詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジュリア・デュクルノー監督「TITANEチタン」(★★★★★)

2022-04-07 14:47:20 | 映画

ジュリア・デュクルノー監督「TITANEチタン」(★★★★★)(2022年04月07日、KBCシネマ・スクリーン2)

監督 ジュリア・デュクルノー 出演 アガト・ルセル、バンサン・ランドン

 冒頭、車のエンジン部分(?)のアップがつづく。エンジンではないかもしれないが、車の内部、しかもシートとかハンドルとかではなく、もっと機械的な、ふつうは人が見ることがない部分。私は車を持たないし、車に関心がないので、いま映し出されているのが何かわからない。たぶん車だろうとするだけである。強靱な構造と、それに付随する油の汚れ。あるいは、それは汚れではなく、必要な不純物かもしれないし、必要であることによって「汚れ(汚い)」ではなく「美しい」にかわるものかもしれない。何もわからない。
 けれど、そこに「ある」ということが、わかる。私のわからないものが、私とは関係なく、そこに「ある」。
 映画は、この、そこに「ある」けれど、そこに「ある」ものが何かわからな、全体がわからないから個別の意味もわからないというい状態でつづいてく。多々し、わからないといっても、最初の映像が車の内部(エンジン)であるとわかる/想像できる程度には、情報が散りばめられている。少女は交通事故で、頭蓋骨にチタンのプレートを埋め込んだ。そのチタンのせいなのか、少女は「金属」が好きである。当然、車も好きである。どれくらい好きかというと、車そのものとセックスするくらいに好きである。その結果、妊娠し、車の子ども(?)を産んでしまうくらい好きである。その一方、人間とのセックスは嫌いである。相手が男でも女でも、愛情というよりは嫌悪感の方が上回る。セックスすると(しようとすると)、相手のことが我慢できずに殺してしまう。連続殺人の果に、逃亡する。その逃亡の過程で、奇妙な消防士(隊長)に出会い……と、まあ、テキトウに、その場その場で、「その場/そのときの人間関係」が「ある」ものとして描かれる。
 これは、とてもおもしろい。そこに「ある」ものが、ストーリーとは関係なく(関係があるのかもしれないけれど/ストーリーを突き破って)、ただ「ある」ということを主張している。だいたい、車とセックスし、妊娠するということが、「現実」かというと、嘘(ありえないこと)なのだが、その嘘のなかに「車が好き/金属が好き」という「真実」があって、その嘘でしか語ることのできない真実が「ある」ということが、ただ、映像化されるだけなのである。
 こんなデタラメ、どこまでつづけられるんだろうか。
 充実した映像に酔いながら、私はちょっと心配しながら、映画をみつづけた。途中から出てくるバンサン・ランドンが妙にリアリティーがあって、主人公の少女の「嘘」を、たんなる「ある」ではなく、もっと違うものに変えていくような感じがあって、そこもおもしろいなあ、と思うのだった。
 でも、こんなデタラメ、どうなるの?
 再びそう思ったら、クライマックスに、とんでもない「どんでん返し」、というか「種明かし」。
 少女というか、主人公の女は、車の子どもを妊娠している。いよいよ出産というとき、とても苦しい。そのときの産婆役がバンサン・ランドン。彼は息子を誘拐された。何年後かにあらわれた少女を息子として受け入れている。最初は、少女を息子の名前で呼ぶ。すると少女が突然、「アクレシア」と言う。ほんとうの名前で呼んで、ほんとうの名前で私を支えて、というわけである。私は、「わっ」と叫びそうになるほど感動した。そうか「私はアクレシアである」と少女は叫びつづけていたのか。車のショーでダンスをしているとき、何人もの男にアクレシア(だったと思う)と呼びかけられ、サインも求められるが、かれらは「アクレシア」を女の名前と思っていない。車の名前、商品の名前のように、ただ呼んでいるだけだ。
 で、これも最初の方のシーン。少女が車の後ろで退屈している。父親が自分に関心をしめしてくれない。あのとき、父親は、たしか少女の名前を呼んでいない。少女は名前を呼ばれたかった。
 これは、逆に言えば、少女はだれかの名前を呼びたかった。「匿名性」のなかで生きるのではなく、固有名詞の出会いのなかで生きたかった。だからこそ、逆に、主人公に迫ってくる女が自分の名前を名乗るのに、名前を聞かれても答えない。名前は、最初にあるのではなく、信頼関係ができたあとで、名前が必要なくなったときにこそ必要なのだ。名前を呼ばなくても、だれがだれであるかわかっているとき、そのとき、あらためて名前を呼ぶということは、きっとそれは、その相手が名前を呼んだ人になるということなのだ。バンサン・ランドンが出産で苦しむ少女を励ましながら「アクレシア」と呼ぶ。そのとき、バンサン・ランドンは「アクレシア」になる。そこに「ある(生きている)」人間が、別の人間に「なる」。バンサン・ランドンが、生まれてきた赤ん坊を、まるで母親のように抱き、「私がついている」というようなことを言う。そのとき、彼は、まさに、「母親」なのだ。アレクシアそのものなのだ。
 わっ、すごいなあ。
 私はほんとうに感動したが、同時に、ちょっと待てよ、とも思った。いま、私が書いた感動は、実は、どうでもいいことである。こんな「意味」に感動していたら、映画である意味がなくなる。ほんとうに感動しなければならないのは、この奇妙な、嘘だらけの映画を「事実」に変えていくアガト・ルセルの「肉体」、その「肉体の演技」に対してである。なんだってできそうな、しなやかな肉体。そのなんだってというのは、セックスから殺人まで、という意味である。何をしたって、彼女の「肉体」は傷つかない。妊娠がわかり、堕胎しようとして鉄の棒を子宮につっこむ、突き刺す。行方不明の少年に変装するために、鼻の骨を折る。「肉体」にとってはたいへんな苦痛だが、その苦痛を精神が跳ね返していく。精神こそが肉体なのだ。妊娠した後の、醜い肉体さえ、なんだってできる強靱さを持っている。これが、衰えつづけるバンサン・ランドンの肉体(鍛えているのに、醜いと感じさせる)との対比で強調される。アガト・ルセルの肉体は、どんなにメーキャップで醜く変形させられても、なおかつ、美しく、強い。なんといっても、車の子どもを産んでしまうのだ。
 こんな、どこから語り始めていいのか、どこまで語れば気が晴れるのかわからないような作品をパルムドールに選ぶカンヌ映画祭というのは、おもしろいね、とあらためて思った。このときの審査委員長はスパイク・リーらしいが、なるほどね、とも思った。同じように車と秘密を抱えた人間の再生がテーマ(?)の「ドライブ・マイ・カー」とは比較にならない。

 「ドライブ・マイ・カー」との比較を書こうかも思ったが、もう十分に「ドライブ・マイ・カー」は批判したのでやめておくが、この映画を見た後で思い返すと、「ドライブ・マイ・カー」の脚本賞受賞というのは、まるで「チタン」がわからなかったひとは「ドライブ・マイ・カー」で車と秘密を抱えた人間の再生、沈黙と語ることの意味を理解してください、と言っているようにも見える。カンヌ映画祭は、なかなかシンラツである。

 

 

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壱岐梢「くるりと」

2022-04-06 14:20:23 | 詩(雑誌・同人誌)

壱岐梢「くるりと」(「天国飲屋」創刊号、2022年04月01日発行)

 壱岐梢「くるりと」を読む。

融けたアイスクリームって舐めたことある?

