詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

菅の言い分の「垂れ流し」は公害である。

2021-04-14 08:23:37 | 自民党憲法改正草案を読む

2021年4月14日の読売新聞。

福島第一 処理水 23年めど海洋放出…飲料基準以下に希釈
政府は13日、東京電力福島第一原子力発電所の敷地内にたまる「処理水」について、海洋放出する方針を正式に決めた。事前に大量の海水で薄め、放射性物質の濃度を飲んでも健康に影響がないとされる国際基準よりもさらに引き下げる。東電は2年後の2023年をめどに放出を開始し、期間は30年以上の長期に及ぶ見通し。
↑↑↑↑
この記事の不可解さ。
海の水で薄めた後、海に放出する。
このときトリチウムの総量は減るのか。
そのまま海に垂れ流すときと、総量が変わらなければ「薄めた」というのは見かけのこと。
チッソは水銀を垂れ流し続けた。
きっと「薄めて排出した」と言うだろう。
「薄めて」排出したものが、どこで、どんなふうに蓄積され、それがどう影響するか、その「実証」がおこなわれた後でなければ、安全とは言えない。
だいたい、だれが汚染水を陸上にためておくことに反対しているのか。
福島県民か。日本国民か。
だれが海へ放出することを望んでいるのか。
何のために望んでいるか。
新聞が追及すべきことは、政府の言い分に疑問点がないかどうかである。
菅が言っているままに(あるいは、耳障りの言いように「希釈」して)、それを垂れ流しているのでは「公害」である。
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藤井晴美『マスキング』

2021-04-13 11:19:06 | 詩集

藤井晴美『マスキング』(私家版、2021年03月01日発行)

 藤井晴美『マスキング』の「マスキング」に、こういう行が出てくる。
<blockquote>
自分が書いたものを別にわからなくてもいいじゃないか。ましてや自分でいちいち納得しながら書いている輩なんて詩人じゃありませんよ。クラッカーパリパリかパーンかパクリ。
</blockquote>
 「わかる」をどう定義するかはむずかしい。なぜなら「わかる/わからない」ということを誰もがわかっているからである。誰もわからないことを「定義」するのは簡単だ。先に行った方が「勝ち」なのだ。「勝ち」が「価値」にかわり、定義として(?)定着する。
 この「自分が書いたものを別にわからなくてもいいじゃないか。」が、まさに、それにあたる。そして、それが詩である。
 これは、別なことばで言い直せば、「わからない」存在は、それ自体で「絶対」だからである。「定義(意味)」を必要としていない。だから、どんな「意味」を付け加えられても平気なのである。そんなものはなかったことにできる。そう呼びたいなら、そう呼べばいい。私は知らない。そこにそのことばがあるだけ。
 「有熱者」には、こんな行がある。
<blockquote>
肛門が排便だけに特化してしまうと、周りは静かになった。

アトムのよだれ。

おれがおれであったこと、
これは何なのだ。
</blockquote>
 何でもない。
 藤井は「特化」ということばをつかっているが、藤井が出会ったものを「特化」すること、彼以外の誰のものでもないもの、藤井のものにしてしまうことが「特化」である。
 ここに書かれていることばは、誰もが知っていることばである。だから、そこに「特化」を見出し、ここが他の人の定義(意味/ことば)と違っていると指摘することはむずかしい。「ことば」としては書かれていない「切断と接続」(言い直せば、文脈)が、なんだか奇妙である。そのために「わからない」(なぜ、そういうことを書いているかわからない)ということが起きるのだが、そういう「わからない」が噴出した瞬間に、そこに藤井があらわれてくる。藤井以外の人間が消えてしまう。
 人間存在が、藤井に「特化」される。
 「これは何なのだ」に対する答えがあるとすれば、それは「特化」である、つまり詩であるというのが、私の、とりあえずの「答え」であるが、もちろんそんなものに「意味」などない。つまり、藤井はそれを受け入れる必要はない。「答え」などというものは、読者の「誤読」にすぎない。
 この「特化」は、また、こう言い直される。
<blockquote>
詩とは詩人が書いたものを言う。それ故詩人は絶対詩人でなければならない。

