詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

斎藤茂吉『万葉秀歌』(4)

2022-10-25 10:50:13 | 斎藤茂吉・万葉秀歌

斎藤茂吉『万葉秀歌』(4)(岩波書店、1980年、06月25日、第58刷発行)

 

 

香具山と耳梨山の会ひしとき立ちて見に来し印南国原          天智天皇

 「立ちて見に来し」と呼びかけられたのは「阿菩大神」だと茂吉は書いている。しかし、そのことばは歌のなかにはない。だから、私は、私に対して「立ちて見に来し」と呼びかけられたような気持ちになり、ちょっとこころが浮き立つ。それは「香具山と耳梨山」がけんかしたとき(戦争したとき)という「神話」でしかありえない世界に立ち会うおもしろさに通じるし、「立ちて見に来し」という動詞の「立ちて」が、山が「立って」(立ち上がって)戦争をしたと錯覚させるのも、とてもおもしろい。

渡津海の豊旗雲に入日さし今夜の月夜清明けくこそ           天智天皇

 声に出して読むと、とても読みやすい。茂吉は「入日さし」のあとに「小休止」があると書いている。なるほどなあ。茂吉は声に出して読んでいたんだなあ、と思う。実際に声に出さずとも、読むときに発声器官が動く。それをきちんと言語化できる。
 私は同時に「今夜」と「月夜」の重なりがおもしろいと思う。意味的には「入日さし」(夕方、まだ明るい)「今夜」(暗い)「月夜」(月に焦点が当たっている、明るい)と明暗の変化がある。夜が暗いからこそ、月が明るい。この変化がおもしろい。その転換点というか「夜」の文字の重なりで強調される。(原文も「夜」を重ねているかどうか、私は知らない。)
 それに、なんといっても。
 まだ日が沈まないうちに、夕日の明るさがあるうちに、満月(?)の明るさを想像するというのは、ものすごいことだなあ、と思う。夕景色をながめながら、それを超えて「宇宙」が広がる。いや、「時間」が広がる。「超(メタ)時間」と言ってもいいかなあ。とても「現代人」には持つことのできない「絶対的」な時間感覚だなあ、とも思う。
 「かっこいい」と思う。
 「歌」がかっこいいのか、歌をつらぬく「時間感覚」がかっこいいのか。これは、聞いている人に意味を考えさせないくらいの「大声」で読んでみたい歌だなあ。聞いているひとは「今の声は大きかったなあ」とだけ感じてしまう。歌の意味は忘れる。そういう感じがいいだろうなあ。

 

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Estoy loco por espana(番外篇221)Obra, Jesus Coyto Pablo

2022-10-24 08:57:09 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo
"Cartas de amor y maldad" Serie, 2022

TENGO un SECRETO

Tengo un secreto que no le he contado a nadie
Pero tu lo sabes, no?
Cualquier pasado siempre permanecerá en el cuerpo, y
Un día, de repente, aparece aquel movimiento inesperado
Ya debes dar cuenta de que eres YO, soy TU
Porque tambien vi tu secreto

Las depresiones en tus axilas se colorean 
cuando mis labios se acercan
Los músculos de mi espalda se doblan 
cuando tus dedos se alejan
Habíamos tenido los mismos placeres y angustias antes
Yo lo sabía. Pero no digo, nunca diré nada

Nunca le contraré a nadie todo lo que pasó entre tú y yo hoy
Seguiré esconderlo como nuevo secreto mio y tuyo
No podemos hacer nada 
con la voz que se filtra incontrolablemente
Pero aparte de eso, lo esconderemos para siempre
Para gozaremos nuestra ilustre juventud de nuevo

yachishuso

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇220)Obra, Xose Gomez Rivada

2022-10-23 21:26:00 | estoy loco por espana

Obra, Xose Gomez Rivada

¿Qué significa "ver" las cosas?
Esta pieza de Xose me recuerda a un viejo soldado. No sólo viejo, sino herido.  ¿La obra está compuesta de "chatarra", por eso lo pienso así? (No sé si esto es realmente chatarra o si Xose lo ha trabajado).
Los ojos muy abiertos (un ojo no se ve en la foto, pero puede estar oculto por la herida), la boca descuidadamente abierta, los agujeros de bala en el hombro y el brazo, las medallas en el pecho... el espacio hueco y vacío dentro de ese pecho.
¿Por qué veo el trabajo allí como algo que puedo entender?
¿Por qué intento comprenderlo?
Quizás soy una persona que no puede aceptar algo "sin entender".
Esto puede ser algo terrible.
¿Moriré, como este soldado, sin entender la muerte?
Con los ojos bien abiertos, todavía él está tratando de ver algo.
El poder de los ojos del viejo soldado me sobrecoge, e incluso me asusta su poder de la vida.
Quería escribir mi impresión sobre esta obra desde el momento en que la vi, pero lo fui posponiendo. No sé si esto puede llamarse impresión.

 
Obra de Xose Gomez Rivada
ものを「見る」とは、どういうことなのだろうか。
このXoseの作品を見て、私は老いた兵士を思い浮かべる。ただ老いているだけではなく、負傷している。「くず鉄」をつかっているから、そう思うのだろうか。(これがほんとうにくず鉄なのか、それともXoseが加工したものか、それはわからない。)
見開いた目(片方の目は、写真からは見えないが負傷して見えなくなっているかもしれない)、だらしなく開いた口、肩や腕にのこる弾丸の貫通痕、胸の勲章・・・その胸の内の空洞、空虚。
どうして、自分の理解できるものとして、そこにある作品を見てしまうのか。
なぜ、理解しようとしてしまうのか。
たぶん、私は何かを「理解しないまま」受け入れるということができない人間なのだ。
これは、恐ろしいことかもしれない。
この兵士のように、私は死を理解しないまま、死んでいくのだろうか。
目を見開いて、まだ、何かを見ようとして。
老兵の目の力に圧倒されながら、生きている力に恐怖すら感じ、私は不安になる。
この作品を見たときから感想を書きたかったが、ついついのばしてしまった。これが感想といえるものなのかどうかわからないが。

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三木清「人生論ノート」(孤独について)

