詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」

2018-02-05 09:35:14 | 詩(雑誌・同人誌)
タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」(「どぅるかまら」23、2018年01月10日発行)

 タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」。

飯田橋のあたらしい茶の店に、誘われる。せまい階段を昇った。
砂時計の砂を落とし茶葉が蒸れるのを、しばしまつ。砂が終わった。
急須を傾けると糸のような数滴が落ち、その後は何もでてこない。

 「その後は何もでてこない」に、目がとまった。直前の「糸のような数滴が落ち」の「糸のような」という「比喩」が効果的なのだ。「比喩」とは、そこにないものをそこに見る力である。一種の「妄想」とも言える。それが、突然、消える。「何もでてこない」には、何か「比喩」になるようなものが出てきてほしいという願望が動いているかもしれない。
 この三行を「前書き」にして、詩ははじまる。

街の上流から人が流れてくる
帯状の光と影にくるまれてとてもきれいだ
どうしてもおもいだせない名詞があって
浮かせた足でたたく力が欲しかった

 「街の上流」の「上流」が比喩である。「人が流れてくる」の「流れてくる」が比喩である。
 「何もでてこない」と感じたこころは、いま、「何か」を自分のなかからひきだそうとして「比喩」を動かしている。
 「どうしてもおもいだせない名詞」とは、「比喩」にふさわしい名詞のことかもしれない。
 「浮かせた足でたたく力」というのは、やはり「比喩」だろう。「比喩」だが明確な「名詞」ではない。「糸のような」のようにだれとでも共有できる「名詞」ではない。なんとなくわかるが、そのわかるは「もどかしい」。ことばになりきれていない。自分ではわかっているのに、見えているのに、「名前」がでてこない。
 「どうしてもおもいだせない名詞があって/浮かせた足でたたく」のか、「浮かせた足でたたく力」をふつうのことば(共有できる比喩)で言うにはどう言うべきなのか、その「名詞(名前)」が「どうしても思い出せない」のか。両方に読んでみる。「比喩」はたがいに入れ替わってこそ、比喩である。
 これは、こんなふうにも言いなおされる。

話のつづきにあいのてをいれて
鳥のたまごに似たものを温めようとする
ひとのこころにそっと触れても
感触がよくわからない

 比喩に比喩を重ねても「よくわからない」ものがある。
 「よくわからないもの」を説明するにはほんとうは「比喩」がとても効果的だ。「比喩」をとおして「よくわかる」ということがある。「比喩」とはそれそのものではないが、ときにはそれそのものよりも、それそのものをあらわす。一種の矛盾だが、これはきっと「対象にのめりこむ」ということと関係するかもしれない。「対象」を「客観的」にとらえるのではなく、のめりこんで「主観」になったとき、それが自分に関係するものとして「わかる」。「よくわかる」とは「自分の問題としてわかる」ということでもあるのだ。でも比喩がうまく動かないと、「よくわからない」が増え続ける。
 そこから翻って、

その後は何もでてこない

 これはなんだったのか。「客観」だと言うことができるかもしれない。「主観」を拒絶する「客観」。主観などというものは世界には存在しないのだと断言する「非情」と言い換えると、おおげさになるか。しかし、私は、なにかそういうものを感じた。
 最初の三行は、「前書き」のようなものである。小さい文字で、書き出しも本文(?)よりは下がったところからはじまっている。「前書き」というのは、いわば「客観」なのだが、それが「主観」を誘わず、「主観」を拒絶しているので、逆にそこから「主観」が「いのち」を求めて動き出したのかもしれない。
 「客観」と「主観」、「客観」と「比喩」というものを、ふと考えたのだった。


 
 


*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか1月号注文
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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com


まひるにおよぐふたつの背骨
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名護市長選(保身と変身の違い)

2018-02-05 08:19:24 | 自民党憲法改正草案を読む


名護市長選(保身と変身の違い)
             自民党憲法改正草案を読む/番外175(情報の読み方)

 名護市長選で、稲嶺が渡具知に敗れた。出口調査では、若者(10代)が圧倒的に渡具知を支持している。
 10代では稲嶺33.3% 渡具知66.6%
 20代では稲嶺44.0% 渡具知56.0%     