勃起的に笑い出すぼく。
</blockquote>
 「特化」は「絶対」である。たとえば「勃起的に笑い出すぼく。」は、「特化」された存在、「絶対」に到達した存在である。でも、その「絶対」は「ぼく」に限定されない。「笑い」が「絶対」であることもあるし、「勃起」が「絶対」であることもある。ここで、「わかる」ためにいちいち何かを説明し始めると、もうそれは「絶対」を逸脱してしまう。「勃起的に笑い出すぼく。」という接続と切断の中に「絶対」があふれだすのである。
 この「絶対」を「自由」と呼べば、ベルグソンへとつながる。
 でも、そういう「意味/定義」ほど味気ないものはない。
 ベルグソンなどと書いてしまったのは、私がまだ病院で本を読んでいた時間から脱けだしていないからである。
 

 

 


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クロエ・ジャオ監督「ノマドランド」(★★★)

2021-04-12 08:35:53 | 映画

クロエ・ジャオ監督「ノマドランド」(★★★)(2021年04月21日、中洲大洋、スクリーン3)

監督 クロエ・ジャオ 出演 フランシス・マクドーマンド

 フランシス・マクドーマンドが主演だし、アメリカで評判になっている映画でもあるので見に行った。アメリカの現実を知るという意味では貴重だったが、日本とどれだけ重なり合うものをもっているか。ちょっと疑問だ。つまり、私の現実とどうかかわってくるか、というところで親身に受け止められない部分がある。私は車を運転しないので、車を「ホーム」として動くというところで、まず、私との違いを実感する。この違いを、乗り越えることができない。
 気に入ったシーンが二つある。ポスターにもなっている海のシーンと、ラスト近くの砂漠(荒野)のシーン。この二つには共通点がある。海のシーンは、姉の「ホーム=ハウス」の安定した姿に接したあと、やっぱりここにはいられないと思い、ひとりで姉の家をあとにする。誰にも告げない。そして、海へ来る。荒れている。荒野のシーンは、かつて住んでいた「社宅/ホーム=ハウス」の裏庭につづいている。どこまで行っても、何もない。(遠くに山はあるけれど。)海と同じだ。共通しているのは、何もない、荒れている、ということではない。「ホーム=ハウス」に触れたあと、「ハウス」を捨てて、何もないところへ行くという行動が共通している。「ハウス」はない。しかし、彼女には車という「ホーム」がある。そして、それは言い直せば「記憶」である。
 象徴的なシーンが、皿が割れるシーン。祖父の代からつたわる大事にしていた皿。それが、友人の不注意で割れてしまう。それをフランシス・マクドーマンドは、接着剤で復元する。「できた」と安心する。「ホーム=記憶」は、彼女の肉体そのものになっている。改良を重ねて、自分の暮らしにあうようにしてきた車は、もはや彼女の肉体だから、新しい車に買い換えたらと言われても、それを手放すことはできない。割れた皿も、割れたからといって捨てるわけにはいかない。それは彼女の「肉体」だからだ。
 この「肉体」を認識させてくれるのが、荒れた海であり、何もない荒野なのだ。それは非情である。非情であるからこそ、彼女の肉体のなかに生きている「情=記憶」を厳しく屹立させてくれる。彼女は、そういうものが好きなのだ。何よりも、記憶を生きているのだ。
 この感覚は「ノマド」と呼ばれる人に共通するものかもしれない。彼女の友人は、燕が巣をつくっている川岸を思い出す。大量の燕の巣。群れ飛ぶ燕が川面にうつる。その美しさを忘れることができない。そこには、やはりひとは、彼女ひとりしかないのだ。
 なるほどなあ、と思う。
 しかし、一方で、それに匹敵するような非情な自然は、日本には少ないかもしれない。日本は狭すぎる。すぐ「人家」が目に入る。個人に絶対的孤独にたたきつけ、さあ、自分の記憶=肉体だけを頼りに生きていけるかと迫るような広大で荒れた自然は少ない。それに、日本は車でどこまでも移動できる広さそのものがない。周りが海で、1000キロ走れば陸はなくなる。いや、1000キロも走らなくても、海は近い。アメリカにとって(少なくとも、この映画に登場するひとたちにとって)海とは、太平洋か大西洋であり、それは砂漠(荒野)と同じようなものなのだ。
 などなど、と思う。それにしても……。
 けがのため、この映画は私にとっては今年初めての映画になった。2時間椅子にすわっていられるか不安だったが、なんとか乗り切れた。しかし、映画の見方を忘れているかもしれないなあ、とも感じた。フランシス・マクドーマンドは大好きな女優だが(「ビルボード」よりも「ファーゴ」の方が好き)、顔は痩せているのに、下半身は大きいなあ、とか、荒野で排泄するとき、わざわざ車から離れたところまで行って排泄するのかなどと、変なところが印象に残った。もしかすると、その変なところにこそ、この映画では見逃してはいけないものがあるのかもしれない、という気もする。それが「映画の見方を忘れてしまった」と書いた理由。この映画を評価するなら、その排泄シーンとか、レストランの厨房のこびりついた肉をヘラで削ぎ落とすシーンとか、アマゾンでの働き方とか(そういう細部の描き方)に注目しないといけないだろうなあ、と思う。「ノマド」は単に移動する人間ではなく、同時に労働する人間だからである。私は、その部分を半分見落としている。映画の見方を忘れてしまっている、と、やっぱり思う。

