詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

パオロ・ビルツィ監督「ロング、ロングバケーション」(★★)

2018-02-14 18:33:16 | 映画
パオロ・ビルツィ監督「ロング、ロングバケーション」(★★)

監督 パオロ・ビルツィ 出演 ヘレン・ミレン、ドナルド・サザーランド

 うーん、いまひとつおもしろくない。
 たぶん、これは私が「アメリカ大陸」を知らないから。ロードムービーなのだが、移動していく感じがよくわからない。「土地鑑」がない。木々の色や空気の色が、「土地」と結びつかない。背景の「土地」に対する愛着も感じられない。これは監督がイタリア人であるためか。
 「映画」というよりも、「ストーリー」になってしまっている。
 唯一おもしろいと思ったのは、ヘレン・ミレン、ドナルド・サザーランドが行く先々で、スライド写真を映してみるときに、「観客」がいるということ。最初は遠くからそっと見ている。次のシーンでは「いっしょに見ていいか」と若者が声をかけてくる。
 他人の思い出(プライバシー)を見る、見たいのはなぜだろう。
 ここが映画のポイントだね。
 実際、ドナルド・サザーランドは認知症になりながら、妻の初恋(?)の男との関係が気になってしようがない。嫉妬する。その一方、妻の友人(隣人の女)と浮気していたことを、認知症が原因で洩らしてしまう。妻を愛人と勘違いして、昔の思い出を語るのである。
 だれにでもプライバシー(秘密)があり、ひとは「秘密」に心を動かされるのである。「いま/ここ」にいる人の、「いま/ここ」だけでは見えないものを見るというのは、妙に「わくわく」する。不思議な「なつかしさ」がある。人間は「過去」を持っている、ということが、ひととひとをつなぐのかもしれない。
 もうひとつ。
 「匂い」のつかい方もおもしろかった。「嗅覚」はもっとも原始的な感覚である、といわれる。そのため最後まで「生き残る」感覚ともいう。
 やっと辿りついたヘミングウェーの「家」で、ヘレン・ミレンは倒れ救急車で運ばれる。ドナルド・サザーランドは「だれか」を探しているが、だれを探しているかことばにできない。しかし、妻のバッグを見つけ、香水を嗅ぎ「妻を探している」と言うことができる。
 これは、実は、最初に重要な「伏線」がある。ドナルド・サザーランドは車を運転しながら、ヘレン・ミレンに「おならをしただろう」と非難する。車の排気ガスが車内に流れ込んでいる。それを何とはわからないが、ドナルド・サザーランドは「匂い」としてつかみとっている。この「伏線」は「巧み」すぎるかもしれないが、なかなかいい。「排気ガス」にヘレン・ミレンは気づかなかったのだが、ドナルド・サザーランドのことばによって、それを知らされ、最後はそれを利用するというのは、「結末」としてきっちりしすぎているかもしれないけれど。
 しかし、この「映画」も「映画」にするよりは、「舞台」にした方がおもしろそうだ。「ロードムービー」の「ロード」に私が実感をもてないからそう思うのかもしれないが。「実写」よりも「書き割り」と「ことば」だけの方が、役者の「肉体」が浮き彫りになって迫ってくると思った。
                     (KBCシネマ2、2018年02月14日)




 *

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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(3)

2018-02-14 09:12:53 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(3)(創元社、2018年02月10日発行)

 「波の音を」は「聴こえる」音か、「聞く」音か。

遠い雲から始まった僕の思いは
死というくもりガラスにぶつかって
にわかに夕暮れの空となった

烈しい現実を
映画のように
その空を見ながら
僕は自分の鼓動(みゃく)をかぞえていた

波の音を
ぶつかって砕ける波の音を
ききたかったその夕暮れ--

 「ききたかった」と「ひらがな」で書いてある。「聴こえる」「聞く」とは別な書き方である。
 さて。
 「音楽」のように人工のものではない、「自然」のものだから「聞く」「聞こえる」ということになるかもしれない。
 でも、こんな「謎解き」をするよりも、私の感じたことを書こう。
 最初に読んだとき、気になったのは「死というくもりガラスにぶつかって」という行である。「死」は「くもりガラス」なのか。「感じる」よりも「考えてしまう」。
 「くもりガラス」は不透明なガラス。ガラスは「透明」という印象といっしょにあるから、そこに矛盾のようなもの、一筋縄では理解できなものを感じ、何かを考えるのである。何を考えたのかわからないが、「考える」という方向へ意識が動いていく。
 「遠い雲」の「くも」という音が「くもりガラス」に影響しているのだとも思う。そうすると、ここにはとても「小さな」音が動いていることになる。ピアニシモの音。「雲」から「くもりガラス」への変化には、もしかすると「人工的」なもの、自然を超える「音楽」があるかもしれない。
 あ、こんなことを書いてしまうのは、「聞こえる/聞く」という谷川の分類に影響されているためだね。
 「雲」「くもり」という音のあとに「にわか」ということばがつづくと「にわか雨」を思う。この「にわか」雨は、私には「音」となって響いてくる。突然の雨音をつれてくる「にわか」雨。
 直前の「ぶつかって」は、気圧が「ぶつかって」、「にわか」雨になるという感じ。
 でも、よくわからない。
 ここに「音」はあるのか。
 「ぶつかる」は「音」を生み出すが、「死というくもりガラスにぶつかって」というとき、そこに「音」はあるか。「僕の思い」が「くもりガラス」に「ぶつかる」というのが、一行目と二行目の「意味」だが、「死」が「くもりガラス」に「ぶつかっている」と「僕」が「思っている」とも読むことができる。「死」は現実ではなく「僕」が「思っている」何か。それが「くもりガラス」に「ぶつかっている」。「僕が思っている何か/思い」が「死」である。
 そういう、ごちゃごちゃしたことが、頭の中で動く。「感じる」というより「考える」。「考え」が「考え」と「ぶつかる」。整理されていないから、方向が定まらずに「ぶつかる」。
 で、そのとき、そこに「音」はある?
 私には「音」が「聞こえない」。
 そこには「音」がなく、何か「映像」のようなものが、「音」をもたないまま動いている。「雲」「くもりガラス」「空」が広がっているが、「音」はない。「にわか」も谷川の詩の中では「にわか雨=音」にならずに、急な「動き」しか指し示さない。「急(にわか)」という映像だ。
 「雲」と「くもりガラス」のあいだに、「音」の響きあいはあるが、「音」は聞こえない。「絵」として世界が広がっている。

 二連目の「烈しい現実」の「烈しい」は「ぶつかる」という動詞を引き継いでいるが、私には「烈しい現実」とは感じられない。
 ことばは、そのあと「映画のように」と変化する。「映画」は「現実」ではなく「つくりもの」。そしてそれを「見ながら」というのだから、やはりここには(ここまでは)、「音」のない世界なのだろう。
 「音のない世界」を見ながら、言い換えると「音のない世界」に向き合いながら、「僕」は「鼓動をかぞえていた」。このとき「数える」は「聞く」と同じだろう。聞きながら、数える。あるいは「数える」ことで「鼓動」が「聞こえる」。「数える」ことで「鼓動」を「聞く」。
 ここではじめ「音」が出てくる。
 でも、それは「外」にある音、「自然の音」ではなく、「自分の音」だ。

 三連目、「場面」が突然、変化する。
 それまでは「僕」がどこにいるか、はっきりしない。けれど、ここで「波の音」が出てきて、海の近くに「僕」がいることがわかる。
 ここに

ぶつかって

 ということば、一連目に出てきたことばがもう一度登場する。
 そしてそれはさらに

砕ける

 という動詞を動かす。
 ここが、なんともいえず、おもしろい。
 「砕ける」は、ここから一連目へ引き返していく。

死というくもりガラスとぶつかって/砕ける

 何が砕ける? 「学校文法」を適用すれば「僕の思い」だが、「くもりガラス」が砕けると読むことも、「死」が砕けるとも読むことができる。
 「死」を砕きたいのだとも読むことができる。
 「死」を「鼓動」が砕くという具合に、二連目と結びつけて読むこともできる。

 そうすると、このとき「波」とは何なのか。海の水の「うねり」と簡単にいってしまっていいのか。
 「波」は何と「ぶつかる」のか、そして「砕ける」のか。
 「波」は「岩(陸)」とぶつかり、砕ける。また「波」と「波」がぶつかり、砕けるということもある。
 「波」と「波」のぶつかりあい、砕ける姿は「僕」と「僕」がぶつかり、砕ける姿の「比喩」かもしれない。
 「思い(心)」と「肉体(鼓動)」がぶつかり、砕けるのかもしれない。

 そのとき、「音」は、どこにある?
 「音」は「聞こえる」ものなのか、それとも自分で「発する」ものなのか。
 「音」は自分の「外」にあるのか、それとも自分の「内」にあるのか。

 「音」は常に谷川の「内」にある。それを「外」にあるものとして、「きく」。それが谷川の「肉体/こころ」と「音」の関係のように思える。
 このとき、「音」は「ある」にかわる。
 一連目に「音」はなかった。二連目で「鼓動」を聞き、「音」が生まれ、それが「波の音」となって谷川の肉体の「外」に「ある」。「ある」という「動詞」を中心にして、谷川と世界が交流している。ひとつになっている。「ある=音」という世界のあり方がある。
 「ぶつかって/砕ける」ということばから、そういう「音」のあり方を、私は聞く。
 自分の内部にある「音」になっていないものを、「音」として「ききたい」。
 この「音」を「ことば」と言い換えることもできる。
 自分の「内部」にある「ことばになっていないことば」、「未生のことば」を「ことば」として生み出すと、それが「詩」になる。その「詩」を谷川は、聞くのである。
 そう読むと、ここには谷川の「自画像」が書かれていることがわかる。



*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか1月号注文
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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
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ジム・シェリダン監督「ローズの秘密の頁」(★★★)