2022-10-23 20:43:22 | 詩集

後半に出てくる「表現」の「意味合い」の把握が難しい。
言語表現は、ことばとことばの組み合わせ、組み合わせとは「関係」をつくること、関係を「形成する」ことと考えれば、そこに三木清の「形成」ということばや「構想力」が潜んでいることがわかるのだが、今回の文章には、それに類似するものがない。
三木清の連載が、いったん中断したことと関係するかもしれない。過去に書いたことが、三木清のなかで整理されてしまっていて、「形成」「構想力」というようなことばを無意識的に省略してしまったのだろう。(こういうことを、私は、意識の「肉体化」と呼んでいる。無意識になってしまう。自転車をこぐとき、無意識に足を動かすようなもの。)

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Estoy loco por espana(番外篇219-2)Obra, Joaquín Llorens

2022-10-23 10:58:15 | estoy loco por espana

(Intentos de crítica a través de la poesía)

 

Obra de Joaquín Llorens
T.Hierro 70x30x20 S.M.N

 A vosotros os he visto bailar. En una esquina sin música. Bajo las farolas. Así escribí un poema sobre vosotros. Al ver tu trabajo nuevo me imaginé a los dos bailando. Cuando leí mi poema, parecías disgustado. Y me dijiste que pieza era una combinación de tres fragmentos. Tres era comprensible, pero dos era completamente diferente.  Me habías enviado un poema sobre el trabajo de otra persona, no el mio. Pero vi tu trabajo y lo escribí. Mira, mira de cerca tu trabajo. Están bailando. Bailan al unísono. Para ellos no hay que mirar sus pies, no hay que mirar sus manos, sólo hay que mirar sus ojos para ver una danza perfecta. En ese momento, la música nació para conectar a los dos. Este es el tercer fragmento. Cuando los tres fragmentos se movieron, el tamaño y el ángulo de los fragmentos cambiaron con el movimiento. ¿De quién es el brazo o la espalda de la suave curva? ¿Cuál eres tú, cuál es tu pareja, cuál es la música? Es difícil notar la diferencia. Escuchando los latidos de tu pareja, cambias de posición una tras otra. El que apoyaba está siendo apoyado, el que dirigía está siendo guiado, y el que dirigía está siguiendo. Alrededor de ellos, las sombras comenzaron a bailar, la luz comenzó a bailar. El viento comenzó a bailar. No tienes que mirar hacia arriba, las estrellas estarán bailando en el cielo. Vi tu trabajo y lo escribí.

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斎藤茂吉『万葉秀歌』(3)

2022-10-23 09:16:15 | 斎藤茂吉・万葉秀歌

 

 

 

斎藤茂吉『万葉秀歌』(3)(岩波書店、1980年、06月25日、第58刷発行)

吾背子は仮盧作らす草なくば小松が下の草を苅らさね           中皇命

 「草」は「かや」。「か」の音の繰り返し。「か」に似ているが少し違う「が」の響きが「吾背子は」と「小松が下の」にあらわれる。そして、後者の「が」のすぐ上には鼻音の「ま」があって、この部分の流動的な響きがとても印象に残る。きのう読んだ「厳橿がもと」の響きに似ている。もしかすると「響き」よりも、それを発するときの口腔内の舌の動き、息の動きが快感なのかもしれない。キスの舌の動きではないけれど、何か、「粘膜」というか、肉体の快感、官能を刺戟してくるものがある。

吾が欲りし野島は見せつ底ふかき阿胡根の浦の珠ぞ拾はぬ         中皇命

 「底ふかき」でトーンが変わる。「野島」は海に浮かんでいる。海上から海底へ、「底ふかき」ということばで一気に視点を転換させる。このスピードがとてもおもしろい。また、茂吉が書いているように(私の読み違いか)、「吾が欲りし」の、本当に欲していること、こころの底に隠している欲望が「底」ということばで暗示されているようでおもしろい。
 茂吉の「末世人が舌不足と難ずる如き渋みと厚みがあって、軽薄ならざるところに古調の尊さが存じている」という評に、私は傍線を残している。


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Estoy loco por espana(番外篇219)Obra, Joaquín Llorens

2022-10-22 20:58:59 | estoy loco por espana

En la obra de Joaquín conviven la potencia y la delicadeza. La fuerza y la delicadeza de su propio espíritu, así como la fuerza y la delicadeza de sus manos.
Esta obra es un buen ejemplo de ello.

Joaquínの作品には、力強さと繊細さが共存している。彼自身の精神の強さと繊細さ、さらには彼の手の強さと繊細さ。
この作品は、それをよく表している。

①La fuerza del hierro, y la fuerza de sus manos que transforman el hierro a voluntad.
②Este ángulo es muy interesante. El movimiento es rítmico y muy delicado. El espacio alrededor de la obra también parece muy puro.
③Este ángulo también es bonito. Tus delicados sentidos están vivos.
④Me gustan las formas complejas y al mismo tiempo el espacio complejo.


①鉄の強さ、鉄を自在に変化させる彼の手の強さを感じさせる。
②このアングルはとても興味深い。動きがリズミカルで、とても繊細だ。作品のまわりの空間も、とても純粋な空間に見える
③このアングルも素敵だ。彼の君の繊細な感覚が生きている。
④複雑な形と同時に、複雑な空間が楽しい。

Te he visto cuatro veces.
Siempre estabas con alguien que no era yo.
Nunca me miraste.
No estaba celoso.

Fuiste más fuerte que conmigo.
Fuiste más sensible que conmigo.
Eras más grande que conmigo.
Fuiste más amable que conmigo.

Hombro con hombro, el sol de invierno sobre tus hombros.
El viento primaveral en los dedos de los pies al dar los pasos de moda.
La playa de verano en la que llevabais la misma camiseta.
El atardecer de otoño cuando le estabas leyendo un libro a alguien.

Te he visto,  solo a ti, cuatro veces. .
Siempre andabas por la misma calle.
Pero tu sombra en la ventana era siempre diferente.
Estaba muy celoso.

