詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇162)Obra, Jesus Coyto Pablo

2022-04-16 16:45:28 | estoy loco por espana

Obra Jesus Coyto Pablo "lettres d'amour et de mal"

El WASHI, el papel japones, se utiliza en la obra de Jesus.
Y el trabajo de Jesús me recuerdo un poco a la "fabricación de washi" .
Las fibras de la madera siguen fundiéndose y agitándose. Las cosas se mueven antes de convertirse en papel. Se tarda largo tiempo.
Jesús está representando la memoria, pero la memoria también necesita tiempo para convertirse en memoria.
No sólo se eliminan las impurezas, sino que también hay impurezas que inevitablemente permanecen.
Las impurezas, sin embargo, colorean la memoria.
Las impurezas, por el contrario, crean sombras en los recuerdos puros.

Jesusの作品には和紙がつかわれている。
そして、Jesusの作品は、どこか和紙の「紙漉き」を思わせる。
まだ木の繊維が溶けて揺れ動いている。紙になる前のものが動いている。
Jesusは記憶を描いているのだが、記憶もまた記憶になるためには時間がかかる。
不純物が取り除かれるだけてはなく、どうしても残ってしまう不純物もある。
しかし、その不純物は、記憶を彩る。
不純物によって、逆に、純粋な記憶に陰影が生まれる。

 

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Estoy loco por espana(番外篇162)Obra, Joaquín Lloréns

2022-04-16 16:04:00 | estoy loco por espana

Obra Joaquín Lloréns Técnica. Hierro. 36x26x16 S. C

Los escultores utilizan materiales y crean nuevas formas.
Lo que vemos es esa nueva forma.
Sin embargo, cuando veo la nueva serie de Joaquín, pienso de forma diferente.
Ah, hay espacios que no sabía que existían hasta ahora.

Con su nueva serie de obras, Joaquín ha comenzado a crear nuevos espacios.
En una espacio que ha criado, hay muchos espacios invisibles. 
Y esos espacios se mueven de diferentes maneras como mucsica libre.
ES interesantisimo.


彫刻家は素材を活用し、新しい形を生み出す。
私たちが見るのは、その新しい形だ。
ホアキンの新シリーズを見るとき、私は、しかし違うことを考える。
あ、いままで知らなかった空間がある。

ホアキンは、新シリーズの作品で、新しい空間をつくり始めた。
空間の中にはいくつもの見えない空間があり、それは様々に動いている。

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石毛拓郎『ガリバーの牛に』(3)

2022-04-16 10:40:05 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(3)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 3篇目「ラドリオの恋」。石毛は1969年に吉岡実に出会ったらしい。

昼でも薄暗い 路地裏の喫茶店「ラドリオ」で
いつもの片隅を 陣取っている
一目でわかる ギョロ眼の紳士に
ひとつ肩で 息をのんでから 声をかけてみた
その店の近くに
「ちくま」や「ユリイカ」の版元があったことなど
知る由もなく

---ヨ・シ・オ・シ・カ? えっと、ヨシ・オカミ・ノル?
   えっ、知らないね、初耳だね!
   国を憂いた、何かの呪文かね。
   少し、いやらしくもあるね。

かれは そう答え 眼をほそめて
読みかけの本から 眼をそらし
笑いかけながら灰を落とし 煙草をくわえた

 そうか、石毛はすでに吉岡実を知っていたのか。知っていて、声をかけてみたのか。私は、まだ、「現代詩」を知らない時代である。
 この吉岡実を思い出すのに、石毛は「苦力」を重ねている。

あの薄暗い「ラドリオ」の煉瓦壁を 背に
鎮座していた恋の精は
それっきり 消え去った
頬を ぽっと明るく染めた
苦力の肉体に
せわしく 煙草の火をもみ消しながら
そのとき おれもまた
詩人の前から 消えたのだ
エロチックで 官能の塊のような詩を
にぎり潰しながら---。

 この最後の部分に、私は、とても驚いた。吉岡実を思い出すのに「苦力」を思い浮かべる人は少ないだろう。「静物」とか「僧侶」とか。あるいは『サフラン摘み』とか。
 どうして「苦力」なのか。
 注釈に、石毛は、こう書いている。

「苦力」吉岡実の詩作品。支那の男は--で始まる官能的な、魯迅に繋がる身体を見た。
 
 私にとって、吉岡実と魯迅はかけ離れた存在だが、石毛にとっては繋がっている。しかも「身体(石毛の詩のなかでは、肉体、ということばがつかわれている)」で繋がっている。それがとても印象的だ。
 「身体(肉体)」とは何なのだろうか。
 詩を読み返してみると、吉岡実の「身体(肉体)」は「ギョロ眼」として登場している。これに対して、石毛は「ひとつ肩で 息をのんで」という対応をしている。「身体(肉体)」の具体的な動き。「ことば」以前の、存在の動き。それから「声をかける」。他人の「身体(肉体)」に出会い、一呼吸おく。それから「ことば」で近づく。吉岡実は「知らない」と答えた後「眼をほそめて」「眼をそらし」ている。吉岡実はどこまでも「眼」のひとである。「眼」が「身体(肉体)」と言えるかもしれない。「身体(肉体)」に隠れてしまう。
 しかし、それでは魯迅とつながらない。
 「身体(肉体)」とは、しかし、石毛にとって、そういう目で見えるものではなく、別なものなのかもしれない。つまり、「ことば」が「身体(肉体)」なのかもしれない。

---ヨ・シ・オ・シ・カ? えっと、ヨシ・オカミ・ノル?
   えっ、知らないね、初耳だね!
   国を憂いた、何かの呪文かね。
   少し、いやらしくもあるね。

 この「ことば」、この「呼吸」が「身体(肉体)」であり、「身体(肉体)」としての「ことば/呼吸」が魯迅につながる。知っている(わかっている)のに「知らない」と言う。「ことば」から「憂い」や「呪文」に通じるものを聞き取る。そして、「いやらしい」とくくってしまう。
 この「いやらしい」は「どうしようもない」、あるいは「必然」と言いなおした方がいいかもしれない。「必然」は「必要」でもある。
 「苦力」の書き出しは、こうである。

支那の男は走る馬の下で眠る
瓜のかたちの小さな頭を
馬の陰茎にぴったり沿わせて
ときにはそれに吊りさがり
冬の刈られた槍ぶすまの高梁の地形を
排泄しながらのり越える

 なぜ、そんな馬の乗り方をするのか。私は想像するしかないのだが、その姿勢なら、馬に人が乗っているとは気づかない。野性の馬が走っているように見えるかもしれない。とくに、くらい夜は。男には、ひとに見られなくないという「必要」があり、その「必要」が馬の腹の下に自分をくくりつけるという「必然」を要求する。
 この「必然」「必要」は、ある意味では「不自然」であるから、「身体(肉体)」には苦痛である。苦痛には、不思議な「エロチシズム」がある。(「サフラン摘み」を読めばわかる!)「エロチシズム」は「苦悩」に通じる。
 魯迅は、とくにエロチシズムを書こうとしているわけではないと思うが、彼の描く人間の肉体は、自分で抱え込むしかない苦悩によって歪んでいる。その歪みは「必然」であり、「必然」であるかぎりは「必要」なのだ。そして、その「必然/必要」は、どこかで「国」そのものへの「憂い」にもつながっている。「国」は「国家」というよりも、「生きているときの社会のシステム」のようなもの、権力ではなく、非権力から見た「いやなもの」に対する気持ちのようなものが「憂い」ということになる。
 というようなことを、石毛が書いているわけではないが。
 私は、そんなことを思った。吉岡実か、「苦力」か、魯迅か……。「いやらしい」「エロチック」「官能」か。吉岡実への「評価(定義)」というよりも、この詩は、石毛拓郎の詩を定義する(?)ときの「ことば」を提供してくれているかもしれない。「いやらしい」「エロチック」「官能」「身体/肉体」。そして、それが全部、魯迅につながるということ。

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野沢啓「金時鐘、〈在日」を超えて世界普遍性へ」

2022-04-15 12:25:52 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「金時鐘、〈在日」を超えて世界普遍性へ」(「走都」28、2022年04月30日発行)

 野沢啓「金時鐘、〈在日」をこえて世界普遍性へ」には「言語暗喩論のフィールドワーク」という副題がついている。野沢が書き続けている「言語暗喩論」のつづきとして読むことができる。
 今回の文章はとても読みやすかった。野沢は「誤読している」と指摘するかもしれないが、私はすらすらと「誤読」できた。読みやすかったとは、そういう意味である。
 理由は、とても簡単である。金時鐘の詩を語るに当たって、野沢が参照(引用?)しているのが、主に細見和之、倉橋健一の書いた金時鐘論であり、また金時鐘の発言であるからだ。ともに金時鐘に深く関係している。これまでの論のように、その哲学者、その思想家と、取り上げている作品がどういう関係にあるのか(それぞれの哲学者、思想家が、たとえば日本の誰それの詩について書いているのか)ということが私にはわからなかった。今回は、参照、引用されている「ことば」(金時鐘自身のことばを含む)と作品との関係がわかる。だから、わかりやすい。
 「主に」と私がことわったのはバーバラ・レオンダーという文芸理論家の文章を引用しているからである。

 だが、この「わかりやすかった」は、同時に、非常に疑問に思ったということでもある。今回の文章は「わかりやすかった」が、私が「理解したこと」と、これまで野沢が「書いてきたこと/私が誤読してきたこと」が、あまりにも違うからである。
 そのことを少しずつ書いていこう。

 《話し手が隠喩の過程を習得するのは、ことばを口にし始めるのとほとんど同時に始まる拡張的で不可避な実戦の結果である》とバーバラ・レオンダーという文芸理論家が「隠喩と幼児の認識」という論文のなかで書いているとおり、ひとはだれでもまず初めての事態にたいしては隠喩的なことばを発動させる詩人であったはずなのである。

