何気なく韓国の新聞(電子版)に目を通していて、またもや
日本人「ヲタク」をうならせる記事を読んだ。
--- 韓国の新聞を読みながら、なぜか日本史の勉強までする
ことになってしまった。
父親である武田信玄と違い、家臣団の意見に全く耳を貸さず
武田家を滅亡に導いたとされる武田勝頼。
彼が、家臣団の反対や異論を封じるのに利用したのが、
武田家の家宝であり、また一党の団結と領主への絶対服従の
シンボルであった「日の丸の御旗と盾無鎧(たてなしのよろい)」に
かけた誓い(命令)であったという。
彼は「御旗と盾無にかけて」家臣団の論議を打ち切り、織田・徳川
連合軍との正面対決を決断、命令したとされ、そして敗れた。
「ヲタク」がうなった記事とは、その武田家を滅亡に導いた武田
勝頼を引き合いに出しながら、なんと現職のノ・ムヒョン大統領の
「独善と我執」を批判した記事であった。
ただ、現政府の経済政策を中心に批判した部分は、読者を
説得するに十分な合理的根拠が示された記事だとも思えないので、
「ヲタク」としては、直接、ノ・ムヒョン政権を批判した部分にまで
深入りし翻訳するつもりはない。
--- しかしだ。
武田勝頼を引き合いに出しながら自国の政治指導者を批判する
新聞なんて、世界広しと言えども、日本以外では韓国を置いて
他には存在しないであろう。
--- 恐るべし。日本史マニアの韓国人記者!
韓国の「日本史オタク」(?)に敬意を表する意味で、関連部分のみ
翻訳し記録しておく。
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■ 선거 참패와 경제정책
地方選惨敗と経済政策
(韓国日報 6月5日)
"미하타ㆍ다테나시를 걸고 말하노니, 더 이상 다른 말은
하지 말라."
「『御旗と盾無』にかけて言う。これ以上の論議は必要なし。」
일본 중세 전국시대 가이와 시나노 쓰루가 지역의 영주로
뛰어난 지략과 군략으로 당대 최고의 무장세력을 형성했던
다케다 신겐(武田信玄). 그는 최강의 기마군단을 거느리고
무수한 전쟁을 벌여 영토를 확장하는데 성공했다. 하지만
그는 젊은 시절 혈기를 바탕으로 "미하타ㆍ다테나시를 두고
맹세한다"고 선언하고, 전쟁에 나섰다가 참패하기도 했다.
日本の戦国時代、甲斐と信濃、駿河の領主として秀でた知略と
軍略で当時、日本最高の武力を作り上げた武田信玄。彼は最強の
騎馬軍団を率い、無数の合戦を戦い領土を広げることに成功した。
しかし、若い頃は血気にはやり「御旗・盾無の前で誓う」と宣言し
戦いに挑んでは惨敗したこともあった。
미하타란 둥근 태양이 그려진 깃발이고, 다테나시는 먼 조상인
신라사부로 요시미쓰가 착용했던 갑옷으로 둘 다 다케다가에
소중히 전해오는 가보였다. 영주가 이 가보를 걸고 맹세한 것은
영주 자신조차도 거둬들일 수 없다는 게 불문율이었다. 영주의
정책이나 전략이 분명히 잘못됐는데도 불구, 이 가보를 두고
선언하면 부하 장수들의 반대 의견은 묵살됐다.
御旗とは日の丸が描かれた旗で、盾無とは古く武田氏の先祖、
新羅三郎義光が使ったとされる鎧のことで、この二つは武田家に
伝わる家宝であった。領主がこの家宝にかけて誓った言葉は、
領主自身でさえひるがえすことができないという不文律があった。
領主の政策や戦略が明らかに間違っていても、この家宝の前で
宣言すれば家臣たちの反対意見は封じられた。
신겐은 한때 적보다 많은 수적 우세만을 믿고 충분한 대책없이
전쟁을 벌이다가 치욕적인 패배를 당한 후 군사인 야마모토
간스케의 간언을 받아들였다. 간스케는 신겐에게 "미하타ㆍ
다테나시에 맹세코라는 서언(誓言)을 저에게 맡겨주시옵소서"
라고 요청했다. 전쟁을 하다보면 상황이 무수히 변하는데,
영주가 독선에 빠져 애초의 전략을 고수하다가는 참패를
당하고, 나라 자체도 망한다는 게 그의 진언의 골자였다.
信玄は一時期、敵より数的に優勢な兵力だけを頼りに十分な
作戦もなしに戦いを行っていたが、屈辱的な敗北を喫した後、
軍師である山本勘助の忠告を受け入れた。勘助は信玄に対し
「御旗と盾無に誓ってという言葉を私に任せてください」と求めた。
戦いの最中に状況は様々に変化するのに、領主が独善に
陥り当初の戦略を固守すれば惨敗を喫することになり、国自体も
滅んでしまうというのが彼の進言の主旨であった。
신겐은 미야꼬(일본 천황이 살던 곳)를 차지하기위해 오다
노부나가(織田信長)와 반다케다 연합전선을 형성했던
도쿠가와 이에야스(川家康)의 미가와 땅을 침공하던 중
병사하면서 천하통일의 꿈을 접어야 했다. 그의 아들인 다케다
가쓰요리(武田勝)는 아버지의 재능에 한참 못미치면서도
충신들의 의견을 묵살하고, 미하타ㆍ다테나시를 두고 다짐을
남발하며 무리한 전쟁을 벌였다.
信玄は京都(天皇の居所)を手に入れるため、織田信長と共に
反武田連合の一翼を形成していた徳川家康の三河の国を攻めて
いた最中に病死し、天下統一の夢はついえた。彼の息子である
武田勝頼は、父親の才には遠く及ばないにもかかわらず家臣団の
意見を無視し「御旗と盾無」にかけた誓いを乱発しながら無理な
戦いを強行した。
백성들의 삶은 피폐해지고, 나라경제도 파탄났다. 신겐
시절부터 무적을 자랑했던 다케다 군단은 오다-도쿠가와
연합군과의 나가시노성 공방전에서 참패하며 몰락의 길을
걸었다.
領民の生活は疲弊し国の経済も破綻をきたした。信玄の時代に
無敵を誇った武田軍団は、織田-徳川連合軍との長篠の戦いに
破れ没落の道を歩んだ。
- 以下省略 -
(終わり)