2018-02-13 00:12:02 | 映画
監督 ジム・シェリダン 出演 ルーニー・マーラ、バネッサ・レッドグレーブ、エリック・バナ

 「聖書」を「日記」にする、というのが、なかなかおもしろい。
 「聖書」に対する考え方はいろいろあるだろうが、神との一対一の関係がそこにある。だれも「信仰」に関しては口をはさめない。個人の完全な自由。精神の問題に属する。
 「聖書」のこの、神と人との直接関係(直接契約)は、「ショーシャンクの空」でも非常に厳格につかわれていた。ティム・ロビンスが「聖書」のなかに脱獄につかうハンマーを隠しているのだが、刑務所側はそれを調べない。手には取るが、開かない。閉じたままでも、それは「日記」なのだ。神と個人との「対話」がそこにある。そこには、だれも入ってはいけない、というのがキリスト教の「感覚」なのだろう。
 私には、この神と個人との「契約(密約?)」という感覚が「頭」では理解できたとしても、「肉体」ではつかみきれない。だから、ここが「ポイント」とは思いながらも、どうも、もうひとつ「親身」になれない。
 
 映画には、「宗教」に関係して、もうひとつポイントがある。舞台がアイルランド。イギリスとは「宗教」が違う。同じ「キリスト教」と考えるのは、私がキリスト教徒ではないからだ。背景のひとつに、イギリスとアイルランドの対立があり、そこにはカトリックとプロテスタントの対立がある。
 ヒトラーとの戦いでも、この違いが「壁」になり、イギリスとアイルランドは「共同戦線」をつくれない。国家のことはわからないが、この映画の中では「個人(宗教)」の対立が「悲劇」の引き金となっている。親イギリス派の男(主人公の恋人)をアイルランド人が許さない(殺してしまう)ことが、「悲劇」のはじまりである。
 このあたりの「感覚」がなんともつかみにくい。
 さらにこれにアイルランドの神父(か牧師か、私には区別がつかない)が「恋敵」としてからんでくるから、「宗教」が問題なのか、「愛」が問題なのかも、簡単には割り切れない。
 アイルランド人でないとわからないようなことが、きっと細部にたくさん描かれているのだと思うが、私には「荒涼とした風景」としかつかみとれない。(この、湿気を含んだ北の空気、さらにそのまわりの閉鎖的な感じのする人間の関係というのは、雪国育ちの私にはなぜかなつかしくて、アイルランドが舞台の映画は、私はとても好きなのだが。)

 で、わからないことがさらにさらにあるのだが。

 クライマックスの「手紙」のシーンは、映画としてとてもよくできていると思った。これは、この映画の前に「スリー・ビルボード」の「手紙」の処理の仕方に不満をもったからでもある。「スリー・ビルボード」では「手紙」が「舞台」の手法でつかわれていた。それが映画を叩き壊していた。この映画では、しっかりと「映画」になっていた。
 エリック・バナが両親が残した手紙を見つける。開いて読み始める。そのとき「ゴトッ」という音がして何かが封筒から落ちる。映画はそれを映さない。映さないけれど、見ている観客には、それが恋人の「勲章」であることがわかる。主人公がこどもを自分で産み、へその緒を切った時の「勲章」であることが想像できる。
 それが最後に主人公に手渡される。それは「聖書(日記)」にくり抜かれた「十字架」にすっぽりおさまる。(「ショーシャンクの空」でハンマーが聖書のくり抜きにおさまるのと同じである。)そして、それは主人公の「空白」のすべてを埋める。他の人たちから「幻想」と見做され、精神病院にとじこめられていた主人公の言っていたことが、「幻想」でなく「事実/真実」としてあらわれてくる。
 これを、「ことば」ではなく「具体的な映像」として、さらには「音」として、はっきりスクリーンで展開する。まさに映画である。
 で、こう書いてくると、涙が出るくらいに感動するのだが。
 うーん、やっぱり「聖書」が邪魔をする。わからないのである。あの「十字架」のくり抜きは、たぶんルーニー・マーラが恋人から「愛の証」としてもらったとき、その隠し場所として「聖書」を選んだときにつくったものだろう。そのときはまだ「日記」ではなかった。ルーニー・マーラにとって、そのとき「聖書」はなんだったのだろうか。これが、わからない。いや、「破壊(くり抜き)」を許してくれるのが神なのか。
 もうひとつ。これは、私が映画をぼんやり見ていて、はっきり記憶していない。「裏口」があいているとわかり、ルーニー・マーラは精神病院を脱走する。そのときルーニー・マーラは「聖書」から「勲章(十字架)」をとりだして逃げ出したのか。それとも、ふつうは「聖書」に隠さずに身につけていたのか。たぶん、「逃げる」ときに「勲章」を「聖書」からとりだしたのだと思うのだが、見落としてしまった。(手紙から勲章が「落ちる音」のようなものを見逃してしまった。つまり、最初の「伏線」を完全に見落としてしまったことになる。だから、はっきりとは言えないのだが。)
 もし逃げる寸前に、大事な勲章だけを持ち出すというシーンがあったなら、この映画はてともとても丁寧な映画である。完璧な映画である。
 再び精神病院につれもどされたルーニー・マーラにとって、「十字架(勲章の形)」にくり抜かれた「聖書」は、彼女におきたことをすべて「証明」してくれるものになる。精神は正常である。「聖書」は単なる「日記」、つまり「記憶」をつづったことばを残しているだけではなく、「愛の事実」が刻み込まれているからである。
 このとき「聖書」は、だから、「愛を証明する本」になっている。

 さてさて。何と言っていいのかわからないが。

 教会(牧師? 神父?)ぐるみで、ルーニー・マーラの「愛」が見守られていたということが、最後に「ことば」としてちょっと語られるが、このややこしい「愛」と「憎しみ(嫉妬?/愛を否定する何か)」と、「愛を見守る聖書(あるいは教会)」という関係が、「神」には何の関心もない私には、どうにもつかみきれないのである。
 アイルランド人にしかわからない映画なのかもしれないなあ。
                     (KBCシネマ2、2018年02月11日)




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「天皇の悲鳴」で書いたこと

2018-02-12 14:33:10 | 自民党憲法改正草案を読む
法学館憲法研究所(http://www.jicl.jp/)に「今週の一言」という欄があります。
http://www.jicl.jp/hitokoto/index.html
そこに「『天皇の悲鳴』に書いたこと」を書きました。
お読みいただけると、うれしい。

この機会に「天皇の悲鳴」もぜひお読みください。
「天皇の悲鳴」(1500円、送料込み)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
ページ右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。

「天皇の悲鳴」は松井久子監督「不思議なクニの憲法2018」でも紹介されています。
「不思議なクニの憲法」の公式サイトは、
http://fushigina.jp/
上映日程や自主上映の申し込みができます。
なお13日には、憲法記念館(千代田区)で松井監督のトークつきで上映があります。
こちらも、ぜひごらんください。


問い合わせは
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若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」

2018-02-12 12:21:04 | その他(音楽、小説etc)
若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」(「文藝春秋」2018年03月号)

 若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」は第158回芥川賞受賞作。はっきり覚えていないが、選考会の一回目の投票で受賞が決まった、と報道されていたと思う。えっ、そんなにおもしろいのか。でも、そうならなぜ一作ではなく二作同時受賞になったのだろう。そういう疑問がなかったわけではなかったが。
 そして、「文藝春秋」を手に取って、若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」よりも先に、石井遊佳「百年泥」が紹介されているのはなぜだろう、とまた疑問に思ったのだが。
 まあ、読み始めてみる。(括弧内のページは「文藝春秋」のページ。ルビは省略)

 あいやぁ、おらの頭このごろ、なんぼがおがしくなってきたんでねべが
 どうすっぺぇ、この先ひとりで、何如にすべがぁ     (408ページ)

 東北弁ではじまっている。
 これを、こう受けている。

 桃子さんはさっきから堰を切ったように身内から湧き上がる東北弁丸出しの声を聞きながらひとりお茶を啜っている。ズズ、ズズ。        (409ページ)

 お茶をすする音まで東北弁である。
 おもしろいかもしれない。
 だが、ひとりぐらしの、だらしない生活に鼠の出没を描いたあと、こういう文章がある。

 去年の秋、十六年一緒に住んだ老犬が身罷ってからというもの、屋根裏と言わず、床下と言わずけたたましい。ついに同一平面上に出没往来するところとなり、今日などはこうして明るいまっ昼間。先住民の桃子さんを気遣ってか遠慮がちではあるが、音を醸すことに確固たる信念がある、ように聞こえる。        (410ページ)

 読む気をなくしてしまった。
 小説を構成する「文体」は三つある。
 (1)最初に引用した東北弁
 (2)標準語(?)と東北弁がすっと融合する文体。二つ目のお茶をすする文章。
 (3)むりやり「文章語」にしたような気取った文体。三つ目の引用。
 
 (3)の文体がひどい。「老犬が身罷った」「音を醸す」。これは、何語だ? 「老犬が死んだ」「音を立てる」では、なぜいけないのだろう。
 東北弁では「死ぬ」ということばはあまりつかわず、「身罷る」というのがふつうなのか。「音を立てる」と言わすに「音を醸す」というのか。
 古いことばが生活に生きているということは、たしかにある。
 私の田舎では「歯茎」のことを「はじし」と言った。これは「歯+肉」である。「座る」は「ねまる」と、いまでも言う。「ねばる(動かない)」くらいが語源か。「ねまる」は九州では「腐る」になるが、これも「動かない、役に立たない」という感じでつながっているかもしれない。
 もし、東北の人が「死ぬ」よりも「みまかる」と言う方が「親身」に聞こえるのなら、それは「親身」な文体のなかで書かれないと、「実感」として伝わってこない。お茶をすする「ズズ、ズズ」のような感じで、何か「凝縮した肉体」といっしょに動いていないと、何を言っているかわからない。
 読めば、確かに「身罷る」か、「死んだのだ」とわかる。しかし、「耳」は一瞬、「音」を聞き逃す。「声」になっていないからだ。
 「屋根裏」「床下」はいいが、「同一平面上」というようなことを、東北のひとは暮らしの中で「言う」か。つまり「声」にするか。「先住民」も同じである。こんなことばを「声」にして「会話」が成り立っているとは、私には想像できない。
 こんな文章は「嘘」である。「嘘」が露骨に出ると小説はおもしろくない。
 同じ文章のつづきに、こうある。