 

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鈴木ユリイカ『群青くんと自転車に乗った白い花』

2021-04-11 09:23:47 | 詩集

鈴木ユリイカ『群青くんと自転車に乗った白い花』(書肆侃侃房、2020年10月31日発行)

 

 

 01月08日に、鈴木ユリイカ『群青くんと自転車に乗った白い花』の感想を書くつもりでいた。珍しく雪が降った日で、書く前に雪見、と思って家を出た途端に転び、救急車で病院へ、そのまま入院。やっと退院してきてみると、詩集に付箋がいくつか挟まっている。しかし、何を書きたかったのか、ぜんぜん思い出せない。ことばというものは、生き物だから三か月も放置しておくとちがった具合に育ってしまうのかもしれない。
 「娘の娘の娘たちI Kに」という作品に、こんな行がある。


考えてもごらんよ かつて
あなたもわたしも誰かの娘の娘の娘たちだった そして
あなたもあの娘たちのとし頃には高円寺の四畳半を脱出し
長い髪のほかになにももたず 海を渡り
幾つもの国々を若い力で歩いて行った

 入院中に「考える」と「思う」についていろいろ書いた。そのせいだろうけれど、この「考えてごらんよ」が強く私に迫ってきた。あ、そうか、鈴木は「考える人」だったのだ、と感じた。
 考えることで世界と向き合う。考えることで世界へ出て行く。これはしかし、最初からある考えを持って世界と向き合うことではない。だから、こう言い直そう。鈴木は世界と向き合うことで考える。世界へ出て行くことで考える。出て行くときは、「なにももたず」、ただ出て行くのである。ここに鈴木の力がある。正直がある。
 「若い力」とは、そういうものであろう。
 世界と出会い、そこで考えるということは、世界との出会いのなかで自分自身を作り上げるということである。
 鈴木の詩(ことば)はスケールが大きいが、その大きさは、最初に「考え」が設定されていないからである。閉じていないからである。自分の考えにあわせて世界を見つめる(切りとる)のではなく、世界のなかで自分の考えをつくる。そのためにことばを動かす。
 引用した前の連には、こう書いてある。

冬のあいだじゅう 苦しくひびわれ 雪や寒風にたたかれ続けた
木の枝からもいだ蜜柑がさっと開いたように
急にわたしの目の前が明るくなった
こんなふうに未来がやってくるとは思ってもみなかった

 ここには「思う」という動詞が書かれている。「思い」を突き破ってあらわれる世界が「未来」である。そして、その新しい「世界=未来」が見えた瞬間にこそ、鈴木は「考える」のである。「思い」という漠然としたものを振り切って、「考える」。考えて「歩く」、つまり、行動する。
 「考え」が「行動」を律する。それが人間の生き方である。そこに「自由」がある、と書き直せば、それは私が入院中に読み直したベルグソンに通じる。

 

 

 

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森鴎外「灰燼」

2021-04-09 11:13:30 | その他(音楽、小説etc)