「ごめん、今いい?」と
あなたからの電話
メールやラインではちょっとね、と
リアルな声どうしの時間は流れ
アイスクリームもうっかり融かした

クリームイエローの小さなとろみの沼
ひと匙舐めてみると
酷くなまぬるく 激しくあまったるく
あたしを攻撃してきた
同じ成分なのに
あまりに別のなにかになって

 「同じ成分」とは凍ったアイスクリームも溶けたアイスクリームも「同じ成分」という意味だろう。牛乳、砂糖、いろいろ。「あまりに別のなにかになって」はアイスクリームのこと。
 しかし、私は、どうしても違うことを考えてしまう。
 「あたし」は「あなた」と電話で話した。話がもつれて、「あなた」が「あたし」を攻撃してきたのか。「あなた」が電話が終わった後も「あたし」を攻撃しているのかもしれない。「相談しているのに、そんな答えをするなんて、あなたはもう友人じゃない」とかなんとか。いや逆に、「あたし」を攻撃しているのは「あたし自身」かもしれない。なぜ、あんなふうに「あまったるい」ことを言ってしまったのか、と「あたし」自身が「あたし」を攻撃しているのかもしれない。「あなた」のためにも「あたし」のためにも、そしてだれの役にも立たない。みんなをだめにしてしまう。アイスクリームが溶けるみたいに。「酷くなまぬるく 激しくあまったるく」は、そうした事態をまねいてしまう「あたし自身」の態度だ。
 もちろん、そんなふうには書いていない。
 でも、私はそんなふうに読んでみたい。
 詩は、こうつづいていく。

そういえばあたしたち
目には見えないパンデミックで
世界があまりに別な世界になるまで
なにかあれば会って
顔を寄せ合いひそひそやったっけ

 これはもちろん「あなた」と「あたし」の関係を語っているのだが、「世界があまりに別な世界になるまで」を私は、話し合っている「あなた」と「あたし」が別の人間になるまで、と読んでしまうのだ。
 話し合っているうちに世界の見え方が違ってくる(違ってきた)と壱岐は書いているのだが、世界が別のものになったのではなく、「あなた」と「あたし」がいままでとは違った視点を持つようになれば、世界は必然的に違って見えてくる。あるいは、世界が別のものに見えてくるのには、それまでの視点が変わってしまわなければならない。世界の変化は視点の変化、自分自身の変化なのである。
 電話で話し合っているうちに、アイスクリームは溶けてしまった。それはアイスクリームの変化だけではなく、「あたし」の変化でもある。アイスクリームの「成分」が溶けた後も「同じ」ように、「あたし」の成分もいままでと「同じ」であるはずだ。物理的には。しかし、心理的、精神的、感情的にはどうか。まったく別人になっているかもしれない。
 「あなた」と「あたし」はなんでも話せる親友だよね、のはずが、「もう電話してこないで、親友なんかじゃない」ということだってあるし、それは口にしないが「なんだかめんどうくさい友」ということだってある。

ひとつの世界がくるりと変わるなんて
あたりまえのことだったね

 なんだって、「あたりまえのこと」なのだ。「あなた」と親密な話をするのも、「あなた」と「あたし」が突然絶交するのも、次の日に仲直りするのも「あたりまえ」。「同じ成分」でできているから、ね。「あたりまえ」は「同じ(成分)」ということ。

融けたアイスクリームを舐めてみてよ
ぞくりとするから
やりきれないあまぬるさ あまったるさ
口にできたはずの〈時〉を失った味がする

 これは「あたし」が「あなた」に言いたいことばかもしれない。「あたし」は、いま、こう感じているよ。まあ、言わなくたって、つたわるだろうけれど。あるいは、これは「あなた」が「あたし」に言ったことばと読むこともできる。「あなた」と「あたし」もまた「同じ成分」でできている人間である。
 そして。
 世界が変わるのではなく、「自分自身が変わる」。この自分自身とは、そのひと固有の「時」でもある。でも気にしなくていい。「自分自身」とはどれだけ失ってみても、いつでもそこにある。まるで「時」と同じよう。たしかに貴重な「時」を失ったと思うときはある。ある時間があれば、もっと何かができたのに。でも、そう思うときも、「時」はいつでも私たちの前にある。私たちは「時」のなかにいる。その「時」もまた「同じ成分」でできている。

 そんなことを壱岐は書いているのではない、のかもしれない。しかし、私は、そんなふうに読みながら、この「時」と「あたし」の関係は、「おじさん」には体得しにくい「哲学」だなあ、「おばさん哲学」だなあ、と思うのである。

 

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「ウクライナでの虐殺」について考える

2022-04-06 10:44:14 | 考える日記

「ウクライナでの虐殺」について考える

 きのう、2022年04月06日、私は、何も書かなかった。書けなかった。ことばが動かなかった。
 何があったか。新聞がウクライナの状況を報道していた。ロシア軍による住民虐殺があった。それを読んで、私は、私のことばが突然、動かなくなった。
 いま、やっと動かしているが。
 なぜ、動かなくなったのか。そこに書かれている「死」が、私の知っているものではなかったからだ。どう理解していいか、わからなかった。そこから一日かけて、私自身の「死」に関する体験を思い起こしてみると。私は、死を自分の目で見たのは、兄の生命維持装置を停止させたときだけである。父も母も、私が見たときは、もう死んでしまっていて、「死ぬ」とはどういうことかを見ていない。もうひとりの兄についても、「死ぬ」瞬間を見ていない。「死」は過去形として存在したが、現在形としては存在したことがないのだ。(兄の生命維持装置を停止したときは「現在形」といえるかどうか、よくわからない。すでに何の反応も示すことができない状態だった。いわゆる「脳死」状態だった。)
 私は、「死ぬ」ということを語るためのことばを持っていないのだ。私は「死」については、葬儀とか焼骨についてなら語ることができるが、「死ぬ」ことについて語ることばを持っていないのだ。
 
 ここから、考え続けた。
 私はウクライナで起きていることを知らない。ロシア軍による虐殺があったのは事実だろう。軍隊が動けば、どけでも虐殺は起きる。そういう「歴史」を私は知っている。もちろん、「読んで」知っているということであって、目撃して知っているわけではない。「ことば」を知っている、ということである。そういう「知っていることば」と、「新聞に書かれていることば」は一致するものを多く含んでいる。だから、私は、それを「事実」として認識する。
 しかし、そこからことばが動かなかった。多くの政治家がロシアを批判している。当然のことである。彼らの「ことば」は、ごく自然なものだろう。そうは理解しても、私が彼らと同じことばを言えるかというと、どうもつまずいてしまう。私は政治家ではないから、そういうことばを言う必要はないのだが、何かつまずいてしまう。
 「知っている(わかっている)」ことについて語るというよりも、知らないことを、知らないまま、他人のことばで語ってしまうことになる、という感じがするのだ。
 これが、ことばが動かなくなった原因だ。

 きょうは、少し、ことばが動く。動かさなければ、と思ったのだ。「事実」似ついては、私は何もわからないが、「情報」についてなら、わかるというか、疑問に思うこと、名得できないことに対して、ことばが動く。「ことば(情報)」というものがどういうものか、私はある程度、経験として知っているからである。ウクライナで起きていることはわからないが、情報の現場で起きていることなら、ある程度、わかる。その「わかる」ことに対して、私のことばは動く。
 長い前置きになったが。