私は君を四回見た。
君はいつも私ではない誰かといっしょだった。
君は一度も私を見なかった。
嫉妬はしなかった。

君は私といるときよりも強かった。
君は私といるときより繊細だった。
君は私といるときより大きかった。
君は私といるときより優しかった。

肩に組んだ、その肩の上に冬の太陽。
流行りのステップを踏む足先に春の風。
そろいのシャツを着ていた夏の浜辺。
本を読んで聞かせていた秋の夕暮れ。

私は君を四回見た。
君はいつも同じ通りを歩いたが、
ウインドーに映る君の影はいつも違っていた。
私は、ほんとうは嫉妬していた。

 

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藤山増昭『岸辺のパンセ』

2022-10-22 16:00:23 | 詩集

 藤山増昭『岸辺のパンセ』(編集工房ノア、2022年10月11日発行)

 藤山増昭『岸辺のパンセ』の表題作。

生を乱す死と
死に繕われる生の岸辺に
一茎の葦の 羨しき発光

 「一茎の葦」がパスカル「パンセ」を思い起こさせる。そして、藤山は「生と死」について考えている。そのことが直感できる書き出しである。この直感は、私の背を立ち上がらせる。背筋をのばさないと、読むことができない。私は「死」については何も知らない。だから、考えないことにしている。考えても仕方がないと思っている。これは、あくまで私の考えであり、藤山はそうは考えない。その考え方の違いに直面して、私の背はすっと伸びたのである。このひとは考え方が違うから、読んでみてもしようがない、という気持ちにならない。そうさせない「響き」がことばのなかにあった、ということだ。

羨しき発光

 「発光」。藤山は「生と死の出会い」のようなものに、光を見ている。それはそこに初めからある「光」ではなく、「発した光」、瞬間的に生まれてきた光。そして、その「発光」には「羨しき」ということばが重ねられている。「羨しき」は「ともしき」とルビがある。私は、こういう読み方を知らないし、このことばをつかったこともない。私の知らないことを、藤山は私の知らないことばで語り始めている。しかし、それが全部わからないのではなく「発光」という私の知っている(と思っている)ことばといっしょに動いている。
 私は本当に何かを知っているのか。知らずにいるのに、平気で、知ったかぶりを書いているのか。
 それが、これから問われるのだ。その問いの前で、私の背は伸びた。

流れ下る 冷えた石の川床
削がれる意識を入れた洞窟の闇
今も残像する悍しき夢幻の淵

  「発光」とは逆に、ここでは「闇」に代表される「光」の対極のものが書かれている。何も見えないわけではないが、見ていて「明るさ」を感じる世界ではない。この「あいまいな暗さ」を、藤村は、こう言い直す。

存在に付き纏う不可知と未在未生のかげ
堆積し続ける命の塔は  ゆらぎ傾き
系統樹の小枝の先端がふるえている

  私が「あいまいな暗さ」と読んだものは「かげ」である。(「かげ」には傍点が振ってある。)「かげ」は「実体(実在)」ではないもの、「実在するもの」に光があたったときに、その影響で生まれてくるものがあるが、ここでの「かげ」はそういう明瞭なものではない。ぼんやりとした「闇」の濃淡のようなものだ。この「あいまいな暗さ」のために「命」がゆらぎ傾き、ふるえている。これは「発光」というよりも、むしろ消えていく光、消滅する光の最後の姿に見える。

だが ふと 大空からのあおき反響
それは重々無尽の宇宙からの波動
劫初からの 澄みわたるいのちのこえ

 「こえ」にも傍点が振ってあり「かげ」と対応していることがわかる。「かげ(闇の濃淡、ゆらぎ)」の対極にあるのは「光」ではなく「こえ」である。「こえ」は「いのちのこえ」と書かれているから、「いのち」と不可分のものと藤山が考えていることがわかる。
 「光」と「声」に共通するのは、それが「波(波動)」であるということだろうか。
 「こえ」はまた「反響」とも関係している。呼応している。「響き」、それも単純な響きではなく「反響」。跳ね返ったもの。何が跳ね返ったものなのか。たぶん、藤山の「意識」、あるいは「声にならない声」を発したとき、それに答えるように「こえ」が跳ね返ってきた。
 その「反響」に「あおき」ということばが重なっている。「青き」だろう。これが藤山の言う「光」(発光)だろう。それは「白」ではなく、「あお」、そして「澄みわたる/あお」ということになる。しかも、それは「視覚」に訴えてくるだけではなく、「聴覚」に「こえ」として、つまり「ことば」としてやってくる。

「宇宙は私を包み 一つの点のように
のみこむ。考えることによって
私が宇宙をつかむ。」

 注釈によれば、これはパスカルの「パンセ」からの引用である。生と死の衝突の瞬間に、藤山は「発光」を見た。それは「ことば/こえ」として藤山のとらえた。しかし、それは生と死が藤山を「のみこむ」であると同時に、藤山が生と死を「つかむ」ということだ。
 瞬間的に、藤山はパスカルのことばにのみこまれ、包まれている。しかし、それは藤山のパスカルを理解する方法なのだ。「のみこまれ」た瞬間に、それを「つかむ」。パスカルが藤山をのみこむとき、藤山はパスカルをつかむ。
 切り離せない。
 この、私が「切り離せない」と呼ぶものを、藤山は、最終連で、こう言い直している。

感応のなかにも
外なる空と 内なる空とを
つかみ つなげるのだろうか?

 「つなげる」。それは「接触」ではなく「融合」だろう。
 藤山のことばは、少しずつ「意味」(定義)をかえながら、新しいことばになり、その変化のなかで、変化することでしか描けない「世界」をとらえている。その運動に、藤山が真摯に向き合っていることがつたわってくる。
 この真摯さのために、私の背が、すっと伸びたのだと思う。
 ゆっくりと読みたい詩集だ。ゆっくりと読まなければならない詩集だ。これは、自戒として書いておく。私は早く読みすぎる。

 だから。
 一息ついて、私は少し追加する。

「宇宙は私を包み 一つの点のように
のみこむ。考えることによって
私が宇宙をつかむ。」

 「宇宙と私」「パスカルと藤山」が「一つ」に融合するとき、そこに「考える」ということばが動いている。「考える」のは「ことば(こえ)」をつかって考えるのである。藤山は生と死の出会いについて、考えた。ことばを動かした。それが、この詩集ということになる。この詩集を読むためには、私は私なりに、私なりのことばを動かさなければならない。考えなければならない。この詩集は、考える詩集である。


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斎藤茂吉『万葉秀歌』(2)

2022-10-22 10:06:46 | 斎藤茂吉・万葉秀歌

斎藤茂吉『万葉秀歌』(2)(岩波書店、1980年、06月25日、第58刷発行)