 私はバーバラ・レオンダーの文章を読んでいないので、私が「誤読」しているのかもしれないが、バーバラ・レオンダーの書いていることと、野沢の書いていることには齟齬がある。私は、バーバラ・レオンダーの書いていることは納得できるが、野沢の書いていることには納得できない。
 どこに齟齬があるか。バーバラ・レオンダーは「同時」ということばをつかっている。「ことば」を口にし始める(つかうようになる)と「同時」に、「そのことば」だけではいえないようなこと、「そのことば」を超えた(こそことばを拡張した、新しいことば)で何かを伝えたいと思う。そして、それをなんとか言おうとする。これは、よくわかる。幼児が親に向かって「ちがう、ちがう、ちがう」と反発するときが、これにあたる。親が言っていることばを超えたところまで、幼児は「自己拡張」したい。そのために何かを言う。それは親の言う「ことば」とは違ってくる。
 正確には思い出せないが、あるこどもの詩に、おむすびと太陽(夕日)のことを書いたものがあった。山に夕日が沈んでいく。このとき子どもが感動する。すると親が「きれいだね」と応じる。しかし、子ども言う。「違う。山の中に太陽が入って、山が、大好きな梅干し入りのおにぎりになる」と。子ども夕焼けに感動したのではないのだ。このときの「違う」と、「親のことば(きれい)」を越えて、「おいしい巨大なおにぎり」に自分の思いを拡張していく。このとき、野沢はこの「比喩」を「暗喩」と呼ぶかどうかは知らないが、詩が存在する。
 そして、この詩が存在するためには、バーバラ・レオンダーは、「同時性」が必然であると書いていると、私に感じられる。しかし、この「同時」は、バーバラ・レオンダーが「隠喩の過程を習得する」と書いていることを手がかりにすれば、「同時」というより、「事前/時前(こんなことばがあるとかどうかよくわからないが)」だろう。すでに「ことば」があって、その「既存のことば」に反発する形で、既存のことば」を破壊する「ことば」が新しく動くとき、それは必然的に「暗喩」になるということではないのか。
 しかし、野沢は「同時」はおろか、詩の前に「既存のことば」があるということを否定していたのではないか。「ことば以前」「原始のことば」が「隠喩」であり「詩」であると主張したいたのではないのか。その立場から「詩」を絶対的、超越的なことばと定義していたのではないのか。
 さらに野沢はバーバラ・レオンダーのことばを引用した後に「詩人」ということばをつかって、詩を特権化しているが、これはなぜなのか。「哲学者」「思想家」であってはいけないのか。
 はっきり覚えていないが、野沢は、ある外国の哲学者(思想家?)を引用しながら、原始人(?)が雷に遭遇して、驚きのことばを発する。それが詩をつくることの出発点というようなことを言っていなかったか。初めて雷に遭遇したときの原始人が書いた(発した)「詩」というものが残されているわけではないから、想像するしかないのだが、何かに対して驚き、その驚きを、いままで存在しなかったことばで発したものが「詩」であるとき、そこには「同時」に、あるいは「事前/時前」にことばが存在していなければならない。そうでなければ、そこにあらわれてきたことばが「新しい」かどうか判断のしようがない。
 そして、こういうときの「新しさ」は、なにも「詩」だけに特権的に許されたものではない。散文(哲学)もまた、そのときそのときで、「既存のことば」を破って動き出すとき(新しい動きをするとき)、その「発見」が「詩」に通じる。詩に驚くのも、哲学に驚くのも、何気ない日常会話に驚くのも同じ。「詩のことば」を特権的に定義する「理由」が私にはわからない。野沢の、その欲望が、私にはわからない。これが、私がくりかえしくりかえし、野沢への疑問として書いてきたことである。

 「ことば」は事前/時前に存在する。その「既存のことば」を突き動かして、自己拡張する(それは同時に世界の拡張である)というのは、あらゆる言語活動に起きることである。哲学も宗教も小説も詩も同じ。そして、その自己拡張には、どうしても「暗喩」的な動きがある。いままでのことばで言えないことを言うのだから「暗喩」になるしかない。いままでどおりのことばで言うのなら、それは自己拡張にはならない。そして、このとき「暗喩」とは単なる「名詞」の言い換えだけではなく、私は「運動」だと思っている。だから、私は「運動」につながる「動詞」に注目し、そこから「見分け=言分け」というようなことを考えるのだが、これは書くと面倒くさくなるので、今回は省略する。
 ただ、こうつけくわえておく。野沢がバーバラ・レオンダーのことば、とくに「同時」ということばを、野沢がこれまで書いてきた文章をどう関連づけるのかわからないが、「同時」の導入によって、今回の金時鐘の詩への批評はとてもわかりやすくなっている。
 どんなことばにも「同時」があり、「過去」がある。
 詩にかぎらないが、あらゆることばの運動は、「既存のことば」とどう向き合うかから始まる。ことばは発せられた瞬間から「同時」であり、「事前/時前」になる。原始人が雷に驚き「うわーっ」と声を出す。「雷」という「ことば」はまだ存在せず、「うわーっ」としか言えない。その「うわーっ」を聞いたとき、一緒にいた別の原始人が「うわーっ」と同調するか、「うわーっ」では満足できずに「ぎゃーっ」と言うか。「うわーっ」よりも「ぎゃーっ」の方が衝撃的だいう認識が共有されれば「ぎゃーっ」が衝撃的な雷をあらわすことば、あるいは「暗喩」になるかもしれない。「詩」のことばになるかもしれない。また、怖くて声が出ないということが、その声を出さない(ことばを発しない)という行為として「詩」になる、「暗喩」になるかもしれない。このとき、それは「声を発することもできない」という別のことばとして語られるようになるかもしれない。
 どんな表現であれ、それが「新しいもの」「詩」と呼ばれるものである限りは、そのことばと同時に、他のことばが存在しなければならない。このときの同時は、必然的に、過去、つまり既存を含む。

 金時鐘の詩についての、野沢の評価からも、このことを指摘することができる。金時鐘北朝鮮で生まれ、日本語を身につけ、日本で生きている。日本語で詩を書いている。言語活動をしている。その過程で、朝鮮総連から批判を受けると言うこともあった。そういうことを踏まえて、こう書いている。

金時鐘の詩はつねにことばの問題に回帰する。しかしそのことばは日本人による日本語ではなく、つねに〈在日〉の圧力のかかったことばである。

 この文章からもわかるように、「日本人による日本語」が存在しなければ金時鐘の詩は存在しない。「ことば(日本語)」は既に存在する。その存在する日本語ゆえに、金時鐘は詩を書く。
 金時鐘自身は、どう書いているか。野沢は金時鐘の文章を引用している。

日本が朝鮮を統治したという三十六年の罪業の最大のものは、資源的なものというよりも、人間の人格が損傷したということが、その最たるものだと思います。僕の損傷させられた僕の人格の最たるものとして、僕は自分の国語を押しやった日本語があるわけであって、その日本語を僕が駆使するということは、日本語に対する最大の復讐だと、いわば日本人に対する復讐であろうと思うのです。僕の日本に対する復讐というのは、日本語でしか形成し得ないものをもっている。

 金ははっきりは「既存の日本語」を認識している。無意識に「日本語」をつかっているわけではない。詩にしろどんな言語活動にしろ、それは「既存の言語」と向き合うことで力を獲得していく。あらゆることとばは、既存のことばを超えて、自己拡張を試みるときに「暗喩」という形になる。そして、発話者が、あるいは読者(聞き手)が、そのとき「詩」を選ぶか、「哲学」を選ぶか、は関係がない。「詩」が特権的である「根拠」など、どこにもない。
 もうひとつ、書いておく。野沢は、金時鐘の「新潟」を引用した後で、

いくつかの注釈も必要であろう。このシチュエーションは新潟の帰国希望者審査の場面を想定している。

 「注釈を必要としている」とは、そこに書かれていることばを「注釈」のなかで動かすことである。このことは、ことばは、単に「既存のことば」だけではなく、「ことばと同時にある状況」との関係で動いていることを意味する。どんなことば、どんな「暗喩」も「既存のことば」「既存の状況(これも、どれだけ言語化されるかわからないが、意識化去るときことばが動いているから、言語の場としてとらえることができる)」と共にある。何かに先行することば、いままでなかったことばというものはない。
 「ことば」はいつでも遅れてやってくる。遅れてやって来て、先行することばに対する異議が詩であり、哲学であり、あらゆる言語活動なのだ。遅れてやって来ても、それは「暗喩」になる。「暗喩」を乗り越えていくのは、さらに遅れてやってくることばである。
 金時鐘は「復讐」ということばをつかっている。これが象徴的である。あるいは「暗喩的」であると、言おうか。すでに存在するもの、それは自分を傷つけてくる、だから、それに「復讐する」。「復讐」しながら自己拡張する。「復讐する」とは先行するものがない限り、起こし得ないことである。起き得ないことである。「詩」は「ことば」に先行しない。「詩」は「ことば」に遅れてやってくる。遅れてやってくる「新しさ」が「詩」である。(ここでは、私は「詩」ということばを、野沢の論に向き合わせるために、あえてつかっているが、この「詩」は「哲学」であっても「思想」であってもかまわない。「新しいことば/新しい認識/新しい精神運動」の「比喩」としてつかっている。)

 

 

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石毛拓郎『ガリバーの牛に』(2)

2022-04-14 15:31:41 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(2)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 2篇目は「ガリバーの牛に」。困ったなあ、私は石毛と同世代の人間だと思っているが、私は、石毛が書いている「光景」を体験していない。生まれ育ったところが山の中の小さな集落なので、詩のなかに登場してくるような女や男はいなかった。石毛が書いてる女や男は、私が、ものごころがついたあと、たぶん、映画などを見始めたころに「知識」の対象としてあらわれてきたけれど。
 それは、こんな感じ。

---アンタは、どうして逃げ隠れしているの?

おんなは、バラック小屋の敷居の上で
寝そべる大男をかくまっていた。

---いま、敷居の外に出ていけば、アンタは
   捕まるに決まっている。
   地下に潜って、そうよ!
   いつまでも敗戦の感傷に、ひたってなんかいられないわ。

 男はいつでも「感傷」を生きるものらしい。「感傷」とは「精神」を飾る夢かもしれない。でも、女は?

おんなの仕事は
進駐軍の兵士に、媚びを売る商売だ。
赤刈りで
言葉の影に身を寄せる、大男や
星になってしまうまえの、孤児たちを
おんならはバラックに集め、ドデスカデン、と
喰らう術を工作していた

 「感傷=精神」は「言葉の影」にすぎない。そんなものは、売れない。つまり、食い扶持を稼げない。女は「食う」ために何ができるかを知っている。

---アンタらは捕まったら、リンチされるに決まっている。

 うーん。男にできる仕事は、「感傷=精神(言葉の陰)」の男をつかまえて、リンチにすることか。そうやって食っている男がいる。男と男の、ばかばかしい生き方か。たぶん解決策などない。だから、忘れ去られるまで「地下に潜っていろ」ということか。
 そして、ある日、地下から地上にあらわれると、きのう読んだ林家三平が見た「ガリバーの牛」に似た牛がいる。女がいる。時代が動いている。朝鮮半島で戦争が起きてる。突然、社会が好景気に浮かれている。

いま、記憶に残っているものごとは
たいしたことではないが
ガリバーの馬に、よく似ている
赤いヨダレかけをつけた牛への回想も
よほど、無力だが---。

 何が書いてあるか実感できないが、「よほど、無力だが」には、何かこころをひっぱられる。「無力」の自覚というものが、重たい抵抗の存在感として、そこにある。
 石毛の詩には、この「無力」への共感がある。「無力への共感」というと変だが、「無力」であっても、存在し続ける力への「信頼」のようなものを感じる。
 強力なものへの(力を持ったものへの)信頼というのは、どこにでもある。そういうものを回避して、ただ存在するときの、「無力」。
 「無力」のいいところは、「無力」ゆえに、だれに対しても、破壊ということをしないということか。「無力」だから、破壊されそうになったら隠れる。(地下にもぐる。)それは次に地上にあらわれたときは、破壊されないものから、破壊するものにかわるということではなく、ただ破壊されないように生きるということかもしれないが。そのときの「持続」には、何か、手に負えない強さがある。「無力の強さ」。それを、石毛は、どう書いているか。

---貧しかったが、卑しくはなかった。

ある日、あの牛の乳房を愛した大男は
多くの戦利品を抱えて、牛のまえに戻った。
その時、一人のおんなが
バラックの敷居の上で、正座をしながら
戸口に立った大男に、告げた。

