詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

18 遅刻者(嵯峨信之を読む)

2018-06-18 11:02:35 | 嵯峨信之/動詞
18 遅刻者

遅刻者である
何ごとにも
ぼく自身に到達したのもあまりにも遅すぎた

 「遅刻者」は「遅刻した者」。そのことばのなかに「遅刻する」という動詞がある。「時間に遅れて/到達する」。
 これは、少し、奇妙なことばかもしれない。
 到達しないのではなく、到達したから「遅刻する(遅刻した)」ということばになる。
 これは、こう言いなおされる。

生きるとはついに終わることのない到達であろうか

 必ず「遅れてしまう」。それが「生きる」ということである。それは「到達しない」ということではない。
 では、なぜ、遅れるのか。
 途中にこういう行がある。

川を越えてもさらにその向こうに別の川がある

 「別の川」。「別」を見てしまう。「別」を発見するから、「遅れる」のではないか。「別」は「別れる」であり「分ける」でもある。「別れ道(分かれ道)」で、最短距離を選ばない。そうすると必然的に「遅れる」。
 「遅れる」ことを「別の道を歩いたため」ととらえると、そこに「詩」が見えてくる。「別」を発見しつづけることが「詩」。「遅れる」ことは「生きる」を豊かにするになる。
 嵯峨の「遅刻」ということばには、絶対的な否定がない。むしろ、やわらかな肯定を感じる。


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17 N沼(嵯峨信之を読む)

2018-06-17 11:01:54 | 嵯峨信之/動詞
17 N沼

 沼に女性が投身自殺する。

白い木製の十字架を呑んだ沼は
沼自身も傷ついて
大きな海鼠のようにときどき動いた

 「沼」は、このとき嵯峨のこころの象徴だろうか。嵯峨のこころは投身自殺を知って、「海鼠のように」「動いた」。ずーっと動くのではなく「ときどき」動いた。
 「ときどき」は「副詞」だが、「動詞」として読み直すとどうなるだろうか。「動いた(動き)」は途切れるのか。それとも途切れるということを拒んで動き始めるのか。ことばにできない「交渉」がある。おそらく、このことばにならない「交渉」が「海鼠」という比喩を生み出している力だろう。「動く」ことによって、それが「海鼠」であると「わかる」。

ぼくはなぜその沼を見に行つたのであろう
霧雨が白くもやつているなかにうずくまつていた沼は
一夜
忽然と消えてしまつた

 「なぜその沼を見に行つたのであろう」は「なぜその沼は大きな海鼠のようにときどき動いたか」という問いを言いなおしたものだ。沼は、霧雨が白くもやつているなかに「海鼠のように」うずくまつていた。「動く」と「うずくまる」は違うことばだが、嵯峨にとっては「同じ動詞」である。「うずくまる」が「動く」こと。うずくまりながら「ときどき」動く。「ときどき」だから「動く」は「うずくまる」と言いなおされることもある。
 「うずくまる」という「動き」しかできないときもある。
 「動いた」ではなく「うずくまる」という「動詞」を「投身自殺」のなかに見たのだ。「自殺」は自ら動いて死へ向かうことだが、それは生へ向かっての動きをやめること、「うずくまる」ことであある。
 「うずくまる」という動詞を見つけたとき、嵯峨には、投身自殺した女性のすべてが「わかった」のだろう。了解した。だから、「沼」は消えた。
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16 短夜(嵯峨信之を読む)

2018-06-16 11:00:54 | 嵯峨信之/動詞
16 短夜

動物のように恥じることなく死にたい
という言葉が
ぼくを捉えて放さない

 この三行は、「ぼく」には「恥じる」ことがある、という意味を含んでいる。それは「恥」にとらわれているということでもある。「死にたい」は、また「生きたい」でもあるだろう。生をまっとうしたい。
 こういう思いは、だれの胸にも去来するかもしれない。