16年の参院選のときは、報道の少なさが巨大政党の勝因につながると思っていたが、それだけではないようだ。

若者が与党(安倍)を支持するのは、与党を支持しないと就職もままならないと考えているからではないのか。
積極支持というより、消極支持。

最近、若い人と話していると、そういうことを強く感じる。
反与党の姿勢が知られたら、会社からにらまれる。
特に出世したいわけではないが、いまの仕事からホサれるのはつらい。
だから反与党的な会話はしない。態度もしない。
これが、蔓延している。

思えば、1970年安保までは、若者の行動はおとなから顰蹙をかったが、同時に支持もされた。支持とまではいかなくても、容認された。
でも、いまは、おとなが若者の「反体制」姿勢を容認しない。

あの時代、おとなたちは「終身雇用制」に守られていた。
若者の行動は行動として、自分の身分が安定していた。
子がどうであれ、親は失業する不安はなかった。
だから、どこかで「安心」して、子どもの行動を容認していた。
子どもの方も、就職すれば「終身雇用」と思っていた。
実際、そう思えばこそ、長い髪もばっさり切って、就職活動→就職ということもしていた。
「おとな」に変身した。

いまは、親の世代も「終身雇用」とはいかない。
若者は、「昔の若者」のように「変身」できない。
最初から「保身」で生きるしかない。
安倍は、アベノミクスは成功しているというが、大失敗している。
若者が「将来」に不安を感じ、いまを十分に生きることができない。
自分の欲望を正直に語れなくなっている。
不景気は、そこまで若者を追い込んでいる。

シールズが登場したときは、とても頼もしく感じたが、いまはどういう活動をしているのか、ほとんど報道されることもない。
おとなの不安(将来どうなるのか、身分の保証はどうなるのか)が、若者の政治行動を「おびえたもの」に追い込んでいる。
そう思う。


詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」(★★★)