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎ出でな         額田王

 「こぐ」は「傍」の「人偏」が「木偏」。私のワープロでは出てこないので、ひらがなにした。(今後も、表記できない文字はひらがなで代用。原文は、万葉集か茂吉の「万葉秀歌」で確認してください。)
 この歌は、助詞の動きがとても論理的。五・七・五・七・七のリズムごとに論理(意味?)が完結しながら動いていく。その時系列が自然。その自然を「今は」と強調する。命令が端的につたわる。命令というよりも、いっしょに動いていく感じがする。「今こそ」という感じなのだが、「こそ」という強調がないのが、逆に強調になっている。
 万葉の歌には、こういう調べが多いと思う。つまり、強調なのに、強調のことばがない。その、よぶんなことばに頼らない分だけ、「声」そのものが強くなるのだと思う。
 「にぎたつ」というのは、たまたま、その土地の場所の名前なのだろうけれど、濁音があるところが不思議に興奮を駆り立てる。こことは違う場所という感じがする。結句の「こぎ出でな」の濁音とも呼応して、こころが騒ぎ立てられる。

紀の国の山越えて行け吾が背子がい立せたりけむ厳橿がもと         額田王
 
 「厳橿がもと」という音がとても強い。茂吉は「吾が背子がい立せたりこむ厳橿がもと」に執着がある、と書いている。くりかえされる「が」の音が印象的だし、その「が」から「もと」の「も」への響きが、私は好きである。この場合「が」は絶対に鼻濁音でなければならない、と私は感じている。鼻濁音だと「が」と「も」の連続感がなめらかなのである。茂吉や額田王が鼻濁音で発音していたかどうかは知らないが。

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高橋睦郎『狂はば如何に』(2)

2022-10-21 22:49:24 | 詩集

 

 

高橋睦郎『狂はば如何に』(2)(角川書店、2022年10月11日発行)

差し出だすわが手皺だみ肝斑(しみ)繁み死の匂ひすや汝が手たぢろぐ

わが皺手(しわで)握るすなはち死の側(がわ)に引き込まれむと汝(なれ)怖るるか

 「死の声がする」と私が感じるのは、そこに「死」が書かれているからだけとは限らない。私は、その「死」という文字よりも「手皺」「肝斑」という漢字の表記に「死」を感じる。この「死を感じる」という感覚を別のことばで言えば、「音」を感じ、それから自分のなかで「意味」を探し当てる前に、高橋から「意味」を押しつけられるという感覚と言い直せる。「意味」がそこにあるのだ。まず、「意味」があるのだ。この「音」を省略した「意味」、「音」を越えて「意味」に達してしまうスピードの絶対性に「死」を感じる。「生きている」余裕を与えてくれない。「生きている余裕」は、「間違える余裕」と言い直せるかもしれない。私(たち?)は、死ぬまで、けっきょく「間違い」をくりかえす。ああすればよかった、こうすればよかったと後悔する。その「間違い」の連続のなかにきっと「生きている」時間がある。死ぬというのは、そういう「間違える」時間がなくなってしまうことだ。私はいつも「間違えたい」という欲望がある。「間違える」というのは、なんというか、一種の「寄り道」であり、私にとっては楽しいことなのだ。そういう「楽しみ」を高橋のことばは私に与えてくれない。
 もちろんこれは、私が高橋の詩を(ことばを)正しく読んでいる、という意味ではない。私はいつでも「間違えている」。間違えてはいるのだが、それは私の教養がないからであって、その間違いは「学校のテスト」の「答えの間違い」であって、私の言う「寄り道」ではない。「寄り道」というのは、私のたどりつくところが「正解」かどうかを気にせずに、ただ、ぶらぶらすることである。高橋のことばは、私をぶらぶらさせてくれないのである。
 「意味」が、こっちこっち、と真っ直ぐに私を引っ張っていく。これが魅力というひともいるかもしれないが、私は、そうではなく、「あれっ、いまの音はなんだったのかなあ」と遊んでいたいのである。音を楽しむよりも、「意味」をつかみ取れ、というのは苦手である。
 二首目も「死の側」ということばが、とても強い。「意味」でありすぎる。意味の「特定の仕方」が明確すぎる、と感じる。「死の側」の反対には「生の側」があるということになるが、その「側」ということばが「境界線」になって、生と死を分けてしまう。これは、なんとも恐ろしい。ひとは必ず死ぬのではあるけれど、その「境界線」を高橋は意識していて、その意識を共有しろと迫ってくる感じなのである。
 高橋のことばには、隅々まで「意識」というものが行き届いている。そのことも「死」を感じさせる。「意味の多さ」が「死」を感じさせる、と言い直すこともできるかもしれない。

 

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斎藤茂吉『万葉秀歌』(1)

2022-10-21 21:44:58 | 斎藤茂吉・万葉秀歌

 

 

斎藤茂吉『万葉秀歌』(1)(岩波書店、1980年、06月25日、第58刷発行)

 探しても探しても見つからなかった本がふいに出てきた。斎藤茂吉『万葉秀歌』。万葉集を全部読むのはたいへんだが、この本なら、なんとか読み通せる。ただ、思いついたことを書いていく。私は和歌(短歌)を読み続けているわけではないし、もちろん研究家でもない。だから、私の書くことは、ほとんど「でたらめ」なのだが、そうであっても私が思っていることには違いない。

たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野          中皇命

 万葉の歌を読んだとき、いちばん驚くのは、「音」の響きあいである。特に有声音の響きが非常に気持ちがいい。声が解放される、喉が解放される感じがする。簡単に言い直すと、声に出して読みたくなる。簡単に言い直すと、声に出して読みたくなる。
 「馬並めて」は「うま・なめて」と読むようだが、「むま・なめて」と読みたい感じがする。前に「うち」という音があるから「うま」なんだろうけれど。昔(?)、「うま(馬)」を「むま」と表記したこともあるから、昔のひとは「う」と「む」の違いがあいまいだったのかもしれない。
 「草深野」の「くさ」も「KSA」ではなく「KUSA」と、はっきり「う」の母音を響かせていただろうなあと思う。
 「たまきはる宇智の大野」までの音は、いまの私は、何か所か母音をはっきり発音せずに読んでしまうが、昔のひとは、そう言うことはしなかっただろうなあ、とも思う。

秋の野のみ草苅り葺き宿れりし兎道の宮処の仮盧し思ほゆ          額田王

 この歌でも「な行」の響き、「の」の繰り返しがなめらかだが、それぞれの音に隠れている母音「あ」「い」と「お」の対比がいいなあ、と思う。濁音を濁っていて嫌いだというひともいるが、私は「母音」が響くので、豊かで好きである。「やど」「うぢ」は単独で取り出してみると、たしかにきれいな音とは言えないかもしれないけれど、歌全体のなかでは音の流れを「ゆったり」させる効果があると思う。

 こういう「強い音(力のこもった声)」というのは、現代の短歌にはないなあ、と思う。あるのかもしれないけれど、私は知らない。
 (いつまでつづけられるかわからないが、書いてみる。)


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Estoy loco por espana(番外篇218)Obra, Joaquín Llorens

2022-10-21 09:45:21 | estoy loco por espana

Obra de Joaquín Llorens
T. Hierro (azul cobalto)  62x25x27 C. M

Esto me recuerda a algunos de los trabajos de Joaquín que he visto.
Dos de las piezas que recordé son estas.
El espacio interior de T. Hierro (azul cobalto) aparece en tres dimensiones.