大きな石に抱かれているその言葉は
いつまでも孵化しない

 「動物のように恥じることなく死ぬ」ということは、むずかしい。そのむずかしさは、「大きな石」のなかにある「いのち」を誕生させるようにむずかしい。
 「孵化しない」を「いのちとして誕生しない」と読み替える。あるいは「孵化する」を「生きる」と読み直すとき、一連目の「死にたい」が「生をまっとうしたい」であることが、より強く迫ってくる。
 「孵化する」のは「ことば」ではなく、そのことばを生きる「ぼく」である。













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15 昨今(嵯峨信之を読む)

2018-06-15 11:00:07 | 嵯峨信之/動詞
15 昨今

死がふいにぼくを捕らえそうになる
鼻さきをなでるようなゼラニウムの強い匂い

 「捕らえる」は「包み込む」。「匂い」は「ぼく」を「包み込む」と読み替えることができる。
 だが「匂い」は「包み込む」だけではない。「鼻」から「肉体」に入り込む。
 「死」もまた「外部」から「包み込む」ものというよりも、「肉体」の内部に入り込むことだろう。
 入り込んだものによって、「捕らえられる」。支配される。
 「匂い」には「形」がない。それは「捕らえる」ことができるか。「肉体」の内部にとりこむことが、「捕らえる」ことになるか。
 「捕らえる」と「捕らえられる」は、「死」と「匂い」の場合は、明確に区別できない。
 だから、

ぼくはそこから急いでたち去る

 「たち去る」は「逃げる」「遠ざかる」。でも、それは「逃げきれる」ものでもない。立ち去ったつもりでも「先回り」されているかもしれない。




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14 盲目の魚(嵯峨信之を読む)

2018-06-14 10:59:27 | 嵯峨信之/動詞
14 盲目の魚

呑みこんだ言葉が
ふいに
眼のなかに浮きあがつてくる

 「呑みこむ」は「沈める」。「浮きあがる」と呼応する。
 「言葉」は二連目で、言いなおされる。

尾鰭も 水掻きも腐つてしまい
泥ばかり食つて生きていたのだろう

 「沈められた」ことばは、「外形」が腐ってしまった。「泥」ばかり食っていたからである。それは「泥」のなかにすんでいたために、盲目になっている。盲目の魚は「ぼく」の「比喩」である。

それからだれもぼくの姿を見たものはない

 「沈める」は「沈む」になり、「沈む」は「見えない」になる。「泥」と「盲目」がその変化の中で交錯する。
 「盲目の魚」は何も見ない。「盲目の魚」を見るひともいない。けれど、その「盲目の魚」がことばを「呑みこむ」ことによって生まれたことを「ぼく」は知っている。それは「ぼく」にだけ見える。「ぼく」の「眼のなかに浮きあがつてくる」。



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13 道標(嵯峨信之を読む)

2018-06-13 10:58:29 | 嵯峨信之/動詞
13 道標

ぼくは逃げ出そうとしたが
廊下の戸という戸は固く閉ざされている

 「逃げ出す」という動詞と「閉ざされている(閉ざす)」という動詞が、向き合っている。「逃げ出す」ことを考えたとき「閉ざされている(閉ざす)」という動詞が浮かび上がった。
 その「関係」こそが「道標」なのかもしれない

硬直したぼくの肉体がつつ立つている

 「つつ立つている」は「行く場所(逃げる道)」がないからであるが、「つつ立つている」の「つつ」に目を剥けると、少し違ったものもみえる。「突き立てる」その「つく」には「ここを激しく刻印」する力が働いている。
 自分自身を道標に「する」のだ。
 これは「目的地」ではなく「出発点」としての道標だ。










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12 窓(嵯峨信之を読む)

2018-06-12 10:57:53 | 嵯峨信之/動詞
12 窓(嵯峨信之を読む)

一つの窓をおもいだした
外は恐ろしいような真つ白い空だつた
窓から外を見ていた子供が急に大声で泣きだした
空にゆれている大きな時の鐘を見たのだ

 「おもいだした」「泣きだした」。「だした」という動詞は「出す/出る」。はじまる。止まっているものが、動きはじめる。止めていたものを破って「出る」という感じがする。止まっていた「時」そのものが動きはじめるのかもしれない。
 「空にゆれている大きな時の鐘」は「鐘」ではなく、「時」そのもの。「時」そのものが「鐘」に見えた。「鐘」が来たのではなく「時」が来た。