人の気配の途絶えたこの家で、音は何であれ貴重である。最初は迷惑千万厭っていたが、今となればむしろ音が途絶え部屋中がしんと静まり返るのを恐れた。(410ページ)

 「厭って」は「いとって」と読ませる。ルビがついている。この「厭って」(厭う)は「いやに思う」と「声」として入ってくる。「いや」と「いとう」のなかに「音」が交錯し、それがそのまま「感情の意味」として「肉体」に響いてくる。
 「厭う」というのは「気取っている」が、それが「肉体の古い層」というか「肉体」の奥を揺さぶるように動くので、あ、東北ではこういうのか、と納得できる。
 でも「同一平面上」とか「先住民」とか、とても東北の人か言うとは思えないし、「身罷る」とか「醸す」とか、犬や猫を描写するのに使うとも思えない。
 いやあな感じがする。

 夫が死んだあと、ジャズを聴きながら踊る場面がある。

 おまけに頭の中では
 オラダバオメダ、オメダバオラダ、オラダバオメダ、オメダバオラダ、オラダバオメダ、
 際限なく内から外から、音というか声というか、重低音でせめぎあい重なり合って、まるでジャズのセッションのよう。     (411ページ)

 「音」と「声」。その区別がつかなくなる。「音」が「声」という「肉体」そのもの、「いのち」になる。「いのち」が「肉体」の奥から噴出してくる。それが桃子さんを動かす。
 これが、たぶん、この作品のテーマである。「東北弁」の「音/声」そのものが「肉体」として動く。それが「標準語」を突き破り、新しい「文体の可能性」を切り開いていく。
 で、そういうことが「わかる」からこそ、気取った「標準語文体」、東北弁と無関係な「ことば/音」が気になってしようがない。
 「ことば」が「声」になっていない。「意味」でしかない部分がある。

 亭主に死なれた当座は周造が視界から消えたということより、周造の声がどこを探してもどこからも聞こえないということの方がよほど応えたのだった。(457ページ)

 というような部分を読むと「声(音)」が重要なテーマだとわかる。「声(音)」こそが「肉体」だと感じていることもよくわかる。そういうことを書きたいのだと、わかる。わかるからこそ、「意味」が「標準語」でもつかわないような「気取った」音として動いている部分が、嘘っぽいのである。
 460ページから461ページにかけて出てくる「桃子さんはつくづく意味を探したい人なのだ。」「桃子さんは戦いたい人間であった。」「桃子さんという人は人一倍愛を乞う人間だった。」というような「説明(解説)」にもうんざりした。

 東京へ出てきて働く。「わたし」と言おうとすると「一呼吸」おいてしまう。そういう「声」に関するおもしろい部分もあるのだが、気取った標準語が邪魔しすぎている。全体がとても長くていらいらする。全体を三分の一、できれば四分の一に削り込めば、もっとすっきりとした強い作品になると思う。「嘘」をばっさり削除すれば、読みごたえのある作品になると思うが、いまのままではひどすぎる。



 一か所、疑問に思ったことがある。「食べらさる」という「東北弁」に対する「解釈」である。一膳目のごはんを食べて、さて次にどうしようかと思案し、「食べらさる」と言って二膳目を食べ始める。

食べらさるとは国語的に正しい言い方なのだろうかと考えてしまう。食べらさる、桃子さんが考える受け身使役自発、この三態微妙に混淆して使われていて、敢えて言えば、桃子さんをして自然に食べしめる、とでもいうような、どうしても背後に桃子さんならざる者の存在を感じてしまう言葉の使い方なのだ。(471ページ)

 「受け身/使役/自発」というよりも、これは「敬語」なのではないのか。自分ではないだれか、それこそ延々とつづいている「いのち」そのものが二膳目を「食べられる」。桃子さんが食べるように見えて、実際は「いのち」そのものが「食べる」。その「いのち」への畏怖が「敬語」として動いているのではないのだろうか。「食べらっしゃる」の「しゃ」が「さ」になったのではないのか。
 (だれかが話す(しゃべる)ことを、私の田舎では「しゃべらっしゃる」というときがある。「話される」「お話しされる」だね。「しゃ」が言いにくくて「さ」になることもあるような気がする。これは、私の「耳」の体験。)
 ことば(声)には、そういう遠くつづいている「いのち」へのつながりがある。「声」をとおして、ひとは「いのち」になる。
 そんなことを思いながら読んだので(随所に、そういう部分を感じたので)、気取った標準語には、ちょっとむかむかしてしまった。「声」と「いのち」のことを書きながら、作者が別のことば(気取った標準語)で、それをたたきこわしている。

 どうも、この一作が芥川賞では弱すぎる。だから、大急ぎで二作受賞になるように先行をやりなおしたんだろうなあ、とも思った。



 少し脱線して書いておけば、東北弁で書かれたものとしては、新井高子編著『東北おんば訳 石川啄木のうた』(未來社)がはるかにおもしろい。ことば(意味)を「声(東北弁)」にかえすとき、その奥から「肉体」そのものがぐいっとあらわれてくる。
 この小説を読むくらいなら『東北おんば訳』を読んだ方が楽しい。ことばと声、肉体の関係がよくわかる。
 またことばは生活というならば、東峰夫の『オキナワの少年』(芥川賞)の方が傑作である。オキナワ英語とでも言うべきものが「声」としてしっかり書かれていた。


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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
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離島防衛?

2018-02-12 10:27:03 | 自民党憲法改正草案を読む
離島防衛?
             自民党憲法改正草案を読む/番外176(情報の読み方)

 2018年02月12日の読売新聞朝刊(西部版・14版)の一面の見出し。

離島防衛 F35B導入へ/短距離離陸ステレス 空母運用も視野

 防衛(軍隊)のことはまったくわからないのだが。これは、どういうことかな? 離島を「基地化」するということだろうか。

政府は、米軍が運用している最新鋭ステレス戦闘機「F35B」の導入を検討している。複数の政府関係者が明らかにした。2026年度頃の運用開始を目指す。滑走路の短い離島の空港を活用でき、離島防衛能力が高まる。

 やはり離島の空港を活用する(離島を基地化する)ということみたいだが、疑問に思うのは「離島防衛」って「空中戦」? 離島へ向かってくる船団(艦隊)を空から攻撃するということかな? 実際に離島が侵犯されたら「陸上戦」が主になると思うけれど。上陸させないためには、海岸線の防衛が主になると思うけれど。
 「離島防衛」という抽象的なことばでは、F35Bの活用方法がわからない。実際の「防衛戦」でどう使うのだろう。だいたい「防衛」が目的なら「ステレス」でなくてもいいのではないのか、と思ってしまう。

 本文を読んでいく。こう書いてある。(番号は、私が便宜上つけたもの。)

(1)F35Bを導入すれば、離島の民間空港を活用しやすくなる。
(2)離陸に必要な滑走距離が短いため、基地の滑走路が攻撃を受けても離陸できる可能性が高まる。
(3)年末に見直す新たな防衛大綱でも、「戦い続けるための能力強化」を掲げる方向だ。
(4)配備先は、空自新田原基地(宮崎県新富町)が候補に挙がっている。

(1)は離島が基地化するということ。どこの「離島」かは明記されていないが、空港のある「離島」なら限られているだろう。長崎周辺、鹿児島、沖縄周辺ということになるだろう。北朝鮮や中国を「仮想敵国」にしての構想ということになる。
(2)は、ことばを補うと
離陸に必要な滑走距離が短いため、「本土の/あるいは沖縄本島の」「自衛隊/あるいは米軍」基地の滑走路が攻撃を受けても、「離島の滑走路から」離陸できる可能性が高まる。
ということだろう。
 本土(あるいは沖縄)が攻撃されているのなら、「離島防衛」どころではないだろう。「離島」にどこかの国が「基地」をつくり始めている(そこから、さらに本土攻撃をしようとしている)のなら、「離島」の滑走路など利用できないだろう。
(3)の「戦い続けるための能力強化」はことばは勇ましいが、「離島」の短い滑走路しかない空港が、本土(あるいは沖縄)が攻撃されたあとの「防衛拠点」になるというとこ? うーん、心もとない。滑走路があれば離陸はできるだろうが、戦闘機というのは飛び立ったらおしまい? 「神風特攻隊」? 基地に帰って来て、装備しなおして、また離陸するというのなら、滑走路があれば十分というわけではないだろう。
 「離島」を、どう「基地化」するのか、それを明示せずにF35Bを導入すれば、「離島防衛」が強化されるというのは信じられないなあ。
(4)は、笑いだしてしまうなあ。「空自新田原基地(宮崎県新富町)」って「離島」?宮崎県って太平洋側だよ。想定されている「離島防衛」って太平洋側の離島?
 それに、空自新田原基地から「攻撃されている離島」へ向けて、「防衛」のためにF35Bが飛び立つ。その後、その「攻撃されている離島」を拠点にしてF35Bが活動するって、おかしくないか? 「離島が攻撃されている」なら、そしてその「空港」が「基地化」されている(されようとしている)ことがわかっているなら、敵は「空港(滑走路)」をまず攻撃するのではないだろうか。
 敵国が「離島の滑走路」だけを攻撃しないと考える根拠がわからない。

 後半に、こういうことも書いてある。

政府は「いずも」の甲板の耐熱性を強化し、戦闘機が離着艦できる空母に改修することを検討しており、20年代初頭に運用を始めたい考えだ。

 空母から飛び立ったF35Bが「離島防衛」にあたる? うーん。本土(あるいは沖縄)の基地から飛び立った方が効率的じゃない? だいたい「空母」というのは「移動基地」。それは「防衛」というよりも、遠くの敵基地を攻撃するためのもの。「本土」から飛び立っていたのでは燃料がつきてしまう。敵の基地の近くまで(攻撃対象の近くまで)空母で戦闘機を運び、そこから敵を攻撃するためのもの。「防衛」とは関係ないだろう。
 「離島基地化」も「防衛」ではなく、より短時間で仮想敵国を攻撃するためのものだろう。レーダーでとらえにくいステレス戦闘機が導入されるのも、「防衛」ではなく「先制攻撃」のためだろう。

