詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大西久代『ラベンダー狩り』

2022-10-18 21:16:01 | 詩集

大西久代『ラベンダー狩り』(七月堂、2022年10月10日発行)

 大西久代『ラベンダー狩り』の巻頭の詩「小路を」を私は二度読んだ。読み返してしまった。

高い塀とセンダンの木の実を映す放水路
との間に ひっそりとその小路はある
五月朝の光は露に濡れた花々や草を照らし
蝶々は真新しい羽根をうっとりひらく

 「うっとりひらく」につまずいたのである。蝶が羽根を開くのを大西は「うっとり」として見ていたのであり、蝶は「うっとり」羽根を開いたりしないだろう。自己陶酔して羽を開いたりしないだろう、とつまずいたのである。
 しかし、読み返してみて、大西は蝶を描写しているのではない、蝶になっているのだと気づいた。大西は蝶になってしまっているから「うっとり」と書いてしまう。
 この自他の区別のなさは、こうつづいていく。

虫取り網と籠を手に小さな兄弟の
弾む声が小路を飛び交うこともある
病に伏せる母親への贈り物
生れでる生命の輝き
もう 移り変わりの早い季節が小さな背を
飛び越えようとしている

 大西は「兄弟」にもなれば、「母親」にもなって、その小路を歩いていることがわかる。大西は目撃者ではなく、存在の「体験者」なのである。存在を体験する、そのとき、「世界」というものが出現する。
 「レモン谷から」には、こんな行がある。

レモンは惜しげもなく
実りの重さをこの手に与え
ひみつの硬い扉を開こうとする

 レモンを主語にしたこの三行は「翻訳文体」の影響かもしれないが、私は大西がレモンになっているのだと思って読んだ。レモンになった大西と、作者の大西が、真昼の光のなかで融合している。
 そんなことを思って読んでいると、「燃え上がる」は、こうはじまる。

六月の空をだれも教えたりはしないが
私がのうぜんかずらになって
咲きはじめるすべを
いつからか知ったのだ

 「私がのうぜんかずらになって」と「なる」という動詞が、ちゃんとつかわれている。この詩のしめくくりの四行。

燃やしたものをとり込んで
再生を予感する
のうぜんかずらとなった私の転変
針を含んだ口先さえ愛おしい

 「転変」をくりかえすことで、大西は自分を発見し、自分を愛することをおぼえていく。そして世界は充実する。苦しみや悲しみのなかでさえ。

 

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇216)Obra, Jesus Coyto Pablo

2022-10-18 17:11:25 | estoy loco por espana

Obra de Jesus Coyto Pablo
De la serie "El delicioso mundo de un jardín" Año 1989 200x200 cm. Acrílico madera.
Con el amigo y coleccionista Joaquín Colmena. Museo "la Neomudejar"

Puede que haya visto este cuadro en el estudio de Jesús. Puede que haya visto otro cuadro. En ese momento, sentí algo de repente, pero no pude expresarlo con palabras. Ahora, mirando el cuadro en la pared (Jesus y su amigo están de pie frente a él, así que no puedo verlo entero), recuerdo la impresión que tuve entonces. Intentaré escribirlo en un poema.


この絵を、私はJesusのアトリエで見たかもしれない。私が見たのは別の絵かもしれない。そのとき、ふと何かを感じたのだが、それはことばにならなかった。いま、壁にかけられた絵を見て(画家と友人が前に立っているために、その全体は見えないが)、私は、あのときの印象を思い出した。詩に書いてみよう。

*

 En la pared del confinamiento solitario hay un cuadro que representa la pared del confinamiento solitario. La inserción dice que tiene que ir a ese confinamiento solitario para ver esa cuadro, pero no dice dónde está ese confinamiento solitario,  y añade que estas palabras no son las últimas, son las primeras. Las palabras fueron invitadas a acumularse y convertirse en un muro lleno de matices de gris, comenzando a confinar las palabras dentro de las palabras. La cuadro del confinamiento solitario en la pared del confinamiento solitario está hecha de sombras que fueron creadas naturalmente por las letras de las palabras soñadas en el confinamiento solitario. En cuanto a esta inserción, el comentario afirma que las palabras son las únicas letras legibles en el cuadro del confinamiento solitario. Esta flagrante mentira es una trampa del propio cuadro, en el que las letras y las palabras se superponen entre sí, haciéndola casi de color negro. La interpretación ha unido las palabras en algo así como un archivo de anotaciones para el poema que ha sido descartado. Fue entonces cuando vi que algunas de las palabras se movían como si trataran de escapar. Había una pequeña ventana en lo alto de la pared, en la que quedaba atrapada la sombra de un edificio más pequeño que la ventana y el cielo más pequeño que la ventana. Un día, un pájaro aún más pequeño llegó volando y cruzó el edificio y el cielo en un círculo suelto. Se alejó a un tamaño extraordinario, más allá de la pequeña ventana.

 

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三木清「人生論ノート」の「人間の条件について」

2022-10-17 22:53:41 | 考える日記


何が書いてあるか、読めないかもしれないが。
私の「ノート」。
これに見ながら、イタリア人といっしょに「人生論ノート」を読んでいる。

 

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読売新聞の「要約」の仕方(あるいは、世論操作の仕方)