2018-02-04 18:00:14 | 映画
監督 マーティン・マクドナー 出演 フランシス・マクドーマンド、ウッディ・ハレルソン、サム・ロックウェル

 冒頭、フランシス・マクドーマンドが帰宅中に、道路脇の看板に気がつく。誰もつかっていない。古い看板が破れている。このときの「絵」が、まさに「絵」。映画の一シーンというよりも「絵画コンクール」の作品。構図がきちんとしていて、「そうか、こういう絵を描きたいのか」ということがよくわかるものなっている。
 ここが曲者。「絵」として美しいから、文句のつけようがないのだが、「絵」として変に完成しているから面白みに欠ける。はみだすものというか、あふれだすものがない。「枠」におさまりすぎている。まあ、これは芝居で言えば「書き割り」のようなものだからこれでもいいのかもしれないが。
 この「かっちり」した感じ、「絵」になりすぎる感じが、全編をつらぬく。役者が登場して動いても、その「動き」が「絵」のなかでおさまってしまう。これが、どうも窮屈である。「映画」というよりも、「文学」になってしまっている。
 娘をレイプされ、さらに殺されてしまった母親が「警察は何をしているんだ」という怒りを「看板」にこめる。そこから「あつれき」が街中に広がり、思わぬ展開になる。憎み合い、やがて和解へというのは、なかなか「人間臭い」ストーリーなのだが、それが「ストーリー」の「枠」のなかにおさまりすぎてしまう。「小説」で読むならこれでいいのだが(好きなところでページをめくるのをやめ、もう一度ことばを読み直すことで、そこにある感情を味わいなおすことができるが)、時間といっしょに動いていく映画では、「ストーリー」を突き破って動く人間の「肉体」がないとおもしろくない。ストーリーを忘れて、役者の「肉体」に認める瞬間というものがないと映画ではない。役者の「肉体」にみとれながら、ふいに気がついて「あ、これはこういうストーリーだった、こいつは悪役だったんだ、忘れて応援してしまった」と思ったりするのが、映画の不思議な魅力である。
 あるいは「舞台」でなら、生身の「肉体」の代わりに、激しく動く感情が「ことば」となって空間に飛び散る瞬間があって、おもしろいかもしれない。ことば、声が肉体のように「劇場」内に飛び散る瞬間があって、おもしろいかもしれないが、「映画」では「ことば」はぶつかりあうものではなく、あくまで補足だからね。実際、この映画では、ことばはとてもしっかりかみ合ってストーリーを動かしていくウッディ・ハレルソンの「遺書」などは、あまりにもご都合主義だ。そのことは、この映画がことばをストーリーの都合に合わせてつかっている、という証拠でもある。そういう「部分」が、まったく「映画」になっていない。
 サム・ロックウェルが「だらしない」警官を演じ、その「だらしなさ」のなかに、「こいつ、こういう男なのか」と思わせるもの(演技を超える存在感)があって、それはすこし見物だが、フランシス・マクドーマンドもウッディ・ハレルソンも、まるで「教科書」みたい。欠けているものは何もない。でも、「余分」もない。それが窮屈なのだ。
 何度も何度も取り直して、「演技」を閉じこめてしまっている。「間違い」はないけれど、「味」もない。
 上映前にイーストウッドの新作の予告編「15時17分、パリ行き」をやっていたが、イーストウッドが監督なら、完全に違った映画になっていただろうと思う。イーストウッドの映画では、だれもが「完璧」な演技をしない。「完璧」になる寸前の、ちょっとあいまいな部分がある。そこに不思議に「人間らしさ」が滲む。「スナイパー」では主役が赤ん坊を抱くシーンがあったが、そこでは「赤ん坊」は最近の映画では珍しく「人形」だった。本物ではなかった。リハーサルだったのかもしれない。そのリハーサルの方が「演技」になりきっていないのでよかったのだろう。それで、それをそのまま本編にしてしまった、という感じである。なんといえばいいのか、イーストウッドの映画では、役者か「演技」に疲れていない。余裕がある。そこに何か「安心感」がある。
 でも、この映画では、フランシス・マクドーマンドが特にそうだが、「完璧」に「演技」になってしまっている。「余分」がない。フランシス・マクドーマンドは「疲れていない」というかもしれないが、観客が疲れてしまう。「ミシシッピー・バーニング」や「ファーゴ」のような「肉体」の感じがない。これでは、窮屈である。
 ラストシーンなど、「頭」では理解できるが、フランシス・マクドーマンドの「未決定の感情」(意思)が「肉体」として伝わってこない。「台詞」をとおして「意味」になってしまっている。最後に「台詞」で「感動」を呼ぶというのは、まるで「芝居」であって「映画」じゃないね。
(t-joy 博多、スクリーン2、2018年02月04日)




 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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小型核は開発? 増強?

2018-02-04 08:13:44 | 自民党憲法改正草案を読む
小型核は開発? 増強?
             自民党憲法改正草案を読む/番外174(情報の読み方)

 2018年02月03日の夕刊(西部版・ 4版)の一面の見出し。

朝日 米、小型核兵器開発へ/新戦略発表 使用制限も緩和

毎日 米 小型核開発へ/「使いやすく」に転換/トランプ政権 核体制見直し

読売 米、小型核を増強/戦略転換 抑止力拡大

 「戦術核」自体はすでにあるから、読売の「増強」でもいいのかもしれないが、いまの「戦術核」よりさらに小型の核ならば、やはり「開発」が見出しでないと「事実」を伝えきれないのではないだろうか。
 読売新聞の記事によると、

潜水艦搭載の現行の核弾頭の威力はTNT火薬換算で100-455キロ・トンだが、1-5キロ・トンほどまでおさえたものになるとの見方が出ている。

 これでは、核専門家でないと、どの程度の規模なのかわからないだろう。
 広島に投下された原爆は15キロ・トン、長崎は22キロ・トンと言われている。広島の方が重さは少ないが被害が大きい。どこで爆発したかによっても被害が違ってくるということだろう。「1-5キロ・トン」が実際に、どんな被害をもたらすかはわからない。だから、「小型だから危険が少ない」とは言えない。
 河野外相は「抑止力」が高まるとして「高く評価する」という談話を出したが、「小型核の開発」が抑止力にはならないだろう。アメリカの核ミサイルは、結局、北朝鮮の核ミサイルの開発を促しただけで、「抑止」できなかった。「小型核」の開発は、北朝鮮の小型核の開発を促すだけだろう。
 「小型核」の開発は、またテロなどに悪用される可能性も招くのではないのか。
 「小さければ被害が小さい」という「幻想」が広がり、さらに使用の危険が高まるとも考えられる。「小型だからいい」というような発言は、許されていいはずがない。