鴎外選集 第四巻 「灰燼」

 「灰燼」は奇妙な作品である。タイトルが何を意味しているか、わからない。途中で終わっている、という感じだ。たぶん、書けなくなってやめたのだ。この、書けなくなったらやめてしまう、というところにも私は鴎外らしくていいなあ、と思ってしまう。
 主人公は「歴史」を書こうと思っている。そして「神話」とどう折り合いをつけようかと悩んでいる。神話は嘘、切って捨てたいが、そうすることで、世間を納得させることができるか。
 この主人公は、鴎外自身と言っていいだろう。
 途中に、こんな文がある。56ページ。

節蔵は何の講義を聞いても、学科の根底に形而上的原則のようなものが黙認してあるのを、常識で見出して、それに皮肉な批評を加えずに置かない。それが工藤の講義には恐れ入っている。事実を語り、事実を示すのみなのに、乾燥無味に陥らないからである。

 この「事実を語り」以降が、鴎外の「歴史」を意味している。人間の事実を、行動をそのまま語る。形而上学を付け加えない。
 「渋江抽斎」だね。
 人間が動けば、そこに自然に思想が動く。この自然な思想を「精神」と呼べば、石川淳に繋がる。石川淳が鴎外を尊敬する理由もわかる。
 石川淳は「精神の運動の速さ」と言ったが、その速い遅いは、事実の動きを描き出すことばに嘘があるかないかによって決まる。嘘がなければ、ことばは滞らない。おのずと速くなる。正確(正直)は、すばやく精神に届くのである。「精神の運動の速さ」とは、事実のなかからあらわれた精神が、人間の精神に届くまでの時間の速度、充実感のことである。
 このとき、ことばの運動の内部でも劇的なことがおきる。75ページ。

 現に書いている句が、頭の中にいる間、次の句の邪魔をしていたのに、それが紙の上にぶちまけらてると同時に、その次の句が浮き出してくる。書いている物に独立した性命があって、勝手に活動しているようで、自分はそれを傍看しているかとさえ思われる。

 事物の中に精神が充満し、横溢し、自由に動き出す、と読みなおせば、ベルグソンと石川淳と鴎外が繋がり、瞬間的に炸裂する。

 「鎚一下」にも鴎外その人をおもわせる主人公が出てくる。H君という、いわば無名のひとが出てくる。その人は無名だが、他人との向き合い方が正直である。「一人一人に人間としての醒覚を与えようとしている」(152 ページ)。そして、

己も著述家になろうと思っていて見れば、いつかこんな人の生活を書いて見たいと云うのである。

 渋江抽斎がH君のような市井の人ではないが、やはり正直な生活を生きた人である。その正直は、抽斎が死んだあとも周囲のひとの間で生きて行く。そこに鴎外の信じた「歴史」がある。

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石川淳「無尽燈」「焼跡のイエス」

2021-04-08 10:51:44 | その他(音楽、小説etc)

石川淳選集 第一巻 「無尽燈」「焼跡のイエス」

 コルタサルは「意識の流れ」というより「思いの流れ」を書く。意識、思いに似たことばに「精神」ということばがある。
 石川淳は「精神」ということばを好む。「無尽燈」に、こんなことばがある。297ページ。

人間精神がいかに美しいはたらきをするか、まのあたりに知ろうとすれば、精神が物質とたたかってついにそれを征服したところの形式に於いて見とどけるほかない。精神の運動はいつも物質の運動よりも速いだろう。また精神の達すべき目的は、物質の達すべき目的よりも、かならずや高次の世界にあるだろう。

 精神と物質を対比もさせている。精神を物質よりも高次元にあるととらえている。
 そういうことよりも私が注目するのは、「運動」ということばと「速い」ということばである。
 精神が物質よりも上というのは形而上学ではよくいわれる。
 石川淳は、その根拠を「運動の速さ」で把握する。速く運動するものが、より高次の世界に到達するのである。のろのろしていては、低次元にとどまる。
 石川淳は、巷の、いわゆる低次元の人間の行動を描きながら、それを突き破る精神の速さ(強さ)を引き出す。物質から精神が噴出する瞬間を描く。
286ページには、こんなことばもある。