 ウクライナで起きた虐殺に関する「続報」が読売新聞に載っている。2022年04月06日(14版・西部版)の2面に、「ブチャ/露撤退前 衛星写真に遺体/米報道 露主張の根拠 崩れる」という見出し。見出しからわかるように、読売新聞が直接取材したニュースではなく、アメリカの新聞(ニューヨーク・タイムズ、電子版)の記事を紹介したものである。7人の遺体が放置された衛星写真も掲載されている。AFP時事が配信したものである。これがワシントン・ポストが掲載した写真かどうかは、説明を読んでもわからない。
 ウクライナで起きた虐殺を、ジャーナリズムはどうつたえているか。
↓↓↓↓
米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は4日、露軍が制圧していた3月中旬にブチャを撮影した衛星写真に、住民とみられる複数の遺体が写っていることが確認されたと報じた。ロシアはこれまで、民間人の遺体について、「(3月末の)露軍撤退後にウクライナ側が創作のために遺体を置いた」などと主張しているが、その根拠が大きく崩れた。
↑↑↑↑
 ロシアは、虐殺はウクライナの「創作」と批判しているが、そうではない、とまず結論が書かれている。正確には「(ロシアの主張の)根拠が大きく崩れた」と書いている。見出しも、「根拠 崩れる」というトーンである。
 このあとに、ニューヨーク・タイムズがそう結論を下した「理由(根拠)」が書かれている。番号は私がつけた。
↓↓↓↓
 ①同紙が民間の衛星写真を解析した結果、ブチャの通りでは3月11日時点で少なくとも11人の遺体が横たわっているのが確認された。②3月20~21日以降の衛星写真には、さらに遺体が増えていた。③同紙は、露軍撤退後のブチャの写真を入手し、衛星写真と比較したところ、同じ場所に遺体が写っており、同紙は「ロシアが主張する時点の数週間前から遺体はそこにあった」などと報じた。
↑↑↑↑
 いわゆる「三段論法」だろうか。ロシアは「3月末に、ウクライナ軍創作した」と主張している。しかし、3月末ではなく、①3月11日、11人の遺体があった、②3月20日以降、遺体が増えている(この間に、さらに虐殺がおこなわれた、という意味だろう)③なぜなら、2枚の写真では同じ場所に遺体が映っている。同じ場所で虐殺がおこなわれたのである。
 これは「説得力」があるね。「反論」のしようがないようにみえるね。でも、私は、そこに非常に疑問を感じたのだ。
 今度の虐殺で問題になっていることは、ふたつある。
 ①軍人ではなく、住民が殺された。
 ②その遺体が放置された。
 この場合、①は「誤射」ということがありうる。しかし②は誤って放置した、ということない。だからこそ、その遺体の放置を根拠に「虐殺」という批判が成立する。誤射による殺人も犯罪だが、遺体の放置は「倫理」に完全に反する。
 そして、この「遺体の放置」を理由に、虐殺を「証明」し、ロシアを批判しようとするのならば、なぜ、その「証拠写真」を掲載しないのか。ことばで説明するよりも、2枚の写真を比較させる方が、説得力があるだろう。
 (ニューヨーク・タイムズは、2枚掲載しているのかもしれないが、読売新聞は「AFP時事」配信の写真を1枚つかっているだけで、それがニューヨーク・タイムズが掲載したものかどうかは明記していない。しかも、読売新聞が掲載している写真の説明には「3月19日に撮影」と書かれていて、繰り返しになるがそこには7人の遺体が写っている。ニューヨーク・タイムズの「論理の根拠」である3月11日11人の遺体、3月20日以降の11人を上回る遺体の写真ではない。)
 さらに、私は、こんなことも思う。
 もし、3月11日時点での遺体が、3月20日(あるいは3月19日でもいいけれど)以降も放置されていたとしたら、そして放置が「虐殺」の証拠というのなら、「虐殺」したのはロシア軍だけなのか。ロシア軍だけが遺体を放置したのか。これは、ウクライナの市民にとっては心外な疑問かもしれないが、「遺体」を見たら、それを放置するのではなく、埋葬できないにしてもなんとか遺体が傷つかない場所に移してやりたいと思うのが人情ではないだろうか。一日、二日ではない。十日間以上も放置しているのである。もちろん、そこには住民はもういないから、そういうことはできない、ということかもしれないが……。彼らの遺族、友人たちは、いま、どこでどんなふうにしているのだろうか。その写真を見たら、どう思うだろうか……。
 私は、こういうことを体験したことがないから、映画などで知っていることを積み重ねて考えるだけだが、人は、知っている人が傷ついたり、死んだりしたら、なんとかその人を(その遺体を)安全な場所に移したいと思って行動する。そのときできなくても、あとで、そうしようとして、その場所へ行ったりする。そういう「痕跡」が、ニューヨーク・タイムズからはうかがえない。それを転写している読売新聞の記事からは、さらにうかがえない。
 何か変だなあ。
 遺体の身になっていない。遺体が「私たちは虐殺された」と叫んでいる。その声がニューヨーク・タイムズの記者、読売新聞の記者に聞こえたのなら、その「叫び声」がもっと明確につたわるように表現すべきだろう。「証拠」もつかんでいるというのに、その「証拠」を隠すように、記事には出てこない3月19日の写真を「証拠」として掲載するのはなぜなんだろう。

 きのう、私には、犠牲者の声が聞こえなかった。あるいは、声が大きすぎて、何を言っているのか聞き取れなかった。
 しかし、きょう新聞を読んで、ウクライナで虐殺された人の声が聞こえた。事実をはっきりとつたえてほしい、証拠をはっきりと、誰にでもわかる形でつたえてほしいと、彼らは叫んでいる。
 私には、それをつたえる方法がない。
 かわりに、新聞記事を読みながら、こんなつたえ方はない、と怒りをこめて批判する。もっと犠牲者によりそったつたえ方をしてほしい。

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇159)Obra, Joaquín Lloréns

2022-04-04 00:02:48 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Lloréns
T. Hierro 80x22x20 S.

Desplazamiento inestable del centro de gravedad.
Por un momento, me siento como asi.
Pero no es inquietante.
No hay señales de que esta escultura se caiga.

Me recuerda a los cuadros de bodegones de Cezanne.
La manzana se inclina como si se cayera de la mesa.
Pero no cae.
Hay una extraña fuerza gravitacional que retiene la manzana en el otro lado.

En esta obra de Joaquín, el tablero cuadrado de la base puede soportar el equilibrio físico.
Pero además, el propio espacio, que se extiende sobre el tablero, soporta el cambiante centro de gravedad de la obra.

La "protagonista" de la obra es el hierro.
Al mismo tiempo que el movimiento del "protagonista", se puedo ver el movimiento del espacio.
El espacio (el aire) es invisible para el ojo.
Sin embargo, el espacio invisible existe aquí como otro "protagonista".
Joaquín está creando la forma del espacio al mismo tiempo que crea la forma del hierro.
Joaquín es un escultor del espacio.
 
不安定な重心の移動。
一瞬、そう感じる。
しかし、私は不安にならない。
この彫刻が倒れる気配はない。

私はセザンヌの静物画を思い出した。
林檎はテーブルから落ちるかのように傾いている。
しかし、落ちない。
反対側に林檎を引き留める不思議な引力がある。

このホアキンの作品は、土台の四角い板が、物理的なバランスを支えているのかもしれない。
しかし、それ以上に、その板の上に広がる空間そのものが、作品の重心の移動を支えている。

作品の「主役」は鉄である。
その「主役」の動きと同時に、空間の動きが見える。
空間(空気)は目には見えない。
しかし、ここには、その見えない空間が、もう一つの「主役」として存在する。

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池田清子「生きてるっていうこと」ほか

2022-04-03 13:45:34 | 現代詩講座

池田清子「生きてるっていうこと」、徳永孝「境界線」、緒方淑子「のんおあみゅるじんぐううるおあらくううんえにもあ」、青柳俊哉「どんぶり法師」(朝日カルチャーセンター福岡、2022年03月14日)