 日本では東京電力福島第一原発の事故処理さえすんでいない。原発事故と核を同列に考えることはできないが、福島の事故(爆発)の規模はNTN換算でどれくらいか。放射性物質の「放出量」はどうなるのか。それが人間や自然にどういう影響を与えるのか、具体的には何もわかっていない。「被害」はつづいている。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

「天皇の悲鳴」(1500円、送料込み)はオンデマンド出版です。
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 「不思議なクニの憲法」の公式サイトは、
http://fushigina.jp/
上映日程や自主上映の申し込みができます。
憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
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河邉由紀恵「島」

2018-02-03 10:45:02 | 詩(雑誌・同人誌)
河邉由紀恵「島」(「どぅるかまら」23、2018年01月10日発行)

 河邉由紀恵「島」の一連目。

あめりか朝顔がのびて
のびて
南の窓を軒を
屋根をひろくおおい
うら庭では
キヅタやヘデラや
ヤブガラシが壁にはりついて
戸をふさぎ
野いばらやサンザシが繁っている

 二行目の「のびて」は何だろう。野草のいのちの強さ、暴力のようなものを、「のびる」という動詞を強調することであらわしているのか。「あめりか朝顔がのびてのびて」と一行で書いてしまうときと、どう違うのだろう。「のびてのびて」の方が音が一気に動き、そこからリズムが生まれても来ると思うが、どうだろう。「のびて/のびて」では、間合いが生まれてしまう。リズムとして弱くないか。この一種の「分断」が様々な野草の名前を引き出すとも言えるのだが。
 私は、この二行目の「のびて」、一行として独立した「のびて」につまずいた。

ぼんやりした葉むらや
ばかげた枝や草むらが
ぐじぐじぐじとからみあい
隣の空家は すでに
ひとつの島になっている

 「のびて」は「からみあい」と方向を変えている。「のびて」「からみあう」ということだが、「しらみあう」には「のびる」のような「まっすぐ」というか「方向性」がない。「抑圧されている」という感じがどこかにある。「のびたい」けれど「からみあい」「のびることができない」。それが「ぐじぐじぐじ」だろう。「ぐじぐじぐじ」は「のびることができない」という動詞として言いなおすことができると思う。
 「からみあい」、その「からみあい」の内部に何かを抱え込む。「ぐじぐじぐじ」を抱え込むのかもしれない。隣家は絡み合った草におおわれ、「島」のように見える。

なかがどうなっているのか
だれが住んでいるのか
わからないが
島を見ていると
なかから
こちらの方を
ぢいっと のぞいている

 視点が野草から「隣家」へ移動している。「からみあい」が抱え込む「内部」からを、「なかから」と言いなおすとき、「ぐじぐじぐじ」は「隣家の内部」をあらわすことになる。「ぐじぐじぐじ」は「じくじくじく」に通じるもの、「陰湿」な響きをもっている。それが「のぞく」という動詞に結びついている。
 「見ている」(私)と「のぞいている」(隣家)が対比されているが、これは「主観」の違い。「隣家」からすれば、のぞいているのは「私(河邉)」かもしれない。
 まあ、これは、問わないことにする。
 最終連。