---アンタが戸口に立てば、わたしは影になるわ。

 「卑しくはない」が「強さ」だ。もちろん「卑しい」強さもあるが、「卑しい」が強くなったら「卑しくない」と思う。自然だ。「渚の塹壕にて」には「淫猥」ということばがあったが、それを「卑しい」と呼ぶかどうかは主観の問題だ。「淫猥」にかぎらず、セックス絡みのことは、すべては「卑しくない」。何をしても「卑しくなれない」というのが「無力の強さ」かもしれない。
 逃げる男を隠す、そのために兵士に媚を売る。すべては「関係」なのである。そして、そういう「関係」のなかで、暴力的、支配的な立場にならない限り、そこには「卑しさ」はない、ということかもしれない。
 こんな面倒なことを石毛は書いているわけではないが。面倒くさく、書いているわけではないが。

---アンタが戸口に立てば、わたしは影になるわ。

 この最後の一行で、男(アンタ)と女(わたし)が入れ代わるのだが、突然あらわれた「わたし」という主語に、私はびっくりする。とても美しく、「わたし」ということば、その音が聞こえてきたのだ。それまで「わたし」は「アンタ」という呼びかけのなかにしかいなかった。それが「わたし」と主張している。「影になる」ことをそのまま受け入れて「わたし」になるのか、「影になりたくないわ」(だから、どいて)と言っているのか。よくわからないが、それまで「アンタ」と書きながらも、男と女の、三人称的な関係だったことばが、とつぜん、「アンタ/わたし」という主体的な関係になる。
 「客観」を「主観(主体)」として生きる、「客観」を「主観(主体)」として引き受ける。そのとき、石毛は、力ではなく「無力」として引き受ける。そういう動きをするように感じられる。この「客観」を「主観(主体)」として引き受ける(あるいは継承する)ときの、なんといえばいいのか、「客観(対象)」として描いてきたものへの、「無力なもの」への信頼のようなものが、ことばのいちばん「底」の部分にあって、それが、ことばでは説明できないまま(整理できないまま)、私に響いてくる。それを「わたし」ということばに、私は感じた。
 こんなことは、どう書いてみても、他人にはつたわらないと思うが……。
 それは林家三平の登場する詩で言えば、林家三平を「ずるけて」ということばで引き受けるときの信頼のようなものなのである。石毛だって「ずるける」ときがある。それでいい、という引き受け方であり、そこには何かを「支配する」ではなく、「無力」を生きることへの共感的な信頼があると感じるのだ。

 こんな言い方が正しいわけではないが、「無力」というのは、絶対になくならない「強力」なものなのだ。絶対的存在なのだ。そのことを石毛は、熟知していると感じる。私は、そこまでは思えない。「無力」を絶対的存在とは思いたくない気持ちがあって、それがきっと邪魔をして、「石毛の書いていることはわからない」と書くことで、自分を納得させたいのだと思う。石毛の詩を(ことばを)読んでいると、いつも、私は「子ども」だなあ、と感じてしまう。

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バイデンのことば(2)(情報の読み方)

2022-04-14 10:09:39 | 考える日記

 2022年04月14日の読売新聞(14版・西部版)1面に、「ウクライナ/米大統領「ジェノサイド」/戦争犯罪 米欧が糾明支援」という見出し。バイデンは、これまで「戦争犯罪」ということばはつかってきたが、「ジェノサイド」ということばでロシアを非難したことはなかった。しかし、
↓↓↓↓
バイデン氏は「先週と違い、露軍が行った恐ろしいことを示す証拠が次々に出てきている」と述べ、より深刻な犯罪のジェノサイドにあたると踏み込んだ。
↑↑↑↑
 さて、これだけでは「証拠」が何かわからない。だれが収集した証拠なのかもわからない。ゼレンスキーが「ジェノサイドだ」と批判するのと、バイデンが「ジェノサイドだ」と認定するのでは「意味」が違う。「証拠」が必要だ。さらに、ほんとうに「ジェノサイド」があったのだと仮定して、それをどうやって「裁く」のか。ロシアに認めさせるのか、という問題が残る。「ジェノサイドだ」と批判すればおしまいではない。
 このことはバイデンもいくらかは理解している。だから、国際刑事裁判所(ICC)が動き出している。(外電面で補っている。(数字は私がつけた。記事は、一部省略している。)
↓↓↓↓
①バイデン米大統領は12日、ロシア軍の行為を「ジェノサイド(集団殺害)」と非難した。ロシア軍の管理下で起きた事件などについて、日本を含む40か国以上が戦争犯罪を裁く国際刑事裁判所(ICC)に捜査を要請し、ICCは証拠集めに着手した。
②ウクライナの捜査当局は12日には、多数の民間人の遺体が見つかったキーウ近郊ブチャでフランスの法医学専門家チームと一緒に捜査を進めた。
③ICCには日本や英国、フランスなど123か国・地域が加盟しているが、ロシアや米国、中国などは入っていない。
④ウクライナも加盟していないがICCの捜査を受け入れると宣言している。捜査の結果、証拠が固まればICCは容疑者引き渡しを求めるが、加盟国でないロシアに応じる義務はない。
↑↑↑↑
 ①からは、戦争犯罪は、当事者でなくても捜査を要請できることがわかる。被害に遭っている国は、それを要請しているだけの余裕がないかもしれない。また、他国の問題といって、当事者ではない国が「戦争犯罪」を見逃すのは、人道的にもおかしいから、これはごく自然なことと思える。
 ②からは、フランスが捜査に参加していることがわかる。フランスのことしか書いていないのは、日本やアメリカは参加していない、を意味する。「証拠」があるとしても、それはフランス経由のものであって、アメリカが直接捜査したわけではない。これだけでも、バイデンの主張が「他人任せ」の要素を含んだあやしいもの、世界でいちばん影響力のある人間が軽々しく口にしてはいけないことばだとわかるが……。
 ③では、なんと、アメリカはICCには加盟していないのだ。たぶん、アメリカが行ってきた「侵略/虐殺」というものを、国際機関で裁かれることを拒否するためだろう。イラクやアフガンでアメリカが行ってきたことを(当時は行っていることを)裁かれたくない。だから、加盟していない。
 ④では、はっきりと、加盟していない国には判決というか決定を受け入れる義務はないと説明している。アメリカは「判決を受け入れる義務」を回避するために、ICCには加盟していないということがわかる。
 それなのに。
 ICCを利用して、ロシアを批判しようとしている。アメリカの主張を正当化するためにICCを利用しようとしている。
 これは、おかしくはないか。いわゆる「二重基準/ダブルスタンダード」というものだろう。

 ウクライナで起きていることは悲惨である。だれだって人が殺されているのを見れば、殺されている人に同情する。殺した人を批判する。そのとき強いことばで批判すればするほど、批判した人は「正義の人」として認められるだろう。
 バイデンは、そういう「正義の人」になろうとしている。アメリカこそが「正義」なのだと言おうとしている。これは、私には、非常に危険なものに思える。
 「正義」を振りかざす以上、「正義の判断」にはしたがうという姿勢を示さないといけない。まず、アメリカ自身がICCに加盟しないといけない。

 私はきのう、いま求められているのは「武力戦争」でも「経済戦争」でもなく「ことばの戦争(外交/対話)」だと書いたが、バイデンの「ジェノサイド」発言は「言いたい放題」であって、議論ではない。議論というのは「同じ場」に立つことが第一条件である。自分にはある規則を当てはめないが、他国には規則を当てはめる、では、「アメリカが法」になってしまう。実際、バイデンが押し進めようとしていることは、すべてをアメリカが決めるままに支配するということである。
 バイデンのことばからは、そういうことがわかる。ロシアがウクライナで行ったこと(行っていること)は厳しく批判されなければならないが、その批判は、「根拠」をもったものでないといけない。バイデンは、きのう取り上げた「物価高はプーチンのせい」ということばが特徴的だが、他人を批判することでバイデンの政策を「隠す」という動きをする。他人を批判せずには、自分を正当化するということができない論理である。

 

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「プーチンのせい」(情報の読み方)

2022-04-13 22:31:19 | 考える日記

 2022年04月13日の読売新聞夕刊(4版・西部版)3面に、アメリカの物価高と、バイデンのセットで載っている。(番号は、私がつけた。)
↓↓↓↓
 【ワシントン=山内竜介】米国のバイデン大統領は12日、同日発表の①3月の消費者物価指数上昇率が前年同月比8・5%と約40年ぶりの伸びとなったことについて、②「70%はプーチン(露大統領)が引き起こしたガソリン価格上昇によるものだ」と述べた。ロシアのウクライナ侵攻に伴う燃料価格の高騰にいらだちをあらわにした。
↑↑↑↑
 記事の書き方からわかるように、これは①3月のアメリカの物価が8・5%上がった②その原因をバイデンが「プーチンのせいだ」ということだが、①の方は既にニュースとして報道されているので、見出しは「物価高、70%プーチンのせい、バイデン氏主張」ととっている。
 戦争も、物価高も、みんなプーチンが悪い、と言いたいのである。戦争はたしかにプーチンが悪い。しかし、物価高は、一概にプーチンだけが悪いとは言えない。貿易が機能せず、いろいろなものが不足しているのはたしかだが、輸入に頼らない国家を作り上げれていれば、ロシアからいろいろなものが輸入できなくなったからといって物価が上がることはないだろう。
 で、ここから思うのだが。
 アメリカは石油も農業産品も輸出している。(輸入もあるだろうけれど。)国土も広ければ、資源も多い。人口だって、多い(労働力が不足するということはないはずだ)。そういうアメリカで物価が高くなるということは、どういうことなのだ。
 というよりも。
 資源大国と言えるアメリカで物価が高くなるなら、資源をもたない国の物価はもっと高くなるだろう。日本の場合、8・5%でとどまるかどうかわからない。
 フランス大統領選は、物価高の影響でマクロンが苦戦している。新聞では報道されていないが、スペインでも物価はどんどん上がっている。(数人の友人に聞いただけだから、厳密な情報ではないが、私と同世代の男性が実感しているくらいだから、あらゆる商品が値上がりしているのだろう。)
 だから。
 今回のパイデンの「物価高はプーチンのせい」というのは、単にアメリカ国内向けの発言ではなく、外国向けのメッセージでもある。もっと極端に言えば、バイデンが率先して「物価高はプーチンのせい」とアピールするから、各国とも物価をどんどん上げてしまえ、そうすることで反プーチン感情をあおれ、と言っているのである。物価高に対して(価格転嫁に対して)、バイデンが「お墨付き」を与えたのだ。
 日本では、きっと、これからもっともっと値上がりがつづく。企業は悪くない。プーチンが悪いのだ。

 それにしても、と思うのだ。
 アメリカはNATOにアメリカの軍備を売りつけることで金を儲けるだけでは満足せず、その他の原料も高値で売りつけ、金を稼ごうとしている。アメリカ国内でもものが不足している。それを輸出にまわしているのだから、アメリカからの輸出品が高くなるのはあたり前、ということだ。「高くても、輸出してもらえるだけありがたいと思え」というわけだ。
 ニュース(ジャーナリズム)は、プーチンの引き起こすかもしれない核戦争に人々の注意を引きつけるのに躍起だが、核戦争が起きなくても、多くの国で多くの市民が物価高/生活苦にあえぎ、死んでいくことになるかもしれない。この物価高による貧困死は、戦争のように目立たない。じわじわと侵攻していく。
 そのとき、その一方で、金儲けができたと喜ぶひとがいる。
 そのことに、目を向けなければならない。

