とても不便だろう。
 それを「口実」に安倍は、次も、さらにその次も「元号の変わり目は1月1日」を前提にして、天皇の退位をせまるということが起きるはずである。

 「国民生活への影響を避けるため」というのは、聞こえはいいが、これは安倍の「天皇を自在に退位させる」という口実になるだけである。だいたい、いつを元号の変わり目にするか決めるということは「一代限り」の問題ではなく、すでに「二代」にわたっている。ここに、安倍の大嘘があるのだが、これをもう少し別の視点から補足する。
 「国民生活への影響を避けるため」に似た表現は、8月の天皇の「おことば」のなかにもある。私は8月の「おことば」を天皇の自発的な発言とは受け止めていない。安倍と籾井NHKによって「生前退位の意向」のスクープが仕組まれ、さらに「発言」を強要されたものだと受け止めている。その「証拠」と言えるのが、次の部分である。今回の「国民生活への影響を避けるため」に類似した表現は、こうつかわれている。

天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。

 「国民の暮らしにも様々な影響が及ぶ」と「国民生活への影響を避けるため」には共通する部分がある。
 そして、何よりも重要なのは、このとき、天皇は「懸念します」ではなく「懸念されます」と「婉曲」に表現していることである。
 何度も書くが、8月の「おことば」には不自然な「婉曲表現」がほかにも、「思われます」「考えられます」がある。天皇がなぜ「婉曲表現」をつかっているのか。それは、その部分に語られていることが天皇の思いではなく、安倍の思いだからだろう。

天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。

 特に、「摂政」についての部分に注目したい。「天皇の行為を代行する摂政を置くこと」を「考え」たのは安倍である。それに対して天皇は摂政では駄目だと反論した。そういう経緯はすでに新聞などで報道されている。安倍は摂政の設置を考えたが、天皇は考えなかったという「交渉経過」がそこには隠されている。

 「天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶ」というのは昭和天皇が死んだときの前後のことを語っているようだが、ほんとうに影響したかどうか、私は怪しんでいる。
 昭和天皇が死んだ日のことを思い出してみるといい。テレビが昭和天皇のニュースばかりになったので、国民の多くはビデオ屋へ走った。どのビデオ屋も在庫がなくなるくらいにビデオが貸し出された。みんな退屈し、ビデオを見ることで時間をつぶしたのである。いちばん大きな「影響」は、そういうものだった。ビデオ屋がいちばんもうかった。

 天皇に、こんなことを言わせるのは、安倍が「経済」だけを国のあり方だと考えているからだ。
 自民党憲法改正草案の前文に、こう書いてある。

我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。

 安倍は「国民生活への影響」ではなく「経済活動への影響」を考え、それですべてを押し切ろうとしている。金さえもうかれば、それでいい。自民党に企業が献金してくれればそれだけでいいとしか考えていない。

 安倍はいったい何を考えているのか。「妄想」ついでに、さらに私の「妄想」をもっと書いておこう。
 「元号」を「1月1日で変える」という方針で、今後の天皇の「交代」を進める。皇太子には男子のこども(次期皇太子)がいないという問題がある。雅子の健康状態や、愛子の問題もある。秋篠宮には男子のこどもがいる。皇位継承権を持っている。皇太子を「天皇」にしたあと、秋篠宮を「皇太子待遇」にする。(これはすでに報道されている。)皇太子の「天皇在位期間」はすでに決まっているのだろう。秋篠宮の「天皇在位期間」、悠仁の「摂政在位期間」というのも決まっている。そういう「日程」を想定しての動きが、もう始まっていると見るべきだろう。そして、その「日程表」の「口実」に「国民生活への影響」が利用されている。

 ちょっと振り返ってみればいい。昭和から平成に元号がかわって、そのことで大変な苦労をしたという国民がいるだろうか。年齢の数え方がわからなくなったとか、免許証の切替日を間違えたとか、パソコンのデータが消えたとか。
 1月1日で元号が変われば、なんとなく「わかりやすい」感じがするだけで、そんなものは国民生活とは実質的に関係がない。
 「国民生活への配慮」のよう「美しいことば」には嘘が隠されている。見逃してはならない。

 もうひとつ。(風邪で体調が悪いので書きそびれていたが。きょうも書かずに寝るつもりでいたのだが。)
 2017年01月09日西日本新聞朝刊(14版)に、次の見出し。

皇室典範不足に根拠規定/退位特別法で政府検討 

 記事は、こうなっている。

 天皇陛下の退位を実現する一代限定の特別法を巡り、政府が同法の根拠規定を皇室典範の不足に置く案を検討していることが分かった。特別法の退位に関する効力は現在の陛下に限られるが、その後も残る規定を典範に設ければ、次以降の天皇の退位に含みを持たせられるとして、有識者会議が注目。政府も憲法違反の疑念を回避する方策として議論の俎上に載せている。

 特別法を皇室典範の付則に置くくらいなら、皇室典範そのものを改定すべきだろうが、そうしない。そこにも問題があるが、

次以降の天皇の退位に含みを持たせられるとして、

 という一文が強烈である。すごい。「次以降の天皇の退位」のことを安倍は考えているということを、「証明」している。
 「新元号の設定日」と「皇室典範付則」の記事を結びつければ、安倍の狙いは、天皇の「在位」を自在に操作すること、安倍に不都合な天皇は退位させ、摂政を置き、政治をあやつることだとわかる。「摂政」は今の皇太子の年齢よりも、ぐんと若い悠仁の方があやつりやすいだろう。「摂政」の父になる秋篠宮にも「恩」を得る形になるだろう。「悠仁天皇」の生みの親として権力を奮うのである。



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