 きもちという不潔なものを大事がって、

 石川淳には「きもち」は不潔である。石川淳がコルタサルをどう読むか知らないが、「思いの流れ」というようなことばでは評価しないだろう。コルタサルは、物質と対比させて精神の運動を描くというようなことなしない。

 「焼跡のイエス」には、外見上、非情に不潔な少年が登場する。物質的に不潔である。しかし、少年は物質的な不潔を超越している。331ページ。

ボロとデキモノとウミとおそらくシラミとをもってかためた盛装は、威儀を正した王者でなくては、とても身につけられるものではない。

 その少年は、王の精神、焼け跡のイエスの精神を具現化している。ボロ、デキモノ、ウミ、シラミの次元を超越し、ものすごいスピードで運動している。
 それが主人公を恍惚とさせ、戦慄させる。だからこそ、336ページ。

きのうのイエスの顔をもう一度…まぢかに見たいとおもった

 それにしても、作家の文体はおもしろい。ひとりひとりが独自の文体を生きている。日本語、スペイン語というくくりではなく、コルタサル文体、ジョサ文体、石川淳文体として向き合わないと何が書いてあるかわからない。

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フリオ・コルタサル「舟、あるいは新たなヴェネツィア観光」

2021-04-07 10:52:46 | その他(音楽、小説etc)

フリオ・コルタサル「舟、あるいは新たなヴェネツィア観光」

短篇集「通りすがりの男」(現代企画社)のなかの一篇。作品の登場人物(三人のうちの一人)が、一度書かれた作品に対して自分の考えを付け加えるという、ちょっと剽窃したくなるような、いかにもコルタサル的作品。からまった思いが、もう一回絡まるのか、解きほぐされるのか。思いだから、絡まっても解きほぐされても同じことだけれど。
そのなかに、時間についてのやりとりがある。118-119ページ。(途中、省略含む)

「愛というのは、思い出よりも、思い出を作ろうとすることよりももっと強いものなんだ」
「私は時間が怖い、時間は死なの、死がかぶっている、ぞっとするような仮面なのよ。私たちは時間を敵にまわして愛し合っている」
「僕のほうは自分の喜びや気まぐれに合わせて時間を決めることができる。列車だって乗りたきゃ乗るし、いやならやめるだけだ」
「ええ、そうなの、違うわ、時間というのは・・・」

たぶん男のことばがコルタサルの時間論である。自分の気まぐれ、よろこびが噴出する充実した一瞬。計測できないいのちの横溢。
それを言い直せば「愛」になる。
この二人の会話に対して、もうひとりは「違う」と言うが、どう違うかはことばにならない。
そして、同様に、いつでも「ことばにならない思い」というものがある。
最初に小説が書かれたとき、一人の思いは書かれなかった。だから、あとから登場人物が自ら、そのときの思いを、いま、思い出しながら書き加える。
そして。
では、そのとき完成されるのは、過去(思い出)の時間なのか、それとも思い出しているいまの時間なのか。
判別できない。特定できない。何もかもが、時制の束縛を裁ち切って噴出する。ことばにはならない。それが「・・・」なのだ。

小説だから、もちろん時系列もあれば事件もある。でも、コルタサルが書くのは、事件ではなく、ストーリーではなく、ただ、ある瞬間に思いが横溢し、それはすべてを飲み込んでゆくという人間の仕方なのである。
これは、やっぱり、ベルグソン的と私は思う。
パリ的だ。ブエノスアイレス的というよりも。ブエノスアイレスを私は知らないのだけれど。

「光の加減」は、上に書いたこととは関係ないのだが、この光の好みは、最近のウッディ・アレンの女の描き方に通じるなあ、と思う。揺らぐ美しさ。思いも、揺らぐから美しいのだろう。

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バルガス・ジョサ「子犬たち」

2021-04-06 09:10:44 | その他(音楽、小説etc)

フリオ・コルタサル「ずれた時間」
短編集「海に投げ込まれた瓶」のなかの一編。
幼なじみの姉の思い出。何年後に、二人は出会う。
その書き出しの方に、こう書いている。107ページ。

二度と体験できないことを書きつらねていると(略)なんの変哲もない記憶の内部に第三次元への通路が開け、必ずといってよいほど苦々しいものであるにもかかわらず渇望せずにはいられない連続性が生まれるように思われる。どういうわけか、ぼくにはくり返し思い出すことがいろいろあった。