鐘が鳴りだした
行かねばならぬと次の男たちが立ち去つていつた

 「鳴りだした」とふたたび「出す/出る」という動詞がつかわれる。
 「行かねばならぬ」は「おもいだした」のである。
 行かねばならぬと「おもいだし」、次の男たちが立ち去つていつた。
 そんな具合に「おもいだす」を補うと、「だす」が「鐘が鳴りだした」の「だした」と重なる。鐘の音を合図に「立ち去つた」のだが、「合図」とは「動きを合わせること」である。そして「立ち去る」とは、そこから自分自身を「だす」ことである。
 この詩は「出す/出る」という動詞が中心になって動いている。





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11 水子(嵯峨信之を読む)

2018-06-11 10:57:20 | 嵯峨信之/動詞
11 水子(嵯峨信之を読む)

水面を櫂でたたいた
未知のシラブルを追いだした
いつか時がたれながした持ち主のない言葉たちを

 「たたいて」「追いだす」。暴力的である。激しさがある。それは「瞬間」という時間に属する。
 対極に「たれながす」がある。単に「流す」のではなく「たれ、ながす」。「たれる」に「否定」の意味がこめられている。「たたく」「追い出す」が瞬間的なのに対し、「たれる」には持続的感じがする。それも意識的な持続ではなく、無意識の、ただつながっている感じ。できるなら「たらしたくない」
 この「無意識」の「たれる」という「だらしなさ」が「いつか」という不特定の時間、「持ち主のない」という不特定とつながっている。

 二行目の「未知」は、この「否定すべき不特定」のことである。そして、それは「未知」というよりも「既知」の方がぴったりくるかもしれない。それが「たれる」性質のものであることを知っている。
 知っているからこそ、叩き出し、追い出すのである。
 そういうものは、いらない。
 「シラブル」は「言葉」と言いなおされている。「ことば」は「水」のように汚れやいいものなのだろう。

 二連目は「たれる」を言いなおしたものだ。

言葉はぞくぞくと出てくる
眼も鼻も口もない水子たちの小さな祭りがはじまつた
始めも終わりもない賑やかでさびしい祭りが……

 「たれる」は「始めも終わりもない」ということばのなかに引き継がれている。「水子」の定義はむずかしいが、ここでは「未完成」(不完全)というニュアンスだろう。ことばには「不完全」なものがある。
 そういうものを、嵯峨は自分のなかから「叩き出す」。完全なことばが生まれてくるのを邪魔するからだ。


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10 (誰がそこへ辿りついたろう)(嵯峨信之を読む)

2018-06-10 10:56:46 | 嵯峨信之/動詞
10 (誰がそこへ辿りついたろう)(嵯峨信之を読む)

誰がそこへ辿りついたろう
未来の消えた乾らびた土地
だがそこをひとりの逞しい盲者がゆつくり歩いていつた

 「辿りつく」という動詞は、「つく」に重きが置かれていない。」盲者がゆつくり歩いていつた」とあるから、「盲人」はそこを過ぎていった。「つく」ことを目的としていなかった。「ついた」ということに気がつかなかった、とも読むことができる。
 「辿る」は「探り求める」と読むことができる。この「探る」を引き継いで「盲者」が動いている。「手探り」で「ゆつくり歩く」。確かめながら歩く。
 「未来の消えた」の「消える」は「明かりが消える/光が消える」を連想させる。「未来」は「時間」というよりも「比喩」として動いている。そして、隠されてる「明かり/光の消えた」状態は「盲人」と結びつき、「意味」を強める。
 「そこ」は現実の「土地」ではなく、「意味」としての土地である。
 「辿りつく」の主語は「誰」であり、「(探り求めながら)歩いていつた」の主語は「盲者」だが、「誰」も「盲者」も人物であるというよりも、「辿る」を動かす力である。
 これを「辿る」という動詞から、もう一度読み直すとき、私のなかで、「意味を辿る」「意味を求める」とということばが動く。「意味」は「目的語(目的地/到達点)」のようにも見えるが、「意味」そのものが自分自身を手探りしているということも考えられる。「意味」が主語になって、何かを「探り求める」。
 これでは何が何だかわからないことになるが、こういう状態を「盲者」という「比喩」に託しているのだ。
 この「盲者」に「逞しい」という形容詞がついていることに注目しないといけない。「逞しい」には嵯峨の「理想(願い)」がこめられている。
 何もわからず「手探り状態」というのは、不安であるが、それが「弱い」ものであっては困る。「逞しい」ものであってほしい。「探り求める力」は「強い」ものであってほしい。