この作品を見ながら、私はいくつかの作品を思い出す。
その思い出した作品のふたつが、これ。
T. Hierro (azul cobalto)の内部の空間が、立体になってあらわれている。

A partir de aquí, empiezo a pensar.
¿Qué es la escultura? Básicamente, es objetos. Un escultor hace objeto. Un arco de acero semicircular. Este es una combinación de ellos. Parece una flor que empieza a abrirse. En este momento estoy mirando la forma de la hierro.
Pero al cabo de un rato, no veo la forma de la hierro, sino el "espacio". Veo una parte que no es de hierro. ¿Qué hay? No hay nada.

¿De verdad?

No hay nada en el espacio. Hay una forma que nacerá, una forma como posibilidad. La forma o objeto no puede existir si no hay un espacio que acepte la forma (la existencia, el objeto).

Al instante me acordé de dos obras sobre de Joaquín. Las que  las he escrito en el pasado en mi blog.
Esas tienen la forma que cabe dentro del espacio de T. Hierro (azul cobalto).
Creo que sería muy interesante que estas obras se expusieran en un solo lugar.

A veces, cuando miro la obra de Joaquín, siento que está creando un espacio al mismo tiempo que crea un objeto (obra). Crear un espacio puede ser una búsqueda de espacio para una nueva obra (objeto).

ここから、私は考え始める。
スカルプチャーとは?基本的にはオブジェクトです。彫刻家はオブジェを作る。半円形の鉄骨アーチ。これは、その組み合わせです。花が開き始めるようなイメージです。今のところ、鉄の形状に注目しています。
でも、しばらくすると、鉄の形ではなく、「空間」が見えてくるんです。鉄ではない部分が見えるのですが、何があるのでしょうか?何もないんです。

本当にそうでしょうか?

空間には何もない。これから生まれてくる形、可能性としての形がある。形(存在、物体)を受け入れる空間がなければ、形や物体は存在し得ない。

私は、ホアキンに関する2つの作品を即座に思い出した。過去にブログで紹介したもの。
T.ヒエロの空間にフィットするフォルム(コバルトブルー)をしています。
これらの作品が一堂に会したら、とても面白いことになると思います。

ホアキンの作品を見ていると、オブジェ(作品)を作ると同時に空間を作り出しているように感じることがあります。空間を作るということは、新しい作品(モノ)のための空間を探すことでもある。

 

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高橋睦郎『狂はば如何に』

2022-10-20 13:33:34 | 詩集

高橋睦郎『狂はば如何に』(角川書店、2022年10月11日発行)

 高橋睦郎『狂はば如何に』は歌集。タイトルは、「自選五首」のなかの、

八十路(やそぢ)はた九十路(ここのそじ)越え百(もも)とせの峠路(たむけぢ)に立ち狂はば如何に

 からとっている。
 私は、この歌を読みながら(他の歌の場合もそうだが)、非常に困ってしまう。「文字(漢字)」と「音」の連絡がつかない。高橋は、私とはまったく違う「漢字と音」のつながりを生きている。これは、簡単に言い直せば、「教養の違い」と私の無知が否定されるだけのことなのだが。しかし、それだけではない、とも思う。私は「教養がない」とか「無知」とか呼ばれることが苦にならない。だから、高橋が書いている漢字、その読み方を知らなくても、そしてそれを指摘されても、別にどうとも感じないのである。「反知性主義」とは、何人かから、そして何度も言われたが、別に苦にならない。多くのひとが読んでいるらしい「教養本」を読まなければ、とも思わない。
 では、なぜ高橋の歌の前で私は困惑するするのか。
 言い直しというよりも、繰り返しなってしまうと思うが、漢字(文字)と音の関係が、どうも私には落ち着かない。私はことばを「音」というものから覚えたが、つまり文字(漢字)を覚え、理解し始めたのは、「音」としてのことばを動かせるようになってからだ。音があって、そのあと、文字がくる。これは、誰でもそうだと思う。高橋だって、書いたり読んだりする前はただ話していたのだと思う。
 だから問題は、文字(漢字)を覚えた後のことになる。私はいまでも、音を繰り返し聞かないと、そのことばが覚えられない。文字を何度読んでも、何が書いてあるかわからない。でも、高橋は、私の想像では、あるときからこの関係が逆転しているのではないだろうか。まず「文字(漢字)」を通してことばをつかみとる。そのあとで、ことばを「音」として肉体にしみこませる。
 こんなことを、こんなふうに抽象的に書いてもしようがないので、書き直すと。
 「やそじ(ぢ)」は聞いたことがある。八十だ。だが「ここのそじ(ぢ)」は聞いたことがない。だからわからない。しかし「九十路」を見ると「あ、九十のことか」と気がつく。でも、その瞬間、私は「ここのそじ(ぢ)」を忘れている。音を忘れて、「文字(漢字)」から「意味」をつかみ取っている。というのは、正しい書き方ではない。
 この歌に触れたとき「九十路」という「漢字(文字)」から、私は高橋は「九十歳」のことを言っていると理解する。しかし、そのとき「音」が聞こえていないのだ。「ここのそじ(ぢ)」はあとから「読む」。つまり、「漢字(文字)」と「音」が同時に存在知るわけではなく、「音」はあとからやってきて、それがすぐには覚えられない。これが、私には苦しい。
 で。
 そういう風に感じながら高橋の歌を読み続けると、高橋は、「音」ではなく「漢字(文字)」で短歌をつくっているのではないのか、と感じるのである。
 これは、短歌だけに限らない。俳句や現代詩でも同じだ。そして、詩よりも、俳句、短歌を読むときに、その印象が強くなる。「音」を動かして世界をつくっているというよりも、「文字」を動かして世界をつくっている、という印象がする。「そうか、高橋は、この文字(漢字)をつかいたかったのか」と思うのである。この「音」、この「音の変化」を表現したくてことばを動かしている、とは、私には感じられないのである。
 それがいいことか悪いことかは、わからない。ただ、私は、そこに私と高橋との間にある、どうしても共有できない何かを感じてしまう。
 そして、ここから飛躍してしまうのだが、その高橋の「文字(漢字)」との交流を、私は「死」との交流と感じてしまうのだ。生きている人間の発する「音」と交流しているというよりも、死んでしまったひとの残した「文字(漢字)」と交流していると感じ、何か、不気味に感じる。
 何年か前、私は高橋と一度だけ会ったことがある。(高橋は、そのことを覚えていない、とある機会に私信で教えてくれた。)そのとき私は高橋の詩の朗読を聞いたのだが、それは私にはやはり「死の声」に聞こえた。言い直すと、絶対に変わることのない「意味」を選びとって残した「声」に聞こえた。高橋のことばは、それを引用はできても、剽窃し、私のことばのなかに組み込むことはできない絶対的な何かを持っている。高橋のことばを理解するためには、私は死ななければならない。そういうことを感じさせる、絶対的不動性。それが不気味である。
 しかし、この不気味さを感じているひとは、少ない。それはたぶん、私が「魂」ということばをつかわないのと関係している。「魂」は、多くのひとがつかう。(私もひとのまねをして何回かつかってみたことがあるが、なじめず、いまは他人のことばを引用するときくらいしか、つかわない。私は「魂」が存在するとは考えることができない。見たことがないし、触ったこともない。)「魂」は「肉体は死んでも魂は残る」というように「死」と関係している。私にとっては「魂」とは「死」である。それは、絶対に体験することのできない何かである。
 高橋は、こんなふうにつかっている。(高橋は「旧字体」で書いているのだが、私のワープロは旧字体を持たないので流通している漢字で引用する。正しい表記は、歌集で確認してください。)