 私は何度も「経済戦争」ということばをつかってきたが、ロシアに「侵攻をやめろ」と叫び続けると同時に、アメリカに「経済戦争をやめろ」ということも必要だと思う。それぞれの政府に対して「経済戦争をやめろ」と叫ばないと、私たちは、ほんとうに貧困(物価高)のために死んでいくことになる。
 悠長に聞こえるかもしれないが、戦争をするなら「言論戦争/外交」をしろ、と言いたい。プーチンを言論で説得するための努力を、アメリカをはじめ多くの国はすべきなのだ。アメリカは米ロ対談がうまくいかなかったらアメリカの責任が問われると思っているのだろう。こんな事態になっても、まだプーチンに対話しようと呼びかけてはいない。(報道されないところで交渉があるのかもしれないが、表には出てきていない。)マクロンが何度もプーチンと対話しているのと比べてみるといい。武器を売りつけ、アメリカの商品を売りつけ、「おいしいところ(金儲け)」だけをしている。
 そのあげくに、国民から物価高の批判を受けると「プーチンのせい」と言って逃げてしまう。

 

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石毛拓郎『ガリバーの牛に』

2022-04-13 12:03:27 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(紫陽社、2022年06月01日発行)

 石毛拓郎が詩集を出した。「2022年06月01日発行」だから、ほんとうはまだ出したことになっていないのかもしれないが、けさ、朝刊と一緒に郵便受けに入っていた。石毛拓郎とは2回会った気がする。3回だったかもしれないし、1回だったかもしれない。記憶とはいいかげんなものだ。で、その記憶なのだが。石毛の詩を私は「詩集」という形で読んだことがあっただろうか。思い出せない。家に詩集があるだろうか。わからない。だいたい、私は石毛の詩が好きなんだろうか。わからない。たぶん、わからないから、とぎれとぎれになりながらも交流というものがあるのだろう。別に、わからなくてもかまわない。わからないひとがいる、わからないことばがある、ということが、たぶん、私にとっては大事なことなのだろう。
 前置きが長くなったが、きょうから一日一篇ずつ、石毛拓郎『ガリバーの牛に』の詩を読んでいくことにする。「わからない」に向き合い続けてみる。途中でいやになるかもしれないし、書けない日もあるかもしれないが、「わからない」について書くのだから、成り行き任せである。
 巻頭の詩は「渚の塹壕にて」。

すっかり 忘れていまいか
原民喜の「ガリバーの馬」というやつだ
原爆に遭遇した すぐ後に
ひょっと 見たら
むこうの原っぱに 馬が繋がれている
馬は ゆうぜんと草を食べている
哲人のような馬の 敗戦のすがた
ははぁ すっかり忘れていた
淫猥で 野蛮な人間がうろたえている
うう----ん やきりれないなぁ

 「ガリバーの牛」ではなく「ガリバーの馬」が出てくる。それもガリバーから直接あらわれるのではなく、原民喜を通ってやってくる。この「間接的」に、私は、ちょっと驚く。
 それはほんとうに間接的なのか。それとも「間接」というものは、何かを鮮明にするために存在するものなのか。どんな記憶、時間も、「過去」ではなく、「いま」として存在しようとあらわれてくるが、その瞬間、破られた何かが「間接」の印象を引き起こすだけで、問題は、この存在していないもの(遠い記憶、遠い時間のなかにあるもの)が突然あらわれてくるということと、その突然に、人間が気づいてしまうということにあるのかもしれない。
 人間は時間を生きているが、同時に、時間に流されているだけではない。時間を呼び戻している。そういうことができるのである。いや、時間を無視して、「存在」を呼び戻し、それを「いま」という時間にしてしまうことができる。このとき、石毛は原民喜なのか、それとも馬なのか。よくわからない。原民喜だって、原民喜なのか「ガリバーの馬」なのか、あるいはスウィフトなのかわからない。そんなことは区別しなくていのだろう。区別するよりも、わからないまま「つながり」があるといことが大切なのだと思う。
 私たちは、突然、何かとつながってしまう。つながった瞬間、私が私なのか、馬なのか、原民喜なのか、スウィフトなのか、あるいは石毛なのか、どうでもよくなる。一頭の馬が「ガリバーの(旅行記に出て来る)馬」に見えた。その瞬間に見るのは、そして、馬かスウィフトか「わからない」ように、原民喜が見るのは、ほんとうは「ガリバーの馬」ではないのだ。「人間がうろたえている」という別のものなのだ。何かが別の何かと(そこに存在しない何かと)結びつくとき、そこには存在を超えた「別のもの」がはっきりと認識されている。そういうことが、ここには書かれているのだろう。
 原爆、敗戦を気にせず、馬は悠然と草を食べている。一方、人間がうろたえている。そのときの人間は「淫猥」で「野蛮」である。「ゆうぜん」からは、ほど遠い。馬のなかに「ゆうぜん」を見るとき、原民喜は、その「ゆうぜん」にこころがひかれるだけではなく、人間の姿に「やりきれないなぁ」と感じる。というのは、原民喜のほんとうの感想か、石毛が原民喜はそう感じているだろうと思ったのか、原民喜の詩を読んで石毛がそう感じたのか。これも、まあ、区別しなくていい。一方に「ゆうぜん」があり、他方に「淫猥/野蛮」があり、「やりきれないなぁ」と感じる。それが「敗戦」ということか。でも、なぜ「淫猥」「野蛮」が突然出てきたのか、わからない。スウィフト、原民喜が人間を、そう定義していたのか。
 ということを考えていたら。

体験の記憶とか回想なんて なんとも無力で----
忘却とは忘れ去ることなり か
暗に 騒がれているだけじゃないの?
そうそう 記憶を予言へと転換していく だってさ
それは {頭の切り替えが 必要だ!}ということじゃないか

 石毛は、何かを、強引に整理している。「記憶を予言へと転換していく」とは「過去を未来に変えていく」であり、「寓話(ガリバー旅行記)を現実に変えていく」かもしれないが、それは、それでは実際にはどういうことなのか。
 この二連目は、1945年ではなく、「いま」の状況への感想なのか。「いま」この詩を書く理由なのか。
 そういうことを考えていると、三連目から、突然違う「主人公」が登場する。

九十九里刑部岬を眺望する 飯岡の浜で
来る日も来る日も 塹壕掘り
墓穴に身を挺していた 若き勇者・林家三平は
陶器製の地雷を 抱え
尻に「肥後守」を刺して 眠気を払っていた
戦車揚陸艦が 上陸の気配をうかがって
つぎは この浜から{本土決戦だ!}と
東京大空襲の噂を耳にいれてから 三平は覚悟した
今にも 敵兵上陸作戦の決行があるだろうと----

 戦争(敗戦/敗戦間近)は、原民喜と林家三平をつなぐが、ガリバー(スウィフト)は消えてしまった。「馬」の「ゆうぜん」も消えてしまった。あえていえば林家三平のなかに「ゆうぜん」とは無縁のような(?)、こっけいな人間が引き継がれている。主人公が、かなり、ふつうの人間に近くなった感じ。
 これは、きっと、とても大事なことだ。石毛は何かを考えるとき、原民喜、スウィフトという「知識」のなかで考えるのではなく、もっと身近な人間をとおして考え直すのだ。「知識を日常経験に置き換える」のである。石毛については、私は、いろいろわからないことがあるのだけれど、この「日常経験の重視」というのはとてもいい。そこには「わかりやすさ」だけではなく、なんといえばいいのか、「日常への信頼」(暮らしへの信頼)のようなものがある。
 林家三平を原民喜のような知識人ではない、スウィフトのような知識人ではないというつもりはないが、まあ、くだらない(いい意味でいうのだが)落語家である。「反知識人」(知識人を笑う人間)であり、いわゆる日常に生活している隣人に近い。その林家三平は、どうしたのか。どうなったのか。
 対決するはずの敵は沖へ移動して行き、掘ったはずの塹壕は満潮で崩れている。「ああぁ また 墓穴の掘り直しか」と愚痴をこぼしている。(詩の途中を省略。)

{重大放送がある}とは 強ばった上官から聞いてはいたが
その時刻 三平は{終戦勅語だ}と 知る由もなく
ずるけて「玉音放送」を 聞かなかった
上官の命令! で 墓穴に 地雷を埋めにかかったとき
あっけなく 負け戦さを悟った

 「ずるけて」がいいなあ。「知識人」のように自分を律したりはしない。「意識/精神」を優先しない。「本土決戦だ」と覚悟はしても、「こわばり」はしない。「上官(知識人)」とは、「いま」への向き合い方が違う。それを石毛は、肯定している。肯定しなければならないのは、「ずるけ」のなかにつづいている「暮らし」である。
 「あっけなく 負け戦さを悟った」の「あっけなく」と「悟った」もとても気持ちがいい。「悟る」ことはむずかしいことではないのだ。「あっけない」ものなのだ。
 このあと、詩の最後の部分がとてもいい。

飯岡浜の塹壕から 手ぶらで這い出して
海上椿海がつづく 干潟の草むらで
すっかり その乳房にお世話になっている
「ガリバーの牛」を見つけた
だれかが息抜きに 洒落て 名づけたのだ
うなかみの干潟 その椿の海のかたすみで
いつものように 草を食んでいるのを
三平は 敗戦の涙もなく 黙って見ていた
野蛮で 淫猥なおれたちなどに
お構いもなく
哲人のような牛の そのすがたを----。

 「知識人」は「ガリバーの馬」を思う。林家三平は、馬ではなく、牛を見ている。「ガリバーの牛」は「ガリバーの馬」とは関係がないかもしれない。あるとすれば、実際の寓話とは関係なく、たぶん有名なガリバーと小人との関係があるだろうと思う。牛は、とても大きいのだ。からだが大きいというよりも「乳房」が大きいのだ。林家三平たちは、その乳房を女の乳房に見立てて、オナニーをしたのだろう。(乳房にむしゃぶりついて、牛乳を飲んでいた、とは思えない。)「野蛮」「淫猥」が、とても健康的に響いてくる。それは「哲人のような牛の そのすがた」の健康につながる。
 「野蛮」、とりわけ「淫猥」は、精神にとっては「不健康」で抑圧しなければならないものかもしれない。放置すると、「精神の目的」に到達できないかもしれない。しかし、「野蛮」「淫猥」は肉体、感性にとっては「健康」そのものである。そして、すべての「健康」は「哲人」につながる。

 石毛のことばには、何か「反逆精神」というものがある。「知」というものを描くときも、「野蛮」「淫猥」をそぎ落として、鋭敏になっていくのではなく、むしろ「知の鋭敏」を「野蛮」「淫猥」(=暮らし/肉体/欲望)で叩くことで、「重い」ものにしていく。鋭い刃、殺傷力のある武器ではなく、ただでかいだけの石のような「抵抗(物)」に変えていく。でかすぎて、殺しの道具(武器)にもつかえないが、身を隠すことができる石のようなものに。どこへも連れ去られない、つかむことのできない重い「抵抗」をもって生きていく肉体に変えていくという印象がある。
 石毛の「わかりにくさ」は、この「抵抗」(肉体の、どうしようもない重さ、重さの強さ)にある。「わかりにくい」と書いている限りは、私は、まだまだ石毛のことばを「頭」でつかみながら読んでいるということだな。