 受講生の作品。

生きてるっていうこと  池田清子

痛いっていうことは
生きてるっていうこと

怖いっていうことは
生きてるっていうこと

老いること
悔やむこと
恥じること
会いたくてたまらない人がいるっていうこと
こうして 詩が書けるっていうこと

数学の問題を味わうように
生きてるっていうことを
ゆっくり 味わうことができたらいいんだけれど

 「生きてるっていうこと」が繰り返されているが、三連目にだけはない。省略されている。省略されても、わかる。その省略した分だけ、ことばが早くなり、ことばが多くなる。「老いること/悔やむこと/恥じること」には、また「っていうこと」が省略されている。ここも、なくてもわかる。この省略によるリズムの変化が、ことばを生き生きさせている。
 最後の連の「数学の問題を味わうように」は、池田のひととなりを知っている人にはわかるが、知らない人にはわかりにくい。この連がないと池田の「個性」が出てこない、池田が書いた意味がないといえるかもしれないが、つまずく人が多いと思う。
 三連目には池田の主張があふれているのだが、あふれすぎているかもしれない。少なくとも「ゆっくり 味わうことができたらいいんだけれど」の「できたらいいんだけれど」は言いすぎている。「生きてるっていうこと」でしめくくり、「できたらいい」は読んだ人に感じさせることが大切だと思う。
 自分ですべてを語るのではなく、読者に任せてしまう。そうすると、詩が窮屈ではなくなる。

境界線  徳永孝

低く薄く広がる
マーブル模様の雲

天と地 あの世とこの世を隔てる
ガラスの天井
肉体有るものは通れない

お父さん 振亜(ツェンヤ)さん お母さん
いなくなった人達
みんなあの上に行ったのかな

毎日生きてゆくことが
誰にでも最後まで残された
一番大事な仕事

その仕事を終えた時
あの境界線を越えて
先立った人達に迎え入れられたい

けれども おまえは
そのような生き方をしているか?

 徳永の詩も「生き方」をテーマにしている。受講生のなかから指摘があったが、最終連の質問は、「反語」的に響く。つまり、「そのような生き方をしているか?」という問いは、多くの場合「いや、していない」と否定の答えを誘導しやすい。その場合、それまでに書いてきた肯定的な響きが消えてしまう。「そういう生き方をしてきた、だから、私は先立った人達に迎え入れるはずだ」という肯定的な方向へ動いていくのはむずかしい。
 「生き方」をテーマに書くと、最後を強い肯定で終わるのは「傲慢」という印象を与えるかもしれないと配慮しているのかもしれないが、詩には、こういう配慮はいらない。
 人がどう思うかは、その人の問題。
 詩を書く時は、詩は読まれるものということを意識すると思う。しかし、逆にも考えてみよう。詩を読むのは、他人の考えを読むだけではない。詩を読む時、書いた人のことばに自分のことばが読まれることでもある。読みながら、自分はどうなのかな、と考える。人間は、たいていの場合、他人のことは気にしない。どう見られるかは、気にしないで、ただ自分の書きたいことを書けばいいと思う。

のんおあみゅるじんぐううるおあらくううんえにもあ  緒方淑子

お洋服やさんに行きました
コートの中身はコーン
あったかいんですよ  ~  えすでぃじぃず
 なんです  ~  店員さんは うふふ
セーターは たぬき ひらがな
あったかいんですよ  ~  店員さんはうふふ

えすでぃじぃず? 害獣駆除?
          飼ってるの?
そこまでは  ~  知らないんですよ  ~  
          店員さんはうふふ

次のお店でも たぬき ひらがな
あったかいんですよ  ~  
そこまでは  ~  知らないんですよ  ~  
 同じやりとり 店員さんはうふふ
  でも さっきより 少し困ってる

たぬきなら

郊外 の5月 の明るい田んぼで夫婦
峠 の道端 のこは倒れてた

きょうは たぬき ひらがな

 SDGs(エスディヘジーズ)とタヌキ、セーターの関係はわからないのだが、緒方が洋装店で体験したことを書いている。「たぬき」「ひらがな」、店員の「うふふ」。そのあと、「たぬき」から実際に見たタヌキのことが語られる。
 分かち書きに、それまでの体験(少し変わったリズム)が反映されていて楽しいのだが。私は一か所、とても驚いてしまった。
 「峠 の道端 のこは倒れてた」の「こ」と書かれていることば。私は「タヌキの子」と思った。直前に「夫婦」が出てくるから、その「子」と。しかし、緒方は「子」ではない、という。そこに倒れていたタヌキを指す、指示代名詞、という。
 「どんなふうにつかう?」
 「たとえば、犬を飼っている人が、このこはねえ、とか」
 「それは、私がかわいがっている子どものような存在、だから子というのでは?」
 「いや、そうじゃない。ポットを指して、このこは働き者、とか」
 私は、この説明に、心底驚いた。指示代名詞として「こ」ということばをつかったことはないし、聞いた記憶もない。緒方が言った「ポット」の例ならば、「これ」とか「それ」ということばをつかうだろうし、もし「こ(子)」ということばならば、それは自分が非常に愛着を感じている(自分の一部/犬を我が子き呼ぶのに似ている)ための、一種の「誤用」として理解できるが、愛着をこめたわけでない指示代名詞としての「こ」のつかい方があるとは知らなかった。私は福岡県に住んで50年になるが、ずーっと、この土地で話される単純な(?)指示代名詞のつかい方を知らずにきた。
 きっと知らないことばが、まだまだあるぞ、と思った。
 詩から離れてしまったが、この詩について語り合った時、会話がそういうふうに動いたので、その記録として書き残しておく。

どんぶり法師  青柳俊哉

蝉の声が 黒い雲母にしみいるこの夏
どんぶりのお椀に乗った小さい法師が 
頭に蜻蛉をのせて 津古の池水を渡ってくる 
赤松の崖から青い蟇(ひき)が飛び込む 水の大梵鐘! 

波うつ蓮の葉のうえで きょうも老いた河童が
酒に赤く酔う バラの友の河童も来ていて 
どこへ行くのかと問う 玄海の胸像(むなかた)の王に 
有明海の珍魚わらすぽを献上するのだ 
わだつみの宮のテラスから 女神さまを
遥拝(ようはい)し みあれ祭を見物するのだとかえす

友は水の旅の無事を願って 法師のお椀へ 
天の白いバラの花びらを吹きおくる

 この詩について語り合った時、「連想」ということばが受講生のなかか飛び出した。「連想が、ここちよい」と。
 緒方の書いていたタヌキのセーターと道路で倒れていたタヌキは、連想とはいえないかもしれないが、人の意識(ことば)は、あることをきっかけに別な方向へ動いていくものである。青柳の詩の特徴は、その連想が自律的なところにある。結論があって、それに向かってイメージを集めていくというよりも、ひとつのイメージが次々に新しいイメージを呼び、広がっていく。それが結果的にひとつの世界をつくりだす。
 青柳は芭蕉の「岩にしみ入る蝉の声」「蛙飛び込む水の音」が一連目に反映していると語った。その芭蕉の世界にとどまらず、二連目、三連目へと想像を連ねていく。このとき、その「想像(連想)」を統一するものがあるとしたら、何だろうか。それは、ことばの伝統だろう。青柳は芭蕉を引き合いに出したが、あることばが動くとき、そのことばは一緒に「文学」というか、他人がつくってきたことばの影響を受ける。自分だけの体験でことばを動かすのではなく、そこには少なからずことば同士が交渉するようにしてつくりあげてきた「動き」がある。この動きにひとつの傾向があると(別な言い方をすれば、あるひとつの文学伝統の方向性があると)、そのことばは安定して感じられる。むずかしいのは、そのとき「方向性」がひとつに決定されと、わかりやすいけれど、退屈(わかりやすすぎる)ということが起きる。
 また、緒方の作品への感想と同じように、また作品から離れてしまった。

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「経済戦争」の敗者はだれ?