偶(たまたま)に成りし肉体(からだ)に入り棲みし霊魂(たましひ)てふも微塵集成

偶体に棲まふ偶魂彼もなほ生きてしあれば狂ふことあり

 「偶体」「偶魂」はどう読むのか、私にはわからない。だが「たまたま存在した(偶然生まれてきた)体」「たまたまやってきた(肉体に入り込んだ)魂」という意味だろうと思う。この「魂」と「肉体」の関係は「偶に成りし肉体に入り棲みし霊魂」なのだから、「肉体が存在し、そこに魂が入ってきた」、つまり「肉体が先、魂があと」という形で人間が存在すると高橋がとらえていると理解できる。しかし、その一方で、魂が肉体に入り込むためには、魂は魂で肉体より先に存在していなければならないかもしれない。魂は肉体が生まれてくるのを待って、そのなかに入り込むのだとすれば、魂が肉体よりも先に存在しなければならない。そして、魂が「死んだ人間から分離したもの」と仮定するなら、魂は生まれてくる肉体より先に存在することになる。魂が肉体に入ってくるのではなく、「死」が肉体に入ってくる。さらに魂が生き続けるためには、肉体は死につづけなければならない、とも言えるかもしれない。
 そう考えたとき、私は、最初に考えた問題に戻っていこうとしていることがわかる。
 高橋の「ことばの肉体」のなかに、「ことばの死(死んだひとの残したことば、古典)=魂」が入り込んできて、高橋の「ことばの肉体」を動かす。そこで動いているのは「高橋のことばの肉体」であると同時に、その中心には「魂=死んだ人から離脱した不滅の文字」が動いている。この「不滅のもの」の動きに、私は、おののく。それは、私が触れてはいけないもの、という気がする。

 さて。
 では「狂」とは何なのか。

鞭打たるる駑馬に号泣街上に狂を発せりフリドリヒ・ニイチェ

 「狂」は生きているニイチェの肉体から飛び出していこうとする魂の運動のことだろう。ニイチェの肉体の中の魂(死)は、鞭打たれる馬の肉体のなかに入り込もうとしている。その姿が、他人から見れば「狂気」に見える、ということだろう。魂は、その入り込んだ肉体が死ぬのを待って、肉体を離脱するのが普通のあり方だ。それが死んだ肉体ではなく、生きた肉体を離れようとする。そのとき「狂」が生まれる。
 しかし。
 もし、この私のことばの運動が正しければ、「ことばの表現」とは「肉体」から離れて存在する。高橋のことばと、高橋の肉体は別のものである。そして、そのことばというのもが、もし、魂そのものだとするならば、詩が(ことばが)書かれるとき、その書き手の肉体はいつも「狂」と直面している。もし、肉体が「狂」と直面していないなら、表現されたことばは「魂」には成りきっていないという問題が起きる。たぶん「狂」に耐えられる肉体は少ない。だから、ぎりぎりのせめぎあいのなかで、「魂」に似たものが表現として存在するのだろう。高橋のことばの運動が非常に強固であるのは、その「魂」が「死者のもの=古典」であること通じているからかもしれない。

 

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Estoy loco por espana(番外篇217)Obra, Paco Casal

2022-10-20 07:33:04 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

Obra de Paco Casal
El olor de la tinta china. Olor del aula del colegio, recuerdos...  Tinta china 41 x 28


"Donde el mar  rompe" Galicia, 25 de Xulio.


¿Qué está dibujando Paco?
Al principio me atrajo su obra que representaba el mar, pero no estaba seguro de lo que estaba viendo.
Cuando vi la pintura a tinta, sentí que por fin entendía lo que Paco dibujó.
Paco no dibuja formas. Dibuja los colores que quedan tras la desaparición de la forma. No hay color en los dibujos a tinta. Así que si tuviera que usar otra palabra para describir lo que vi, podría ser "imagen posterior".

¿La tinta pinta un paisaje de la costa? Hay árboles más allá del agua. Unas sombras invertidas se reflejan en el agua.
Es difícil decirlo en esta obra, pero cuando las cosas existen, el tiempo se mueve. La existencia debe cambiar con el tiempo. Lo que vemos es una negociación entre esa existencia inmutable y el tiempo siempre cambiante.
En el momento en que me doy cuenta de esto, estoy bajo una ilusión.
El tiempo no se mueve. La existencia sigue moviéndose, y momento a momento, la forma y la vida siguen rompiéndose. El cuadro de la ola que se estrella y rompe es una buena ilustración de esto. El tiempo no se mueve allí, pase lo que pase. Sigue existiendo.
En esta negociación, el color queda atrás. La forma se rompe, pero el color permanece intacto. El blanco es blanco, el azul es azul, el marrón es marrón.
Para Paco, el color es como el tiempo. Es algo que sigue existiendo sin moverse. Como "imagen posterior".