2022-10-17 22:30:38 | 考える日記

 中国共産党の20回大会が開かれた。2022年10月17日の読売新聞(西部版・14版)は、一面の見出しと前文。
↓↓↓
中台統一 武力放棄せず/習氏政治報告 共産党大会開幕/米に対抗 核開発強化(見出し)
 【北京=吉永亜希子】中国共産党の第20回大会が16日、北京の人民大会堂で開幕した。3期目政権発足が確定的な習近平総書記(国家主席)は党中央委員会報告(政治報告)で、台湾統一について「武力行使を決して放棄しない。あらゆる選択肢を持ち続ける」と宣言し、台湾への関与を強める米バイデン政権と台湾の蔡英文政権を威嚇した。習氏は米国を念頭に核抑止力を強化する方針も示し、今後も強国・強軍路線を突き進む考えを鮮明にした。
↑↑↑
 見出しは、前文を的確に要約している。どこにも「間違い」はない。
 この見出し、記事(前文)を読むかぎり、中国は台湾統一へ向けて「武力を行使する」可能性がある、と読んでしまうそうになる。やっぱり「台湾有事」は起きるのか。中国が台湾に侵攻するのか。ロシアがウクライナに侵攻したように。たいへんなことになるなあ、と思ってしまう。
 でも、この読売新聞の「要約」は正しいのか。
 「政治報告の要旨(全文ではない)」が6面に掲載されている。そこでは、どう書いてあるか。(番号は、私がつけた)
↓↓↓
①「一つの中国」原則と「1992年合意」を堅持し、「台湾独立」に断固反対する。
②台湾問題の解決は、中国人自身が決める。最大の誠意と努力で平和的統一を実現するが、決して武力行使の放棄を約束せず、あらゆる必要な措置をとる選択肢を残す。
③このことは外部勢力からの干渉とごく少数の「台湾独立」分裂勢力に向けたものであり、広範な台湾同胞に対したものではない。
④統一は必ず実現しなければならず、必ず実現できる。
↑↑↑
 少しずつ説明する。
①習は「台湾独立」に断固反対する、と言っている。「台湾を統合する(中台統一)」とは言っていない。中国は「台湾」を中国の一部と認定している。「統合する」もなにも、すでに「ひとつ」である。これは、国連も認めているし、日本も認めている。習がいっているのは「台湾独立反対」である。だから、見出しの「中台統一」、前文の「台湾統一」ということばは正確ではない。
②「台湾問題の解決は、中国人自身が決める」というのは、中国と台湾の問題は「国内問題」であり、国民の「中国人自信が決める」という意味であり、これは当然の権利である。そして、その当然の権利を守るため(国内問題を国民自身で決定する権利を守るため)なら、「武力行使の放棄を約束せず」というのである。つまり、外国が(正確に言えば、アメリカが)台湾を独立させるような動きをするなら、「内政干渉」を理由に、それに対して武力行使を辞さないというのである。「内政干渉」ということばは読売新聞の要約には書いていないし、習がそう言ったかどうかはわからないが、これまでの習の発言から推測すれば、そうなる。
③は、私が②で書いたことを、補足説明するためにつけくわえたものである。「武力行使の放棄を約束せず」という文言だけを取り出して、アメリカやアメリカに追随する国が、「中国は武力で台湾を統一しようとしている」と主張することがわかっているから、そうではない、と念押しするために、つけくわえたのが③である。「このことは外部勢力からの干渉(略)に向けたもの」である、と断言している。「干渉」ということばが、ここにはっきり書かれている。読売新聞は、これを「わざと」無視して、記事の前文、見出しを「ねじまげている」。
 もちろん、台湾にも「台湾独立」をめざすひとが、「ごく少数」いる。そのことは習も認識している。そのこともはっきり書いている。この「ごく少数」は習の「認識」であり、台湾の「実情」かどうかはわからないが、いまだって台湾の人々が権利を迫害されているわけではないのだから「ごく少数」だろうと私は推測している。
 だいたい中国人は、金もうけ第一主義的なところがある。金さえもうかるなら、中国に統一されたってかまわないと考えるひとの方が多いだろう。現実に、台湾と中国を行き来している経済人がいる。中国が世界一の経済大国になれば、台湾は、ぱっと中国に統一・吸収されるだろう。

 ちょっと余分なことを書いてしまったが、習は「中台統一のために武力放棄せず」とは言っていない。台湾を独立させようと「(内政)干渉」する「外部勢力」に対しては、それに対抗し「武力放棄せず」と言っているのである。
 これは言い換えると、アメリカが台湾を独立させるために、台湾や台湾周辺で軍事活動をするなら、それと戦う。そのとき「武力放棄せず」と言っているのである。前文に「米国を念頭に」ということばがある。これは何も、アメリカ本土を攻撃するということを前提にした発言ではなく、台湾問題についてアメリカがどう行動するか、その行動を抑止するために、ということだ。
 習は、【外交】という項目で、こういうことも言っている。これは先に引用した【祖国統一】という項目につづく部分である。
↓↓↓
 中国は独立自主の平和外交政策を揺らぐことなく実施する。覇権主義、内政干渉、ダブルスタンダードに反対する。中国は永遠に覇権を唱えることも、拡張することもない。
↑↑↑
 ここにはっきり「内政干渉」ということばが出てくる。「台湾独立」をそそのかすのは、「内政干渉」である。それは、アメリカの「覇権主義(台湾をアメリカの傘下に収める)」である。アメリカは、わざわざ中国のすぐそばまでやってきて、そこに軍事基地を造る必要はない。アメリカは、アメリカ国内におさまっていろ、と主張しているのである。

 そう認識して読売新聞の「見出し」「前文」を読み直すと何が見えてくるか。「台湾有事」を引き起こして、戦争によって金もうけをしようとしているアメリカの思惑に、読売新聞は寄り添っているということが見えてくる。自民党も、アメリカの軍需産業をもうけさせるために「台湾有事」を期待しているのだろう。日本がどうなろうが、アメリカの軍需産業さえもうかれば、その利益が自分たちに流れ込んでくると考えているのだろう。「台湾有事」葉、アメリカが望んでいることだ。それは「ウクライナ有事」が、同様にアメリカが望んだことをも意味する。

 

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荒川洋治「秋の機械」

2022-10-17 21:24:59 | 詩(雑誌・同人誌)

荒川洋治「秋の機械」(「午前」22、2022年10月25日発行)

 荒川洋治「秋の機械」は、『水駅』を思い起こさせる詩である。荒川の意図は知らないが『水駅』は架空の旅日記である。架空というのは、記憶を旅するということでもあり、そこでは、ことばが「いま」にしばられずに動くということである。

水車小屋には
伯父と、のけものの弟などが多い
羽のある伯父
アントンは郷里を出て東方へ
誰かが店長を呼ぶ 東方からも遠い声で

 「水車小屋」は、「いま」ではない。しかし、それ以上に「のけものの弟」が「いま」ではないだろう。「水車小屋」によって「のけものの弟」が「いま」ではないことが緩和(?)されて、まるで「いま」のように迫ってくる。こういうところが、荒川のことばの絶妙なところである。「郷里」も「いま」ではないが、「のけものの弟」によって「真実味」が出てくる。「水車小屋/のけものの弟/郷里」の関係が、なんともいえず、おもしろい。「のけもの」という「ひらがな」もいいなあ。これが漢字まじりだったら、意味が強くなりすぎて「いま」が壊れてしまう。
 「アントンは郷里を出て東方へ/誰かが店長を呼ぶ 東方からも遠い声で」の「東方」の呼応もいい。捨てた「郷里」でも、たどりついた「異郷」でも、誰かが呼ぶ。その声が「架空」のなかで出会う。ここは、美しい。『水駅』の響きそのままだ。
 でも、それよりも。
 私は二連目が好き。

秋の日、さほど遠くない地点から
何かの工事の機械の音
気体かと思われた部品が
郊外で身を起こし
羽のある伯父を求めてすべっていく
自然の海辺、郡名の浜辺を

 「気体かと思われた部品が」。この一行で、私にとっては、この詩は「絶対的存在」になる。ほかに、ことばはいらない。それなのに、それを追いかけて「郊外で身を起こし」が動く。そのときの「郊外」の美しさ。さらに次の行の「すべっていく」。私は記憶力が悪いので、ものを覚えるということをしない。だから間違っているだろうけれど、『水駅』にも「すべっていく」があると思う。そのままではなく「すべる」かもしれないが。
 「すべる」とは何か。いろいろ「定義」はできるだろうが、私にとっては、それは「なめらかさ」である。
 荒川のこの詩のことばは、架空独特の「なめらかさ」を持っている。「いま」の「現実」との交渉を回避した「なめらかさ」である。