 「攻撃こそが最大の防御」(先制攻撃で敵を倒す)という「意識」を「離島防衛」ということばで隠している。「離島」のことも「防衛」のことも、まったく考えていない、安倍の軍事独裁推進を証明する計画だといえる。
 安倍はただただ北朝鮮を攻撃したい。軍隊を指揮したい。軍隊を指揮すれば、独裁は簡単だ。国民を「御霊」にしてしまえば、だれも「安倍辞めろ」とは言わない。死人に口なし、だからね。
 安倍のすすめている「沈黙作戦」の集大成が、「戦争」なのだ。


#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(2)

2018-02-11 09:42:11 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(2)(創元社、2018年02月10日発行)

 「物音」の、最後の二行。

どんな音もおろそかにしない
世界の静けさを信じきって

 きのうの感想で書き落としたことがある。
 「物音」は「明け方」に聞いた「物音」について書いている。「耳(聴覚)」からはじまり、触覚、視覚、嗅覚と感覚を動かしながら「音」に迫っている。「音」を描写している。
 それが最後で「音」とは違うものに触れる。「音」では「ない」ものを「静けさ」と名づけ、「静けさ」という「ことば」にしている。この「静けさ」とは何だろうか。それはすべてを受け入れる「空(虚空)」のようなものではないか、と思った。
 「空」を「音」が満たしていくのか、「音」を「空」が満たしていくのか。
 どちらであるかわからないが、そういう「音」と「空/静けさ」という「矛盾」が拮抗し、同時に支えあい、結晶するものとして「世界」がある。そういうあり方を「信じる」と谷川は書いている。
 「信じる」という「動詞」を見落としていた、と急に気づいた。
 この「信じる」ということばを説明するのはむずかしい。
 「確信している」と言い換えればいいのだろうか。
 「確信している」は「確かである」と「信じる」こと。「信じる」を「確かである」にまで高めること。その「確か」を保障するというか、証明するのが「静けさ」ということばの発見なのだ。「静けさ」ということばをみつけた、そのことばによって世界を生み出した、ということが「確か」ということなのだ。



 きょうは「クラヴサン」を読む。私は「クラヴサン」というものを知らない。はじめて聞く(読む)ことばである。それが何を指すのか、わからないまま、ともかく読む。

曇ってはいたが妙にすきとおった夜
(それは北風のせいだったかもしれない)
僕の心はクラヴサンの音に満ち満ちていた
それは
厳しい幸福の感じだった

明日は晴れる ふと僕はそうおもった

 「曇ってはいた」(曇る)と「すきとおった」(すきとおる)のぶつかりあいは、「厳しい」と「幸福」の結合に変化していく。
 「曇る」はふつうは「不透明」をさすと思う。これを否定するように「すきとおる」ということばが動く。「すきとおる」は「晴れる」ということば(これは最後に出てくる)を暗示させながら動いている。
 その動きが繰り返される。
 「厳しい」は「悲しさ」「さびしさ」「つらいさ」ということばはいっしょにつかわれることが多い。人間があまり好まない状態、否定的な感情といっしょに動くことが多い。それが「幸福」という肯定的なことばといっしょに動く。
 その瞬間、何か「新しいもの」がみえる。それまで「ことば」にならなったものが、そこにあらわれてくる。
 その「ことばにならなかったもの」を「クラヴサンの音」が支えている。
 きのう読んだ詩の「物音」と「静けさ」の向き合い方に似ている。
 「クラヴサンの音」は「静けさ」なのだ。「クラヴサンの音」が「曇る/すきとおる(晴れる)」「厳しい/幸福」という断絶したものを「ひとつ」のものにする。「曇る」から「すきとおる」、「厳しい」から「幸福」までの「断絶」をつらぬく「空」のようにして存在する。「空」を「曇る」から「すきとおる」、「厳しい」から「幸福」までの「断絶」がつらぬく、と言い換えてもいい。
 「満ち満ちる」という「動詞」は、「ひとつにする」「つらぬく」ということだろうと私は読み直すのである。
 「物音」が聞こえるとき「静けさ」が「満ち満ちる」、「静けさ」のなかを「物音」がはてしなく広がっていく(満ち満ちてゆく)。主語がいれかわりながら、「動詞」のなかで「ひとつ」になる。「確か」になる。
 こういうことを経験して、谷川は「晴れる(幸福)」を「確信する」のだ。「ふと僕はそうおもった」と軽い調子で書かれているが、これは「確信」である。

 ということとは別に。

 私はこの詩を読みながら、こんなことも考えた。
 二行目に「北風」ということばがでてくる。なぜ「北風」なのか。なぜ南風、東風、西風ではないのか。詩を書いたときが冬だから「北風」なのか。
 だが、私は、ちがうものも作用していると感じる。
 「すきとおった」「厳しい」という音のなかにある「き」の音。それが「北風」の「き」の音と響きあっている。「き」のなかの母音「い」は、「満ち満ちていた」のなかにある「い」とも響きあっている。
 意味をはなれた「音」そのものが呼び掛け合っているようにも感じる。
 この「音」の呼びかけあいが、私には「ことばの音楽」に聞こえる。「意味」とは関係なしに、何か、引きつけられる。私は「音読」をしないが、「耳」に「音」が響いてきて、それがとても気持ちがいい。
 「き」あるいは「い」という音は鋭い。一方「クラヴサン」という音には一種のやわらかさがある。濁音が深みを感じさせる。詩の書き出しの「曇る」という動詞に通じるものがあるのだろうと思う。「き」「い」の響きあいが、「クラヴサン」という音で、ふわーっと膨らみに包まれる。
 それは「重い膨らみ」、曇りではなく、やがて「晴れる」ことを予想させる曇りにつながるものも含んでいると思う。曇りながら、晴れていくという感じ。

 「クラヴサン」の音を聞くことがあるかどうかわからない。その音を聞くまで、この詩を覚えていたいなあと思う。



*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
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岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
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瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』

2018-02-10 11:02:19 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(創元社、2018年02月10日発行)

 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』について、私は、どんな感想が書けるだろうか。どんな具合に谷川俊太郎と出会うことができるだろうか。
 「あとがき」にこう書いてある。

私たちはさまざまな自然音に、詩情と言っていいような感覚を呼び覚まされていると思います。そのような「聞こえてくる」自然音に対して、人間が創る音楽を私たちは耳を通して心で「聴く」のです。

 「聞こえる」と「聴く」を谷川はつかいわけている。同時に、自然音と音楽を区別している。
 私は、とまどってしまう。
 私は田舎で育った。「自然音」はあふれていたかもしれない。けれど、それは「聞こえてくる」という感じではない。ただ「ある」だけだ。意識にならない。「聞こえる」というのは、たぶん、小学校へ入ってからわかったことだと思う。「風の音が聞こえる、雨の音が聞こえる」というような「ことば」を習ってから、はじめて聞こえ来たのだと思う。それまでは「自然音」はあっても「聞いて」はいなかった。
 「音楽」は、もっと事情が違う。私の家は百姓。歌の好きな両親もいるかもしれないが、私の両親は歌わない。それでも「子守歌」くらいは聞いたかもしれないが、私にはそれは「音楽」というものではなかったと思う。
 「音楽」というものを聞いたのは、小学校にはいってからである。オルガンをはじめてみた。オルガンにあわせて、みんなで歌を歌う。これが私の「音楽」の初体験。ただ、これも「音楽」と意識できていたかどうか、とてもあやしい。私は「声」を聞いていただけなのだと思う。
 家にラジオはあったが故障していて、私は聞いたことがない。学校へ行くとき、隣の子を誘うと、家の中から中村メイコの「パパ、行ってらっしゃい」が聞こえた。それが最初に聞いたラジオである。私がその番組に興味をもったのは、中村メイコが「声」をつかいわけていたからだと思う。「声」の違いというものに、私は、何か関心があったのだろう。でも、「音楽」には縁がなかった。関心がなかった。
 小学生のときからピアノを習っていた谷川とは、環境がまったく違う。

 こんな私が「聞く/聴く」谷川のことばは、谷川が奏でている「音楽」は、どういうものなのか。「聞く/聴く」とき、私と谷川はどこで、どんなふうに出会っているのか。
 ぼんやりと、そんなことを考え始める。
 でも、考えてもしようがないので、ともかく読み始める。読んで、そこから「聞き取ったもの」について書いていくことにする。

 最初の詩は「物音」。

明け方 どこかで
物音がする
まどろみながら耳が
聞いている

 ありふれた「日常」を描いているのかもしれないが、この書き出しで、私は驚いてしまった。私の「肉体」はびくっと、反応した。
 書かれている「意味」はわかる。どこかで「物音」がする。これは「自然音」ではないが、「音楽」でもない(かもしれない)。「聞いている」というよりも「聞こえてくる」ということだと思うが。
 で、何に驚いたかというと。
 「まどろみながら耳が/聞いている」というときの「主語」は何? 「まどろむ」の主語は何? 「耳」が「まどろむ」? 「耳」は「聞いている」の主語のように思える。「まどろむ」には主語がない?
 いや、そんなことはない。
 「私はまどろんでいる」、そして「私の耳」が「物音」を「聞いている」。いま補った「私は」は「私の肉体は」だろうか。「私の意識は(精神は/心は)」だろうか。「私の肉体は」だとつかみとると、そのあと、その「肉体」から「耳」が切り離されて、「耳が/聞いている」とつながる。
 何か「分断」がある。「耳」も「肉体」なのに、その「耳」が「肉体」から独立して動いている。
 「私はまどろんでいる」の「私」が「私の精神/意識/心」だとしても、そういうものから「耳」が一瞬切り離され、独立している。
 ここには、何か、私を驚かすものがある。
 私と谷川を区別する「何か」がある。