書くこと(くり返し思い出すこと)から生まれる「連続性」。この連続性は、ベルグソンの持続につうじる。
そしてその連続性とは時間のことであり、繰り返し思い出すことでより緊密に、つまり充実したこころになる。この充実をベルグソンは「自由」と呼んでいると思う。
それは、完全に個人のものである。
ベルグソンは「物質と記憶」のなかで「私の身体」ということばを繰り返す。私の、を繰り返す。普遍的な哲学を書いているようにみえて、あくまで私にこだわっている。個人から出発する。哲学であると同時に、文学なのだ。

ベルグソンを思い起こさせることばは、ほかにもある。128ページ。

すべてはまだ夜の九時の純粋否定、翌日また仕事に戻ることへの億劫さの純粋否定であった。

この「純粋」。ベルグソンが主張しつづけた「純粋」。
さらに、同じ128ページ。

言葉はふたたび生で満ちあふれて、嘘であろうと、何ごとも確かでなかろうと、ともかくそれらの言葉を書きつづけたのだ。

「生で満ちあふれる」もベルグソンである。生で満ちあふれた連続性(維持)が、いわゆる「生きた時間」。それは数学的、物理的な、時系列、時計で計測できる時間ではなく、むしろそれを突き破る個人も内面の時間、自由な時間、時間の自由。
それは「南部都市高速道路」のように、自在に伸び縮みする。
この時間の不思議さを「ある短篇のための日記」では、「同時」ということばであらわしている。160ページ。

ぼくはとかく追憶に溺れがちで、同時に、それから逃れようとする。

矛盾。矛盾のなかには同時がある。そこでは異なる時間が出会い、新しい時間を生み出している。
思いの流れ、と呼びたいものが。
私は、ウルフよりも、コルタサルが好きだから、意識の流れということばを避けて、そう書くのである。

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石川淳「普賢」

2021-04-05 10:48:06 | その他(音楽、小説etc)

石川淳選集 第一巻 「普賢」

石川淳「普賢」は何を書いているか。これについては、私は関心がない。どう書いているか、なぜ書くか、のほうに関心がある。そもそも書くとは何か。
書き出しに、こういう行がある。82ページ。

かりに物語にでも書くとして垂井茂市を見直す段になるとこれはもう異様の人物にはあらず、どうしてこんなものにこころ惹かれたのか

「見直す」という動詞。書くとは、対象を見直すことである。同時に自分を見直すことである。
でも、何を見直す?
「異様」を見直す、普通の人とは違う部分を見直し、その異様の正体を明るみに出す、ということだろう。
しかし、その人物が異様でないとしたら。
むずかしいね。
物語にならない。その、物語にならないものを、さらに見直し、何かを探し出す。その装置が小説である。

これを、別なところで、別なことばで、こう書いている。92ページ。

恋愛に於ける悲劇とはそれがために人間学部堕落するからではなく、その翼に乗って高翔するに堪えない人間精神の薄弱に由来するものではないか。

恋愛に限らず、あらゆるにんげんの営みには「精神」がともなう。石川淳は、精神の高翔を書きたいのだ。どんな風にどこを飛ぶのか。
「恋愛」を「無謀な行為」と呼び、石川淳は次のようにも書く。185ページ。

かならずすべき一つの無謀なる行為はつぎに来るべき秩序ある行為をはらんでいるはずであり、そのはてに実を結ぶなにもないとすればそれはわたしの終焉だというのみである。

「つぎ来るべき秩序ある行為」は「精神」と読み替えることができる。
石川淳にとっては、「精神」は「行為」である。書くことは「精神の運動」である。

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ベルグソン「物質と記憶」

2021-04-04 10:32:06 | その他(音楽、小説etc)

ベルグソン全集2  「物質と記憶」

ベルグソン「物質と記憶」をどう読むか。
私は「一元論」として読む。
そして、その一元論の基本に「私の身体」を据えているところが、私のいちばん共感するところである。
共感と言っても、私の一方的誤読だとは思うが。
こう書いている。19ページ。