2022-04-03 10:57:40 | 考える日記

 ロシアのウクライナ侵攻の行方が見えない……とは、私は、一度も考えたことがない。結果は、はじまったときから、私には「見えている」。というか、それ以外のことを想像したことがない。
 どうなるか。
 ロシアは「負ける」。
 理由は簡単。
 ロシアがウクライナに侵略した。侵略者は必ず負ける。日本は中国や韓国に侵略し、負けた。アメリカはベトナムに侵略し、負けた。イラクに侵略し、負けた。アフガニスタンに侵略し、負けた。(アメリカはベトナム、イラク、アフガニスタンに「侵略」したわけではない、という人がいるかもしれないが、それはどちらの側から戦争を見るか、「定義」するかの問題。ベトナム、イラク、アフガニスタンから見れば、アメリカ軍が、わざわざアメリカからやって来たのは「侵略」以外のなにものでもないだろう。)
 古くは、ローマ帝国の領土拡大、ナポレオンのロシア侵略、イスラムのイベリア半島侵略。
 自分の住んでいる土地を離れて戦えば、必ず、負けるのである。みんな土地を知らないから負けたのだ。象徴的なのが、イスラムのイベリア半島侵略。イスラムは長い間、スペインを征服し続けたが、北部は支配できていない。スペイン北部は、雨が多く、緑が多い。それは砂漠とは、土地(気候)がまったく違う。イスラム教徒は、その土地、気候を知らなかったからだ。
 とくに、アメリカは、自分の住んでいる土地を離れて、「異国」で戦争している。そういう人間は勝てるはずがない。
 こういうことは、私はベトナム戦争から学んだ。
 その土地に住んでいる人が、その土地を捨てることをあきらめない限り、よそからきた人間が勝つことはできない。その土地にはその土地を利用した生き方があるからだ。その土地の利用の仕方を知っている人間が生き残る。つまり、勝つ。

 私の知っている例外、侵略者が勝利をおさめ、居すわり続けているのは、スペインのアメリカ大陸侵略くらい。戦うときの武器に差がありすぎた(武器文明に差がありすぎた)のと、侵略された側への「武器の補給(支援)」が他の国からなかったので、負けた。ベトナムにしろ、アフガンにしろ、他の国が武器支援をしている。単独で戦っているように見えて、単独で戦っているわけではない。武器支援のないところで戦わなければならなかったことが、アメリカ大陸が侵略されてしまった理由だ。
 そして、このアメリカ大陸侵略には、もうひとつ注目しないといけない点がある。あれは、スペインというよりもキリスト教のアメリカ大陸侵略だったのだ。ほかにもいろいろ目的があるが、宗教を広める、「未開の人間を文明に目覚めさせる」という目標があった。そして、それが「成功」した。武力侵略、経済侵略が、そのまま「宗教侵略」として定着した。
 アメリカは、このあたりの「事情」を勘違いしている。「理念(宗教)」を掲げて戦ったから勝ったと思っているのではないのか。歴史のことを何も知らない私の見る限り、宗教(理念)による侵略の成功(?)が、今のアメリカに引き継がれている。アメリカは「資本主義=自由」という、「宗教」に似た理念で世界で戦争を繰り広げている。「理念」を掲げさえすれば、勝てると思っている。けれど、やっぱり負けた。「自由主義/資本主義」の理念を掲げて戦っているが、やっぱり負けた。アメリカ大陸に存在したいくつもの国に「武器支援」がなかったけれど、ベトナムにもアフガンにも、他国からの「武器支援」はあったからね。一方、ベトナムに侵略したアメリカへは、そういう直接的な武器支援はなかった。アメリカは「自前」で武器を調達し続けた。まあ、アメリカの武器が最先端であり、他国の武器支援など役に立たないという事情もあるかもしれない。

 いま、アメリカがやっているのは、この戦法だね。自分は戦争に参加しない。「武器支援」でウクライナを支援する。ここでおもしろいのは、アメリカが直接戦争しようが、間接的に戦争しようが(武器支援しようが)、そのときもうかるのはアメリカの軍需産業ということだね。

 脱線した。

 ロシアに、もし「勝つ」要素があるとしたら、アメリカの他国への侵略と違って、ロシアがウクライナと「地続き」ということ。「武器支援」の補給路が、どこにでもつくれるということ。ゲリラ攻撃ができるのだ。だからこそ、ロシアがウクライナから撤退したとしても、それは「負け」を意味しないかもしれない。油断させる作戦かもしれない。それにねえ、なんといっても、ロシアもまた、ウクライナの土地を知っている。同じ風土を生きているひとが多い。
 ということは。
 この戦争は「ベトナム戦争」以上に泥沼化することになる。

 問題は、これに「金(経済)」が絡んでくることだなあ。(先に「脱線した」と書いたが、実は、これから書くことを書くための準備として、あえて横道に逸れておいたのだ。だから、これから書くことこそが、私のいいたいこと。)ベトナムは、世界経済に占める位置が低い(低かった)。簡単に言いなおせば、ベトナムから何かが輸入できなくなって困る国というのはあったかもしれないが、少なかった。
 けれど、今度は違う。
 ロシアから石油、天然ガス、小麦を輸入している国は多い。それらが輸入できなくなれば、輸入に頼っていた国の経済は、とたんに狂い始める。それは、あっという間に世界中に拡大していく。コロナウィルスの感染拡大よりも早い。そして、めんどうくさいことに、この拡大(たとえば物価の上昇)というのは直接的に人間を死に至らしめるわけではないから、とてもみえにくい。逆に言えば、その物価上昇で儲けているひとの、もうけもみえにくい。資本家は、何よりも「戦争」を利用して「便乗値上げ(利益の確保)」ができる。「ロシアの戦争のせいで、原料が値上がりしているから、仕方ないんですよ」。
 で、ちょっと思い出すのだが。私は直接テレビを見ていたわけではないので勘違いかもしれないが、NHKが原料費の高騰と商品の値上がりについてグラフで解説していた。(音を聞いただけ。)なんでも、原料の高騰幅に商品の高騰幅が追いついていない(一致しない)、というような説明だった。テキトウに言いなおすと、原料の石油・天然ガス、小麦が10%値上がりしているのに、商品の値上げは10パーセントではない。企業は原料の値上がり分を転嫁できずに困っている、というのがNHKの説明である。
 この説明、どうしたっておかしい。
 ある製品が原料だけでできているなら、原料が値上がりしたら商品も同じだけ値上げしないと原料が値上がりした分だけ赤字になる。けれど、どんな商品(製品)も原料だけてできているわけではなく、製造にたずさわる人間がいる。労働力も原料にあわせて値上げする(賃上げする)なら商品は原料の値上がりに正比例して値上がりするが、労働者の賃金を据え置いたままなら、商品は原料の値上がりに正比例しない。石油が10%値上がりしたら、バス代が10%値上がりする、電気代が10%値上がりするわけではない。石油が10%値上がりしたけれど、電気代は5%の値上げ。電力会社は赤字を覚悟で消費者のために働いている、とは言えないのだ。「生産過程」のコストをあえて除外して、原料の値上げと商品の値上げが正比例していない、なんて、なんのための説明なのか。企業の便乗値上げを追認するための、子供だましの説明ではないか。