その地方のそれが唯一の人間通過の記録である

 「記録」は「消えない力」のことである。
 何かを「探り求めれる」とき、その痕跡は、「記録」となって残る。「ことば」として残る、と読んでみたい。

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9 (誰にも読めない文字を書こう)(嵯峨信之を読む)

2018-06-09 10:55:54 | 嵯峨信之/動詞
9 (誰にも読めない文字を書こう)

誰にも読めない文字を書こう
その一行のどこかにこつそり傷をかくしておこう

 「読めない」ならば「隠す」必要はない。けれど「読めない」を「隠す」と言いなおされる。
 ほんとうに動いているのは「書く」という動詞なのだ。
 「その一行のどこかにこつそり傷をかくしておこう」は「その一行のどこかにこつそり傷をかくして書こう」である。「二重構造」で、「読まれる」ことを拒んでいる。
 もし誰かが「文字」そのものを解読したとしても、ただ読むだけではわからないように「書く」。
 いや、そうではなく、この詩を動かしている基本動詞(キーワード)は「読む」なのだ。
 ことばは「書いた」ときに生まれるのではない。「読まれた」ときに動き出す。生まれる。
 だから、詩は、こう展開する。

それを解読したただ一人の男が死んだ
それから大きな砂漠が
ぼくの心のなかに広がつた

 「死んだ」「広がつた」と過去形で書かれているが、「死んだら」「広がるだろう」と未来形で読むといい。
 詩は書いた人のものではなく、読んだ人のもの。読んだ人が「読み解いた」ことが詩である。嵯峨は、嵯峨自身が読み解いた詩を、彼の詩のなかで引き継いでいる。「読めない文字で書く」ということが詩だと言っている。





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8 (一つの名を呼びつづけて)(嵯峨信之を読む)

2018-06-08 10:55:04 | 嵯峨信之/動詞
8 (一つの名を呼びつづけて)

一つの名を呼びつづけて
日の果てに来た
驚いてひきかえそうとした

 「日の果て」は「比喩」である。あるいは「仮の目印」である。「日」そのものに「果て」はない。「日」は「時間」だからである。
 「一つの名を呼びつづけて/一日は終わった」と書かなかったのはなぜなのか、なぜ「果て」という「比喩」をつかうのか。
 「果て」は名詞だが、動詞にするとどうなるか。「果てる」である。
 一行目の「名を呼びつづける」の主語は書かれていないが「ぼく」である。その「ぼく」を主語として引き継いで二行目を言いなおすと、「ぼくは日の果てに来た」であり、この「比喩的表現」をさらに言いなおすと「ぼくは日をつかい果たしてしまった」になる。「果て」は、そうとらえなおすことができる。
 でも、嵯峨は「果て」と書く。
 「果て」は仮のもの、「頭」で設定した目印に過ぎない。だから、そこから「ひきかえす」という動きをこころみるが、そのときの「ひきかえす」は肉体の運動ではなく「頭」の運動である。「肉体」ではなく、「論理」が動く。

時のながれに逆らいながらぶざまな恰好で押しながされる

 時は未来へ向かって流れ続けるだけのものだから、過去へは引き返せない。そのことを、こう表現している。「頭」のなかの「自画像」である。
 一方に「現実の姿」があり、他方に「頭の中の姿」がある。その二つは一致しない。これがいつでも起きることだが、その不一致が特に気になるのが「青春」というもの。
 その不一致を描き出すのに、嵯峨は、どういう「動詞」をつかっているかに目を向けると、詩が、深いところで動く。
 「果てる」は「果たす」。「果たす」は「実現する」。嵯峨には、「一つの名を呼びつづける」ことで「実現したいこと(果たしたいこと)」があった。そして、それは「果たされなかった」。