私がたんに外から知覚によって知るばかりでなく、内から感情によってもまたそれを知るという点で、他のすべてのイマージュからはっきりと区別されるイマージュがひとつある。それは私の身体である。

私自身は身体ということばは、めったに使わない。身体検査ということばが影響しているかもしれない。身体ということばには、計測可能というか、客観的尺度がつきまとっているようで、どうもなじめないのである。私は、肉体、という表現を好む。私の肉体、ことばの肉体という具合に流用もできる。もちろん水の肉体、木の肉体という具合にも。

ちょっと脱線するが、脱線でもないかもしれない 

私はこの「物質と記憶」を「時間と自由」とごちゃまぜにしてつかむ。そうすると「純粋持続」が「時間=肉体(私の身体)」として見えてくる。肉体の行動、行動する肉体の中から生まれる「自由」が、現在から横溢して「未来という時間」になるのだが、横溢つる現在とは、実は過去の潜在する可能性に他ならないから、未来とは顕在化する過去のことでもあり、その矛盾(?)を統合化するのが「私(の肉体/身体)」なのだ。

こういうことは、まあ、どうでもいい。
私が誤読/納得するのは、ベルグソンが「身体」という具体的なものを手放さず、常に具体的に語ること。別のことばで言えば、「生活」の哲学を指向すること。
哲学は、具体的な生活のなかにあってこそ哲学なのだ。

それにしても。
この「物質と記憶」には、「私の」という所有形容詞が非常に多い。私の、私の、私の、である。
私の、を省略して「身体」と言った方が一般的になるが、ベルグソンはそれを拒んでいる。あくまで「私の」である。
だから、私はこれを普遍的な一元論とは読まずに、あくまでも「ベルグソンの一元論」と読む。

で。
ベルグソンに向き合いながら「私の一元論」を要約すれば、私は私のことばの肉体が届く範囲を「世界」と考えている。
誤読は、私が把握している世界、私が交わっている(セックスしている)世界である。
だから、批評とは、ことばのセックスなのである。

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石川淳「山桜」

2021-04-03 10:25:38 | その他(音楽、小説etc)

石川淳選集 第一巻 「山桜」

「山桜」の書き出し。68ページ。

わかりにくい道といってもこうして図に描けば簡単だが、どう描いても簡単にしか描けないとすればこれはよほどわかりにくい道に相違なく、

これは象徴的なことばだ。
この小説は、わかりにくいくだくだとした文章に見え、読み終われば実に簡単なストーリーであり、簡単に書いてあるなあ、と思う。わかりにくいと思えた部分が、そういう意味だったのか、と思える。伏線が見えてくる、というのはこういうことをいうのかもしれない。
書き出しの続き、

今鉛筆描きの略図をたよりに杖のさきで地べたに引いている直線や曲線こそ簡単どころか、この中には丘もあるし林もあるし流れもあるし人家もあるし、

その丘や林、流れ、人家が伏線なのであり、それは時として伏線どころかいちばん大事な隠れた目的地だったりする。いいなおすと、地図の到達点とは別のものが人生には潜んでいて、それがストーリーを破って動くのである。
途中を省略して、書き出しの一文の終わり。

肝心の行先は依然として見当がつかず、わずかに測定しえたかと思われるのは二つの点、つまり現在のわたしの位置と先刻電車をおりた国分寺のありどころだけであった。

現在と現在をささえる過去。その二点を結ぶかたちで「わたしの位置」、わたしがあらわれる。
と要約すれば、これは小説のポイントにもなる。
石川淳の文章は、地図の周辺の、省略された林、流れ、人家というようなものを具体的なものものを具体的に描くことで、人物を肉体をもった存在にかえてゆく。主人公の思いを肉体に変えてゆくのである。

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石川淳「葦手」

2021-04-02 10:46:24 | その他(音楽、小説etc)

石川淳選集 第一巻 「葦手」

石川淳の文章は独特である。「葦手」の一文は長くて引用するのも骨が折れる。7ページ。(表記は一部変更した。)

神楽坂裏の小料理屋からしゃべりあって来た調子がまだ抜けず、わたしがつい高声になるのを、仙吉はいつもの癖の急に小さい眼を狡猾そうにきょろきょろと廻したのであろう、色眼鏡をこちらへきらりと光らせながらおさえるような手つきをして(略)