 「答え」を出さずに、ぼんやりと、詩を読み進める。

目覚めてしまいたくない
物音を運んでくる空気は生暖かく
一日の光はまだまぶたに隠れている

 「一日の光はまだまぶたに隠れている」に、また、立ち止まる。朝の太陽の「光」は「まぶた」の裏側、つまり「目の中」にあるわけではない。だから「隠れる」というのは動詞のつかい方としては変である。「学校文法」を逸脱している。
 しかし、この「隠れる」の「間違った」つかい方が、私の「肉体」をひっかきまわし、そのひっかきまわされる感じが楽しい。「光」は「肉体」の外にある。それを「肉体」はまだ受け入れていない。まぶたを閉ざすことで、「光」を拒んでいる。けれど、それを「拒んでいる」ではなく「隠れている」と言いなおすとき、「光」というものがほんとうは「肉体」の内部にあると教えてくれる。外にある「朝の光」は、「私の肉体の内部」にあって、それが「目を開ける」と目からあふれて広がる。「目を開ける(瞼を開ける)」という「動き」が「光」にあふれる世界を生み出すという感じがする。
 そうか、「世界」は「私の肉体」によって生み出されるものなのだ、と感じる。
 ここから最初の部分にもどると。
 「物音がする」のではない。「耳」が「聞く」ことによって「物音」が生み出されている。「耳」が「何か」を聞きたがっている。「欲望」が目覚めて、それが「物音」を生み出している。
 一方で、まだ眠っていたいという「欲望」もある。「肉体」が「まだ眠っていたい」と言っている。でも「耳」は「聞きたい」と言っている。「肉体」がぶつかりあっている。
 それがたとえば「暖かい」という「肌の感覚(触覚)」を揺り動かす。どことははっきり区別できない「肉体」がだんだんはっきりしてくる。ぶつかりあいながら、「目覚めてくる」ということだろうなあ。

どこかで なにか
物音がする
いま在る何かがたてている音
かすかな音
ここに世界が在ると証ししている物音が
匂いのように漂う

 「耳」(聴覚)、「暖かい」(触覚)、「まぶた」(視覚)と動き始めた「肉体」が「匂い」(嗅覚)にまで広がっていく。「肉体」(感覚)が互いに刺戟しながら、「ひとつ」になって動く。それにあわせて「世界」が広がっていく。
 「世界」は「私の外」にあるが、それは「私の内部」をそのまま反転させたものである。「外」が「肉体の内部」に入ってくる、「内」が「肉体の外部」へ出て行く。それは、どちらが「正しい」と断定できるものではなく、その両方であると感じればいいのだろう。
 「世界が在る」なら「私が在る」、「私が在る」なら「世界が在る」。
 「在る」だけが「ある」。それが「物音」になったり、「光」になったり、「暖かさ」になったり、「匂い」になったり、「私」になったりする。

 こういうことが、「ことば」によって起きるのだ。
 「まどろみながら耳が/聞いている」「光はまだまぶたに隠れている」という「ことば」によって起きる。
 そして、その「ことば」のなかに、私は「谷川の音楽」を聞く。「谷川のつくりだしたもの」を聞く。
 「まどろみながら耳が/聞いている」「光はまだまぶたに隠れている」とは、私は、たぶん「言わない」。言い換えると、それは「私の聞いたことのない音」なのだ。「聞いたことのない新しい音」が「肉体」のなかに入ってきて、それが「ことば(意味)」を揺さぶる。「音/ことば」が持っていたものが、変化する。その「音(意味)」にあわせようとして、私の「肉体」の何かが動く。
 「音楽」のことばで言えば「和音」をつくろうとする。谷川の音(声/ことば)に私の音(声/ことば)をあわせてみたい気持ちになる。あわさると、違う音が生まれそうと、ちょっとどきどきする。昂奮する。
 ことばが、ことばであることをやめて、ことばに生まれ変わろうとする。

どんな音もおろそかにしない
世界の静けさを信じきって

 ぽんとほうりだされるようにして置かれた、最後の二行。そのなかの「静けさ」ということば。音。
 この「静けさ」というのは、それまでの「ことば(音/意味)」が一瞬無効になる瞬間のことだと思う。
 「まどろみながら耳が/聞いている」「光はまだまぶたに隠れている」ということばに触れるとき、私の中で私のことばが無効になる。あっと驚き、動かなくなる。消える。それから、谷川のことばに励まされながら、もう一度動き出そうとする。それまでの短い時間。そこにある「ことばにならない瞬間/ことば以前の瞬間」。それが「静けさ」である。これを通って「世界」が生まれてくる。
 書かれているのは知っていることばだけれど、どこか違っていることばとなって生まれてきている。世界を創っている。

 自然に在るのではなく、人間が「創る」もの、それが「音楽」なら、谷川の「ことば/詩」が、私にとっての「音楽」である。そのとき聞こえる「音」というのは、「旋律」でも「リズム」でもなく、「静けさ/沈黙」のことでもある。

 私は、「楽譜/楽器」で表現される「音楽」というものから縁遠い生活をしていた。私が「音楽」を感じるのは、ひとの「声(ことば)」なのだと、改めて思った。詩を読むのは、私にとっては「音楽」を聞くということにつながるのかもしれない。「聞く」なのか「聴く」なのか、わからないが。
 そんなことを、思った。

 ここからはじまって、どれだけことばを動かしつづけることができるかわからないが、しばらく谷川の詩を読んでみる。



*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

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瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
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サイモン・バーホーベン監督「はじめてのおもてなし」(★+★)

2018-02-09 10:39:36 | 映画
サイモン・バーホーベン監督「はじめてのおもてなし」(★+★)

監督 サイモン・バーホーベン 出演 センタ・バーガー、ハイナー・ラウターバッハ、エリック・カボンゴ

 この映画は、いわゆる「肩すかし」の映画である。
 舞台はミュンヘン。裕福な家庭が難民を受け入れる。それをコメディータッチで描くという触れ込みだったが、難民が難民として映画に組み込まれていない。「異文化」の衝突がない。「文化」の違いに、だれも悩まない。
 展開されるのは、裕福な家族が、裕福さゆえにバラバラになっているのだが、そのバラバラが絆に変わるという過程。きっかけが「難民」である必然がない。「難民」が「客寄せ」の話題としてつかわれているだけである。

 でも、これは逆に言えば。
 「難民」を受け入れるということが、ドイツでは、それだけ「日常」になっているということかもしれない。「異文化」にとまどうという段階を通り越して、困っている「自国民」を受け入れる、ホームレスを善意で家庭に受け入れるということと変わりがなくなっているということかもしれない。
 舞台になっている「裕福な家庭」そのままに、ドイツ自体が「裕福さ」ゆえに「バラバラ」になっている。みんながそれぞれ自分のために生きている。助け合うというよりも、自分の欲望を優先させている。「難民」に向き合うことで、この「自分優先(自分ファースト)」を見直すという具合に、社会が変わりつつあるということかもしれない。
 そうであるなら、それでいいのだが。

 で、救いは。
 「難民」が「難民」として描かれていないということかなあ。(もちろん、これは不満にもなるのだが。)
 つらい記憶が語られるが、それは「語られる」だけであって、彼が生きている過程で、「肉体」からにじみ出てくるものではない。つらい体験が、他人を引きつける、あるいは他人を拒絶する「不可解なもの」としては描かれてない。「ことば」として受け入れられるものとして描かれている。
 つまり「生理的反撥」というものが、きれいに「除去」されている。これはドイツが「難民問題」を「ことばとして処理できるところまで整理している」ということである。(もちろん、これはそのまま不満でもあるのだが。)
 「難民」をみんなで受け入れようよ、と軽い調子で呼びかける映画と思えばいいのかもしれない。

 心配は。
 だれもが、ここに描かれている家庭のように「裕福」ではないということ。自分の生活に苦しみがある。精神的にというのではなく、経済的に。そうすると、この映画の家庭のようには簡単に「難民」を受け入れることができない。自分の生活が犠牲になる。
 そうなると、どういう反応が起きるかなあ。
 「ふつうの家庭」を舞台にしない限り、問題は見えてこない。
 ドイツ人がみんなあんなふうに「裕福」とは思えない。
                     (KBCシネマ1、2018年02月07日)





 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
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長津功三良『日日平安』

2018-02-09 10:28:20 | 詩集
長津功三良『日日平安』(幻棲舎、2018年01月15日発行)

 長津功三良『日日平安』には「山峡過疎村残目録」というサブタイトルがついている。いま、過疎の村はどうなっているか。「はぐれ蛍」に、

どうやら この辺り
人間も 虫も 過疎化が 進んでいるらしい

 という行がある。
 そういうところで、ことばは、どう動くか。
 「時間」という詩が興味深い。

人は 記憶に縋って 生き
時間の 遠い 渦巻き 継続螺旋(らせん)の中で
忘却することで かろうじて 生きのびている

 このことばにしたがえば、「人間も 虫も 過疎化が 進んでいるらしい」は「人間も虫もいっぱいだった」過去の記憶が「過疎化」を実感させているということになる。「人間も虫もいっぱいだった」、けれど、そういうことただ思い出し続けるのではなく、それを「忘却する」ことで生きる。
 うーむ。
 これは、しかし、むずかしい。「時間」は「渦巻く」。それは「螺旋階段」のようにつづいている。
 この「抽象」を長津は、もう一度「抽象」で言いなおしている。それは「何を」忘却することなのか。忘却することで「何を」あたらしくつかみ取るのか。このとき、「何が」起きているのか。

この人ら
幻に 棲(す)む という
幻の 色は
夢幻透明(とき)の 重なりの向こうの暗黒(ブラックホール)
億光年の 時間の渦巻きの 捻れた螺旋 の 流れ
幻に 寄生する つややかな そして 無限無色(しろ)
宇宙誕生(ビッグバン)と 終末の 捻れ 連なり