自然の海辺、郡名の浜辺を

 この一行が、それを象徴している。そんなものは、いまどき、「羽のある伯父」以上に、架空の中にしか存在しない。
 でも、いいのだ。
 これは「架空の旅日記」なのだから。

 詩は、まだまだつづくのだが、私は気にしない。詩に限らないが、どんなことばであろうと、全体を「要約」する必要はないし、全部につきあう必要もない。現実に接触のある人間の、現実のことばでも、百分の一も正直に向き合うことはない。私は荒川には会うことはないだろうから、全部のことばに対して感想は書かない。

 

 


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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
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(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
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Estoy loco por espana(番外篇216)Obra, Jesus Coyto Pablo

2022-10-16 21:36:38 | estoy loco por espana

Obra de Jesus Coyto Pablo
"Días de tiempo gris" 100x100cm. Serie pictografias collage y encaustica. Año 2007


 Huí al pasado para evitar la lluvia, pero la lluvia me persiguió hasta el pasado. Desde el eternamente húmedo asfalto azul-negro, los colores mojados por la lluvia se disuelven y se mezclan en el aire, envolviendo a los que se apresuran a ir y venir de la estación, borrando cualquier distinción. Las sombras de las palabras, que recogen la débil luz restante y se reflejan al revés, parecen la tipografía de un cuaderno de viaje abandonado. Nadie lee el tipo invertido, pero es disciplinado, como si esperara ser leído. Camina dentro de sí mismo, defendiéndose obstinadamente. Pero, ¿por qué la lluvia atrae un lenguaje tan lírico? La interpretación había borrado esta abrupta anotación con una fina línea, como la lluvia de otoño. O con trazos tan tenues como las líneas rayadas de un viejo diario. Las palabras "mostrar y borrar" estaban escritas en el cuaderno, las palabras esquivando la lluvia.

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Estoy loco por espana(番外篇215)Obra, Joaquín Llorens

2022-10-16 15:35:07 | estoy loco por espana

Obra Joaquín Lloréns
Técnica hierro oxido 45x22x39 Serie. C. 1 Colección particular

Esta obra inspiró mis palabras. Yo escribí el poema. He intentado traducirlo con un traductor, pero probablemente no tenga sentido para un hispanohablante. Ni siquiera los japoneses entienden mis poemas, así que sería aún más difícil entenderlos en español.
Pero lo escribiré. Aquí está el poema.
*
 Cuando las puertas automáticas se abrieron, sentí que el aire ligeramente oscuro del interior del edificio se escapaba hacia el exterior. Seguí el movimiento con los ojos. Pero en el momento en que volví la mirada hacia atrás y escuché el silencioso sonido de las puertas automáticas al cerrarse, creando una pequeña luminiscencia, los pasos de las palabras caminando por la acera y el sonido de los coches desaparecieron y no vi nada. Todo se volvió transparente. Había una luz silenciosa, diferente del resplandor. La voz  dice : este es el nuevo interior. La palabra miró a su alrededor. El interior era completamente diferente de lo que había esperado desde el exterior. Pero no se puede explicar por qué era diferente. Aunque quisiera explicarlo, no había nada que describir. Es transparente en todos los sentidos. Alrededor de donde se encuentra la palabra, suben y bajan varios ascensores de alta velocidad. También se puede ver un pasillo que conecta las habitaciones. Sin embargo, no hay paredes ni puertas en ninguna parte. Quién escribió que no sabía dónde están las habitaciones, aunque hay muchos "pasillos" para visitar la habitación donde se dice que vive corazón, ¿fue una interpretación, un comentario o un sueño? No lo es. Se trata de una inserción, escribió posteriormente el anotador. El estilo, continúa el anotador, habrá cambiado, aunque ligeramente. Las inserciones tienen derecho a entrometerse en cualquier momento y en cualquier idioma. Y aunque dejan violentamente las huellas de su intrusión, las inserciones repetidas hacen que una determinada inserción sea cosa del pasado, sustituyendo a la víctima más que al autor. Así que el interior siempre está lleno de tristeza. Una pena que se ha endurecido a causa de una soledad obstinada.

 

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Estoy loco por espana(番外篇214)Obra, Joaquín Llorens

2022-10-15 22:08:36 | estoy loco por espana

obra de Joaquín Llorens

El momento y la eternidad se acercan.
La soledad que encontramos en el otro es demasiado hermosa
Porque nos invita al tiempo perfecto.
El momento y la eternidad se separan.
Porque la alegría de estar unidos es tan gloriosa
Parece que perdemos de vista la perfección del tiempo.

¿Es el momento perfecto?
Cuando el momento piensa
el momento desaparece.
¿Es la eternidad el tiempo perfecto?
Cuando la eternidad piensa
La eternidad desaparece.

No sé lo de qué estoy escribiendo.
No sabes lo que estás diciendo.
Pero sé lo que estás diciendo
Que es un sueño.
Pero tu sabes lo que estoy escribiendo.
Que es el amor.

El momento y la eternidad se separan.
Porque la alegría de estar unidos es tan gloriosa
Parece que perdemos de vista la perfección del tiempo.
El momento y la eternidad se acercan.
La soledad que encontramos en el otro es demasiado hermosa
Porque nos invita al tiempo perfecto.


瞬間と永遠は近づいていく。
互いの中に見つけた孤独があまりにも美しく
完全な時間へと誘うから。
瞬間と永遠は別れていく。
結びついたときの喜びがあまりにも輝かしく
時間の完全性を見失いそうで。

瞬間は完全な時間だろうか。
瞬間が考えるとき、
瞬間が消える。
永遠は完全な時間だろうか。
永遠が考えるとき、
永遠が消える。

私には、私の書いていることがわからない。
君には、君の言ってることがわからない。
けれども、私には君の言っていることがわかる。
それが夢であると。
けれども、君には私の書いていることがわかる。
それが愛であると。

瞬間と永遠は別れていく。
結びついたときの喜びがあまりにも輝かしく
時間の完全性を見失いそうで。
瞬間と永遠は近づいていく。
互いの中に見つけた孤独があまりにも美しく
完全な時間へと誘うから。

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青柳俊哉「空間」、木谷明「その前へ」、杉恵美子「夜がきたら」、永田アオ「秋の音符」、池田清子「清涼飲料水」、徳永孝「我がまま」

2022-10-14 23:15:29 | 現代詩講座

青柳俊哉「空間」、木谷明「その前へ」、杉恵美子「夜がきたら」、永田アオ「秋の音符」、池田清子「清涼飲料水」、徳永孝「我がまま」、(朝日カルチャーセンター、2022年10月03日)

