詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池谷敦子『青く もっと青く』

2006-04-09 21:13:01 | 詩集
 池谷敦子『青く もっと青く』(書肆青樹社)。
 一篇の詩がこころに残った。「お芳さんの店」。昔、家で雇っていた女性が肉屋を開いた。父がお芳さんを犯したことがある。母はそこで買い物をする。「豚こま百円ください」と。その母を描いている。

暮らしに萎えていたいたからといって
なぜ そこで
「こま百円」と言わねばならぬ
わらっている かもしれぬ女の店先で なぜ

惨めな自分への更なるいたぶりか
ええ格好しいの夫への復讐か
それともやはり あなたは
哀しいまでに芯なしの人であったのか

 「惨めな自分への更なるいたぶりか/ええ格好しいの夫への復讐か」という推測は池谷のことばだろう。しかし「哀しいまでに芯なしの人であったのか」は池谷自身のことばではないだろう。「それともやはり」ということばから推察できるのは、池谷が「母は芯なしのひとだ」と他人から聞かされ続けたということだ。聞かされ続けたから「やはり」という表現がそこに挟まる。そんなふうには思いたくない。しかしもしかしたら他人が(父かもしれない)言っているように「芯なしの人であったか」と思ってしまう。
 「やはり」が強烈な「詩」である。
 池谷本人をも否定して世界を切り開いていくものがそこに存在する。そのありかをしめすことばが「やはり」である。「やはり」をとおして池谷は世界と出会う。

 ところで、この母への批判には「か」という疑問符がつく。ここに池谷のやさしさがある。他人の母への批判をそのまま自分から母への批判にはしない。答えを保留する。答えを出さない。そこに池谷自身のやさしさがある。そのかわりに、池谷は次のように思う。

半世紀たった今も
私に流れるあなたの血は答えてくれぬ から
母よ 亡き母
あなたの 胸底の沼に
子はせめて
一輪のこうほねを咲かせよう

 答えを出さない。批判に結論をつけない。ただ自分にできることをする。それは池谷が母から引き継いだやさしさかもしれない。


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