Todavía no puedo decir lo que quiero decir.
Lo dejo como una nota.

Pacoが描いているのは何なのか。
私は最初、海を描いた作品に惹かれたのだが、私が見ているのは何かわからなかった。
墨で描かれた作品を見て、やっとPacoが描いているものがわかった、と感じた。
Pacoは形を描いていない。形が消えた後も残っている色を描いている。墨で描かれた絵には、色はないのだが。だから、私が見たものを別のことばで言い換えるなら、それは「残像」になるかもしれない。

墨絵は、岸辺の風景だろうか。水の向こうに木がある。逆さまの影が水に映っている。
この絵のなかではわかりにくいが、ものが存在するとき、時間が動いている。時間とともに存在も変化しているはずである。私たちが見ているものは、その変わらぬ存在と変わり続ける時間の交渉である。
そう意識した瞬間、私は、錯覚するのだ。
時間は動かない。存在が動いているのだ。存在は動き続け、その形は壊れ続ける。波にぶつかり、壊れる波の絵を見ると、それがよくわかる。時間は何があっても、そこを動かない。不動である。
この交渉のなかで、色が取り残される。形は壊れても、色は壊れずに残る。白は白、青は青、茶色は茶色。
Pacoにとっては、色は時間のようなものなのだ。動かずに、そこに存在し続けるものなのだ。「残像」として。

私はまだ私の言いたいことが言えない。
メモとして、書き残しておく。

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野沢啓「言語隠喩論のたたかい――時評的に1」

2022-10-19 17:10:36 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「言語隠喩論のたたかい――時評的に1」(「イリプスⅢ」1、2022年10月10日発行)

 野沢啓「言語隠喩論のたたかい――時評的に1」のなかに、吉本隆明のことばを批判する形で論を展開している部分がある。野沢は、吉本の「表現された言葉は指示表出と自己表出の織物だ」という定義を批判している。ことばは「自己表出」と「指示表出」の二分法で分類できるのか、と批判している。何が問題なのか。「言語表現の問題を意識の外部表出としてしかとらえていない」(34ページ)と指摘した上で、それを説明し直している。

(吉本の論には)ことばそれ自体の創造性、書き手の意識を超えた言語の創造性という観点がまったく見失なわれている。(略)わたしは『言語隠喩論』のなかで言語そのものの創造的隠喩性、とりわけ詩の言語が無意識的、半意識的なことばの創出過程をもっているという側面を確認するとともに、そこに意識の統御を超えた言語の本質的創造性をみた。(34ページ)

 「ことばそれ自体の創造性」「書き手の意識を超えた言語の創造性」という表現がある。これは同じものなのか、別のものなのか、野沢が意図していることが、私にはよくわからない。ことばは「話し手/書き手」がいて、はじめて存在する。「ひとりごと」や「頭の中だけでのことばの運動」も、「聞き手/読み手」がいないだけであって、その言語を動かす人間がいる。ことばが存在するとき、そこに同時に存在してしまう人間の存在を、野沢がどうとらえているか、よくわからない。
 野沢は「無意識的、半意識的なことばの創出過程」とも書いているが、このときの「無意識」「半意識」というのは「人間の無意識、半意識」だろう。ことばは、ことば自体では単独では存在せず、かならずそこに「人間」がいる。
 辞書の中のことば、意味の定義の羅列にしても、それは、そのことばが単独で存在しているのではなく、それをつかったひと、それを定義したひとがいる。
 野沢は、たしか『言語隠喩論』のなかで、ことばの発生(?)を、古代人が雷をみたときの驚きとともに書いていた。人間がいたから、「ことば」があったのであって、驚愕のことば(声)があって、そのあとに人間が生まれてきたわけではないだろう。私は、なぜ、野沢が、あの奇妙な「例」を持ち出してきたのか、よくわからない。ある部分がなければ、(そのあとに、はじめて海にであったときの、奇妙な例もあったが)、私は、これほど野沢の『言語隠喩論』には関心を持たなかったと思う。

 人間とことばの関係について補足するものかどうか判断できないが、野沢は、先の部分を補足する形で(補足ととらえたのは、もう一度、野沢が吉本の名前を出して書いているからである)、こう言い直している。

吉本のようにどこまでも人間的意識の表出一辺倒ではなく、言語創造の結果そのものが人間の意識に先行し、意識がはじめて形成されるという逆転現象をもたらしていることをこそ見るべきなのである。その言語的特性をとりわけ詩のことばの問題として明確に取り出すことをつうじて、さらに言語そのものの本質的創造性、すなわち創造的隠喩性を明確にしたのがわたしの『言語隠喩論』なのである。(34ページ)

 「人間的表出」「人間の意識」という表現がある。このときの野沢の「人間」の定義は、どういうものなのか。生物が進化し、さまざまな生きものに分化し、生まれてきた段階の「人間」は、野沢の「定義」のなかに含まれているか。私には、含まれているとは思えない。雷をはじめて体験した人間(ことばを知らない人間)とか、海をはじめてみた人間(海という名詞を知らない人間)が、野沢のここでの「人間の定義」のなかに含まれているとは思えない。少なくとも、ここには、そういう人間は含まれていないと思う。
 ここに書かれている人間は、ことばの存在を知っている人間である。ここに書かれている「人間」とは「話して/書き手」である。つまり、ことばがすでに存在することを知っている人間である。
 その私の「推定(推測)」にしたがって、「言語創造の結果そのものが人間の意識に先行し、意識がはじめて形成されるという逆転現象」を読み直せば、つまり野沢が説明していない部分を私のことばで補って読み直せば、こうなる。
 言語創造の結果(つまり、作品)そのものが、書き手(とりえあず、書き手としておく)の意識に先行し、書かれたことば(作品)によって書き手の意識がはじめて形成されるという逆転現象、というのはたしかにある。
 書き手はだれでも「結論」を知っていて書くわけではない。書きながら、何かわからないものを追いかけていくと、そこから自分でも予想もしなかったものが動き出し、その動き出したことばによって自分自身の意識を知るということはある。あ、これが、私の書きたかったことだったのか、とあとからわかる。あるいは書いた後で、私はこんなことを書いていたのかと驚くことがある。それは、まるで、私(書き手)の意識に先行し、ことばが私の意識(書き手の意識)をリードし、育てていくような形で、意識が形成されるということになるだろう。
 でも、そのためには、まず、使用可能なことばが先にないといけないのだ。そして、その使用可能なことばというのは、いつでもといえるかどうかわからないが、いま生きている人間にとっては、すでに存在しているものである。
 これを「読み手」の側から言い直すと、こうなる。ある作品(すでに書き手が書いたもの)を読んでいると、つまり先行して存在する書き手の意識がふくまれることばを追いかけていると、それにあわせて読み手の意識も形成され、その結果として、あ、これこそが私の言いたかったことだと気づくことがある。それは、自分の意識を形成するという明確な自覚のないまま、書き手のことばによって(すでに存在することばによって)、読み手の意識が形成されることでもある。
 野沢が「人間」とおおざっぱにくくっているもの、その「定義」を明確にしないと、野沢の論理はつかみ所がないように私には思える。野沢は人間の存在を省略して、ことばの隠喩と言っているように思える。あることばが隠喩になりうるのは、そのことばを隠喩ではない形でつかう人間が存在することが前提であり、そのことばをつかう人間がいるということは、ことばがすでに同時に存在することを意味する。