びたりびたり
なが雨が降り
島はうらがわから
ぬれて すこしずつ
黒くふくらんで
ゆっくりと
這いはじめる

 「陰湿な内面(内部)」は「うらがわ」と言いなおされている。現実には、雨は「表」を濡らし、それが「裏側(内部)」までしみていくのだが、内部までしみてしまうと水の行き場はなくて、内部を満たし始める。内部に「水分」がたまりはじめる。それを「ぬれて」と言い直している。「内部に水がたまる」感じを「ふくらむ」と言いなおしている。「内部」から「ふくらみ」、それが「外部」にまで拡大する。「内部」がふくらめば「外部」もふくらむ。
 これを河邉は「這いはじめる」と言いなおす。「這う」という動詞でとらえなおす。「隣家(島)」は動かないはずのものである。それが「這う」ようにして動いてくる。近づいてくる。
 この「這う」こそが、一連目二行目の「のびて」だったのだ。
 野草は無軌道に「のびて」いるのではなかった。垂直の方向にだけのびていくのでもなかった。それは、一連目を書いたときは明確に認識できなかったけれど、「私(河邉)」の方へも「のびて」きている。「方向」を特定していないが、何かまだことばとして「特定」できないものを先取りする形で二行目の「のびて」は動いているのだろう。
 「のびて」は基本的には「のびて/いく」であるけれど、それは「のびて/くる」にかわるものでもある。「方向」は自在だ。方向が隠されていた、隠れた方向があったから、私はつまずいたのだと気づく。また隠されていたものが最後になって具体的なものとして噴出してきたからこそ、それが不気味な「現実(リアリティー)」になるのだとも思った。
 自分の方へ動いてくる(のびてくる)から、不気味なのだ。

 河邉の詩のことばは、何度も何度も別なことばで言いなおされながら、ことばの「内部」を深めていく。そういう特質がこの作品でもしっかりと動いている。


 


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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
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岩木誠一郎『余白の夜』

2018-02-02 09:26:53 | 詩集
岩木誠一郎『余白の夜』(思潮社、2018年01月25日発行)

 岩木誠一郎『余白の夜』の巻頭の「夜のほとりで」。

のどの渇きで目覚めて
台所に向かう
いやな夢を思い出したりしないように
そっと足を運び
ひんやりした空気に
触れる頬のほてりが
しずまるまでの時間を歩いている

 「そっと」「ひんやり」「しずまる」ということばには共通したものがある。静けさだ。岩木は静けさを大事にしている。
 この「静けさ」の対極にあるものは何だろうか。
 「いやな夢」の「いやな」だろうか。
 二連目は、こうつづいている。

ずいぶん遠くまで
来てしまったらしい
冷蔵庫の扉には
たくさんのメモが貼られていて
読みにくい文字をたどるたび
失われたもののことが
ひとつずつよみがえる

 「読みにくい文字」は「いやな文字」につながるものを含んでいるかもしれない。「読みにくい文字」は「静かな文字」(丁寧な文字)ではないだろうから。
 でも、何かが違う。
 何が違うのか。

いやな夢を思い出したりしないように

 いやな夢は「思い出したりしないように」している。遠ざけている。

読みにくい文字をたどるたび
失われたもののことが
ひとつずつよみがえる

 読みにくい文字については、失われたもの(こと)を思い出している。文字をたどることで思い出そうとしている。
 思い出したいもの(思い出すもの)と、思い出すことを避けるもの(思い出したくないもの)を岩木は「そっと」識別しているらしい。
 そういう「識別」をすること、その積み重ねが「遠く」まで岩木を運んでいく。

 うーん、「気弱」な詩集かなあ。
 まあ、そうなんだろうなあ。
 危険はないけれど、この先どうなるんだろうというわくわくするような昂奮は少ないかも。
 「現代詩」の冒険という意味では、もの足りないかもしれない。
 でも、つづけて読んでみる。
 「灯台まで」は「フジオカさん」と「海べりのちいさな町」を車で進んでいる。きっとその町は岩木の住んでいた町なのだろう。「フジオカさん」と突然固有名詞が出てくるのは、「フジオカさん」が岩木の幼なじみか何か、親しい人なのだろう。まだその町に住んでいるのかもしれない。帰省した(?)岩木を「フジオカさん」が迎えているという感じ。
 その二連目。

子どもがふたり
波打ち際で何かを拾っている
流れ着いたものがあり
流れ去ったものがある
夕暮れが近づいて
道のまんなかの白線だけが
浮かびあがって見えてくる
灯台まで
わたしは帰って来たのではなく
訪れる人になっている