 ここからわかること。

 ロシアのウクライナ侵攻に歩調をあわせて、金儲け主義(アメリカ資本主義)が、巧妙に動いているということである。キリスト教が大勝利をおさめたアメリカ大陸侵略も、単に「理念(宗教)」の侵略ではなく、経済の侵略だった。アメリカ大陸には、ヨーロッパの金儲けに役立つものがたくさんあった。それを搾取した、ということを忘れてはならない。
 経済的搾取を、ひとはどう呼ぶか知らないが、それはやはり「戦争」なのだ。「武力の戦争」と同時に、「経済戦争」が、いつでも起きている。そして「経済戦争」はいつでも「搾取」という一方的な形で展開される。資本家が必ず「勝つ」。「搾取」と戦い、耐え抜き、それに勝つため(反撃するため)の「土地/気候(風土)」のようなものを、私たちはまだ手にしていない。「搾取」に対する「ゲリラ戦」の基盤は、消費者独自の経済網だが、これはほとんど不可能だろう。もうひとつの基盤は「思想(ことば)」である。どんなことば(理論)で資本家の「搾取」、それに加担することばの嘘を暴いていくか、そういうことをめざさないといけないのだが、ジャーナリズムに横行している「学者」のことばを読むと、彼らは自分の地位に安住するために、ただ資本家(アメリカ資本主義)のことばを補強することに専念しているように思える。

 ロシアはウクライナから撤退する。ロシアは、この戦争に負ける。そのとき、私たちを動かしている「経済」は、どういう形をとっているか。搾取の構造はどうなっているか。私たち市民は、この戦争で「勝った」と言えるのか。勝ったと喜ぶのは、資本家だけではないのか。

 

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Estoy loco por espana(番外篇158)Obra,Jesus Coyto Pablo

2022-04-03 09:11:07 | estoy loco por espana

Jesus Coyto Pablo "Los perfumes del tiempo"
Encáustica fotografía sobre papel artesano. 2021

 

¿Qué es la memoria?
Todo el mundo lo sabe.
Lo que una vez viste u oíste.
Su forma, color y sonido.
Cosas que pueden reproducirse en nuestra conciencia.

Pero hay otro tipo de memoria.
Lo que no se puede reproducir en la memoria.
Efectivamente, existía.
Eres consciente de que ha existido, pero no puedes reproducirlo como una forma, un color o un sonido concretos.
No lo recuerdo.
En la obra de Jesús Coyto Pablo, me parece que él trata de plasmar eso irrecordable en una forma irrecordable.

No, no es así.

O tal vez intenta borrar lo que quiere olvidar pero no puede, lo que no puede evitar recordar.
No, quiero ver su trabajo de esa manera, creo, de repente.

Mis palabras (la conciencia) están arañadas, heridas y perturbadas.

Algunos recuerdos queremos recordarlos, otros queremos olvidarlos.
Se mueve contra nuestra conciencia.
Quiero recordar, pero no puedo.
Quiero olvidar, pero no puedo.
Esta "traición de la conciencia" puede ser el tema de Jesús Coyto Pablo.

Así como no poder recordar es una "traición a la conciencia", recordar (no poder olvidar) es también una "traición a la conciencia".
La traición de la conciencia hace que nuestro tiempo sea muy complejo.
Esa complejidad en sí misma, siento que es Jesús Coyto Pablo.


記憶とは何か。
だれでも知っている。
かつて見たもの、聞いたもの。
その形、色、音。
意識のなかに再現できるもの。

しかし、もう一つの記憶がある。
記憶のなかに再現できないもの。
たしかにそれは存在した。
その存在したという意識はあるのに、それが具体的な形、色、音として再現できない。
思い出せない。
Jesus Coyto Pabloの作品を見ると、彼は、その思い出せないものを、思い出せない形のままとらえようとしているようにみえる。

いや、そうではない。

あるいは、忘れたいのに忘れることができないものを、どうしても思い出してしまうものを、消そうとしているのかもしれないとも思えてくる。
いや、そんなふうに彼の作品を見たい、私は、突然、思ってしまう。

私の言葉(意識)は、傷つき、乱れてる。

記憶には、思い出したいものもあれば、忘れたいものもある。
それは私たちの意識を裏切って動く。
思い出したいのに思い出せない。
忘れたいのに忘れられない。
この「意識の裏切り」こそが、Jesus Coyto Pabloのテーマかもしれない。

思い出せないということが「意識の裏切り」であるように、思い出してしまう(忘れられない)というのも、「意識の裏切り」である。
「意識の裏切り」によって、私たちの時間はとても複雑になる。
その複雑さそのものが、Jesus Coyto Pabloと、私は感じる。

 

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長嶋南子「落としもの」

2022-04-02 13:29:57 | 詩(雑誌・同人誌)

長嶋南子「落としもの」(「天国飲屋」創刊号、2022年04月01日発行)

 「天国飲屋」創刊号は、おもしろい。いろんな「おばさん」があつまっている。私はていねいに考えることが苦手なので、かなりの頻度で差別用語をつかってひとをひとくくりにする。そうすると、めんどうな手間が省けるからである。長嶋南子は、私が「おばさん」に分類しているひとりである。なぜ「分類」しておくかといえば、と書くと長くなるし、また手間もかかるので省略するが、これから書くことのなかに、おのずと「おばさん」があらわれてくるだろうから、「おばさん」とはどういう人間かいちいち書かずにことばを進める方が、ことばの経済学からいって「一石二鳥」なのだ。
 と、ケムにまいて、書き始める。
 長嶋南子「落としもの」は、こうはじまる。

きょうは産み落とさなかった子どもの誕生日です
赤ん坊を産んで落とすのが母の役目です

 どきりとするね。妊娠したら、出産予定日もわかるだろうが、かならず予定日に生まれるとはかぎらないから、出産予定日と「誕生日」は違う。けれど、「意識」のなかでは「予定日」と「誕生日」は同じ。これは、実際に子どもを胎内にかかえている女性にとっては「意識」というより「肉体」の切実さとして迫ってくる感覚だろうと思う。私が「どきり」とするのは、ここに書かれていることが「堕胎(赤ん坊の死)」を連想させるだけではなく、そのときいっしょに存在する「女の肉体(母の肉体)」を感じてしまうからだ。「赤ん坊を産んで落とすのが母の役目です」は、意味はわかるが、同時に、「意味」以上の何かがこの一行を支えていると感じさせる。「意識」あるいは「意味」にならない「肉体」の強烈さ。「肉体」は「役目」で分類できるようなものを超えている。男は(たとえば、「おじさん」の代表である政治家は)「赤ん坊を産むのが母の役目」とは言えても「産み落とす」とは言えない。「おばさん」は、頭で整理できない何かをかかえている。長嶋は、頭では整理しきれない何かと向き合い、頭で整理して発せられることばに対して怒っている。その怒りの奥には、生まれなかった子どもへの愛があるのか、生まれなかった子どもの怒り・嘆きがあるのか、それとも生むことができなかった女の、生んだのに見捨てられる女の、何にぶつけていいかわからない怨念があるのか。これは、もちろん、整理のしようがない。それでも、ことばは、何かをつかみとろうとして動いていく。

落としたら拾われます
わたしの子どもは落としものにはなりませんでした
拾ってくれる人がいなかったのです
まが玉みたいな形のままで
胎内をただよっています
脳が萎縮してくると
ただよっているのことを忘れ去ります
わたしが忘れると
誰も思い出してくれません
不憫な子どもです 不憫なわたしです

 「産み落とす」ということばが、「落とす」「拾う」ということばにわかれながら描くのは「客観的事実」なのか「主観的事実」なのか。「客観」をよそおいながら、「客観」にならないものが動く。「拾ってくれる人がいなかったのです」と書いているが、母とは「産み落とす」ひとであると同時に「拾うひと」でもあるはずだから、「拾ってくれる人がいなかったのです」は単に母と子の関係を語っているわけではないことになる。「胎内をただよっている」は「肉体」はそれを忘れられないと語るのだろうが……。
 語られていないことが、いや、
語り尽くせないことが、ここにはある。それが「ある」ということが、語られている。その「ある」を支えているのは「わたし」という存在である。
  それを象徴するのが、