 受講生の作品。

空間  青柳俊哉

少女の中に 大きな時間があり
初めに 蝶のかげがめばえていた

太陽の照りつける白昼に
茫茫と伸びる夏草の中に立ち 身体が 
かげの中へ 傾いていくのを自覚した

成長していく空間の 胸の奥から 
微かな蝶の光がうまれ 翼からそよぐ風で
体は明るい翅脈の線に透けていった

少女は風にふかれる太陽
羽のかげに写る ひまわりやゆりの野原だった

心を超えていくものの法悦の中で
花へ遡る 蝶の空間だった

 少女の中に無限の時間、空間があふれている。少女の成長を温かく見守っているのを感じる。時空間が大きい。五連目が美しい。「茫茫」という書き方がいい、と好評だったが、一方で「法悦」ということばが宗教的で気にかかる、わかりにくいという声があった。青柳は、少女から蝶へ、蝶から花へと固体(個体)の生と死を超えていく過程をあらわしたかったと語った。すでに「時間」「空間」ということばがあるから、それ以外のことばをつかいたかったのだと思うが、私も、「法悦」は観念的すぎると思った。ただ、前にも「自覚」というかなり観念的なことばがあるから、「脈絡」(文体)としては破綻していない。どこまで観念的なことばを詩に書き込むかはむずかしい。観念のことばだけで構成する詩を書いてみるのもおもしろいかもしれない。
 私は「蝶のかげがめばえ」から「蝶の光がうまれ」という変化を、もっと深く、そこに焦点をあてるようにして書いたらおもしろいだろうなあ、と思った。

その前へ  木谷 明

ずっとどこかの落書きで
もう見つけられないのかと
思っていた あのやさしい落書きが
目の前に

好きすぎて一瞬で閉じてしまった
さよならできたわけじゃない
振り向く理由は

こんな背表紙見返し一ページ目にあるなんて

まさかの自己裏切りも甚だしく 

 最終行の「自己裏切り」に意見が集中した。一言で言えば「わかりにくい」のだが、わかりにくいからこそ、読み方がわかれる。それが詩のおもしろいところだと思う。「落書き」とどういう関係にあるのか。誰が書いた落書きなのか。作者が書いたのか、別のひとが書いたのか、作者だけれど別のひとが書いたと想定しているのか。「やさしい落書き」の「やさしい」をどう読むか。これは、いわゆる「行間を読む」ということにつながるのだが、こういうことは「答え」を出さなくていい。というか、作者の「意図」と読んだひとの感想は別のものだから、作者の意図と読者の感想が重なれば、それが正しいというわけでもない。つまり、「解答」というものはない、ただ、ことばを読んで、読者があれこれ思うことができればいいのだと思う。
 そういう揺れ動きのなかで、受講生のひとりが「こんな背表紙見返し一ページ目にあるなんて」に注目し、これがおもしろいと言った。たぶん、この一行が全体のなかで、非常に具体的だからだろう。「背表紙見返し一ページ目」。これを見間違える人はいない。どの本にでもあるが、その「事実」がゆるぎない。たしかに、この一行は、この詩の「事実」を支えている。その対極に「落書き」と「自己裏切り」がある。
 「裏切り」というのは不思議なもので、裏切られてがっかりするときもあれば、裏切られて安心するときもある。ある願いが、思い通りにかなって、あまりに簡単すぎて逆に裏切られたような気持ちになるときもある。
 ひとは、はらはらどきどきや、悲しみ、絶望にさえ、「手応え」のようなものを感じてしまうものなのである。だからこそ、「答え」はいらない。「答え合わせ」は詩には必要ではない。読んで、語り合って、そういう読み方もあるのか、とことばの可能性を感じ取れればそれでいい。このことばを別な形でつかってみよう、と思うようになったら、詩人に生まれ変わっていると言えるだろう。

夜がきたら  杉恵美子

夜がきたら蝋燭を点す
今日いちにちが揺れていて
今日 語り合った君と
今日 別れた君と
昨日から約束していた君と
私の中の今日のわたしと
このまま
草稿のままに
終わりそうな私が
ゆらゆら揺れて美しい

 最終行の「美しい」をめぐって、意見がわかれた。なくても美しいがつたわる。美しいは重複にならないか。私が美しいといえることが美しい。
 「草稿のままに」も、わかりにくいという意見と、「草稿のままに/終わりそうな私」がありのままの姿を書いていて、いい、という意見。「草稿のまま」を未完成ととるか、その未完成を、完成に向けて整えるのを拒むととるか。これもまた、「答え合わせ」をする必要はない。書かれている詩の世界へどこまで進んでいくか、どんなふうに入っていくかは読者の自由である。
 この詩のなかには、いくつものゆらぎがある。「君」とは語り合ったのか、別れたのか、約束していたけれど合わなかったのか。それは「私/わたし」のありかたによって違ってくるだろう。「私」か「わたし」かによって、それは違ってくるかもしれない。
 どんなふうに違う? それは読者が自分自身の体験と、この詩のことばをどう重ね合わせるかによって違ってくる。そして、その結果、読者がつかみとるものに「間違い」ということはない。
 「意味」はそれぞれのひとが自分で生きるものだからである。
 私が「講座」でやっているのは、そういうことである。百点の「答え」を出すことではなく、出てきた答えを、答えというものから解放し、自由にすることである。この詩の中に動いていることばでいえば「ゆらす」こと。
 書いたひとをもゆらすようになると、とてもいい。読者の声を聞いて、「あ、私の書きたかったことは、こういうことだったのか」と作者が思ったとき、そのときこそ、詩が動いて、生きているのだ。読者にであって、新しいいのちをもって動き始める。

秋の音符 永田アオ

街中に音符があふれていた
子どもたちが音符にぶら下がって
遊んでいた
手のとどかない小さな子は
大きな子が抱えて
音符の先に座らせてあげたりしていた
ああ、もう秋が来てたんだ
音符に耳をあてると
トンボが羽根を開く音や
草に咲く花をわたる風の響きが
メロディの隙間から聞こえてきた
しばらくして
音符は空に帰っていった
子どもたちはもう
虹のほうへ
走り出してた

 「音符」は何の比喩か。わからないけれど、絵本にしたら楽しいだろうなあ。発想がすばらしく、実際に音符が存在しているように感じる。イメージが鮮明で、そのイメージに動きがあるのがいい。
 私は、「メロディの隙間から聞こえてきた」の「隙間」という音符を超えることばの動き(メタとしてのことばの動き)がとてもいいと思った。「ああ、もう秋が来てたんだ」というのは散文的な一行だが、この散文の力が、イメージというか空想を支える力になっているとも感じた。
 この詩でも、最後の部分に、意見の「ゆらぎ」があった。どうして「虹」なのかということと、「走り出してた」という表現が不安定ということ。「走り出していた」の方が落ち着くという意見である。これはなかなかおもしろい。「遊んでいた」「していた」「聞こえてきた」「帰っていった」という文体のつづきで言えば、たしかに「走り出していた」である。
 しかし、私は、ここは「走り出してた」と「い」がない方が「文体の拘束」から解放されていていいと思う。世界が広がっていく感じがする。子どもだけでなく、世界が見える感じがする。また「ああ、もう秋が来てたんだ」(来ていたんだ、ではない)とも響きあっていい。先に「ああ」の一行について散文的と書いたのだが、その一行には散文から少しずらす(解放する)音の工夫がされていることを気づかされる。とても微妙な技巧が隠されていることがわかる。しかし、こういう音の感じ方、音と世界の関係、文体の整合性をどう考えるかは、ひとそれぞれである。

