福岡発 コリアフリークなBlog

韓国や韓国語に関するオタクの雑学メモ。韓国映画はネタバレあり。 Since 2005/9.14

民族主義の克服

2007年02月09日 |  〇文化・歴史

2月9日付けの韓国の主要紙の中で、偶然、2紙が民族主義の
克服を訴える社説を掲載していた。

ある著名な芸能関係者が「韓流」をめぐる韓国の過剰な民族主義を
批判した発言に触発されてのものだ。

日ごろから韓国の民族主義の問題を批判的に見ている
「ヲタク」としては、少なからず共感をおぼえながら目を通した。

しかし、「ヲタク」の目には正直、当の韓国メディア自体が
韓国民族主義の「権化(ごんげ)」として映っていることも事実だ。

こうした社説が、是非、抽象的な一般論のレベルを超え、自ら
(メディア自体)の姿勢に対する組織的な自己検証や、個別の
諸問題をめぐるより具体的な問題提起、さらには具体的な改革
努力につながって行くことを心から期待したい。

とは言え、この種の問題をメディアにだけひっかぶせるのも酷な
話だ。

韓国社会には、韓国のすばらしさを「自画自賛」する記事や
日本や中国を思いっきり叩いて「憂さ晴らし」ができるような
記事を望む多くの読者が存在していると見ていい。たとえ冷静で
客観的な報道をしたところで、読者からそっぽを向かれてしまえば
元も子もなくなる(?)。

そう考えると、かなり厄介な問題だ。

ひるがえって、我が日本社会にも韓国社会と同じように自己
陶酔的な歴史観を欲するトレンドや、北朝鮮に対する被害者
意識を絶対化したような硬直した世論をはじめ、常々「ヲタク」が
批判的に見ている民族主義的な動きがある。

「ヲタク」の住む日本社会にとっても決して他人事ではないのだ。

簡単には答えの出ない肩の凝る内容ではあるが、日韓両国の
問題に思いを馳せながら、二つの社説の翻訳練習に
取り組んでみた。

なお、紙面の都合で韓国語の本文は省いている。

・・・・・・・・

■ [社説] 「民族主義で食べている人が多い」
(ソウル新聞 2月9日)

最近、芸能界で「民族主義」がまたもやホットな話題となっている。
芸能企画社代表のパク・ジニョン氏がインタビューの中で「政界と
マスコミは韓流を国際的な文化交流として理解せず、民族主義の
枠の中にはめている
」と批判した。この発言をめぐりネット上では
連日、熱い論争が繰り広げられている。中国や日本はもちろん、
東南アジア諸国でも反韓流的な感情の台頭が少なからず報告
されている中、こうした関係者の診断を軽視してはならない。

パク氏は「韓国には民族主義で食べている人が多すぎる」とも
述べた。彼の指摘を引用するまでもなく、韓流に「民族」をかぶせ
商業的に利用しようとする雰囲気が国内のあちこちに見られるのは
事実だ。そうした動きは望ましいことでもないし、また長続きも
しないだろう。韓流が発展してきた足跡を振り返れば、そのことは
はっきりしている。韓流は国家や民族を離れ同時代の苦悩や感性を
共有するコンテンツを提供し世界の共感を得た。ある意味では
大韓民国というブランドを前面に掲げることがなかったからこそ
急速に広がった側面もある。中国や日本のように政治的・経済的
大国のイメージがないことが却ってプラスに働いたとも言えよう。

我々メディアも、もう少し広い視野でアプローチする姿勢が必要だ。
また、作品の中に国粋的な姿勢が出てくるようになると、韓流の
未来は一層、暗いものとならざるを得ない
韓国人の国民感情を
外国に強制するようなやり方では世界の感動を得ることはできない

もっと柔らかな国内の雰囲気が必要とされる理由もここにある。
依然として「民族」イデオロギーを武器に外国に戦いを挑むような
前近代的な業界の文化的風土を憂慮するのもこのためだ。


■ [社説] 過剰な民族主義は「毒」になる
(中央日報 2月9日)

韓国には民族主義で食べている人が多すぎる」という音楽
プロデューサー、パク・ジニョン氏の発言をめぐり熱い論争が
起きている。韓国社会の過剰な民族主義が韓流を「韓国賛美」に
変質させ、海外で反韓流的な流れが形成されている
というのが
パク氏の主張だ。パク氏の指摘にはそれなりの説得力がある。
韓国社会の一部に存在する偏狭で溢れんばかりの民族主義に
ついては、見直してみる必要がある
のではないか。

韓国の民族主義は、数度にわたる外国からの侵略や植民地化、
さらには分断、戦争などを経ながら、自らを守る非常に堅固な
システムとして作用、発展して来た。列強に振り回された不運な
近現代史の中でその防御的民族主義は、より強固で排他的な
心理的城壁と化した。「ウリ(仲間)」ではない「ナム(他人)」は
容赦なく城の外に放り出し、閉鎖的な城の中でお互いウリ
(自分たち)の顔だけを鏡を見るようにして暮らしてきた。

「ヨン様」に熱狂する日本の女性ファンを見てわけもなく鼻を高く
するかと思えば、日本の映画や小説が国内に入って来よう
ものなら、すぐに色めき立ち「倭色(日本)文化の氾濫」を警告する。
外国人がチマ・チョゴリを着て登場すれば大喜びする一方、
歌手のピが中国公演で中国の伝統衣装を身につけたと言っては
問題視する。最近、テレビで起きている高句麗ブームも考えもの
である。防御的民族主義はしばしば自己中心的な民族主義に
変質してしまう。在日韓国人の差別待遇には憤りながら、国内に
存在する第3世界の労働者に対する搾取には目をつむる。

これからは韓国も変わらなければならない。閉鎖的な民族主義を
持ったまま国際社会で生きていくことはできない。国際化、グロー
バル化が進む現在、閉ざされた民族主義が存立する余地はない

もちろん、韓国人としてのアイデンティティまで捨てようと言って
いるわけではない。溢れかえる民族主義を抑えようという意味だ。
過剰な民族主義は多元性を損なう。民族という美名の下、市民的
自由が侵害される事例を過去、どれほど多く見て来たことか。
「三田渡碑」(大清太宗功徳碑、ソウル)を傷つけた(※)ところで
「丙子胡乱」(清の第2次朝鮮侵攻、1636~37)の恥辱が消えて
なくなるわけではない。こうしたイデオロギーと化した偏狭な
民族概念を振り払い、世界市民として堂々と生きて行ける実力を
養うのが先決なのだ。それがグローバル化する世界で我が民族が
繁栄して行くための生存方法でもある。

(※)最近、「三田渡碑」に「撤去」などの文字を赤のスプレーで大きく落書きする
事件が起きていた。


(終わり)


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