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7 (時が雪に消されて)(嵯峨信之を読む)

2018-06-07 10:54:36 | 嵯峨信之/動詞
7 (時が雪に消されて)(嵯峨信之を読む)

時が雪に消されて
ぼくは道に迷う

 これは

道が雪に消されて
ぼくは迷う

 と言いなおした方が、「論理的」である。雪が降り積もると、「道」と道以外の区別がなくなる。そこが「平原」のような人の気配のないところなら、特に迷ってしまう。
 だが嵯峨は「道」と書かずに「時」と書いている。
 「道」は「方向」を表わしている。「方向」がわからなくなることを、「迷う」という。「時」における「方向」とは、「未来」と「過去」である。「時」のなかで「迷う」とは、どちらが「未来」かわからなくなるといこと。あるいは、この「方向」で「未来」が切り開けるかどうか、わからなくなること。

 この「時間」と「道」との関係は、「道」を「言う」(ことば)として、とらえなおすこともできる。「何かを言う(ことばにする)」とは、精神に「方向性」を与えることである。ことばにすることで、精神の動きがわかる。動いていく先が決定する。
 だから、この詩の二連目に「言葉」が出てくる。

ぼくが生きのびるには
記憶の中の言葉を追うことしかない

 「記憶の中」とは「過去」である。「過去」の「言葉」をたずねて、そこから「方向性」を探しなおす。それが「未来」へ突き進むことにつながる。
 嵯峨は、そういうことを考えている。



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6 (ぼくは何処までも歩いていつた)(嵯峨信之を読む)

2018-06-06 10:51:40 | 嵯峨信之/動詞
6 (ぼくは何処までも歩いていつた)

ぼくは何処までも歩いていつた
長雨で水面が重く膨らんでいる川に沿つて歩いた

 「歩いたいつた」「歩いた」と「ぼく」の動きが書かれているが、ここにもうひとつ「動詞」がある。
 「重く膨らんでいる」。「川」を修飾することばだが、それは同時に歩いている「ぼく」の気持ちを表わしている。「重く膨らんでいる」の「重く」は「膨らんでいる」を補足しているのだが、「主語」にも見える。「重さ」が膨らんでいる、と読むことができる。そう読んだ方が、さらに「ぼくの気持ち」に重なる。
 気持ちの中に「重いもの」があり、それは「膨らんでいる(膨らんでくる)」。だから、「歩く」のだ。何をしていいかわからない。ただ「歩く」。「何処までも」が暗示しているように、「到達点」はない。
 「川に沿つて」歩くことは、実は、「ぼく」そのものに添って歩くことだ。
 「川」は「ぼくに沿つて」流れている。
 歩けば、その隣に、川が流れている。
 「ぼく」と「川」は「一体」であり、「歩く」と「流れる」も「ひとつ」である。だからこそ、

矢のような流速はぼくが泳ぎわたるのを強く拒んでいる
その長途の歩行記録はどこにも見えない

 「一体」だから「わたる」ということはできない。また「一体」だから「歩行記録」もない。客観化できる「地理」がない。ただ「歩く」という動詞だけがある。
 「ぼく」が「自動詞」として完結する。
 これを「孤独」と言う。

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「改憲案」の先取り(拡大解釈)

2018-06-05 12:04:29 | 自民党憲法改正草案を読む
「改憲案」の先取り(拡大解釈)
             自民党憲法改正草案を読む/番外216(情報の読み方)

 森友文書の改竄を巡る財務省の処分は、甘すぎる。このことについては多くのひとが書いているだろうから、書かない。違う視点から書きたい。

 自民党の改憲案に「緊急事態対応」がある。
 ふたつの部分からなっている。「国会に関する4章の末尾に追加」と「内閣の事務を定める73条の次に追加」である。今回問題にしたいのは「国会に関する4章の末尾に追加」の部分である。
 現行憲法と「追加条項」をつづけて読んでみる。