清涼飲料水  池田清子

自販機の前で
母子の会話
「何飲む?」
「シュワってするの」
「それ たんさんっていうとよ」
「えっ、じゃあたんにもあると?」

きっと たんいちも知っているに違いない

 母子の楽しい会話、子どもの発見が楽しい。最後の一行に、子どもの成長を感じ取っている作者の視点が生きている。オチが楽しい。
 という声にまじって、朗読を聞いてはじめて意味がわかった。黙読したときはわからなかった、という声もあった。
 その影響かもしれないが、講座の後、「じゃあ たんにも……」と一文字空けた方がいいだろうか、と池田から聞かれた。私は空けない方がいいと思う。「読みにくさ」も詩の魅力。特に、こういう短い詩の場合、読みにくさが読者を立ち止まらせる。そして、そのあとで、読者が、あっ、こういうことだったのかと気づく。その気づきも詩のひとつである。読む先から、すべてがわかってしまっては、詩の楽しみはない。
 ぜんぜんわからない詩は困るかもしれないが、ここのところがわからないけれど、いろいろ感じる(考える)というのが楽しいと思う。

我がまま  徳永孝

空高く滑空する一羽の鳥
君もひとりなのかな
下の方からもう一羽が近寄ってくる
二羽は一諸になり遠くへ飛んで行く

道を歩けば
後になり先になり進む自転車の女学生達
熱心に話しながら歩く男の子のグループ
静かにゆっくりと過ぎる子供連れの男女

居酒屋では
カップル、家族、友人達らしき
それぞれのグループ
ひとりぼっちは居ない

友達って仲間って必要なの?
相手に合せる面倒くささ
理解してくれる人は欲しいけど
今日もわたしは我がままにひとり

 最終連。「我がままにひとり」に共感を覚える。一人が好きというのは我がままだろうか。自己肯定でおわるところがいい。三連目「ひとりぼっちは居ない」を挟んで最終連にむすびつけるところがいい。三連目がないと最後が成り立たない、と受講生。
 私は、一連目の「下の方から」という表現がとてもいいと思った。鳥を見上げるのは、下から。その下からの視線を引っ張るようにして、別の鳥が近づいていく。ここには、作者の肉体と、肉体からはじまる鳥への共感がある。ただ、それは最後の「ひとり」に結びつかない。結びつく必要はないのかもしれないが、一連目で動いた視線が、他の連では静止したまま対象を客観化している。それが「我がままにひとり」ということなのかもしれないが、私は残念に感じる。

 

 


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Estoy loco por espana(番外篇213)Obra, Jesus Coyto Pablo

2022-10-14 13:38:26 | estoy loco por espana

obra de Jesus Coyto Pablo
De la serie historias de una ciudad "Mira el pajarito" Pictografias 2007 100x100cm.

 Cuando la palabra señaló el cielo y miró a los pájaros, se formó un edificio alrededor de la palabra. Una alta aguja. Varias ventanas cerradas. Se colgaron banderas y se creó una plaza empedrada. Como las palabras que recogen los recuerdos. Mesas redondas. Mesas sin manteles y sillas sencillas. Café y vino. El sonido de los platos al tocarse. Un viajero exótico entra. No tiene a nadie con quien hablar, así que intenta convertir el lenguaje de la observación de aves en su propio idioma. Saca un cuaderno y empieza a escribir. En su escrito, el pájaro vuela bajo la fría lluvia. Está lloviendo, pero en lugar de esconderse bajo el alero, está volando sobre el resbaladizo tejado, buscando un lugar donde detenerse. Pobre pájaro. Las palabras que murmura también son solitarias en la lluvia. Y el viajero que sigue escribiendo estas palabras también empiezan a mojarse. Palabras desconocidas en la mesa detrás de él. Las sombras que aparecen y desaparecen, una tras otra. Como una luz silenciosa en las sombras, la palabra con su mano izquierda en el bolsillo, señalando al pájaro, ¿también la parabla de viajero, le mojo con la lluvia en tus palabras?
*
Cuando miro los cuadros de Jesús siempre tengo la sensación de estar mirando la "memoria".
Jesús utiliza la palabra "pictografía". No conozco su definición ni cómo se utiliza en el mundo del arte. Sin embargo, la presencia de "grafia" en la palabra puede demostrar que sus cuadros son "literatura". Los cuadros de Jesus no son cuadros ordinarios. Más que reproducir la forma y color de sujeto, lo reproduce como "grafía" o LETRA. ¿Qué es la "letra/literatura"? Es, para mí, estar libre de la forma de la existencia y reproducir el tiempo de la existencia (el movimiento de la existencia).
No sé lo que piensa Jesús. Pero siempre he sentido que mi definición se solapa con el mundo que dibuja Jesús.
Un hombre mira a un pájaro. ¿Es un autorretrato de Jesús? ¿O es el hombre visto por Jesús? ¿Está Jesús mirando al hombre que mira al pájaro representado en este cuadro? No es visible, pero se representa. La mirada y el recuerdo son Jesús. Y la mirada incluye la mirada del hombre que mira al pájaro. Al mismo tiempo, también incluye la mirada que existe a su alrededor en ese momento. La mirada se mueve indefinidamente. La ansiedad y el placer de esto me invitan.
Siempre que me enfrento a los cuadros de Jesús, me dan ganas de escribir poesía. Un poema en el que se superponen varios tiempos en las palabras. Un poema en el que mis recuerdos se convierten en los recuerdos de otra persona, o se convierten en realidad.