どこからが説明で、どこからが批評か、よくわからない(特に区別し、分析しなくてもいい)、具体的な描写である。
描写には客観的と呼べるものはなく、というか、私たちはどんな具体的なもの、たとえば「色眼鏡」さえ、批評(感想)をもってことばにしているから、そこにはどうしても、批評や説明がくわわっている。
石川淳は、それをうねるようにもりこみ、ことばを動かす。石川淳にとって現実とは、批評や感想が緊密に結び付いた世界なのである。
これを石川淳は「レアリテ」と呼び、ことばとの関係を言い直している。46ページ。

すでに書かれてしまった部分は一つのレアリテであって、それみずから強烈な生命力を持っているから、たとえ中途でその息の根をとめようとしても容易にくたばりそうもない形相を示している。

ことばは発せられたら、それ自身の生命力で生き抜く。石川淳は、その強烈な運動を追いかけて行く。
その対象が、いわゆる低俗なもの、男と女の色恋という、誰もが想像するとおりのものであっても、そこには批評のことばがからみあって、ことば自身のレアリテをもって世界を生み出しているとしたら、、、、。
47ページ。

わたしのもくろむのは、低空飛行で、直下に現ずるこの世の相をはためく翅に掠め取って空に曼荼羅を織り成そうという野心を蔵している

どんな通俗も、ことばの運動で曼荼羅に変える。
この野心をもって、石川淳のことばの運動は過激に暴走する。
ストーリーを追っていては、曼荼羅に出会うことはできない。石川がある行動を、どのようなことばで描写しているか、どうやってレアリテを実現しているか、読まなければならないのは、そこだ。

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フリオ・コルタサル「ずれた時間」

2021-04-01 10:41:51 | その他(音楽、小説etc)

フリオ・コルタサル「ずれた時間」
短編集「海に投げ込まれた瓶」のなかの一編。
幼なじみの姉の思い出。何年後に、二人は出会う。
その書き出しの方に、こう書いている。107ページ。

二度と体験できないことを書きつらねていると(略)なんの変哲もない記憶の内部に第三次元への通路が開け、必ずといってよいほど苦々しいものであるにもかかわらず渇望せずにはいられない連続性が生まれるように思われる。どういうわけか、ぼくにはくり返し思い出すことがいろいろあった。

書くこと(くり返し思い出すこと)から生まれる「連続性」。この連続性は、ベルグソンの持続につうじる。
そしてその連続性とは時間のことであり、繰り返し思い出すことでより緊密に、つまり充実したこころになる。この充実をベルグソンは「自由」と呼んでいると思う。
それは、完全に個人のものである。
ベルグソンは「物質と記憶」のなかで「私の身体」ということばを繰り返す。私の、を繰り返す。普遍的な哲学を書いているようにみえて、あくまで私にこだわっている。個人から出発する。哲学であると同時に、文学なのだ。

ベルグソンを思い起こさせることばは、ほかにもある。128ページ。

すべてはまだ夜の九時の純粋否定、翌日また仕事に戻ることへの億劫さの純粋否定であった。

この「純粋」。ベルグソンが主張しつづけた「純粋」。
さらに、同じ128ページ。

言葉はふたたび生で満ちあふれて、嘘であろうと、何ごとも確かでなかろうと、ともかくそれらの言葉を書きつづけたのだ。

「生で満ちあふれる」もベルグソンである。生で満ちあふれた連続性(維持)が、いわゆる「生きた時間」。それは数学的、物理的な、時系列、時計で計測できる時間ではなく、むしろそれを突き破る個人も内面の時間、自由な時間、時間の自由。
それは「南部都市高速道路」のように、自在に伸び縮みする。
この時間の不思議さを「ある短篇のための日記」では、「同時」ということばであらわしている。160ページ。

ぼくはとかく追憶に溺れがちで、同時に、それから逃れようとする。

矛盾。矛盾のなかには同時がある。そこでは異なる時間が出会い、新しい時間を生み出している。
思いの流れ、と呼びたいものが。
私は、ウルフよりも、コルタサルが好きだから、意識の流れということばを避けて、そう書くのである。

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