詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小川三郎『永遠へと続く午後の直中』

2006-04-07 15:14:32 | 詩集
 小川三郎『永遠へと続く午後の直中』(思潮社)。
 不思議と引き込まれる詩集である。不思議ということばがつい出てしまうのは、小川の声の静かだからだ。大声には誰でも耳を傾けてしまう。ところが小川の声は大声ではない。むしろぽつりぽつりと漏らす小さな声である。しかしその声が私を引き込む。なぜだろう。「紫陽花」まで読んできて、その手がかりが見つかった、と思った。

雨の予感が好きだ。
池に小波が起こり
紫陽花の葉が揺れる。
するとなんだか
繋がるじゃないか。

 「するとなんだか/繋がるじゃないか」。ここに小川の声の秘密がある。「繋げる」ではなく「繋がる」。自分から積極的に世界へ向かって「繋がり」を形成していくわけではない。「繋がる」のを待っている。それも積極的に待つのではなく、ぼんやりと待っている。「するとなんだか」という、なんともとらえどころのない時間、どこからともなくやってくる時間を待っている。
 ただし待っているといっても、それは何かがどこかからやってくるのを待つというのとはかなり違う。「汲み出す」を読むと何を待っているかがわかる。

昼寝から覚めると
一本の鉛筆だけ目に入った。
まだぼんやりで
私の意識には
鉛筆だけがあった。
私の記憶にもまた
鉛筆だけしかなかった。

鉛筆は書く為の道具であることを
寝起きの私は知っていた。
それ以外のことは知らなかった。
だから私は書くことにした。
髪が見当らなかったので
机に直接書くことにした。
すると思いがけないことに私は
たくさんの言葉を知っていて
するすると文字が溢れ出し
長々と列を成した。
意味を持たない落書きだったが
私すら意識できない
私自身なのだった。

 小川が「繋がる」ことを待っているのは「私すら意識できない/私自身なのだった」。「思いがけないことには」ということばがあるが、この「思いがけないことには」は「紫陽花」の「するとなんだか」に似ている。「汲み出す」にある表現を手がかりに読めば、「思いがけないことに」とは「意識」しなかったことだが、という意味になるだろう。「するとなんだか」は明確に「意識」することはできないけれど、という意味になるだろう。
 そうした「意味」とは別に、いま引用した「汲み出す」の部分にはとても重要なことばがある。小川の思想の「キイワード」がある。「直接」ということばだ。それこそ小川は意識していないだろうけれど、「直接」は小川の思想の核心である。小川自身にはあたりまえすぎて説明のしようのないこと、説明することを忘れてしまっている「思い」の核心、いつでも「思い」を動かしていく核心が「直接」にある。
 「紫陽花」に戻っていえば、「するとなんだか/繋がるじゃないか。」というとき、繋がるものは「私すら意識できない/私自身」であり、その繋がりは「仲介者」を持たない。何かをあいだに挟んで繋がるのではなく「直接」繋がるのだ。それもたとえば「紫陽花」という世界のなかの存在のひとつに繋がるのではなく、世界まるごと、世界全体につながるのである。世界の全体に繋がり、その繋がりのなかで、意識はたとえばある一瞬に「紫陽花」になり、同時に「池」にも「小波」にもなる。
 こうした世界全体との一瞬のうちの繋がり、同時に世界を構成するそれぞれの存在との一瞬のうちの繋がりを、小川は「予感」と呼んでいる。
 「予感」とは視覚でも聴覚でも触覚でも嗅覚でもない。すべてを統合し、融合した、混沌としたもの、混沌としないながら明瞭なものである。そしてそれはいつでも「私すら意識できない/私自身」のことである。
 小川のことばには、その「予感」、「予感」がかならず持っている感覚の統合・融合が静かな形で存在している。静かな形で存在せざるを得ないのは、「予感」は何かしらいまを否定するものだからである。いまとは違う何か、いまを否定して出現する何かだからであろう。
 「滲」のなかに次の行がある。

私は言葉を継ぎながら
心の底で
何かを否定しようとしている。
そうでもしないと
揺らいでしまう。

 「心の底で」はもちろん「意識の底で」という意味だろう。そうであるなら「揺らいでしまう」のは「私すら意識できない/私自身」にほかならない。
 「私すら意識できない/私自身」を何かと直接つながることで、いま、ここに、つまり現実の世界へ掬い出したい(救い出したい)。そんな願い、静かな祈りが深いところで流れている詩集である。

 詩集の「栞」を和合亮一が書いている。私は「栞」の文章にはたいてい違和感を覚える。(この詩集の田野倉康一の文章には違和感を感じた。)しかし和合の文章には違和感はなかった。あ、私と同じように読んでいる人がいる、と実感できた。ただし、和合が「一瞬にして巨大なるものへと繋がっていこう、という驚異的な接続への踏み込み」と表現している部分には、かなり抵抗を感じる。
 「接続への踏み込み」というとき、私はどうしても「私」という主体を感じる。世界、あるいは対象があり、そこへ向けて接続していくという風には、私には感じられない。そういう「現代詩風の自己拡張」(鈴木志郎康風の世界への向き合い方)ではなく、小川の場合は、世界と繋がることでそのつど自己生成をするという感じがする。それまでの自己はその瞬間瞬間消滅し、同時に生成する、という感じがする。「現代詩」というより「俳句」(それも古典俳句)を読んだときのような感じになる。小川の詩を読んだときに最初に感じる「静かさ」の印象は、そこに存在するのが「自己拡張」というような我の主張ではなく、ただ人間は世界とともにある、世界とともに生きている(生かされている)という深い認識のゆえだと思う。

コメント
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