わたしが忘れると
誰も思い出してくれません
不憫な子どもです 不憫なわたしです

  「不憫な子どもです」は即座に「不憫なわたしです」と言いなおされる。「子ども即わたし」。そして、その「即」は「不憫」ということばで代弁される。そのときの、ことばの動きの「強さ」。
  この、強さそのものをあらわす「即」、--書かれていない「即」--つまり、ほかのことばで言いなおされる「即」が、長嶋の詩にはたくさん出てくる。( と、思う。--過去の作品から具体例をあげないといけないのだろうが、省略。) この作品では、「母親」であるはずの「わたし」が「わたしを産み落とした母」のことを描くことで、「子ども即わたし(母)」が「わたしの母即子どものわたし」という形で展開していく。「わたし」は「母」であると同時に「子ども」、「母」は「母」であると同時に「誰かの子ども」。ここには「即」のつながりだけが「ある」ことになる。
 こう展開していく。

まが玉みたいなものが連なっているネックレスを買いました
たくさんのまが玉が首回りを飾ります
古墳から出土されるまが玉ですから
神代の昔から産み落とされなかった子どもは
たくさんいたのでしょう
わたしを産み落とした人は百四年生きました
きのういのちを落としました
いのちの脱け殻を拾いにいきました
落としては拾われて地上はにぎやかです
わたしの柩にはまが玉のネックレスを入れて下さいね
何万年後に出土されて
博物館に展示されます
わたしが産み落とさなかった子どもです

 長嶋の「即」は「連なる」である。この「連なる」は、ただの「連なる」ではない。接続ではない。

わたしを産み落とした人は百四年生きました
きのういのちを落としました
いのちの脱け殻を拾いにいきました
落としては拾われて地上はにぎやかです

 「落とす」と「拾う」。そこには「断絶」がある。「断絶」があるのに、「連なる」。「断絶」しているのに「即」、切り離せない「連なる」なのである。
 簡単に言いなおすと「矛盾している」。この「矛盾」の前で「平気」なのが「おばさん」なのである。男(おじさん)は、「矛盾している」と指摘されると、うろたえる。「論理的」であろうとして、ますます非論理へはまりこみ、非論理をごまかすために、あっちこっちから「引用」をはじめる。「引用」とは、つまり、これは私が言っていることではなく、もっと有名な偉い人の言っていることだから正しい、私の正しさは偉い人によって保証されているというと、奇妙な「言い訳」のようなものなんだけれどね。
 「おばさん」は「矛盾している」という指摘にうろたえない。逆に、反撃する。矛盾している(統一されていない)方が「にぎやか」でいいじゃないか。
 この「にぎやか」は「さびしい」でもあるんだけれどね。
 長嶋は、そういうことは、いちいちいわない。「さびしさ」は、「不憫」につうじる。何が不憫といって「産み落とされなかった子ども」。それは、「わたし」。「産み落とされて」、その「産み落とした母」の「いのちの脱け殻」を「拾う」。こんな断絶しているのか接続しているのか、一言では言えない「連なり」。そういうことを生きるのは、たしかに「不憫」だねえ。でも、「にぎやか」でうれしい。

 長嶋のことばには、整理してはいけない何かが、ある。私は、それに近づいたり、離れたりして、思いついたことを言う。「おばさん」というのは怖い存在なので、私は、いつでも逃げられる準備をしながら、遠吠えをするガキのようなものだなあ、と思う。
 


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Estoy loco por espana(番外篇157)Obra, Joaquín Lloréns

2022-04-02 09:13:16 | estoy loco por espana

Obra Joaquín Lloréns
T. Hierro 65 x 18 x 15 S.

Una forma simple y hermosa.
Un árbol o un hombre.
De pie en una esquina.
El mundo comienza en esa esquina.
La belleza de estar solo.
La infinidad de la soledad.
Cuando miro un árbol, un hombre, 
pienso también en el espacio y el tiempo puros 
que se extienden ante él.

シンプルで美しい形。
一本の木か、一本の男か。
立っているのは、片隅。
世界は、その片隅からはじまる。
孤独であることの美しさ。
孤独であることの、無限さ。
一本の木、一人の男を見るとき、
私はまた、彼の前に広がる
純粋な空間と時間を思う。

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Estoy loco por espana(番外篇157)Obra, Joaquín Lloréns

2022-04-02 09:13:16 | estoy loco por espana

Obra Joaquín Lloréns
T. Hierro 65 x 18 x 15 S.

Una forma simple y hermosa.
Un árbol o un hombre.
De pie en una esquina.
El mundo comienza en esa esquina.
La belleza de estar solo.
La infinidad de la soledad.
Cuando miro un árbol, un hombre, 
pienso también en el espacio y el tiempo puros 
que se extienden ante él.

シンプルで美しい形。
一本の木か、一本の男か。
立っているのは、片隅。
世界は、その片隅からはじまる。
孤独であることの美しさ。
孤独であるかとの、無限さ。
一本の木、一人の男を見るとき、
私はまた、彼の前に広がる
純粋な空間と時間を思う。

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学者は何を明らかにし、何を隠すか

2022-04-01 17:26:12 |  自民党改憲草案再読

学者は何を明らかにし、何を隠すか

  慶応大学教授・細谷雄一の、「ロシアもウクライナも両方悪い」は不適切という連続ツイートが評判になっている、という。細谷は「国際法」を引用しながら、論を展開している。とても明瞭な論理であった。
 しかし。
 私は、問題の立て方に疑問を感じた。
 ロシアとウクライナとどちらが悪いか。「両方悪い」はもちろん完全に間違っている。侵攻したロシアが悪いに決まっている。だから「ロシアもウクライナも両方悪いは不適切」というようなことは、国際法を持ち出さなくたって、だれにだってわかる。
  ということは、逆に考えると、なぜ細谷が国際法を持ち出して「ロシアもウクライナも両方悪いは不適切」と言ったのか、その理由を考えないといけない。
 何を隠そうとしている? 何か隠そうとしていないか。