 「幻」と呼んでいる。「時間」は「幻」である。「時間」は「とき」と言いなおされ、「夢幻透明」と言いなおされる。「透明」なのに、それが重なっている向こう(ときの向こう側)は「暗黒」。いや、「ときの向こう側」が「暗黒」だから、「とき」の只中は「夢幻透明」なのか。この「夢幻透明」は「無限無色(しろ)」と言いなおされることで、もう一度「暗黒(ブラックホール)」と向き合う。宇宙は誕生し、同時に滅ぶ。宇宙は亡び、同時に誕生する。
 これでは、わかったような、わからないような感じだ。
 長津は、だから、もう一度言いなおす。

おお
死んでしまった
無 になってしまった
女(おまえ)よ
男(おれ)が
生きているかぎり
女(おまえ)も生きているのだが

 「忘却する」とは「思い出す」ということでもある。ほんとうに「忘却」してしまえば、「忘却」したかどうか、わからない。つまり「忘却する」ということばがあるのは、そこに「思い出す」という矛盾が存在するときだけである。「矛盾」とは「渦巻き」であり、「螺旋階段」であり、それは「つづいている」。
 男が生きているかぎり、女のことを思い出すので、女はいきていることになる。客観的には「無」(存在していない)のかもしれないが、主観的には生きている。
 主観が、ことばを動かす。
 主観は、客観ではないから、「幻」である。そうではあるが、その「幻」というのは、ことばにすると、それはそれで存在してしまうものなのだ。「無」には、ならない。

 「無」に、ならないのか、
 「無」に、なれないのか。

 その「ならない」と「なれない」がぶつかりあって、ことばを正反対の方向へ放出し、また引きつけるように反転させる瞬間がある。
 そこに唐突に、しかし、非常に「強い」孤独が浮かび上がる。
 ここで、わたしはまた、「うーむ」とつぶやいたのだった。




*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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9条2項維持とは

2018-02-08 11:49:30 | 自民党憲法改正草案を読む
9条2項維持
             自民党憲法改正草案を読む/番外175(情報の読み方)

 2018年02月08日の読売新聞朝刊(西部版・14版)の一面の見出し。

9条2項維持 支持多数/自民改憲本部 条文案募り検討

 改憲では、改憲の条文(文言)がどうなるかが重要である。それが、まだできていない。これは国民に何も知らせない安倍の「沈黙作戦」の一環だろうが、あまりにもひどい。9条2項を残すか、削除するかで自民党がまとまっていない。
 現行憲法の9条は、こうなっている。

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 残すというのは、安倍の案である。
 2017年6月の自民党改憲本部のたたき台では、こうなっていた。(西日本新聞、6月22日朝刊)それによると、こうなっている。

9条の2 前条の規定は、我が国を防衛するための最小限度の実力組織としての自衛隊を設けることを妨げるものと解釈してはならない。
2 内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有し、自衛隊は、その行動について国会の承認その他の民主的統制に服する。

 この案の問題点は、
(1)「自衛隊を設けることを妨げるものと解釈してはならない。」と国民の解釈を禁止していることである。「自衛隊を設ける」ということは国民にはできない。だから、「設ける」主体は「国」であって、そのことに対して「反対」というとすれば、「国民」である。その「国民」に対して、「解釈してはならない」、つまり「軍隊を設けることに反対」と言ってはならないと主張している。だれが禁止するのか。「憲法」か。「国」か。憲法は国の権力を拘束するものであって、国民を拘束するものではない。その基本を逸脱している。
(2)それにつづいて「内閣総理大臣」が主語として突然登場していることである。国民が「主役」(主語)の憲法に、国民をおしのける形で内閣総理大臣が登場している。これは「独裁」の宣言である。この項目から考えると、「内閣総理大臣が自衛隊を設ける」ということに対して、国民が「反対」と言ってはならない(憲法が自衛隊を持つことを禁止していると解釈してはならない)と主張していることになる。
 これはすでに「9条改正、これでいいのか」(ポエムピース)で書いたことなので繰り返さない。

 2面に、見出しにはとっていないが、重要な指摘が書いてある。

 自衛隊の根拠規定については、「自衛隊を保有する」などと簡潔に表記する案があるが、自衛隊を所管する防衛省は法律で設置された組織であることから「防衛省と上下関係が逆転する」との懸念が出ている。

 やっと、新聞でも言及されるようになった。
 自衛隊は防衛省の下部組織である。それが憲法に書かれるのならば、防衛省も書かなければおかしい。それが、どうして問題にならないのか。
 これはさらに言えば、憲法は「天皇」「戦争放棄」のあと、「国民」「国会」「内閣」「司法」という具合に構成されているのに、安倍の案では、国民よりも、国会よりも「下」に位置する「内閣総理大臣」が「防衛省の下部組織である自衛隊を指揮する」と、憲法の先に登場することを意味する。
 これは安倍の、自衛隊をつかったクーデターなのである。安倍は日本の安全を守るということを口実に、軍事独裁を狙っているだけなのである。
 こういうことを、憲法にもとづいて(憲法の条文、構成にもとづいて)、もっと指摘すべきである。

 アメリカ合衆国の憲法を参考にしてみよう。
 前文は、こう書いてある。

われら合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、ここにアメリカ合衆国のためにこの憲法を制定し、確定する。

 それから、構成は、第1章[立法部]、第2章[執行部]、第3章[司法部]という具合である。
 軍備については「前文」に「共同の防衛に備え」と書いているだけである。実際には、「戦争(軍事行動)」については、どこにどうかかれているか。
 第1章[立法部]にある。

[第10項]公海上で犯された海賊行為および重罪行為ならびに国際法に違反する犯罪を定義し、これを処罰する権限。
[第11項]戦争を宣言し、船舶捕獲免許状を授与し、陸上および海上における捕獲に関する規則を設ける権限。
[第12項]陸軍を編成し、これを維持する権限。但し、この目的のためにする歳出の承認は、2年を超える期間にわたってはならない。
[第13項]海軍を創設し、これを維持する権限。
[第14項]陸海軍の統帥および規律に関する規則を定める権限。

 まず、軍隊を「創設する権限」は「議会」にある、と明確に書かれている。自民党の案では、これが不明確である。「防衛省の下部組織」ならば国会で決めることだが、国会がどうこうする前に「自衛隊」が出てきてしまっては、憲法の構成としておかしいだろう。「戦争の宣言」も議会の権限であると、アメリカ合衆国憲法は明記している。

 軍隊の指揮権は、どうか。
第2章[執行部]第2条[大統領の権限]にこう書いてある。

[第1項]大統領は、合衆国の陸軍および海軍ならびに現に合衆国の軍務に就くため召集された各州の民兵団の最高司令官である。大統領は、行政各部門の長官に対し、それぞれの職務に関するいかなる事項についても、文書によって意見を述べることを要求することができる。大統領は、弾劾の場合を除き、合衆国に対する犯罪について、刑の執行停止または恩赦をする権限を有する。

 大統領は「最高司令官」ではあるが、そのことが明記されるのは、「立法部」のあとである。「憲法構成」は守られている。
 こういう「構成基準」は、絶対に厳守すべきものである。
 憲法学者は、こういうこともしっかり指摘してほしい。野党も、こういうところから、自民党の案に対する批判をしてほしい。
 もし「9条」に自衛隊を書き加えるなら、それは単に「9条」の問題ではなく、「憲法全体」にかかわる問題である。「理念」にかかわる問題である。

 いま、安倍がやろうとしていること、こまれでやってきてたこと(秘密保護法、戦争法、共謀罪の強行成立)は、すべて安倍が「軍事独裁」をすすめるためのものなのである。「軍事独裁」をすすめるために、北朝鮮の脅威を口実として利用している。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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 「不思議なクニの憲法」の公式サイトは、
http://fushigina.jp/
上映日程や自主上映の申し込みができます。
憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
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鈴木美紀子『風のアンダースタディ』

2018-02-08 10:33:11 | 詩集
鈴木美紀子『風のアンダースタディ』(書肆侃侃房、2017年03月12日発行)

 感想を書こうと思いながら、ふと見失った本。それが、ふいに出てくる。さて、書こうと思ったときと同じことが書けるかどうか。鈴木美紀子『風のアンダースタディ』は、ほぼ1年前の歌集。

間違って降りてしまった駅だから改札できみが待ってる気がする

 この歌の「意味」は二通りに読むことができる。
(1)降りる予定ではなかった駅。そこは待ち合わせの駅ではない。でも、降りてしまったら、かならずきみが改札口で待っている気がする。それくらい「気持ち」が通じている。なんだか「うれしい」。
(2)降りる予定ではなかった駅。しかし、習慣で降りてしまった。その改札口には、いつもきみが待っていた。きょうは約束をしていなかったが、来ているかもしれない。そう思うと、「いやだなあ」。あるいは約束があったが、気持ちが変わりすっぽかすつもりだったのに、習慣で(?)降りてしまった。間違った。あ、きみは改札で待っている、「いやだなあ」。

 たぶん、(1)なんだろうなあ。
 で、(1)だとすると。「間違って降りてしまった駅だから」の「だから」が変だね。「間違って降りてしまった駅だけど」と「だけど(だけれど)」でないと「学校文法」にはあわない。間違って降りたけれど、こんなに愛し合っているのだから、どこで降りるかはきみにはわかっているはず。そして、間違いを先取りして改札で待っているはず。これが、「恋の妄想」の「論理」。
 でも「だけど(だけれど)」と言わずに「だから」と言う。そうすると、なんというか、より「妄想」が強くなる。私が間違えたのは、きみが間違えてそこにいるということをテレパシーか何かで知ってしまったために間違えたのだ。私が間違えたのではなく、きみが間違えさせた。しかも、その間違えさせたということが、間違いではなく「正しい」になるように間違えさせた。「間違い」を「正しい」にかえてしまうのが「恋の妄想」。  しかし、(2)の方が、ほんとうはありうること。「いやな恋の現実」。間違えて降りてしまったら、きみはやっぱり間違いなく待っていた。「気がする」を通り越して、目が合ってしまった。「裏切らない」。つまり「だから」という「肯定」が自然に響く。