 引用の誤記をチェックするために詩を読み返していたら、副題に「1945・8・15 下総椿海の「ガリバーの牛」と共にむかえた一兵卒・初代林家三平、敗戦の姿。」とある。林家三平の話をどこかで聞き、そのあとで「ガリバーの牛」を補足するために原民喜の詩(エピソード?)を最初に書いたのかもしれない。林家三平が原民喜の「ガリバーの馬」を知っていて、「ガリバーの牛」と言ったのではないかもしれない。原民喜を引用することで、林家三平を、原民喜の「位置」にまで引き上げようという意図が石毛にあるのかもしれない。必要なのは、林家三平の「感覚(実感)」なのだ、と。

 

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「経済戦争」の行方(フランス大統領選から考えたこと)

2022-04-12 09:56:26 | 考える日記

「経済戦争」の行方(フランス大統領選から考えたこと)

 2022年04月12日の読売新聞(14版・西部版)一面に、フランス大統領選が決選投票に持ち込まれたことが書かれている。現職のマクロンと、極右政党のルペンが決選投票に進んだ。ロシアのウクライナ侵攻以後、一時、マクロンが人気を回復したが、最近はルペンにその差を追い詰められている。決選投票は接戦になると予想されている。

 私が注目したのは、次の「解説」。
↓↓↓↓
 ルペン氏は、物価高騰に苦しむ低・中所得層にエネルギー関連の減税を訴え、支持を急拡大した。自国政策の優先を訴え、EUやNATOとの関わりには消極的な立場で、大統領に就任すれば、欧州政治の混乱は必至だ。
↑↑↑↑
 私はもともと今回のウクライナ問題は「領土問題(領土をめぐる戦争)」というよりも「経済戦争」ではないか、と感じている。そのことは何度も書いた。コロナで経済が停滞し、どの国も苦しんでいる。アメリカも例外ではないだろう。アメリカはアフガンから撤退したために、軍需産業は武器を売る相手がいない。米軍には売れない。なんとしてもヨーロッパ諸国(NATO加盟国)に武器を買ってもらう必要があったのだ。さらに、ロシアは豊かな資源(天然ガス、石油、小麦)を抱え、ヨーロッパ相手に金を稼いでいる。アメリカがヨーロッパで金を稼ごうにも、ロシアに比べると「地理的」に不利なのである。それをなんとかしたかった。「武力侵略」に抗議する、その対抗手段として「経済制裁」をする、というのがアメリカ資本主義(金儲け主義)があみだした作戦だが、これはロシアからの輸入に頼っている国にとっては大打撃になった。とくに原材料の高騰を商品に転嫁して利益を確保できる企業に比べると、消費者(資本家ではない国民)には大打撃だ。物価が上がり、いままでの生活ができない。この「経済戦争」の犠牲に、フランスの貧困層がいち早く反応したのだと私は思う。
 この動きは、世界に広がるだろう。SNSを初めとするインターネットの情報は、「ロシアの虐殺」情報を素早く世界中に拡散したが、これからは「物価高で苦しむ消費者」の情報も次々に拡散するようになるだろう。そして、この「物価高で苦しむ消費者」の情報は「ロシアの虐殺」のように「刺戟的」ではないが、「事実」を自分の目で、自分の暮らしで確かめることができる。「嘘」というか、「情報操作」のしようがない。ガソリンが値上がりした、ガス代、電気代が高くなった、パンが値上がりした、ひまわり油が値上がりした。それは、だれもが自分の目で目撃できることである。
 一方で、消費者はしだいに気づき始める。消費者の「家計」は赤字になっているが、企業はどうなのか。企業は利益を確保し続けているではないか、と。価格転嫁によって収益を確保し、その収益を消費者が値上がりした商品を買うことで支えている。なぜ、資本家だけが優遇されるのか。
 (こういう批判を先取りしてのことだと思うが、トヨタは、今年の春闘で早々と「満額回答」をしている。従業員の給料を上げることで、物価高に備えている。このニュースのときも書いたが、トヨタは、アメリカ資本主義が展開する「経済戦争(経済制裁)」の行方を最初から知っていたのだ。もちろん独自判断ではなく、政権と「打ち合わせ」ずみなのだろう。)
 フランス国民が投げかけた「疑問」は、これから世界に拡大する。「フランス革命」が世界を揺さぶったように、フランスの「消費者革命」が世界を揺さぶる。
 ブッシュを初めとする政治的権力者(アメリカ資本主義の代弁者)は、NATOを前面に打ち出してロシアの危険性(さらには中国の危険性)をアピールするが、消費者はロシアの脅威など気にしていない。いま、目の前にある暮らしに困っている。貧困に困っている。やがてNATOが存在しなければ、もっと豊かになれるはずだということに気づくだろう。消費者(一般市民)は、すでに「国境」というものを意識しなくなっている。「国境」を越えて、情報も商品も、自由に行き来している。それを阻んでいるものがあるとすれば、それは「軍事同盟」である。「軍事同盟」が「国境」を生み出し、その「軍事同盟」と「資本主義体制」を重ね合わせようとしている。

 私はルペンの「極右政策」に賛成しているわけではないが、ルペンは決選投票で勝つかもしれないと期待している。たぶん、2週間後ではなく、フランス大統領選挙が2か月後なら、ルペンは確実に勝つだろうと思う。物価は、これからもどんどん上がる。便乗値上げも起きる。みんながおかしいと気づき、怒り始めるだろう。
 誰もが「世界平和」について考えなければいけない(自分だけの平和を考えてはいけない)というのは「真理」だが、そのために「ほしがりません、勝つまでは」という精神を生き抜くというのは、はっきり言って間違っている。
 早く戦争終結へ向けての議論(外交)を展開しろ。なぜ、交渉(議論)をしないのか。様々な提案をしないのか。妥結点を探そうとしないのか。
 もともとルペンが台頭してきたのは、フランスの「経済問題」が背景にあると思う。フランスは「多国籍文化」の国である。フランス(パリ?)の小学校で、祖父母を含めて、その「家族」のなかにフランス人以外の人がいる人は、児童の4人にひとり、という記事を読んだことがある。祖父母までさかのぼって「家系」を見ると「純粋のフランス人」というのはどんどん減っている。移民も多い。フランスの「豊かな生活」を求めてやってくる人たちの影響で、それまでフランスで生きてきた人たちの暮らしが変化し、そのことに対し不満を持つ人が増えている。その結果、「移民は出て行け(移民を制限しろ)」というような主張が生まれたのだろうが、この問題、よく考えてみるといい。NATOとは別次元の問題なのだ。経済問題ではあるが、軍事力によって解決できる問題ではないのだ。豊かな暮らしをしたいというのは人間の共通の願望なのだ。
 既にイギリスはEUを脱退したが、経済問題と軍事問題は別であり、いまほんとうに問われているのは「経済問題」なのだ。「経済戦争」の行方なのだ。このままアメリカ資本主義が世界を支配してしまうとどうなるのか。資本家だけがもうかり、消費者は貧困に苦しみ続けるということが起きるのではないのか。そのことに、フランスの消費者は「実感」として気づき始めた。それが、今回のフランス大統領選挙にあらわれている。
 かつてアメリカの政策に対して「ノン」を言い続け、フランスの独自性を維持していた大統領がいたと思う。(名前は忘れた。)ふたたび、そういう「健全」で「多様」な世界がはじまるかもしれない。読売新聞は「(ルペンが)大統領に就任すれば、欧州政治の混乱は必至だ」と書くが、その「混乱」はいまのアメリカ資本主義の「混乱」であり、そこからの「脱出」を意味するかもしれない。「アメリカ資本主義」という「基準」を捨てて、世界を見つめる必要があると思う。「自分の暮らし」から世界を見つめる力が、世界を変えていく。
 私は、フランス大統領選挙が、いまの「アメリカ資本主義」を見直すきっかけになることを期待している。アメリカ資本主義のための「経済戦争」の犠牲になど、私はなりたくない。

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ツェラン「トートナウベルク」(谷口博史訳)

2022-04-11 15:52:06 | 詩(雑誌・同人誌)

ツェラン「トートナウベルク」(谷口博史訳)(「未来」607、2022年04月01日発行)

 野沢啓が、ツェランの「トートナウベルク」(谷口博史訳)を引用しながら「ツェラン、詩の命脈の尽きる場所--言語暗喩論のフィールドワーク」という文章を書いていた(「未来」607、2022年04月01日発行)。結論(?)のようにして、野沢は、こう書いていた。

 「トートナウベルク」という詩は意識の乱れがことばのかたちとして定着され、そのことばの散乱こそがツェランの最終的に言いたかったことの暗喩となっているのであり、その伝えがたさの暗喩として彫琢されたものなのである。

 私には、よく理解できない。「意識の乱れ=ことばの散乱」であり、それがツェランの「言いたかったこと」の「暗喩」になっている。「暗喩」であるから、その意味するもの(?)は正確にはわかりにくい、つまりつたえにくい(つたわりにくい)が、そのツェランにとっての「伝えがたさ」こそが「暗喩」の意味(暗喩でなければならない意味)である、ということだろうか。そして、野沢は、その「暗喩」のかたちが「彫琢されたもの」(美しい、あるいは完璧なもの)であると評価しているのだろうか。
 これでは、まるで野沢の文章そのものが「暗喩」である。それはそれでかまわないのだろうけれど、私は、とても疑問に思う。
 だいたい「意識の乱れ=ことばの乱れ」というが、いったい、ツェランの「意識=ことば」のどこが、どう乱れているのか。そのことが指摘されていない。野沢にとってツェランの「ことばが乱れている」(あるいは、意識が乱れている)と見えても、それはあくまで野沢の基準であって、ツェランにとっては「乱れ」はないと言えるかもしれない。他の読者にとっても「乱れ」は感じられないかもしれない。だいたい「彫琢されている」というかぎり、そこには「乱れ」というものはないのではないだろうか。もし「乱れ」があったとしても、それは完全に意図されたものではないのか。そうでなければ「彫琢」は偶然になってしまう。
 これまでの野沢の「論」で、私が感じるのは、野沢が、たとえばツェランの詩を「評価している」ということは理解できるが、それを「どう読んでいるのか」がよくわからないことである。「トートナウベルク」をどう読んだのか、その「読み方」がわからない。なぜ「意識の乱れ」「ことばの乱れ」という表現が出てきたのか、私にはわからない。
 ということは、どれだけ書いても、単なる繰り返しになるから、私自身がどう読んだか、そのことを書いてみたい。きのうの文章で引用したが、もう一度、引用する。長くなるが、全体を引用し、そのあと少しずつ、私の「読み方/誤読の仕方」を書いていく。
 
アルニカ、矢車草
井戸からの飲物、その上には
星の賽、

山小屋の
なかで、

記念帳に書かれた
(私の名の前には
どんな名が記されていたのか?)、
この記念帳のなかに、
今日、期待をもって、
書かれた一行。
思考する者から
心へと
到来するはずの
ことば、