Jesusの絵を見るとき、私はいつも「記憶」を見ていると感じる。
「pictografia」ということばをJesusはつかってる。その定義、あるいは美術界でそのことばがどうつかわれているかは、私は知らない。しかし、そのことばのなかに「grafia」があることが、彼の絵が「文学」であることを証明しているかもしれない。普通の絵ではないのだ。対象を再現するというよりも、対象を「grafia」として再現する。「文字/文学」とは何か。それは、私にとっては、存在の形から自由になり、存在の時間(存在の運動)を再現することだ。
Jesusがどう考えているかは、私は知らない。けれど、私はかってに、私の定義が、Jesusの描く世界に重なると感じている。
男が鳥を見ている。それは、Jesusの自画像か。あるいは、Jesusの見た男か。その鳥を見る男を見るJesusは、この絵に描かれているのか。姿は見えないが、描かれている。視線と記憶がJesusなのだ。そして、その視線のなかには、鳥を見る男の視線も含まれている。同時に、そのとき、彼の周辺に存在する視線も含まれている。視線は、不定形に動く。その不安と愉悦が、私を誘う。
Jesusの絵に向き合うと、いつも詩を書きたくなる。ことばのなかで複数の時間が重なる詩を。私の記憶が、だれかの記憶になっていく、あるいは現実になっていく、という詩を。

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Estoy loco por espana(番外篇212)Obra, Lu Gorrizt

2022-10-13 10:09:12 | estoy loco por espana

obra de Lu Gorrizt

Hay algo un poco extraño en el trabajo de Lu.
He visto sus obras en galerías y estudios de Valencia. También los he visto en Facebook. No los he visto en las exposiciones.
Cuando los vi en la galería (y en el estudio), no me sentí cómodo. Me sentí como si estuviera atrapado en la galería. También es la sensación de que el cuadro está atrapado en la galería. Pensé que si los veía en otro lugar, estaría más tranquilo.
La foto de Facebook da una impresión diferente. Especialmente cuando veo las fotos expuestas en la habitación (casa) de alguien, no hay tensión. No me siento tenso.
Me pregunto por qué.
Cada cuadro tiene su propio "espacio". Hay espacio dentro del cuadro, pero también hay espacio alrededor del cuadro.
La obra de Lu crea un "espacio" fuera del cuadro. La obra crean nuevos espacio en el entorno. La presencia del obra crea una nueva forma de ampliar la habitación. 
Al ver la foto (de esta obra) me siento que esta obra tiene que ser de este tamaño y de este color. Armoniza con los colores de la mesa y las sillas, las flores y la luz de las lámparas, y hace que todo el espacio tranquilo.
No conozco esta habitación, pero me siento que la habitación se ha renovado con este cuadro.

Esta impresión es muy diferente, por ejemplo, del espacio de Calo. Calo dibuja un aire enorme, absoluto y Y su obra atrae grandes espacios en torno a los cuadros. Una gran sala de exposiciones es el lugar adecuado para ver sus cuadros. Sin embargo, para apreciar el trabajo de Lu, es mejor una sala privada, como la de la foto.

La sensación de estrechez que tuve en la galería puede deberse al espacio abarrotado de los cuadros individuales en la galería. También puede ser porque no tenía una habitación en la que colgar sus cuadros, así que no podía imaginar cómo quedarían expuestos en mi habitación.
Creo que la mejor manera de disfrutar de las obras de Lu es visitar las habitaciones de las personas que poseen su obra.

Luの作品には、少し不思議なところがある。
私は彼の作品をバレンシアの画廊とアトリエで見た。フェイスブックでも見ている。展覧会では見ていない。
画廊(兼アトリエ)で見たとき、どうも落ち着かなかった。画廊に閉じ込められたような気持ちになったのである。絵が画廊に閉じ込められてるという感じでもある。もっと別な場所で見たら、もっとリラックスできるだろう、と思ったのである。
フェイスブックの写真では印象が違う。特にだれかの部屋(家)に飾られている写真を見ると、緊張感がない。見ている私にも緊張しないし、絵も緊張しているよう見えない。
なぜなんだろう。
絵は、それぞれに「空間」を持っている。絵の中にも空間があるが、絵の周辺にも空間がある。
Luの作品は、絵の外に「空間」をつくりだす。絵によって、周辺に新しい空間をつくりだす。絵があることによって、その部屋の広がり方が新しくなる。そういう印象がある。
写真の作品は、この大きさ、この色でなければいけないと感じさせる。テーブルや椅子の色、花の色、ランプの明かりと調和し、空間全体を落ち着かせている。
私はこの部屋を知っているわけではないが、この絵によって部屋が新しく生まれ変わったと感じる。

この印象は、たとえばCaloの空間とはまったく違う。Caloの絵は、絵の周辺に巨大で絶対的な、ある意味では非人間的な空気を引き寄せる。彼の絵を見るには、広い展覧会会場が適している。
しかし、Luの作品を堪能するには、写真のような、個人的な部屋がいい。

画廊で感じた窮屈な感じは、それぞれの絵が押し広げる空間が、画廊のなかでひしめきあっていたからかもしれない。私が、それらの絵を飾るべき部屋を持っていないので、部屋に飾ったときの様子を想像できなかったせいかもしれない。
Luの作品を楽しむには、彼の作品を持っているひとの部屋を訪問して回るのが最適な方法だろうと思う。

 

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Estoy loco por espana(番外篇211)Obra, Javier Messia

2022-10-12 11:50:32 | estoy loco por espana

obra de Javier Messia


Hay orden y hay desorden que lo traiciona.
O hay una unidad que sustituye el desorden por el orden.
Lo que escribo es contradictorio.
Pero hay cosas que sólo puedo decirse de forma contradictoria.
¿Son las dos piezas una, o son piezas individuales que se unen?
¿Se han encontrado o están separados?
Lo mismo ocurre dentro de una misma obra.
Se dividen en secciones superiores e inferiores.
O la parte superior e inferior se encuentran.
¿El objeto central separa la parte superior de la inferior?
¿O conectan las dos?
Aunque se esté dividiendo de arriba a abajo, o quizás porque algo intenta dividirselo, se está llamando con fuerza a los demás.
Y al escuchar sus voces, ¿la división/conexión central emite una voz que ahoga las voces superiores e inferiores, o es un silencio que se traga las voces superiores e inferiores?
Mis palabras están perturbadas a más no poder.

 

Javier Messiaの作品。
秩序と、それを裏切る乱れがある。
あるいは乱れを秩序にかえる統一がある。
私が書いていることは、矛盾している。
しかし、矛盾した形でしか言えないことがある。
この作品は、ふたつでひとつなのか、それともそれぞれ個別の作品がよりそってひとつになっているのか。
ふたつは出会ったのか、それともわかれたのか。
ひとつの作品のなかにも同じことが起きている。
上下にわかれている。
あるいは上下が出会っている。
中央にあるものは、上下をわけているのか。
あるいは上下を結びつけているのか。
たとえ、それが上下をわけるものであったとしても、あるいはわけようとしているからこそなのか、強く呼び掛け合っている。
また、その声を聞きながら、中央の分断/接続が発するのは、上下の声をかき消す声か、あるいは上下の声を飲み込む沈黙か。
私のことばは、どこまでも乱れていく。

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Estoy loco por espana(番外篇210)Obra, Joaquín Llorens

2022-10-12 11:36:56 | estoy loco por espana

obra de Joaquín Llorens

 

Una obra de arte es una cosa extraña. A veces me la parecen diferentes, aunque sean la misma obra.
Aquí hay dos fotos de la misma obra desde diferentes ángulos. En una, Joaquín está al laddo de obra.
Ambas son sofisticadas y hermosas, pero para mí, la que tiene a Joaquín a su lado me la parece más "alegre". La una sin Joaquín, me le parece un poco solitaria. Hay una sensación de tensión.
Lo mismo ocurre con sus otras obras.
Cuando Joaquín está cerca de la obra, se puede oír la obra presumiendo: "Este es el hombre que me hizo, es mi padre". Es como si la obra se jactara de que "yo hice a Joaquín, soy padre de Joaquín". Su estudio está lleno de esas voces. Quizá sea por estas voces por lo que me gusta tanto su estudio. ¡Ellos viven juntos! Es la familia. 
En el caso de otras artistas y sus obras, me escucha al autor decir: "Yo hice esta obra".
La obra y la artista tienen una relación íntima, pero en el caso de la obra de Joaquín ésta es especialmente intensa. Y lo sentí durante mi viaje en junio. Me acordé de esto cuando vi esta foto.