 また、野沢は、この部分で「言語そのものの本質的創造性、すなわち創造的暗喩性を明確にした」と書いているのだが、ここに書かれている「意味」が、私にはさっぱりわからない。いったい、いつ「言語そのもの」が何かを「創出」しただろうか。どこに「言語そのものが創出した表現」というものがあるだろうか。どのようなことば(野沢が評価している詩人のことば)も、かならずそこには詩人(書き手)というものが存在する。
 私は、ことばは自立している。ことばはことば自身の肉体をもっていると考えるが、そのとき私が想定しているのは「ことばの歴史(古典、とは言い切れないのだが、とりあえず古典と書いておく)」である。読み手としての人間は先行する「古典」に触れる。そして、ことばの動かし方を知る。その、書き手に先行する「ことばの肉体」の動きは、あとからことばを書いていく書き手の「ことばの肉体」に働きかける。ときには、書き手が「古典のことば」が見落としていた「動き」を引き出すということもある。触発されて「ことばの肉体」が思いがけない方向に展開することもある。新しいことばの動きに見えても、それはまったくの「新しいことば」ではなく、新しい動きなのである。「ことばの肉体」が「ことばの肉体」に触れながら、新しい「ことばの肉体の運動」にめざめる。

 こういうことは、いくら書いてもきりがないのだが。
 吉本がらみで、野沢は、こんな批判も展開している。中城ふみ子の短歌を巡る批評である。

 どうして〈肉うすき軟骨の冷ゆる日よ〉が〈いづこにわれの血縁あらむ〉の隠喩(暗喩)となり、後者だけが《作品の思想的な意味》だと言えるのか。吉本の解釈は独断でしかない。(35ページ)

 ここで、野沢は不思議なことをしている。吉本は「暗喩」ということばをつかっている。省略したが34ページでは、野沢は吉本の書いている全文を引用しており、そこには「暗喩」と書かれているのだが、野沢はそれをそのままつかわず「隠喩」と書き直した上で、丸括弧で(隠喩)と補うように書いている。
 「隠喩」は野沢独自の思想を含んだことばであり、それと吉本の「暗喩」を区別したたいのかもしれない。つまり吉本の書いているのは「隠喩」と呼ぶべきものであり、「暗喩」と呼ぶべきものではないということなのかもしれないが、これは乱暴なことばの展開だろう。なぜ、こんなことを書いているか、わからない。「隠喩」と「暗喩」を区別したいのなら、もっと明確に、どこがどう違うのか。吉本の「暗喩」という用語と、野沢の「隠喩」という用語のつかいわけ、どうつかいわけるべきかを、明確にしないといけないだろう。すでに野沢はそういうことを書いているのかもしれないが、私は、記憶力が悪いので思い出せない。
 さらに野沢は吉本の「解釈」を「独断」と断定している。では、それを「独断」と断定するときの、野沢の解釈は? これが何度読んでもわからない。吉本の解釈が独断なのか、野沢の書かれていない解釈が独断ではないのか、いったい、どうやって判断すればいいのか。
 「暗喩」「比喩」の問題は、とても難しい。吉本は〈肉うすき軟骨の冷ゆる日よ〉が〈いづこにわれの血縁あらむ〉の暗喩というが、逆に〈いづこにわれの血縁あらむ〉が〈肉うすき軟骨の冷ゆる日よ〉の暗喩かもしれない。吉本が〈肉うすき軟骨の冷ゆる日よ〉を暗喩と感じたのは、「われの血縁」というものはだれでも確認ができるが(厳密にはだれでも、とはいえないが、多くのひとは確認できるが)、「肉うすき軟骨」というものにはなじみがなく、それは何?と思ったからかもしれない。さらに、どの軟骨か具体的に書かれていないものが「冷える」というのも理解するのがなかなかむずかしい。なじみのないことば(日常的ではない表現)だから「暗喩」と感じたのかもしれない。これは読み手の感じ方次第だから、どうとでも「後出しジャンケン」のようにいうことはできるだろう。どう語ろうと「独断」なのであり、批評(解釈)は「独断」だからおもしろい。学校の試験のように、100点をもらうために、「先生」の「解釈」に合わせる必要はない。
 野沢は、吉本の解釈について「強引な解釈をどうして吉本が繰り出してきたのか、誰にも説明はできないだろう」と書いているが、野沢が野沢自身の解釈を書かず、どうして吉本の解釈を「独断」と断定できたのか、「誰にも説明はできないだろう」と思う。もし、中城の短歌に対する「定説としての解釈」があるのなら、それはそれで、吉本の解釈と対比させ、ここが「独断」という根拠を示すべきだろう。

 野沢は、今回の論の末尾に、こう書いている。

 吉本の〈自己表出〉(と〈指示表出〉)という概念は言語の創造的隠喩性という視点から査問に付さなければならない。(35ページ)

 私は、ここでも「書き手」ということばが必要だと思う。「言語の創造的隠喩性」というよりも、「書き手の創造的」言語活動が生み出す「隠喩」の魅力と読みたい。「書き手」なしに「ことば」の存在を考えることは、私にはできない。

 


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