 ウクライナへのロシアの侵攻。それはその局面だけを見れば、ウクライナで起きているロシアとウクライナの軍事衝突である。これは、もちろんロシアが悪い。
 しかし、この問題をロシアとNATOのどちらが悪いか、と考え直すとどうなるか。もちろん、ここでもロシアが悪い。NATO軍はウクライナには存在しないのだから、NATOに悪い点はなにひとつない。
 しかし、それをさらに、地理上の軍事支配、ロシアの世界戦略とアメリカの世界戦略のどちらが悪いか、というふうに拡大するとどうなるか。日本はアメリカの戦略にべったりくっついているから、アメリカの戦略から世界を見てしまうが、それが正しいかどうか吟味しないといけない。なぜアメリカはNATOの東方拡大を押し進めているのか、ということを考えないといけない。断定はしないが、NATOの東方拡大戦略がなければ、今回の問題は起きなかったかもしれない。もちろん、先にウクライナに侵略したロシアが悪いのだけれど、問題を解決しようと考えるならば、起きている事象だけではなく、背後の問題を見ないといけない。
 さらに、ここからがポイントなのだが。
 ロシアの世界戦略とアメリカの世界戦略は、単に「地理/領土/軍事力」の問題にとどまらないことに目を向けないといけない。
 いまの世界は、軍事力のバランスだけで成り立っているわけではない。軍事力ではなく、経済力で動いている部分がある。世界戦略は、経済システムまで含めてみつめないといけない。別のことばで言えば、「金儲け」の問題を考えないといけない。経済が世界を動かしている。資本主義国ではないロシアや中国を巻き込んで、経済が世界を支配している。その力関係は、たとえば「円の価格」「ドルの価格」に反映されている。
 武力衝突(戦争)は、ひとの命に直結する。銃で脳を撃たれれば人間は即座に死んでしまう。しかし、経済が困窮し、食べるものがない、という状態に追い込まれて人間が死ぬには時間がかかる。だから経済システムの衝突による戦争は、なかなか把握しにくい。実感として、戦争という感じがしない。円安が進んだからといって、急に、人間が死ぬわけではない。
 でも、現実には経済戦争が起きている。そして、この経済戦争の被害は、実際に軍事戦争が起きているウクライナだけにとどまらない。
 4月1日になるのを待っていたかのように、日本ではいろいろなものの値上げがはじまる。まるでロシア・ウクライナの戦争が拡大するのを待っていたかのように、である。
 これにはアメリカ型の資本主義とロシア経済の戦争が大きく影響している。石油、天然ガスが値上がりし、小麦が値上がりする。つられていろんなものが値上がりする。「原料が高騰しているから」という理由で。そこには便乗値上げもあるかもしれない。消費者は、価格決定の過程を詳細に把握しているわけではないから、「適正な値上げ」かどうかなど判断できない。
 これを消費者ではなく、経営者(資本家)から見れば、どういうことになるか。ロシアの経営者は別にして、アメリカの経営者(アメリカ資本主義の経営者)は金儲けの絶好の機会なのだ。値上げさえすれば赤字にならずにすむし、少し余分に値上げしてもそれに気づく消費者は少ない。何よりも軍需産業は、武力戦争が続いてくれれば続いてくれるだけ、金がもうかる。もしかすると、アメリカの軍需産業は、世界の心配とは無関係に、金儲けができると喜んでいるかもしれない。
 細谷の発言は、この問題を、すっぽりと隠している。経済戦争には「国際法」がないからだ。どこの国に何を売ってはいけない、どこの国から何を買ってはいけないという「国際法」がないからだ。原油の値段の上限は〇〇ドルである、というような「国際法」はないからである。
 細谷は、いま、世界を支配しているのは「武力」だけではない、「経済」が世界を支配しているという問題を隠している。そして「経済戦争」の犠牲になるのは、武力衝突が起きている現場の人間だけではなく、世界中の人間(資本家ではない人間、市民)であるという問題を隠している。
 それは逆に言えば、そういう一般の消費者、一般の市民の経済的困窮は無視して、アメリカの軍需産業を中心とする資本主義が金もうけできればいいという思想を隠しているということでもある。

 

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濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」(2)

2022-04-01 10:44:25 | 映画

濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」(2)

 映画監督・山崎哲がフェイスブックで「ドライブ・マイ・カー」を批判していた。ポイントは「日本の俳優は例によって声( 言葉) が肚に落ちてない。言葉が自分の言葉になってないんだよね。」このことばで、ふと思いついたことがあるので書いておく。
 昨年のカンヌ映画祭で「脚本賞」を受賞し、多くの人が見るようになった。先日発表されたアカデミー賞でも「国際長編映画賞」を受賞した。アカデミー賞は、まあ、追認のようなものだから、ほんとうの評価かどうか、私は怪しんでいる。でも、カンヌ映画祭の「脚本賞」は、納得はできる。「脚本」はたしかによく書かれていると思う。でも「脚本」と映画は別物なのだ。
 「脚本」も、作品によっては一こまずつ時間を指定しているものもあるだろうけれど、基本的には時間を指定しないだろう。さらに、誰が演じ、どんな声を出すかという指定はないだろう。つまり、ひとは(読者は)、脚本を自分のスピードで読むことができる。登場人物の「声」は、自分の好き勝手に想像できる。脚本を読み、30分の映画を想像する人もいれば6時間の映画を想像する人もいる。張りつめた声を想像する人もいれば、弱々しい声を想像する人もいる。時間のことは、ここでは、ちょっとわきにおいておく。
 「声」の問題を、もう一度書いておく。
 私は前回、「ドライブ・マイ・カー」について書いたとき、この映画のテーマは「声」だと書いた。そして、その「声」に作為がみえみえなので、ぞっとしたというようなことを書いた。それは最初のシーンで、すぐにわかった。見なくてもというと変だが、作為が見えるということは、結末に驚かないということである。結末に感動しない、ということである。予想された通りの展開、予想された通りの結末。安直な、すでに知っている物語の紙芝居、という感じ。
 脱線したが。
 この「声」がテーマ、そして「声」が作為に満ちているということは、たぶん、私が日本人で、日本の俳優の「声」だったから気づいたのである。ネイティブだから気がついた。初めて聞く外国人の「声」(しかもスピーカーで増幅された声)の場合、「作為の声」に気がつくかどうかは、かなりむずかしい。現実の場でなら、あ、いま、声の調子を変えた、ということは、声だけではなく、表情や仕草でもわかるが、それにしたって、話されていることば(声)を聞き慣れていないと、むずかしいかもしれない。
 カンヌ映画祭の審査員に、この「声の演技」がわかったかどうか。「声の演技」の「まずさ」が原因でパルム・ドールを逃し、「脚本賞」にとどまったのかどうか、それはわからないが。「声の演技」を気にしないで、この映画が「声」を基本にして展開し、それが「声」をもたない(というと、いいすぎになるが)手話話者との対話でクライマックスをつくりあげるという、ストーリーの構造は「脚本」を読めばわかる。映画を見れば(映画から脚本を想像すれば)、明確にわかる。
 別なことばで言いなおすと、「脚本」というのは、実際の映画、演技とは関係なく評価できるということである。「声」を聞き取る能力がなくても、「脚本」を読むことはできるのである。「声の演技」(そのよしあし)が理解できない外国人審査員だったからこそ、脚本に注目したということがありうるのだ。「声」がテーマなのに、「声」を理解できない外国人審査員が、その「ストーリーの展開の仕方」だけに焦点を当て、「脚本賞」に選んだということが、可能性としてあるのだ。
 彼らは訳者の「声」を聞かず、彼ら自身のなかにある「人間の声」を「脚本/字幕(?)」から再現し、「彼ら自身の声」に感動したのだろう。
 もちろん「日本人の声」(作為、無作為)に習熟している審査員がいて、そういう日本人の声を生かしている脚本だと評価したのかもしれないが、私には、そうは思えない。
 だってねえ。
 映画はたしかに脚本と監督が担う部分は非常に大きいが、脚本の狙いや監督の求めていることと違う何かがあらわれた瞬間が、いちばん輝かしい。脚本を超えて、役者の肉体が動き出し、まるで脚本がないかのように感じる一瞬が、おもしろいのだ。
 ちょっと思いだしたのだが。
 「サユリ」という映画。役所広司が、ほんとうはもてているわけでもないのに、女にちょっと親切にされ、それを女が自分に気があると信じて、女に「ほら、酒をのめ」と言い寄るシーンがある。その、もてない男の、一瞬の正直さ。思わず、「おいおい、おまえは振られ役なんだぞ。脚本を読んだのか。振られるのを知っているのか。ばかじゃないのか」とちゃちゃをいれなくなる。笑い出したくなる。役者は脚本(結末)を知らずに、つまり、その瞬間しか知らない人間として動いていなければならない。そういうものがないと、映画として成り立たない。
 「ドライブ・マイ・カー」の役者は、みんな「結末」を知っていて、その「結末」のために「作為の演技(声)」をしている。役所広司のように、自分の生きている現実の一瞬を、自分本位に勘違いしていない。だから、おもしろくない。すべての映像も、みんな「結末」を知っていて、それに向かって収束していく。そこには「脚本」しかないのだ。
 だいたい、劇中劇に「ワーニャ伯父さん」をつかうというのも見え透いている。「ワーニャ伯父さん」の結末(ストーリー)を知っているひとは多い。そのストーリーをちょっと見えにくくするために、他国語で演技する、なんて、「作為」以外の何でもない。「脚本賞」は「作為の構図の完成度が高かった」という評価なんだろうなあ、と思う。「ストーリーが単純明快に整理されていた脚本」という評価なんだと思う。

 

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