 

芸術作品は不思議だ。同じ作品なのに、違って見えることがある。
2枚の写真。少し角度が違うが同じ作品。一枚にはJoaquínも写っている。
どちらも洗練された美しさがありますが、私には、隣にいるホアキンの方が陽気な印象を受けます。ホアキンのいない方は、ちょっと寂しい感じ。緊張感がある。
ホアキンの他の作品についても同じことが言える。
ホアキンが近くにいると、「この人が私を作ってくれたんだ」と自慢する作品が聞こえてくる。まるで「私がホアキンを作った」と自慢しているような感じ。彼のスタジオには、そんな声があふれている。私が彼のスタジオを気に入っているのは、こうした声のせいかもしれない。
他のアーティストや作品の場合、作者が「この作品は私が作りました」と言う声を聞く。逆は、ない。
作品と作家は親密な関係にあるが、ホアキンの作品の場合、それは特に強い。6月の旅行でそれを実感した。この写真を見たとき、それを思い出した。

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閻連科『太陽が死んだ日』

2022-10-12 10:01:45 | その他(音楽、小説etc)

 

閻連科『太陽が死んだ日』(泉京鹿・谷川毅=訳)(河出書房新社、2022年09月30日発行)

 閻連科『太陽が死んだ日』は、夢のなかで夢をみるような小説である。それは「さっきの夢から覚めていた瞬間は、夢の中の一節にすぎなかったように。」(31ページ)と書かれている。夢から覚めたということさえも夢なのだ。
 こういう小説では、ストーリーのことを書いても、私には意味はないように思う。夢なのだから、ストーリーはあっても、それは「便宜上」のものにすぎない。何かを語るには、どうしてもストーリーが必要というだけのことであり、重要なのはストーリーではなく、「語り方」だと思うからだ。「語り方」そのものが「夢」なのだ。
 私は中国語が読めない。私が読んだのは、泉京鹿、谷川毅というふたりの訳なので、ふたりのことばの関係もよくわからない。これまで私が読んできた閻連科の小説は谷川毅の訳。今回、泉京鹿がくわわった理由はわからない。わからないことだらけなのだが、気付いたことを書いておく。
 この小説には、いくつかの「文体」がからみあっている。「前の方(前書き?)」にすでに特徴があらわれているが、「巻一」から。

 今度はどこから話そうか。
 今度はここから話そう。                    (15ページ)
 
 短い、同じことばが繰り返される。この書き出しは、まったく同じではないが、ほとんど同じ。しかも、それは「改行」されて繰り返される。

 どこの家もみんな夢遊するようになった。
 誰も彼もが夢遊するようになった。
 天下も世界もみんなが夢遊するようになった。          (23ページ)

 これは、「書き方(語り方)」として不経済だと思う。つまり。たぶん、こういう「作文」を学校の課題で書いたら、「もっと簡単に、繰り返されることばは省略したら」と注意されるだろう。でも、閻連科は整理しない。閻連科が書いているのは「ストーリー」ではないからだ。では、何を書いているのか。
 ことばは、加速する。
 そのことを書いている。「家」から「誰も彼も」と家の外へ飛び出し、それが「天下/世界」へと加速しながら拡大する。加速しないことには拡大できない。
 それは23ページへ戻って、次の部分。書き出しの二行の、すぐそのあとにつづく。

 それは太陰暦の六月、太陽暦では七月の三伏天、旧暦六月六日の龍袍節、天気は大地の骨が折れて割けるほどに暑かった。大地の皮膚の産毛がすっかり灰になるほどに。枝は枯れ、葉は萎びてしまった。果実は落ち、花は散ってしまった。毛虫は空中でぶらぶらしているうちに、ちょっとずつミイラの粉末になってしまった。

 「暑い」描写が積み重ねられる。ひとつに焦点が絞られるわけではない。加速し、移動しながら、拡大する。描写は、何よりもことばの運動なのだ。そこには、「静止」ということがない。
 こんな美しい描写もある。

この年の小麦はいい出来だった。麦の粒は大豆のように膨らんでいる。粒が割けて中から小麦粉が出てきてしまうほどに膨らんでいる。こぼれ落ちる。黄金の麦の穂が路面に落ち、穂も粒も人を躓かせた。                    (17ページ)

 どこまでつづいていくのだ、と私は笑い出してしまう。少し、ガルシア・マルケスを思い出したりする。書き始めると、ことばが加速し、新しい世界を開いていく。ことばを動かすまでは存在しなかった世界が、ことばのスピードにひきずられて、歪み、そこから隠れていた世界が姿をあらわす感じだ。
 夢とは、まさに、こういう感じだ。なんでもないものが、動き始めると、止まらない。次々に変形していく。加速しすぎたために、もう、元の世界には戻れない。新しい世界を突ききっていくしかない。

 だからみんな急いで刈り入れる。
 我先にと麦を刈り入れ、我先にと脱穀する。           (17ページ)

 こういう加速には、ことばが重複することが大事なのだ。重複があるから、同じ「ストーリー」だとわかる。重複しなければ、わけのわからない世界になってしまう。閻連科にとって、重複は加速するスピードにとっての必然であり、重複はそこに「ことばの肉体」があることの証明でもある。人間の「肉体」は成長して、変化しても、同一の人間であることの「証拠」のようなものだが、閻連科の重複は、それに似ている。
 この加速は、あるときは「句読点」をなくしてしまう。主人公(?)の少年を、盗賊が次の襲撃場所を案内させるために連れていくシーンだ。(217、218、219ページ)長いので、そのはじまりの部分。

おまえのお父さんはおじさんを憎んでておまえのお父さんは善良で優しくて邵大成がおまえのおじさんだからどうしようもなくてだからいつも嫁さんに死人の出た家の花輪には紙の花を多めに付けさせたしおまえのお母さんに死装束の布はいいものを使い死装束の針と糸は密に施して死装束の刺繍がきれいにしっかりできるようにさせた(略)

