萩原健次郎『セルロイド界隈』再読その3。
「月の汁」。私はこの作品の前半の1-3連が好きだ。
特に3連目の「熱い」がいい。うどんをさばくうどん屋の女房の手を見ている。そのうごきに萩原の肉体が重なる。湯が手に走る。そのとき熱いのは萩原ではなくうどん屋の女房である。しかし、萩原は「熱い」と瞬間的に思う。女房の手が萩原の体だからである。こういう一体感は美しい。
一体感があるからこそ、それにつづく「じゃこ/けずりぶし……」がほんとうにうまそうに見えてくる。うまいものをつくってくれているのだと感じる。
ところが、その後が、どうにも気に食わない。うまいはずのうどんが一気にまずくなる。
うどん屋の、ちょっとうらびれた感じを表現したいのだろう。ちょっとうらびれたものに「抒情」を込めたいのだろう。こうした作為がうどんをまずくする。「熱い」からはじまったうどんのおいしさが、一気にまずくなる。食欲をそそらなくなる。
「片ちんばの箸」というような、今はだれも書かないようなことばを選んだことがまず間違っている。萩原は古い時代の色を出したくて(抒情をかきたてたくて)、わざとそうしたことばを選んだのだろうが、そうした不揃いの箸でうどんを食べるとするなら、「ゆっくりと/すす」ることはないだろう。一気にがつがつとかきこむ。4連目から萩原のことばは肉体を離れる。事実を離れる。
「玉つなぎの隙間に」からはじまる5連目は、特にひどい。「満月」の2行先には「十六夜」が出てくる。おい、いったい、どっちだ。まさか2晩足掛けでうどんをくっているわけではないだろう。「満月をみて/湯気ごしに/振り返れば」というのがうどん屋の状況としてどういうことなのかわからないし、だれが振り返るのかもわからない。それにつづく「くろい雀」がいったいどこから「飛びたつ」のか、それもわからない。だいたい満月(十六夜でもいいが)の夜に雀がどこにいるのだろうか。雀は夜になれば人の目から姿を消すものである。
「熱い」とうどん屋の女房に肉体として一体化しながら、その後、うどん屋がてんぷらを揚げながら、そこに髪の毛も混じっている、と描写する神経もわからない。
しかし、最後の2連が、また不思議な展開をする。
「膝がかゆい」はやはりうどん屋の女房の膝のことであろう。ここでも萩原は女房の体と一体化している。うどん屋の、足元を冷たい風、速い風が吹きすぎていく。その冷たさを、女房といっしょに感じながら、女房のつくってくれるうどんをすする。その一種の幸福感が、うどん屋を出て、「外套」(これはまた古くさいことばである)の胸をかきあげても残っている。というか、外の寒さを痛感すればするほど、こころは、あつあつのうどんの汁のなかにいる。
肉体が感じたものと、頭で書きたいと願っているものが、萩原の詩では奇妙に分離している。その分離は「満月」と「十六夜」に似ている。そのふたつは肉眼で見るかぎりはそっくりである。差がない。しかし「満月」「十六夜」と書いてしまった瞬間から、頭のなかでははっきりと区別されるものになる。この違いが、『セルロイド界隈』のころの萩原には認識されていない。
「月の汁」。私はこの作品の前半の1-3連が好きだ。
うどん屋の女房は
眉間に三日月の傷をつけて
のれんの下に立っている
煮立てすぎた
うどん玉
白い手に
湯が
はしる
熱い
と思うのですが
じゃこ
けずりぶし
こんぶ
北海と日本海の月
とりまぜて
特に3連目の「熱い」がいい。うどんをさばくうどん屋の女房の手を見ている。そのうごきに萩原の肉体が重なる。湯が手に走る。そのとき熱いのは萩原ではなくうどん屋の女房である。しかし、萩原は「熱い」と瞬間的に思う。女房の手が萩原の体だからである。こういう一体感は美しい。
一体感があるからこそ、それにつづく「じゃこ/けずりぶし……」がほんとうにうまそうに見えてくる。うまいものをつくってくれているのだと感じる。
ところが、その後が、どうにも気に食わない。うまいはずのうどんが一気にまずくなる。
片ちんばの箸で
ゆっくりと
すすってください
玉つなぎの隙間に
満月をみて
湯気ごしに
振り返れば 十六夜の鳥居
くろい雀が
か細い小骨を
身いっぱいひろげて飛びたつ
うどん屋は
てんぷらを揚げている
いく筋かは
五指にからまって
頭髪 何本とじましょか
うどん屋の、ちょっとうらびれた感じを表現したいのだろう。ちょっとうらびれたものに「抒情」を込めたいのだろう。こうした作為がうどんをまずくする。「熱い」からはじまったうどんのおいしさが、一気にまずくなる。食欲をそそらなくなる。
「片ちんばの箸」というような、今はだれも書かないようなことばを選んだことがまず間違っている。萩原は古い時代の色を出したくて(抒情をかきたてたくて)、わざとそうしたことばを選んだのだろうが、そうした不揃いの箸でうどんを食べるとするなら、「ゆっくりと/すす」ることはないだろう。一気にがつがつとかきこむ。4連目から萩原のことばは肉体を離れる。事実を離れる。
「玉つなぎの隙間に」からはじまる5連目は、特にひどい。「満月」の2行先には「十六夜」が出てくる。おい、いったい、どっちだ。まさか2晩足掛けでうどんをくっているわけではないだろう。「満月をみて/湯気ごしに/振り返れば」というのがうどん屋の状況としてどういうことなのかわからないし、だれが振り返るのかもわからない。それにつづく「くろい雀」がいったいどこから「飛びたつ」のか、それもわからない。だいたい満月(十六夜でもいいが)の夜に雀がどこにいるのだろうか。雀は夜になれば人の目から姿を消すものである。
「熱い」とうどん屋の女房に肉体として一体化しながら、その後、うどん屋がてんぷらを揚げながら、そこに髪の毛も混じっている、と描写する神経もわからない。
しかし、最後の2連が、また不思議な展開をする。
膝がかゆい
細長い脚に
早い風が すぎていく
外套の胸
かきあげても
まだまだ
冬ごと
お汁のなかにいる
「膝がかゆい」はやはりうどん屋の女房の膝のことであろう。ここでも萩原は女房の体と一体化している。うどん屋の、足元を冷たい風、速い風が吹きすぎていく。その冷たさを、女房といっしょに感じながら、女房のつくってくれるうどんをすする。その一種の幸福感が、うどん屋を出て、「外套」(これはまた古くさいことばである)の胸をかきあげても残っている。というか、外の寒さを痛感すればするほど、こころは、あつあつのうどんの汁のなかにいる。
肉体が感じたものと、頭で書きたいと願っているものが、萩原の詩では奇妙に分離している。その分離は「満月」と「十六夜」に似ている。そのふたつは肉眼で見るかぎりはそっくりである。差がない。しかし「満月」「十六夜」と書いてしまった瞬間から、頭のなかでははっきりと区別されるものになる。この違いが、『セルロイド界隈』のころの萩原には認識されていない。