(現行憲法)
第64条 国会は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため、両議院の議員で組織する弾劾裁判所を設ける。
2 弾劾に関する事項は、法律でこれを定める。
(追加部分)
 64条の2
 大地震その他の異常かつ大規模な災害により、衆議院議員の総選挙又(また)は参議院議員の通常選挙の適正な実施が困難であると認めるときは、国会は、法律で定めるところにより、各議院の出席議員の三分の二以上の多数で、その任期の特例を定めることができる。

 これは、何度読んでも「つながり」が悪い。
 64条は「弾劾裁判」に関する条項だ。趣旨は、日本は「三権分立」制度を採用しているが、だからといって「裁判官」の「独断」を許しているわけではない。国会でコントロールできるようにしている。そのことを定めているのが64条である。
 このあとに、「大規模災害」のときには選挙を省略し、衆院、参院両議院の任期を延長できるというのは、どうもおかしい。
 ここにこの「条項」が追加されるは、「弾劾裁判所」をいつでも開けるようにするためである。国会議員の「任期」が切れていれば、当然、「国会」は開かれないし、「弾劾裁判」も開かれない。新しい議員が選ばれ、国会が開かれたあと、国会で「弾劾裁判」が開かれることになる。こういう「手順」を自民党は阻止したいのだ。
 たとえば「自衛隊は違憲である」「公文書は、一字一句改変してはならない」という判断を裁判官が下したとする。それは政府(安倍)にとって不都合である。「弾劾裁判を開いて、罷免させてしまえ」ということをしたいのだ。そういうことをするためには、「国会」はいつでも開かれていないといけない。
 「大地震その他の異常かつ大規模な災害により」と自民党の案は書いているが、詳細が明記されていない「その他」に、政府(安倍)の判断を「違憲」と指摘する裁判官の登場が含まれているのだ。それは「政権(安倍)」にとって「大規模な災害」になる。なぜなら、国民は「司法が安倍のやっていることは違憲(違法)だと判断した」と安倍批判を展開できるからだ。
 安倍はいつでも裁判官を罷免するための「手段」を握っていたいのだ。
 支配したいのは裁判官だけではない。検察も支配したい。そして、それは実際に着々と進んでいるのだろう。
 大阪地検はすでに支配されている。「佐川を訴追したら、左遷するぞ」とは明確に脅さないけれど、そういう「雰囲気」をつくりだす。「忖度」を促す。いまの「地位」にいたかったら、政権に都合のいい「判断」をしろ、というわけである。

 自民党改憲案は、「先取り実施」されている。そしてそれは「拡大先取り」という形で実施されている。

 現行憲法の「国会議員の任期」は次の条文に定められている。

第45条 衆議院議員の任期は、4年とする。但し、衆議院解散の場合には、その期間満了前に終了する。
第46条 参議院議員の任期は、6年とし、3年ごとに、議員の半数を改選する。

 この条文のなとではなく「弾劾裁判」について定められたあとに、「緊急事態条項」が追加されている「理由(狙い)」を考えてみる必要がある。

 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
クリエーター情報なし
ポエムピース
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ウェス・アンダーソン監督「犬ヶ島」(★★★★)

2018-06-05 11:30:51 | 映画
ウェス・アンダーソン監督「犬ヶ島」(★★★★)