 最後の「訪れる人になっている」がいいなあ、と思う。「訪れる」という動詞が、強く響いてくる。
 「思い出す」というのは、自分の「肉体(記憶)」を「よみがえらせる」ことだろう。自分の「内部」への旅。
 懐かしい場所へ「帰って来た」のではなく、その場所を「訪れる」というとき、そこにどんな違いがあるだろうか。「帰って来た」と「訪れる」の違いは何だろうか。
 「帰って来た」というとき、「記憶」が占める部分が大きい。「記憶」があるから「帰って来た」と言える。「記憶」がなければ「帰って来た」とは言えない。
 「訪れる」はかなり違う。懐かしい場所を再び訪れるという言い方があるが、一方ではじめての場所を訪れるという言い方がある。訪れるは、「はじめて」の方が強い。そして「訪れる(おとずれる)」は「訪ねる(たずねる)」でもある。何かを「問いかける」という気持ちがある。
 岩木は何かを思い出す(思い出をよみがえらせる)だけではなく、何かを「たずねている」。
 ここから「夜のほとりで」を読み返してみる必要がある。

そっと足をはこびながら

 ここに書かれている「そっと」は「たずねる」ときの基本的な姿勢なのだ。静かにたずねる。静かに触れる。
 「たずねる」というのは、相手に(だれかに)たずねるのである。相手(だれか)が語ることばに耳を傾ける。そして、それを受け止める。
 岩木の詩は、岩木が語るのではなく、「対象」に語らせているのである。「対象」が語り始めるまで、静かに耳を傾けて待っているという詩なのだ。

 「雨上がりの夜に」には、「夜のほとりで」に呼応するような行がある。

午前零時の台所で
グラスの水を飲みほしたとき
流れ落ちてゆくつめたさを
どれほど
待っていたのかに気づいた

 「待っていた」という動詞。
 岩木は静かに「待つ」人間である。何かが「語り始める」まで待つ。そして対象が「語り始めた」声を書き留める。

いやな夢を思い出したりしないように

 に、いやな夢が語りだしたりしないように、という意味になる。いやな夢が目を覚まして、いやなことを語りださないように。夢を起こさないようにそっと歩く。
 記憶は思い出すものではなく、記憶が語りだすときに美しく響くものなのだ。



 


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小川三郎「沼に水草」

2018-02-01 11:56:53 | 詩(雑誌・同人誌)
小川三郎「沼に水草」(「モーアシビ」34、2018年01月15日発行)

 小川三郎「沼に水草」は読み進むにつれて世界が変わっていく。「実景」と思っていたものが「実景」ではなくなる。けれど、「実感」が消えるわけではなく、むしろ「新しい実感」が生まれてくる。

首の長い長い鳥が
水草の陰に潜んでいた。
よれよれの細い身体で
辺りの様子をうかがっていた。

私の姿を見つけた鳥は
石のようにぴたりと停止し
私のかたちを
じっと見つめた。

 ここまでは完全な「実景」として読むことができる。二連目は「鳥」の立場から「私」を見つめているから、厳密には「実景」ではなく「空想」(想像)になるかもしれないが、こういう視点の移動というか変化は多くの文学でおこなわれているので、自然に読んでしまう。鳥に見つめられているのだが、鳥が私を見つめている、と「主語」が「私」ではなくても、「私」が体験している世界だと思ってしまう。
 よく考えると不思議なことなんだけれどね。
 正確には、「私は鳥に見つめられていると感じた」、あるいは「鳥が私のかたちをじっと見つめた(見つめている)、と感じた」と「感じた」(思った)を補わないといけない。つまり、それは「客観」ではなく「主観」の世界なのだけれど。
 なぜこんなめんどうくさいことを書いたかというと。
 ここから「主観」の世界が動き始めるからである。「実景」も「主観」のひとつかもしれないが、一連目には「主観」によって世界が歪められているという感じがない。しかし、二連目を経て三連目にゆくと、「歪み」が出てくる。「主観」というのは「客観」と違っていて「歪み」があっても成立する世界である。「主観」からは、そういうふうに見えたと言い張れるのが「主観の世界」。