森のコケ、平らにされず、
オルキスまたオルキス、まばらに、

酸味、あとになって、旅の途上で、
はっきりと、

私たちを運ぶ男は
それに耳を傾け、

小沼地のなか
丸太の
道をなかば進み、

湿り気、
とても。

 私は、どんな詩でも「動詞」に注目する。この詩の「動詞」のつかい方には特徴がある。

アルニカ、矢車草
井戸からの飲物、その上には
星の賽、

 ここには「動詞」がない。ツェランの書いた原文にはあるのかもしれないが、ここにない。動詞がないが、私は、どうしても動詞を補って読んでしまう。「散文」にして読んでしまう。つまり、アルニカや矢車草が「ある」(あるいは咲いている)、井戸からの飲物(水)が「ある」、その(水の)上には星の賽が「ある」。これは天に星があるとも、その星が井戸の水(あるいは水をいれたコップ)の上に映っているとも感じられる。私は、ここでは「ある」という動詞が避けられている、と感じる。「ある」のだけれど「ある」という動詞をツェランはつかうことを拒否していると感じる。これは「意識の乱れ」ではなく、明確な「意識の統一」である。

山小屋の
なかで、

 ここでも「ある」が、拒まれている。山小屋が「ある」、その山小屋のなかで、なにかが「ある」。何かが起きた。起きたことが「ある」。何が起きたのか。

記念帳に書かれた
(私の名の前には
どんな名が記されていたのか?)、
この記念帳のなかに、
今日、期待をもって、
書かれた一行。
思考する者から
心へと
到来するはずの
ことば、

 ここにはいくつかの「動詞」が書かれている。「書く/記す」「もつ」「思考する」「到来する」。主語と目的語は、「私は(そして、私の前の訪問者は)」、それぞれの「名前を」書く。さらに5W1Hを補うようにして「文章」にすれば「私は、訪問した山小屋で、その記念帳に、私は私の名前を書いた」である。それは「今日」のことであり、そのとき私は期待を「もっていた」ということになる。
 そして、ここにも「ある」が省略されている。「書かれた一行(名前を書いた、その一行)」が「ある」。この「ある」を書かずに、ツェランは「書かれた一行(=ツェランの名前)」と書く。「ある」の代わりに、その一行が「期待をもって/書かれた」と書く。このとき、「期待」が「ある/あった」が存在していることになる。しかし、それを「ある」ではなく「もつ」という動詞でツェランはあらわしている。「もつ」のは「私」である。肉体の関与がある。「書く」もの「私」である。私は、そこに「ある/あった」、そして私の肉体をつかって名前を「書いた」。そのとき私は期待を「もっていた」。「期待をもつ」は意識の問題かれしれないが、私は「持つ」という動詞を頼りに、そこに人間の肉体そのものの動きを重ね合わせ、肉体としての人間そのものを感じる。(これは、「身分け=言分け」という問題を考えるときの、私の基本的な考え。)
 これが、三連目の前半。つづく後半は、激変する。後半部分には「ある」がないのである。「はずの」ということばが特徴的だが、ほんとうならば「ある/はずの」、つまり「期待した(期待をもった)もの」が「ない」のである。つまり「到来する」が「ない」。「到来しなかった」という「ない」が「ある」。」「期待したもの」とは「ことば」である。「ことば」が「ない」。「思考する者」の「ことば」が「ない」。そして「なかった」という事実が「ある」。
 「ない」が「ある」。
 三連目が他の連に比べて長くなっているのは、この「ある」と「ない」の対比を正確に書こうとしているためだろう。そして前半の「ある」と後半の「ない」が、詩の途中ではただ一回だけつかわれている句点「。」によって切断されながらも接続しているのは、「ある」と「ない」が緊密な関係になるからだろう。ツェランにとっては「ある」と「ない」は切り離すことができないのだ。
 書かれなかった「ある」と「ない」の拮抗は、次の連に(次のことばに)引き継がれていく。

森のコケ、平らにされず、
オルキスまたオルキス、まばらに、

 森のコケが「ある」。それは平らにされず、つまり平らにされ「ない」で、そこにある。ツェランは、「ない」が「ある」ことに、まだ、こだわっており、それはオルキスに触れた部分にも引き継がれる。オルキスとオルキスのあいだには「まばら(に)」が「ある」。つまり「切断」がある。オルキスの「無(ない)」がある。
 「ない」が「ある」ということを、人為だけではなく、人為以外でも(自然や宇宙においても)「ある」のである。

酸味、あとになって、旅の途上で、
はっきりと、

 ここには「なる」という動詞が、突然、あらわれる。「あとになって」とは「時間が経過して」という意味だろうが、ここにあらわれる「なる」は、とても強い。
 「期待していたことば」は「ある/あった」。しかし、それは「ない」。「なかった」にかわった。「ある」が「ない」に「なった」のだ。
 それが「はっきりと」自覚できた。わかった。これは「はっきりと」「なった」である。あらゆることは「なる」。つまり変化する。「ある」は「ある」のままでは「ない」。「ある」は何かに「なる」のである。
 「ある」が「ない」に「なった」ということを、その意識をツェランは「酸味」のようにはっきりと自覚する。これは「酸味」ということばが象徴的だが、単なる意識ではない。肉体に刻まれた感覚である。旅をすることで、それを、ツェランは肉体に刻み込んだのである。
 そうであるなら、それまで書かれてきたことば、たとえば「アルニカ、矢車草」も、ただ旅の途中に見た(ある、を見た)という「意識」の問題ではなく、その「ある」がツェランの肉体に刻まれたということだろう。

私たちを運ぶ男は
それに耳を傾け、

 ここには「運ぶ」という動詞と同時に「男」が突然出てくる。「私」でも「思考する者」でもない人間が出てくる。運転手が思考しない(考えない/ことばをつかわない)というわけではないが、あまり「ことば」に関与しない存在として登場する。その人間が、書かれていないが「ことば」に「耳を傾ける(=聞く)」。
 彼は、その書かれていない「ことば」を、どこかへ「運ぶ」だろうか。
 ツェランは書いていないが、「運ぶ」のである。
 ツェランが書いているのは、野沢の論理にしたがえば「思考する者=ハイデガー/ナチス協力者」と「私=ツェラン/ナチスによって虐殺されたユダヤ人の遺族」の対面の記録だが、それは多くの「歴史的事実」のように、第三者によって「時間」のなかを「運ばれる」。そして、「歴史」という別のことばになる。
 「耳を傾け」た人、聞いた人は、それをいつか「語る」。それは、ツェランの、もうひとつの「期待」だろうと、私は考える。
 「ない」を越えて、希望が「ある」ものとして、ここで復活してきている。だが、それは保証されたものではない。あくまでもツェランの「期待」である。

小沼地のなか
丸太の
道をなかば進み、

 ここで「進む」の主語はだれだろう。「男」だろうか。「私たちを運ぶ男」が「進む」のだろうか。そうではなく、ツェランかもしれない。あるいは、ツェランの書いたことばかもしれない。
 ここでは「進む」という動詞と同時に「なかば」が重要な意味を持つと思う。
 ツェランのことばに「耳を傾け(=聞き)」、それを「運ぶ男」。運ばれる「ことば」もしかしたら「小沼地のなか/丸太の/道」(つまり、不完全な道)を運ばれているのかもしれない。どこへたどりつくか、それはわからない。
 不安のようなものが、漠然として「ある」。

湿り気、
とても。

 最終連は、その漠然としたものが、漠然とした状態のまま、書かれていると思う。一連目の透明な澄んだ空気を感じさせることばとは、完全に違っている。星が見えるのは空気に湿気がないときである。湿気があるときは星は見えにくい。一連目に書かれている存在は、「湿気のない透明な空気」と「ある」ということばを補うことによって、さらに美しくなる。(一連目と最終連は「呼応」しているのであり、「呼応」することで世界をいったん完結させているのである。)
 しかし、最終連のことば、「ある」ということばではとらえたくないたぐいのものである。むしろ「湿り気、とても。」は「ある」ではなくて、「ない」であってほしいというのが私の肉体感覚だが、ツェランの肉体感覚もそうであるかどうかはわからない。

 私は、いま「肉体感覚」と書いたのだが、私はいつでも「ことば」を肉体で感じる。そのとき重要になるのが「動詞」である。「動詞」とは、野沢がつかっていたことばでいえば「身分け=言分け」が具体的に動く「領域」である。
 「期待をもつ」、その期待が裏切られたとき、期待が「ある」から「ない」に「なった」とわかったとき、「酸味」というの肉体のなかに生まれる変化が「ある」。刻まれる。野沢は「意識の乱れ」と書いているが、私は「意識の乱れ」というよりも、肉体に刻まれたもの(私が感じる「酸味」のようなもの)を、ツェランのことばに重ねながら読む。

 今回の私の感想は、あくまでも谷口博史訳に対する、つまり「日本語化されたツェランのことば」に対する感想であって、原語(ドイツ語)で読んだとき、同じように感じるかどうかわからない。またツェランが「ある」「ない」ということばに通じる表現をつかっているかどうもわからないのだが、日本語を読みながら私は、そう感じた。
 野沢の「暗喩論」をめぐる文章に対する私の不満はいくつかあるが、そのひとつは、野沢がある作品を紹介しながら高い評価を書いているとき、野沢がその作品を評価しているというのはわかるが、どう読んだかがわからない点である。
 いろいろな哲学者や評論家の文章を引用し、それを組み合わせる前に、野沢自身の、作品に対する具体的な意見を聞きたい。

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Estoy loco por espana(番外篇161)Obra, Joaquín Lloréns

2022-04-10 17:30:02 | estoy loco por espana

Obra Joaquín Lloréns Técnica. Hierro 53x13x20 S

El espacio dentro de la escultura y el espacio fuera de la escultura.
Son intercambiables en función del ángulo de visión.
Se abre y se cierra.
O es una pajarera para pájaros invisibles?
Quién llama desde el interior de la pajarera?
Quién responde desde fuera de la pajarera?
Me gustaría ser un pajarito que entra y sale de esta escultura.