 ここでも重複することばが「しりとり」のように「ストーリー」をつなげさせている。この部分は、いわば、この小説の「ストーリーの過去」である。他人が見た過去というのは、こんなふうに切れ目なくつづいているのかもしれない。それに対して、「いま」は、そういう切れ目を切断しながら、加速し、乱雑に、爆発、暴走していくものなのだろう。「いま」は過去ではなく「未来」というまだ決まっていないもののなかへ動いていく。

やってきたのは未来と過去の時間と歴史だった。         (287ページ)

 「いま」は書いている「ことば」の運動のなかにしかない。「過去」にひきもどされないためには、「未来」をつかむためには、ただことばの運動のなかで、ことばそのものになって、動くしかないのである。
 この小説には、「閻連科」が出てくるし、ときどきゴシック体の文字もあり、そのゴシック体の部分には、

この様子は、閻連科の小説の『日月年』のどこかのようだった。  (330ページ)

 という「補足」がついている。ふいにあらわれる「過去」をとりこみながら、それを突き破っていく。それは、「未来」へ進めば進むほど、そこに「過去」が噴出してくるという「歴史」そのもののようにもみえる。「未来」へ進むことは「過去」へたどりつくことでもある。だから、閻連科の世界は「神話」に似ている。「寓話」ではなく、現代の「神話」なのだと、思う。
 最初に引用した「暑い」描写からわかるように、それは「無意味」なくらい「人情」というものから遠い。人間ではなく、「神」が見ているのだ。この非情さ(同情しない)潔さは、「神」としか言いようがない。この小説は、ある意味では、とても残酷な世界(殺戮)を描いているのだが、それが「ギリシャ悲劇」のように感動を引き起こすのは、それが「人情」ではなく「非情」の世界だからだろう。

 ノーベル賞がことばの運動に影響を与えるわけではないが、今年、閻連科がノーベル賞をとれなかったのは、残念だ。ミラン・クンデラにも受賞してほしいなあ、と私は思っている。多くの人が、小説を読むきっかけになる。

 

 

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斎藤恵子「つゆ草のあと」、近藤久也「親しく遠い縁者の外伝あるいはその予感」

2022-10-11 21:16:44 | 詩(雑誌・同人誌)

斎藤恵子「つゆ草のあと」、近藤久也「親しく遠い縁者の外伝あるいはその予感」(「ぶーわー」48、2022年10月10日発行)

 斎藤恵子「つゆ草のあと」の一連目。

今朝がた
点呼の夢をみた
もう一人のひとと
人数を数えているのだが
何度しても合わない
 無駄なことです
だれかがいう
みんないるんだと思う

 これが露草(たぶん、青い小さな花)と何の関係があるんだろうか。わからないけれど、あの、はうようにしてはびこる草の花を数えているのかと思うと、なんとなくおかしい。たくさんあるから、間違える。数が合わない、ということかな、とぼんやり思う。

つゆ草を抜く
葉も花も枯れ
のびて蔓だけになり
こんがらがる
根は干からび
地面に
古歯ブラシが置かれたように
苦もなく土地から離れる

 「古歯ブラシが置かれたように」という比喩がなんのことか、さっぱりわからない。細い根っこ(抜いたときに姿をあらわす)が歯ブラシに見えたってこと? はいまわる茎が歯ブラシの軸か。

秋の真昼
つゆ草のあと
ほこほこ
しろく乾いた土に
泣いているように
淡いひかり
わたしのスカートのうえにも

 よくわからないまま(省略した三連目に、全部のことばをつなげる何かがあるのかもしれないけれど)、詩は終わる。「ほこほこ/しろく乾いた土」が、露草を抜いたあとの地面の様子として、とてもおもしろいと思う。そのあと「泣いているように」という唐突な比喩。これが、「しろく乾いた土」と妙に交錯する。「乾いた土」に対して涙(泣いている)の対比が、美しい。
 でも、何のことか、わからない。私は、その部分を美しいと感じたが、美しいと感じるべき行(ことば)なのかどうかもわからない。
 そのままつづけて、見開き左ページの、近藤久也「親しく遠い縁者の外伝あるいはその予感」を読む。

とらわれた窓の小っちゃな視界
隠しもつしなやかな感性は
遠く旅立つ
彼方
ちからや法治の
(葫ニ似タ名ヲ知ラヌ草ノ戦ギニトマドウ)

 これまた、何のことかわからない。わからないが、はっと、思うことがある。私は斎藤の作品を引用するとき、三連目を省略したのだが、それは実はこうである。

極北の監獄から
脱走したひとたちがいた
百年ほど前のこと
斬殺されたり
生き埋めにされたり
革命を考えたひとは
背後から斬られた

 この三連目が、突然、近藤の詩とつながって見えるのである。たぶん「戦ギ」ということばのせいだ。「そよぐ」とひらがな(カタカナ)で書いてあったら、思い起こさなかっただろうが、この「戦ギ」が「斬殺」とつながり、斎藤のことばを引っ張り起こす。さらに近藤の詩には「名ヲ知ラヌ草」がある。斎藤は「つゆ草」と書いているが、あの花の名前を「露草」と知っているひとは何人いるか。(わたしの書いている露草が斎藤の「つゆ草」と同じものだと仮定してだが。)
 で。
 近藤の詩は、こうつづいていく。

ぐねぐね
おもいは暗い腸のように
リズム乱し自ら
収縮もしたのだろうか
(感ジルコト、動クコトハズット以前同ジダッタ)

 ほら、露草の「ぐねぐね」とはい回る茎というか、根というか、それを思い出さない? 「暗い腸」がそれに追い打ちをかける。そして、近藤は(感ジルコト、動クコトハズット以前同ジダッタ)と書くのだけれど、これは「動クコト、感ジルコトハズット以前同ジダッタ」と言い換えてもいいかな。露草を抜く。そのとき「わたし(斎藤)」の肉体が動くと同時に露草の「肉体」も動き、そこから露草の感情を感じる。同じように、斬殺された肉体の動きを思うとき、感情も動く、といえばいいのか。
 あ、斎藤と近藤の詩をごっちゃにしている?
 そうだねえ。これでは、「正しい感想(鑑賞)」とは言えないかもしれない。けれど、私はもともと「正しさ」を求めていない。

寒々とした空白の異郷へ
迫りくる大陸へと
見知らぬひとの
ねじれた内臓を思わせる
不可解な罪
裁き、ふり払って
ぬからむ未知の細道を
闇雲に前進したのだろうか
(ソンナハズハキットナイノダ)

 この部分など、わたしの感想では、完全に斎藤のことばを近藤が読み直しているとしか思えないのだが、

(ソンナハズハキットナイノダ)

 でも、気にしないのだ。私は。四連目も引用し、ひとことふたこと、あるいはもっとつけくわえたいが、これではあまりに強引すぎるかも、と思い、ここでやめておく。
 「つゆ草外伝」として、近藤の詩を読むと、おもしろいなあ、とだけもう一度書いておく。


 

 


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