私は鳥のふりをして近づいた。
よりわかりやすいように
首も長く長くした。
すると鳥はますます細くなり
まるで姿を水草のあいだに
折り込んでしまうかのよう。

 「折り込んでしまうかのよう」の「よう」が「主観」なのだが、それより前の「首も長く長くした」も「主観」だねえ。実際に小川の首が長くなったわけではない。首の長い鳥(サギのたぐいだろうか)のふりをして、首が長くなったつもりで、近づいたということだろう。

うまく鳥の首を掴んだ。
掌の中で
鳥の呼吸が止まる。
草を抜くように
鳥を沼から引っこ抜いて
やさしく抱き上げると
それは枯れ枝だった。

 「実景(客観)」と「主観」が入れ替わってしまう。
 と、簡単には言い切れない。
 鳥に見えたのは実は枯れ枝だったのか、それともほんとうに鳥が枯れ枝になってしまったのか。掌は「鳥の呼吸が止まる」のを感じている。小川は、そのからだを「やさしく」抱き上げてもいる。「肉体」と「感情」が交錯する。
 「実景(客観)」なのか、「幻想(主観)」なのか、ということにこだわってはおもしろくない。
 「実景(客観)」「幻想(主観)」を貫いて動くものがある。もし「ほんとう」というものがあるとすれば、ふたつを貫く「動き」そのものが「ほんとう」(ほんもの)である。
 「動き」は、こう変化する。

枯れ枝でも
鳥には違いないのだからと
首から手を離すと
鳥は呼吸を取戻し
足で私の腹を蹴った。

私の腹に広がる波紋は
妊婦のそれにも似ているもので
しかし私の痛みではなく
ふくらはぎから
沼へと抜けた。
泥がごくりと喉を鳴らして
水がむんと匂い立った。

 「枯れ枝」と思ったのが「幻想」で、「鳥」の方が「客観」だったかもしれない。区別がつかない。その区別のなさは、「私」と「鳥」との関係を越えて、「沼」という世界へ広がっていく。

泥がごくりと喉を鳴らして
水がむんと匂い立った。

 「泥」に「喉」などない。「喉」は人間にある。そして「鳥」にもある。ここでは「沼の泥」までが「肉体」として「私(小川)」に接続してくる。いや、融合してくる。区別がつかなくなる。
 「むんと匂い立った」の主語は、学校文法では「水」になるが、それは水を超えている。「泥」でもあるし、「鳥」でもあり、「私」でもあるのだ。区別のつかないもの、世界をつらぬく「いのち」そのものが「むんと匂い立った」。それをたまたま小川は、ここでは「水は」と言っているだけであって、「水」に限定する必要はない。むしろ、「水」を超えて、世界をとらえなければならないのだと思う。

私はまるで力が抜けて
なにを思って生きてきたのか
いつからここに来ていたのかさえ
別段気にもならなくなった。
上下左右も硬いも軟いも
ひとつのものに感じられた。

 存在の区別が消える。「ひとつのもの」になる。「ひとつのもの」を貫いているのは、やはり「いのち」としかいいようのないものだろう。人間のいのち、鳥のいのちだけではない。水のいのち、泥のいのちもふくまれる。
 ここに「感じられた」ということばがあることにも、注意したい。
 「感じられた」は、最初に指摘したように、二連目にこそ必要なことばである。鳥は「私の形をじっと見つめた」と「感じられた」。でも、そこでは省略されている。わかりきっていることだからか。
 では、なぜ、ここで「感じられた」と書く必要があるのか。「主観」ではなく「ひとつのものになった」と「客観」を装うこともできるはずである。その方が不気味かもしれない。つまり「強い」かもしれない。
 しかし、小川は「感じられた」と書く。
 ここに、私は小川の「正直」を感じる。
 いままでことばにしてこなかった「世界」、あるいはものの存在の根源のようなものに触れた。それを「客観」として断定する形で書くことを畏れたのだ。ふいに掴んでしまった世界の「真実」(事実、かもしれない)の前で、敬虔になっている。
 そういうことを感じた。
 この正直、世界に対する畏怖というのは、とても大切なものだと私は思う。





 


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