彫刻の内部の空間と、彫刻の外部の空間。
それは、見る角度によって入れ代わる。
開いたり、閉じたり。
あるいはこれは、目に見えない小鳥のための巣箱だろうか。
巣箱のなかから呼ぶのはだれ?
巣箱の外から答えるのはだれ?
私は小鳥になって、この彫刻の中に入ったり、外に出たりしてみたい。

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野沢啓「ツェラン、詩の命脈の尽きる場所」

2022-04-10 11:43:27 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「ツェラン、詩の命脈の尽きる場所」(「未来」607、2022年04月01日発行)

 野沢啓「ツェラン、詩の命脈の尽きる場所」には「言語暗喩論のフィールドワーク」という副題がついている。ツェランの「トートナウベルク」(谷口博史訳)を引用しながら論を展開している。その論の展開の過程でハイデガーやデリダが引用されている。
 
アルニカ、矢車草
井戸からの飲物、その上には
星の賽、

山小屋の
なかで、

記念帳に書かれた
(私の名の前には
どんな名が記されていたのか?)、
この記念帳のなかに、
今日、期待をもって、
書かれた一行。
思考する者から
心へと
到来するはずの
ことば、

森のコケ、平らにされず、
オルキスまたオルキス、まばらに、

酸味、あとになって、旅の途上で、
はっきりと、

私たちを運ぶ男は
それに耳を傾け、

小沼地のなか
丸太の
道をなかば進み、

湿り気、
とても。

 野沢は、「この詩は実際にあったツェランのハイデガー山荘の訪問という事実に依拠している」と書いた上で、こう書く。

ここには断片的な事実の痕跡が見られるとはいうものの、じつは肝腎なことはなにひとつ書かれていないことがこの詩のポイントなのである。

 でも「肝腎なこと」というのは、だれにとって? ツェランにとって? ハイデガーにとって? それとも野沢にとって?
 私には、野沢にとって、としか思えない。ひとはだれでも、ひとそれぞれの「意味/問題」を生きている。その「意味/問題」によって「肝腎なこと」というものは違う。ひとはだれでも、そのひとにとって「肝腎なこと」を書く。アルニカ(ことは、花だろうか)、矢車草があった。山小屋(山荘)へ行った。記念帳に自分の生を書いた。それはツェランにとって「肝腎なこと」ではないのか。「肝腎なこと」だけが書かれているのではないのか。
 私は詩を読むとき(あるいは、ほかのことばを読むとき)、そこには、そのひとの「肝腎なこと」が書かれていると思って読む。ただし、それが読んでいる私にとって「肝腎なこと」ではないとき、つまり私の生きている「意味」とは無関係だと感じるとき、ここには「肝腎なこと」は書かれていないと判断する。つまり、それは私(谷内)にとっては「肝腎なこと/関心のあること」ではない、という意味である。このひとは一生懸命書いているが、私は、そのことには関心がない。「肝腎なこと/意味/問題」がどこかで重なり合わないとき、書かれていることばに対して何か書いてみようという気持ちにはならない。

 「肝腎なこと」とは、何なのか。
 野沢は、こうつづけている。

あるいは何かがわかるように書かれていないことによってある重大な問題が暗示されている、と言ってもいい。その意味では或る状況のなにかに置かれたことばへの期待された〈到来〉とその不在が主題となっている、じつはおそろしい思考(の対立)が隠された詩であるかもしれない。すべてのことばがその期待された〈到来〉とその不在を示す暗喩になっているとさえ言うことができるかもしれない。

 ここでは複数の「肝腎なこと」が書かれている。いちばんわかりやすいのは「暗喩」である。野沢にとっては「暗喩」が「肝腎なこと(野沢の関心/意味の中心)」である。野沢は、ツェランのこの詩が「暗喩」そのものであるという論を展開したいのである。もうひとつ「肝腎なこと」というのは「暗喩」の前に書かれた「期待された〈到来〉とその不在」である。これは何のことかといえば、ツェランはハイデガーに「あることとば」を期待していたが、そのことばはハイデガーからは聞くことができなかった、である。「期待」だけが「宙づり」にされたのである。そして、この「宙づり」のままの「存在」のありよう(存在形式)が、たとえば「アルニカ、矢車草」というような、ことばになって存在しているのである。(野沢の書いていることを先取りして書いてしまうと、そういうことになる、と思う。)
 この「宙づり」状態のことばを「暗喩」への入り口と野沢は読んでいる。「示す」ということばは、ひとつの方向性をあらわしていると私は判断しているので、ここでは「暗喩」そのものではなく「暗喩への入り口」と判断しておく。(これは、私の論の展開のための仮説。)
 そして、もしそうだとしたら、それはどうして「肝腎なこと」ではないのだろうか。「入り口」さえあれば、そこから先は、どう進むかわからないが進んで行ける。「入り口」が見つからなくて困るというのが現実であり、詩は、「入り口」を提示するものであって、「解決策(答え)」を提示するものではないだろう。「入り口」だけ提示するからこそ、それは「暗喩」なのであり、「答え」を明示すれば「暗喩」ではなくなるだろう。そう考えれば「アルニカ、矢車草」はツェランにとって「肝腎なこと」であり、この「肝腎なこと」(肝腎なことば)こそハイデガーに読ませたかった、突きつけたかったのではないのか。

 野沢は、しかし、そうは考えていない。野沢は、もうひとつ「肝腎なこと」があると考えている。ハイデガーとナチスの関係であり、ハイデガーとユダヤ人との関係であり、ハイデガーがナチスの被害者であるツェランに対して、何を語るか、それが「肝腎なこと」なのだ。逆に言えば「何を語らなかったか」。それはさらに別なことばで言えば、ハイデガーはツェランに対して「何を語るべきだったか」。
 このことは「ツェランはハイデガーに何を期待したのか」という章で語られている。いろいろなことが書かれているが、私なりに「要約」していえば「赦しを求めることば」ということになる。ツェランはハイデガーに「赦しを求めることば」を期待した。ナチスに協力してしまった。間違っていた。赦してほしい。そういうことばを期待したが、ハイデガーは沈黙した。他のことは語ったかもしれないが、赦しに関しては沈黙した。
 そのために、ツェランのことばは、「和解」という「意味」にたどりつけなかった(とは、野沢は書いていないかもしれないが、私は、そういうふうに「要約」した。つまり「誤読」した。)
 そして、「意味」にたどりつけなかったことばはどうなったかということを、野沢は、最後にこう語っている。

 「トートナウベルク」という詩は意識の乱れがことばのかたちとして定着され、そのことばの散乱こそがツェランの最終的に言いたかったことの暗喩となっているのであり、その伝えがたさの暗喩として彫琢されたものなのである。

 非常にすっきりとまとまっている「結論」だと一瞬感じる。でも、私は、この野沢の論の展開は展開として理解したつもりだけれど、疑問も残る。
 最初に書いていた「肝腎なこと」は「ツェランの最終的に言いたかったこと」と言いなおされていると私は判断するが、では、その「ツェランの最終的に言いたかったこと」とは何? ハイデガーが沈黙しているということ? ツェランが失望したということ? ツェランはハイデガーに赦しを求めることばを期待したということ? その全部? でも、そうだとしたら、そうはっきり書かなかった理由は? ツェランが「散文」になれていなかったから? 「散文」で書くよりも、詩の方が「最終的に言いたかったこと」が明確になると確信したから?
 でもね……。
 こんなふうに書いてしまうと、野沢がこれまで書こうとしてきたことと違っていない? 詩のことばを「散文文脈」のなかでとらえなおし「意味」を探るということを拒否し、詩のことばの自律性(自立性)を暗喩ということばで定義しようとしていたのではなかったのか。「散文文脈」と対比する形で詩をとらえることを拒否していたのではなかったのか。
 私は、そういう「文脈」でおいては、野沢の論理には賛成である。
 「散文文脈」とは独立したもの、「散文文脈」に優先するもの、言いなおすと「散文文脈」にならないものこそが、「暗喩/詩」ある。ツェランのこの詩で言えば、ハイデガーとナチスの関係、それに対するツェランの「思い」、いわゆる「社会的な主張/肝腎なこと」を超越したも、超越することで世界を逆に明らかにする存在としてのことばが詩(暗喩)である。たとえば「アルニカ、矢車草」としか呼べない、そこにあるものこそが「暗喩」であり「詩」である。「アルニカ、矢車草」へと「身分け=言分け」していくことが「詩」である。
 でも。
 なぜ、ツェランの詩を語るとき、「社会的な散文文脈」のなかで、ツェランのことばを理解しようとするのか、そのことがわからない。別なことばで言うと、野沢がここで書いた「解釈」は、ふつうに書かれている「詩=比喩論」と、どこが違うの? 多くの「解説」は、たいてい、詩のことばの背景にある「事実(ここで言えば、ツェランのハイデガー山荘訪問との対話)」をもとに、ことばの全体をつかみなおすというもの。そして、その「事実」をもとに作者の「意図(主張)」を探るというもの。
 いったい、ふつうに理解されているツェランの解釈/読解と、野沢の転換した論の、どこに違いがあるのだろうか。そして、違いがあるとして、その違いを明確にするために、野沢は「暗喩」ということばはどうつかわれているのか。私には、さっぱりわからなかった。

 「暗喩論」とは関係ないのだが、野沢は「編集後記」でロシアのウクライナ侵攻について、こう書いている。

それにしてもNATOはいったい何をしているのか。ヨーロッパは天然ガスをロシアから大量に供給されており、息の根を止められるのではないかとの懸念もあり、さらにヨーロッパ全体を巻き込む世界戦争への懼れからウクライナを見殺しにしていると言われても仕方のない対応ぶりです。

 野沢がこの文章を書いたときがいつなのかわからないが、野沢はNATOに何を期待しているのだろうか。NATOのウクライナへの出兵だろうか。NATOは野沢にとって、どういう存在なのだろう。
 私は、ロシアのウクライナ侵攻には絶対反対だが、だからといってNATOの軍事力で問題を解決すればいいという考えには与できない。だいたいワルシャワ条約機構が解体したのに、なぜNATOは拡大し続けたのか。その狙いはいったいなんだったのか。いま世界で起きているのは、単純な軍事衝突ではない、領土問題ではないと思う。たとえ領土問題だとしても、それはNATOが決定権をもっている問題でもないとも思う。
 「国連は何をしているか」ではなく「NATOはいったい何をしているのか」という論の展開に、私は、恐怖を覚えた。世界の平和を決定するのはNATOなのか。私は、それを疑っている。野沢のようにNATOを信頼していない。

 