 で問題は。

 なぜ「学校文法」的にはおかしい(1)の方がより「正しい」と感じられるのか。感情移入ができて、「この歌好きだなあ(楽しいなあ)」と感じるのか。これが問題。というか、詩の(文学の)不思議。
 「学校文法」をねじまげてしまう何か、間違わないと言えないことがあり、そういう「間違い」を侵さないことには言えないようなこと、つまり、それまでことばにしなかったことがことばになっているというのが詩であり、文学だということだね。
 「間違って降りてしまった駅だから」の「だから」のつかい方はおかしい。そんなつかい方は間違っている。間違っていないとしたら「気取っている」。かわっている。この「かわっている」が詩なのだ。「かわっている」は新しい、でもある。
 しかも、それは「まったく新しい」ことば、だれも知らないことばではなくて、だれもが知っていることばであることが重要。「古い」はずなのに「新しい」。ここに驚きと、詩がある。
 これを鈴木は、だれもがほんとうに(現実に)つかっている「口語」でやっている。そこがとてもおもしろい。

この辺は海だったんだというように思い出してねわたしのことを

隠してたこんなくぼみのあることをきみにはただの水たまりだけれど

 「この辺は海だったんだ」は、口語そのまま。「きみにはただの水たまりだけれど」も口語そのままだろう。
 最初の一首と「共通する」ものは、書かれているものが、実は「不在」ということ。
 間違って降りた駅に「きみが待っている気がする」がほんとうは「いない」、「この辺は海だったんだ」けれどいまは「海ではない」、これは「水たまり」であって地面の「えくぼではない」。「えくぼ」は比喩であり、比喩とは「いま/ここ」に不在のものを借りてきて「いま/ここ」にあることを言いなおすことである。
 「不在を言いなおす」。「きみがいない」を「きみがいる気がする」と言いなおす。「海がない」を「海があったんだ」と言いなおす、「えくぼがない」を「えくぼを隠している」と言いなおす。そして、この「言い直し」には「気がする」「思い出す」ということばが同時につかわれているが、これは、つまり「想像する(想像しなおす)」ということである。「想像しなおす」ことによって、その存在が自分にとってどれだけ大事であるかを確認する。その自分にとって大事なことを、相手に伝える。この大事なことを「きみ」に伝えるのは、「きみ」が私にとって「大事な存在だから」と間接的に告げる。いいかえると、「相聞歌」なのだ。

透きとおる回転扉の三秒の個室にわたしを誘ってください

 「三秒の個室」は「ことばによってはじめて存在するもの」。「比喩」。それを私は「ことばによって出現させた」。つぎは、「きみ」がその「想像によって生みだされた世界」をそのまま「肯定し」、それを利用して「わたしを誘う」、つまり「想像力の共犯者になれ」と鈴木はそそのかしている。「誘ってください」といいながら、逆に誘っている。ことばはいつでも「読み返す」ことによって動くのである。
 そういうふうに読むと「透きとおる」ということばさえ「好き」という気持ちが徹底して(凝縮して、結晶化して)、どこまでも「好き」だけが見えるような感じにも思える。「好き」で凝縮した空間、「好き」が濃くなった空間(こういうことばを使うと、暁方ミセイみたいか)、ふたりだけの「個室」に見えてくる。「好き」をみんなに知らせるための特別の「個室」でもある。

 どの歌も「口語のリズム」が生きていて、とても楽しいと思う。
 で、その楽しさを肯定した上で、「注文」も書いておこう。

調律師の冷たい指を愛してた波打ち際の朽ちたピアノは

 という歌がある。その直前に、

「え、こんな場面できみは泣くんだ」とわたしの夢を盗み見たひと

 がある。ふたつの歌をつないで、私は「ピアノ・レッスン」という映画を思い出したが、どうもおもしろくない。「波打ち際の朽ちたピアノ」が鈴木の見た「実景」ならばこれでもいいのだろうけれど、きっと「実景」ではない。だから「調律師の冷たい指を愛してた」も「実感」ではない。「ピアノ」の思いを代弁することば、「不在」を浮かび上がらせる「比喩」のひとつだが、こういうことを「口語」でやると「手の込んだうそ」になってしまう。「巧み」だけれど「うそ」の方が浮いてしまう。
 「夢を盗み見たひと」も「想像力」に手が込み入りすぎている。「夢」を盗み見るのではなく、映画館でとなりで泣いている姿を盗み見る、泣いているのがわかったけれど、そのことを見なかったことにするという方が、「いま/ここ」という現実感で満たされるだろうと思う。
 「口語」を「文語化」するのではなく、「口語」のままのリズム、言い換えるとスピードをもっと貫いてほしいと思う。





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田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
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堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
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金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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風のアンダースタディ (新鋭短歌シリーズ34)
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樽井将太「亜体操卍」

2018-02-07 09:43:56 | 詩(雑誌・同人誌)
樽井将太「亜体操卍」(「みらいらん」1、2018年01月20日発行)

 樽井将太「亜体操卍」は何が書いてあるか、わからない。けれど、書きたいという欲望と、欲望を書きたいという「気持ち」がわかる。書く「対象」に対する「欲望」と、欲望を「書きたい」が拮抗して、区別がつかない。別なことばで言うと、そこに「妄想」だけがある。妄想が「ことば」になり、ことばが「妄想」になる。

すめらす
ににぎの体操
あちこちまがる蠱か

 「すめら」とか「ににぎ」というのは、いまはつかわないことばだ。「古語」。かすかな記憶では、神とか天皇につながることばだ。
 樽井はどう思っているかわからないが、私は、この「すめら」とか「ににぎ」という「音」は奇妙だなあと思う。「意味」がはっきりわからない。別なことばで言うと「漢字」でどう書くのか思い出せない。「漢字」は「表意文字」。「意味」がなんとなくわかる。ひらがなは「表音文字」。「意味」がわからない。ただ、その「音」を「肉体」で繰り返すとき、妙に「肉体」の奥がうごめく。形にならないまま、むずむずする感じがある。舌を動かす、口の中で舌が口の内部をこする。これが、妙に、「いろっぽい」。
 日本をつくった神とか天皇とかは、はじめてセックスをする日本人(?)だね。神(天皇)のセックスのから、人間がつぎつぎにうまれてくる。それは健全な「体操」かも。
 「蠱」は、たしか「こわく」というという「熟語」につかわれているな。
 うーむ。
 昔の人(?)は、虫に「なまめかしい」ものを感じていたのか。この「虫」は、しかし毛のない虫、裸の、肌の下が透けて見えるような虫だろうなあ。なぜ、そういうものに「なまめかしさ」を感じるのか。「裸」だからだろうなあ。そして、その「内部」が動いているのが見えるようなところが色っぽいのだろうなあ。
 「あちこちまがる」と樽井は書いているが、まっすぐではない。くねる。まっすぐではいられない。と、いうことろにセックスの秘密があるのかも。
 セックスは「卍」の形で動く「体操」、いや「亜体操」か。このときの「亜」は「亜種」の「亜」だね。(でも、なぜ、「亜種」というのだろう。)

たまももかるくはずむ
膝のうえでは何か小動物のような襞の
食むような仕ぐささえ
たのしいおんがくが
応援します、
(にこにこ)
なんで柔らかいね、
あちこちまがる蠱
ひらきひるこながるる

 「たまももかるく」は「漢字(表意)」ではどうなるのか。「玉藻も軽く」か「玉・腿軽く」か。「玉」とか「腿」を思ってしまうのは、まあ、私の「妄想」であって、樽井がそう思っているかどうかは、わからない。
 「音」をとおして、私は「音」そのものの「欲望」に触れる。いや、そういうことを樽井が「妄想」しているだろうなあと、妄想し、それをさらに広げる。樽井が何を見ているか(伝えようとしているか)を無視して、その「音」からこういうものが「見える」とかってに思う。
 樽井を忘れて、私は「ことば(音)」そのもののなかで、「音の肉体」が持っているものと「私の肉体」を重ねる。「音の肉体/ことばの肉体」が「私の肉体」になるのか、「私の肉体」が「ことばの意味」を「音の肉体」にかえてしまうのか。よくわからない。よくわからないが、こういう瞬間というのは、私は好きだなあ。私の「妄想」は間違っているかもしれないが、間違っているということが「妄想」の正しい動きであり、そこには「正しい想像」ではつかみとれない「強い何か」がある。
 あ、これでは、強引すぎるか。
 「腿」「膝」、それから「襞」か。どうしたって、その「襞」というのは女性性器の「比喩」だね。(これって、直喩? 換喩? たぶん、換喩。換喩って、いやらしいね。直喩に比べると。直喩なら、「熟れた花びら」とか「つぼみ」とか。ね、「襞」の方が、換喩の方が「直接的」でしょ?)
 「食む」というのも、「食べる」ではなんでもないが、「はむ」という音が妙にあいまいで、いろっぽい。「は」という吐く息、「む」という閉ざす息の交錯があるからだね。「仕ぐさ」も古くさくて、「抑圧」を感じさせる。「欲望」は暴走するものだけれど、その暴走は「抑圧」があってこそなんだ。
 あ、こんなことは書いてないんですよ。私がかってにつけくわえているだけなんですよ。
 で、ついでにつけくわえる。
 「たのしい」「にこにこ」「柔らかい」。そのあとの、

ひらきひるこながるる

 あ、また、わけのわからないことば。わけがわからないから、「わかる」を見つけ出して「妄想」する。「開き・蛭子・流るる」。放出した精液が膣から逆流してくる(あふれてくる)?
 こんなに早く終わってしまってはいけないのだけれど、若いから、二回戦からが本番ということもあるだろうなあ、なんて。
 いや「ひらきひるこながるる」の「ひ」の繰り返し、「ら」が「る」に変わると、「き」が「こ」に変わる。この音の変化の微妙さ。さらに「る」「る・る」の繰り返しの間の、か行が「清音(き)」から「濁音(が)」への変化も、とても楽しい。「肉体」にぐいと迫る。
 そんなことは書いていない? 書いていなくてもいい。そう読んでしまう。詩は、書いた人のものではなく、読んだ人のもの。

 樽井の「意図」は違うかもしれないが、ことばが「音」になって、「音」がことばを揺さぶって、「妄想」を誘うというのは詩の特権だと思う。「正しい」ことなんてつまらない。ありえないこと(間違っていること)が、あるかのように思える瞬間が楽しい。わくわくする。