監督 ウェス・アンダーソン 出演 犬のぬいぐるみ、モノクロアニメ

 おもしろそう(予告編)、おもしろい(本編)。
 でも、どういえばいいのかなあ。

 最初から、最後まで「違和感」がある。「異質」を感じる。まあ、ストップアニメーションなのだから、「リアル」とは違う。その「違和感」か。しかし、「リアル」ではないからこそ、「本質」がわかるというか、刺激的という感じもあってねえ。「本物」じゃないから、想像力が「本物」をつくりだしていく、という感じなんだけれど。
 近未来なのに、レトロな昭和の風景。テレビなんか、液晶じゃなくてブラウン管だからね。ゴミの島が、色彩的にとても落ち着いているとか。
 で、ストーリーの後半で、私は、あっと驚いた。
 主役(?)の犬は、当然のことだから犬なので「兄弟」がいる。たいてい、犬は複数の子どもを産む。その「兄弟」が途中で「任務」を交替する。それまでガード犬だった方がノラに、ノラだった方がガード犬に。これは「交替」というよりも、「引き継ぎ」と読み替えればいいんだ。
 「引き継ぎ」をキーワードにして映画を見直すと、いろいろなものが見えてくる。
 ウェス・アンダーソンは「映画」から何を引き継ぎ、何を私たちに手渡そうとしているのか。
 随所に黒沢明の映画を思い出させるシーンがある。遠くのゴミの山の上に立っている犬とかね。音楽とか。さらには、「恋愛」シーンのぎこちなさというか、つつしみ深さというのは黒沢映画を見ている感じがするなあ。北斎の浮世絵の簡潔なのに激しいリズムがあるところとか。こういう「文化」そのものを「引き継いでいる」。「ものの見方」を「引き継ぎ」、それを「映画」として新しく生み出している。これが、この映画なんだね。ストーリーとは関係ない相撲なんかも、肉体が表現する「定型」の美しさの象徴なんだろうなあ。
 でも、どんなときでも「引き継ぎ」というのは、むずかしい。時代が違う。言い換えると「時代が要求するもの」が違う。何らかの「変化」をつけくわえないと、「引き継ぎ」は「破壊」になってしまう。バランスが求められる。それを、どうやって形にするか。ウェス・アンダーソンは「色彩」のなかで「統一」してしまう。「色彩」として、「新しい動き」を生み出している。どの映画でもそうだが、ウェス・アンダーソンの「色彩」は不思議な「統一感」がある。「色彩」の「統一」のなかに、「引き継ぎ」をのみこんでしまうといえばいいかなあ。一種の「力業」だ。

 まあ、こんなことは、どうでもいいんだけれど。
 でも、私がいちばん感動したのは、この「引き継ぎ/交替」に関係するシーンだから、やっぱり「どうでもいいこと」ではなく「重要」なことなのだろう。
 私がうれしいなあ、このシーンいいなあ、と思ったのはガード犬がノラになって、神社の縁の下で家族で暮らすシーン。人間のことなんか気にしていない。妻がいて、子どもがいて、それだけで満足。ノラといっても、神社なので(?)神主が食べ物をもってくる。子どもには小さい器。親には大きい器。小犬は自分たちの「境遇」なんて理解しない。運ばれてきたフードを無心に食べている。それを親は自然なこととして見つめている。「こういう暮らしはいいよなあ」と二人(二匹?)で、ことばも交わさずに感じている。
 これって、一種の「理想」だね。
 ここで「引き継がれているもの」は、家族がいっしょに生きている、という事実。ほかのことは気にしない。家族以外のだれかを「守る」なんて、がんばってすることではない。

 ひるがえって。
 この映画に描かれる「暴君」。「法律」で人間と犬を縛ろうとしている。「法律(政治)」が気になる。
 これは変なことなのだ。
 「法律」なんて何も知らなくも、「社会」が生きている人間を守る、というのが「理想」が実現された世界だろう。「法律」を知らないと他人に支配されてしまう、「法律」を知っている人間だけが「利益」を受ける、というのはおかしい。
 これって、いまの日本だね。
 文書を改竄する。訴追されるかもしれないから、なぜ改竄したのか、答えない。でも、その改竄が結論に影響しないから改竄ではない。法に問われない。それを知っている人間だけが「訴追されるかもしれないから答えない」と言って逃げ抜き、改竄を利用した人間も、「改竄は他人がしたこと」ということで法に問われない。
 「法」を知らずに、「でも、こんなことしちゃいけないよなあ」と思って生きている人間は、どんどん「下層」に追いやられる。支配されて生きていくしかない。
 困ったときに助けてくれるのが「法律」や「憲法」であるべきなのだ。
 映画にもどっても。
 犬が病気だから、犬を「ゴミの島」に追放するというのは「法律」としておかしい。犬が病気なら犬の病気を助けてくれるのが「法律」であるべきなのだ。実際に、そのために動いている人間も描かれている。
 こういう「人間の基本」も引き継いでいかないといけない。

 ちょっと映画そのものからは外れる感想になってしまった。

(2018年06月01日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン4)

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