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書かれないことば

2022-04-09 10:17:40 | 考える日記

書かれないことば

 きょう、2022年04月08日の読売新聞(14版・西部版)の一面トップ記事は「露産石炭 輸入禁止へ/追加制裁 エネ分野も/G7と協調」。ロシア軍のウクライナ住民虐殺の疑いが高まったことから、経済制裁措置を拡大するというもの。
↓↓↓↓
 日本の石炭の輸入先のうち、主に発電用に使う「一般炭」の13%、製鉄などに使う「原料炭」の8%をロシアが占める(2021年速報値)。このため、政府はこれまでエネルギー分野での制裁に慎重だった。だが、ロシア軍の非人道的行為に批判が高まっていることを踏まえ、ロシアの基幹産業に打撃を与えて戦争継続を困難にするため、先進7か国(G7)で歩調を合わせることにした。
↑↑↑↑
 ここまでは何の疑問もなく読むことができる。
 私が、疑問に思ったのは、次の部分。
↓↓↓↓
 首相は、「非道な侵略を終わらせ、平和秩序を守るための正念場だ」と訴え、国民に理解と協力を求めた。
↑↑↑↑
 これも、もっともらしく聞こえるんだけれど、なぜ「国民に理解を求めた」のか。ロシア産の石炭を輸入しなくなる結果、国民がなぜ困る? わかっているじゃないか、発電に必要な石炭を他の国から調達しないといけない。製鉄につかう石炭も他の国から調達しないといけない。石炭代がかさむ。電気料金や鉄の値段が上がる。物価が上がる。国民はこの物価上昇に我慢しなければならない。値上げを受け入れなければならない。世界平和、ウクライナの住民を支援するために。
 そうなんだけれど。
 もし、ロシア産よりも安い石炭を他の国から輸入できたら? 物価は下がる? もし、他国から安い石炭を輸入できないにしても、なぜ、「国民」が協力しないといけない? 電力会社や企業が国の政策に協力すればいいのであって(つまり燃料が高騰した分を企業が負担する、赤字を抱え込めばいいのであって)、国民に転嫁しなくてもいいのではないか。電力会社、製鉄会社の事情は知らないが、企業の内部保留(黒字をため込んだもの)が膨大にあると報道されている。企業が協力して、資金を融通するという形で、今回の、ロシアへの経済制裁によって生じる「赤字」を負担するという方法があってもいいのではないだろうか。
 なぜ、「国民に」理解と協力を求めるのだろう。なぜ「企業に」理解と協力を求めないのだろうか。
 簡単だね。企業に、内部保留を吐き出し、協力しろ、企業は底部保留の金を融通しあい、この難局を乗り切れ、なんて言ったら「もう献金はしません」と言われるからだね。自民党の「収入源」がなくなる。だから、そんなことは言わない。
 どういうことを言うか。物価が上昇するということは、国民向けにアピールする。世界平和のため、ウクライナの犠牲者を助けるため、と言えば、誰だって反対はしない。だから原料高騰の分は、気にしないで商品の値段に転嫁すればいい、と言うのである。企業が赤字を抱え込む必要はない。国民の家計が赤字になればいいだけである。
 と、そこまで「露骨」に言うかどうかはわからないけれど。
 でも、ロシアのウクライナ侵攻の背後で動いている「経済システム」は、そういうことだろうと思う。ロシアに対する経済制裁をすることで、日本の企業経済も苦しくなる。でも、それは商品へ転嫁することができる。だから、実際に、企業そのものが赤字を抱えて倒産してしまうということはない。
 ここから、私は、こんなことも思う。
 いまはコロナの影響であらゆる経済が停滞している。企業が苦しんでいる。これを打開するためには、商品を値上げし、収益を確保するしかないのだが、「名目」がない。ロシアへの経済制裁の結果、原料が値上がりしたということがアピールできれば、商品への転嫁も受け入れられやすい。いまは、商品を値上げするチャンス、利益を拡大するチャンスなのである。それぞれの商品に占める原材料の割合を市民は知らない。少し余分に値上げしても、それに気づく国民は、たぶん、いない。
 私の「妄想」だが。
 コロナがこんなに長引かなかったら、今度の戦争は起きなかった。アメリカが、どたばたとアフガニスタンから撤退することもなかった。つまり、アフガンで消費される軍備を購入してもありあまる税金収入があれば、アメリカはアメリカ内部でアメリカの軍需産業を支えることができた。でも、それができなくなった。アフガンに金をつぎ込んでいるから、経済対策ができない、不景気だ。撤退してしまえ、という国民の声が強くなった。でもね。じゃあ、アフガンで消費されなくなった軍備をどこで消費するか、アメリカの軍需産業が金儲けができなければ、アメリカ政府への見返りもなくなってしまう。どうやって、金を稼ぐか。そんなことを、考える必要もなかった。でも、考えないと、どんどん経済は悪化する。(一方で、中国の経済は発展する。)
 私には、「経済システム」が引き起こした戦争に見えてしようがない。
 現代の戦争は「情報戦争」とも呼ばれているが、ロシアを挑発し、ウクライナへの侵攻を誘い出す「情報」は、果たしてなかったのか。ロシアとヨーロッパとの経済関係を断ち切り(ロシアにヨーロッパの金が流れ込まないようにし)、アメリカの経済を立て直す方法はないか、と模索している過程で、ロシアを挑発するという作戦が立てられたかもしれない。
 もちろん、私の「妄想」を「妄想ではない、正しい理解だ」と保証する「証拠」はどこにもない。でも、値上げ、値上げへと一斉に動いている社会を見ると、どうしても疑いたくなるのだ。私たちを支配しているのは「武力」よりも「経済力」なのだ。「経済システム」なのだ。私は「経済学者」ではないし、経営者でもないから、実際に金がどう動いてているか、それが社会にどう影響しているか、わからないのだが、どうしたって変である。
 この「経済戦争」の犠牲者は、きっと日本でも出てくる。金がなくて食品が買えず困った。電気代、ガス代が払えずに困った、という人は出てくる。そして、そのなかから餓死する、凍死する、熱中症で死亡するという人も出てくるだろう。そのひとたちには「銃創」はない。だれが殺したのかわからない。いや、そうではないのだ。それは「国」が殺したのだ。いまでも、貧困による死亡があるが、それは「国」が殺したのだ。その殺人は、ゆっくりと進む。明確な「傷痕」がない。しかし、そういう「国民」を巻き込んだ「経済戦争」がはじまっているのだ。

 私はウクライナで起きていることを、ほんとうに知っているわけではない。「情報」として知っているだけである。でも、身の回りで起きている「商品の値上げの動き」は実感として知っているし、働こうにも仕事がない、金が稼げないということは現実に体験しているので、そこから「世界」を見つめる、新聞で報道されているものとは違う世界が見えてしまう。新聞には書かれていないことが多すぎる、と思う。

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ロシアの戦争犯罪について考える

2022-04-08 11:49:24 | 考える日記

ロシアの戦争犯罪について考える

 きょう、2022年04月08日の読売新聞(14版・西部版)を読みながら、私は、またいやあな気持ちになった。一面に「国連人権理/露の理事国資格停止/緊急会合採択 賛成93、反対24」という見出し。記事の内容は、見出しでほぼ言い尽くされている。見出しからは、「国連人権理事会」が「ロシアの理事国資格を停止を決議した」とも読むことができるが、決議したのは国連総会。見出しにある「国連人権理」とは、主語ではなく、この記事のテーマ。そのことが、見出しからだけではわからないのだが、さらに見出しだけではわからないのは、次の部分。
↓↓↓↓
 投票の結果は賛成93、反対24、棄権58。中国は、ウクライナ情勢を巡り露軍の即時撤退や人道状況の改善を求める過去2回の総会決議でいずれも棄権したが、今回は反対に回った。米国との対立が目立つ北朝鮮、イラン、シリアも反対した。(略)
 決議案は米国が主導して作成した。ロシアによるウクライナでの人権侵害や国際人道法違反に重大な懸念を表明し、理事国の資格を停止する内容だ。
↑↑↑↑
 決議案はアメリカが主導し、24か国が反対したのだが、その「反対」した国を「米国との対立が目立つ」という修飾語で定義している。まるで、アメリカと対立しているからアメリカの案に反対した、という書き方。アメリカの案に反対するものは許さない、という感じがつたわってくる。アメリカの案(考え)に反対するものは、間違っている、という印象を与えたいかのようだ。北朝鮮、イラン、シリア以外の20か国は、なぜ「反対」したのか。その20か国もアメリカと対立しているのか。
 また「反対」した中国についても「ウクライナ情勢を巡り露軍の即時撤退や人道状況の改善を求める過去2回の総会決議でいずれも棄権したが、今回は反対に回った」と書いてあるが、「理由」は書いていない。なぜ今回は「棄権」ではなく「反対」なのか、理由があるはずなのに、それについては触れていない。
 この記事からわかることは……。
 奇妙なことだが、「反対」した国が、なぜ反対したのか、その根拠がわからないということである。中国、北朝鮮、イラン、シリアはなぜ「反対」したのか。「反対」した国から、その「理由」を取材したのか。そんなことは取材しなくてもわかるというかもしれない。でも、それは「思い込み」だろう。もし「米国との対立が目立つ」国が、その対立を引き継いで「反対」したのだとしたら、アメリカとの対立がどうような問題で、どう対立しているか、それを書かないと、アメリカと対立する国は悪い、ということになってしまう。アメリカと対立してはなぜいけないのか。
 もしかすると、「反対」する理由を書いてはいけないのかもしれない。アメリカの案に反対した理由を書いてしまうと、別の問題が明らかになる。だから理由を書いていないのかもしれない。

 さて。
 資格が停止されるとどうなるのか。
↓↓↓↓
ロシアは人権理事会への参加や投票、決議案の提出などができなくなる。
↑↑↑↑
 つまり、人権理事会から排除される。人権理事会はロシアを排除したまま、ロシアのやっている人権侵害を批判できる、ということである。
 いま、日本の裁判では、どんな裁判でも被告に弁護士がつき、被告は自分の行為について弁護することができようになっている。
 国連の人権理事会がどういうことをしているのか私は知っているわけではないのだが、この自己弁護というか、反論を封じたままの状態で、何かを決定していいのだろうか。こういう動きは、私には、民主主義とは相いれないものにしか見えない。
 ロシアの言い分を聞く。聞いた上で、その問題点を指摘し、ロシアから反省のことばを引き出すという「過程」がなければ、何があったとしても、それはロシアが「納得」したものではないだろう。民主主義というのは、議論をつづけることで、議論しているひとが変わっていくということを前提としている。対立するひとの意見を聞きながら、対立を解消する方法を探していくのが民主主義であるはずだ。この意見に反対するものは排除してしまえばいい。そうすれば「全会一致」の決議ができる、というのでは民主主義ではなく全体主義(独裁)というものだろう。
 排除と批判は違う。批判するためには、排除してはならない。受け入れることが前提にあるからこそ、批判が成り立つ。

 議論しながら(対話しながら)、双方がどうかわることができるかを探り出すのが民主主義の外交というものだろう。ロシアのウクライナ侵攻は、その基本を踏みにじったのだから、ロシアが間違っているということはたしかである。しかし、その間違っていることを明確にし、ロシアに納得させるためには、常にロシアを議論の場に引っ張りだす、議論の場に引き留め続けるということが必要なのだ。
 そして、その議論をするときには、読売新聞が書いているような「米国との対立が目立つ」というような安直なことばをつかってはいけないのだ。その対立の構造、原因、対立の過程(歴史)まで視野に入れてことばを動かす必要があるのだ。
 「どうせロシアは嘘をつく。最後は武力に訴える。だからロシアの話を聞く必要はない。ロシアを排除して、世界がアメリカを中心にまとまれば、世界は安定する」というのでは、そうした考え方こそ問題だ(今日の多くの問題の出発点だ)ということにならないか。
 必要なのは、誰か(何か)を排除することで団結することではなく、相手を巻き込み議論することである。決着がつかないから戦争で解決する、経済制裁で解決するというのでは、問題はいつまでも残り続ける。どんなに「排除」しても、「排除されたもの」が存在しなくなるわけではない。「排除」しつづけても、問題は残り続ける。
 議論は終わらなくてもいいのである。なせなら、議論している限り、戦争には突入できないからである。議論をやめたときに戦争がはじまるのである。

 あらゆるところで、ことばが死んで行く。人間よりも先にことばが死んで行く、というのが戦争かもしれない。コロナが発生し、大騒ぎになったときも感じたが、ことばが、ほんとうにつぎつぎに死んで行く、と感じる。

 

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Estoy loco por espana(番外篇160)Obra, Antonio Pons

2022-04-08 10:00:34 | estoy loco por espana

Obra, Antonio Pons

Se escucha una música sencilla y transparente.
No abruma el espacio, sino que lo impregna y desaparece.
Es imposible recordar los sonidos oídos o la música escuchada.
No se puede notar ni cantar.
Sólo el recuerdo de haber escuchado la música, de haber oído el sonido, permanece para siempre.
Ese tipo de música misteriosa se puede escuchar en esta obra.

シンプルで透明な音楽が聞こえてくる。
それは空間を圧倒するのではなく、空間に浸透して消えていく。
聞いた音、聴いた音楽を思い出すことはできない。
楽譜にすることも、歌ってみることもできない。
ただ、音楽を聴いた、音を聞いたという記憶だけがいつまでも残る。
そういう不思議な音楽が、この作品から聞こえてくる。

 

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