*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか1月号注文
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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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最果タヒ「東京タワー」

2018-02-06 12:06:28 | 詩(雑誌・同人誌)
最果タヒ「東京タワー」(毎日新聞2018年02月04日夕刊・西部版・4版)

 最果タヒ「東京タワー」。その前半。ルビを省略して引用する。

ガラスの上に立ち、ここが底だと思う時、ぼくの
足元に広がるいくつもの夜景が、大地にうずまる
化石に変わる、あの日からぼくの呼吸はリサイク
ルされ、なんどもぼくの肺を通過し、いつのまに
か温度も匂いもぼくと同じものに変わっていった、
身体と世界の境界線になんの意味があったのだろ
う、きみがこの世界にいることになんの意味があ
るのだろう、円錐のようにぼくの命は広がりつづ
け、終わることを知らない、痛みが、脈動となっ
てぼくを貫くとき、ぼくは知っている、ぼくの本
当の精神はただ平坦にひろがる水たまりのように、
この世界にあるのだということ。

 「ガラス」は「水たまり」の比喩。水たまりに立って、その水面(ガラス)に映る世界を見ている。地上(あるいは天空)にあるものが、逆さまになって「大地にうずまる」。そういうものを見ている。このことばをとおして、私は最果の「見たもの」を「見る」。詩というのは、(あるいは文学全体がそうかもしれないが)、作者が「見たもの」を「見る」ということを読者が体験すること、ことばをとおして追体験すること。
 だけでは、たぶん不十分だ。
 作者が「見たもの」を「見る」だけでは、理解したことにならない。この作品は、そうえてくれる。
 「見たもの」を「見る」のではなく、「見る」という「動詞」そのものを自分のこととして引き受ける。それが作品を読む、ということだ。「見る」という「肉体」そのものになってしまうこと、それが作品を読むということだ。

 この作品では、最果は、そのことを実行している。「ぼく」という人間が仮構されている。その「ぼく(仮の詩人)」詩人が「見たもの」を「見る」のではなく、「見る」という「動詞」そのものになっていく。
 「見えたものを見る」ではなく「見る」になるということは、「呼吸」になることだと最果は言いなおしている。「見えるもの」の世界の中で、「呼吸する」。世界を呼吸することが「ぼくの見る」を「見る」として引き受けることだ。「リサイクル」は「なんども」ということばくぐりぬけ、「通過」ということばをくぐりぬけ、「境界線」を消してしまう。「区別」がなくなり、「命」「痛み」「脈動」が、世界を「貫く」。「見る」を「呼吸する」という「動詞」でつかみなおしたあと、それは「貫く」という「動詞」に変わる。「見る」とは「貫く」ことだ。
 そう言いなおした時、最果は「ぼく」を貫いて別な人格、詩人になっている。詩人になるために「ぼく」という「仮構」が必要だった。

                  ぼくの本
当の精神はただ平坦にひろがる水たまりのように、
この世界にあるのだということ。

 この部分の「ただ」を私は「ただ平坦に広がる」という具合には読みたくない、とふと思う。「水たまりのように」という「直喩」の「水たまり」の姿を強調することばとつつづけて読みたくないという気持ちに襲われる。もちろんそのことばともつながっているのだが、「直喩」が指し示す「水たまり」を飛び越えて、「ただ、ある」と読みたい気持ちになる。
 この世界に、「ただ、このようにして、ある」。私がおぎなった「このようにして」というのは「貫いて」ということだ。「貫く」という「動詞」として、この世界に「ある」。そして、その「貫いて、ある」という一つの形(言い直し)が「水たまり」であり、また「平坦」であり「ひろがる」でもある。
 ことばを「限定」させずに、動いていくものとして読みたい。そのときに「貫く」がいっそういきいきと動く。どこまでもひろがるように感じられる。

 


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マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考

2018-02-06 11:17:34 | 映画
監督 マーティン・マクドナー 出演 フランシス・マクドーマンド、ウッディ・ハレルソン、サム・ロックウェル

 マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」は脚本が非常によくできている。しかし、それは映画向きではない。舞台向きだ。
 ラストシーン。フランシス・マクドーマンドとサム・ロックウェルが「レイプ魔」らしい男を殺しに行く。その途中で「ほんとうに殺す?」というようなことを相談する。「行く途中で考える」というような、やりとりだ。これは「舞台」なら余韻のある幕切れだが、映画では不完全燃焼である。「台詞」が邪魔だ。ことばに頼らずに、「どうする?」「ドライブしながら考える」というのを、「肉体(表情)」で伝えないと映画にならない。ことばで説明してしまうので、「余韻」を押しつけられる感じがするのである。
 芝居は、「一声、二姿、三顔」という。これをもじって言えば、映画は「一顔、二姿、三声」である。初期の映画が「無声映画」であったように、ことばは「補足」。なくてもわかるのが「映画」である。表情の変化を見せるために巨大スクリーンがある。そのことをこの映画は忘れてしまっている。そして、ことばに頼っている。
 もし、これが「舞台」だったら、と想像してみよう。そうすると「脚本」の「傑作」さ加減がわかる。
 まず最初に登場する赤いビルボード(看板)。「警察所長は何をしている」「犯人逮捕はまだか」「娘はレイプされ、焼き殺された」という文字は、舞台なら「一幕」中、ずーっと「背景」として存在する。観客はいつでも「看板(文字、ことば)」を見ながら役者の演技を見る。フランシス・マクドーマンドが何を言うたびに、そこに「声にならない声」があると気づかされる。実際に「声」でいわなくても「警察所長は何をしている」「犯人逮捕はまだか」「娘はレイプされ、焼き殺された」も、それが「聞こえる」。看板は、フランシス・マクドーマンドの、もうひとつの「顔」であり、「姿」である。その赤い色、黒い大きな文字は怒りと悲しみの「声」である。つまり、舞台では、常にフランシス・マクドーマンドが二人いることになるのだ。「生身」の肉体と、「看板」になった肉体。その「拮抗」が芝居そのものをつくっている。
 映画では、その拮抗が薄れる。緊張感が「舞台」ほどもりあがらない。「警察所長は何をしている」「犯人逮捕はまだか」「娘はレイプされ、焼き殺された」と、観客が常に思い出さないといけない。その声は聞こえるは聞こえるが、「記憶」としての声である。常に看板が目の前にあり、それが「現実」として見えるわけではない。「声」の見え方が違う。フランシス・マクドーマンドは頑張っているが、「警察所長は何をしている」「犯人逮捕はまだか」「娘はレイプされ、焼き殺された」が観客の意識に常に「見える」わけではない。それが「ドラマ」の拮抗を弱くしている。
 この映画が「声(ことば)」に頼っている、という欠点は、ストーリーがウッディ・ハレルソンの自殺を契機に動くところに極端に現れている。ウッディ・ハレルソンは自殺することで「ことば(遺書)」を残す。それがフランシス・マクドーマンドにもサム・ロックウェルにも働きかけ、ふたりをつなぐことにもなる。「ストーリー」としては「芝居」であろうが「映画」であろうが、同じだが、「声」を問題にするとまったく違う。
 「舞台」は何度でも書くが、「声」を聞く場である。観客はまず何よりも「役者の声(ことば)」を共有する。声の変化、強さ、スピード、明るさ、暗さ。「声」がぶつかりあって、それが「感情(肉体)」のぶつかりあいになる。「声」が「空間」を支配し、「声」の飛び交う空間(劇場)そのものが観客の「肉体」になるとき、「劇場」全体が昂奮する。そこでは「顔」の占める「領域」は小さい。
 「声」を聞かせるものだから、それが「遺書」であっても、かまわない。またその「声」が必ずしもウッディ・ハレルソンのものでなくてもいい。ウッディ・ハレルソンの「声」ではじまり、途中からフランシス・マクドーマンド、サム・ロックウェルの「声」に変わったとしても、(あるいはフランシス・マクドーマンド、サム・ロックウェルの「声」ではじまり、ウッディ・ハレルソンの声に変わったとしても)、それは「声」を弱めるのではなく、逆に「声」を強くすることになる。「声(ことば)」が共有され、死者と生きているものによって共有され、その共有がそのまま観客に共有されるからだ。
 これは「舞台」でなら、絶大の効果をあげる。(と、思われる。)
 でも、映画では逆に「興ざめ」になる。「声」が聞こえるとき、その「声」の持ち主の姿は見えず、読んでいるフランシス・マクドーマンド、サム・ロックウェルが見えるだけだからである。映画の「撮り方」に問題があるのだ。「映画」になりきれていないのだ。自殺するシーンそのものに「遺書の声」がかぶさる、あるいは「遺書のことば」を一気に読み上げるのではなく、断片的に別なシーンに重なる形で紹介されるというのでないと、「意味」だけが押しつけられたものとして残る。三枚の看板のように、三通の手紙(妻と、フランシス・マクドーマンド、サム・ロックウェルの三人への手紙)として、観客が「意識」しないとストーリーが展開しなくなる。役者の「肉体」が「そえもの」になってしまう。「声」と「肉体」が戦わなくなってしまう。
 舞台では、そこに常に「生身」の「肉体」がある。その「肉体」を突き破って「声」が動く。暴れる「声」と「肉体」が常に向き合っている。ときに戦い、ときに助け合い、「声」と「肉体」が同時に解放される瞬間を目指している。
 映画は違う。
 映画は、常に「顔(肉体)」が解放される瞬間を待っている。「顔」がかわる瞬間、役者が役者ではなく、「生身の人間」になる瞬間を待っている。それを観客は見る。そのとき観客の「肉体」のなかで、観客の「声」が動く、観客自身の「声」が生まれてくるというのでないと、映画とは言えない。それを、この監督は理解していない。人間が微妙にからみあい、そこから人間が変化していくという「ストーリー」は完璧だが、それは「ストーリー(脚本)」として完璧なのであって、「映画」としては不完全である、と私は思う。
(T-joy博多、スクリーン2、2018年02月04日)

 
 


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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
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