『渋沢孝輔全詩集』(思潮社)を読む。(2)
『場面』(1959)。この詩集は読むのに苦しい。どのことばも遠く感じられる。ただ遠いだけではなく、常に前の行が次の行で否定されている感じがする。先行することばを否定しながら、否定する力で前へ前へと進んでいく感じがする。しかも、その進む先が、何といえばいいのだろうか、一歩も前進しない感じがする。同じところにとどまっている感じがする。そのために遠さがより遠くなるという印象がある。何かが欠けている、という印象がつきまとう。
詩集の最後の「夜の樹間」まで読んで、その苦しい印象がどこから来ているかわかったような気がした。
「意識があった」と渋沢は書くが、ここには意識しかない。どのような存在も感覚も意識でしかない。ことばは意識の外へとは出て行かない。「外部」(自己以外のもの)が欠けている、というのが私の印象だ。外部がないから、渋沢のことばとは接触のしようがない。外部に触れれば、ことばは変質する。意識の純粋さをもったまま外部とは接触できない。外部に接触するには、接触するためにことばは変形しなければならない。たとえば、手になって、あるいは舌になって。ところが、渋沢のことばは変形しない。意識そのものの純粋さだ。
「盲のライオン」のなかの一節。
意識のなかで、意識されたものがいつまでも純粋な幻として存在する。それは現実ではない。現実を遠ざけるものだ。
別なことばで渋沢は次のようにも書いている。
ここに書かれているのは、すべて幻である。それも意識のなかでとらえられた幻である。現実とは無縁である。それは何のための世界か。渋沢は、次のように認識している。
自分の「意識」から出ていくため、現実と触れ合い、そのなかで変化していくために渋沢は詩を書いている。そう自覚している、というふうに、最後の最後になって、私は感じた。そして、そう感じたときから、この詩集全体を覆っている不思議な遠さが、とても苦しく哀しいものに感じられ、私のなかから、ふいに息が漏れた。
よし、渋沢がどんなふうに変わっていくのか、詩集をとおして見ていこう、という気持ちにもなった。
『場面』(1959)。この詩集は読むのに苦しい。どのことばも遠く感じられる。ただ遠いだけではなく、常に前の行が次の行で否定されている感じがする。先行することばを否定しながら、否定する力で前へ前へと進んでいく感じがする。しかも、その進む先が、何といえばいいのだろうか、一歩も前進しない感じがする。同じところにとどまっている感じがする。そのために遠さがより遠くなるという印象がある。何かが欠けている、という印象がつきまとう。
詩集の最後の「夜の樹間」まで読んで、その苦しい印象がどこから来ているかわかったような気がした。
なんにも変りはしないのだ
私には決定的ななにかが欠けていた
私は夜にも住まず
昼にも住んでいなかった
そのくせさわやかな夜の意識があった (095 ページ)
「意識があった」と渋沢は書くが、ここには意識しかない。どのような存在も感覚も意識でしかない。ことばは意識の外へとは出て行かない。「外部」(自己以外のもの)が欠けている、というのが私の印象だ。外部がないから、渋沢のことばとは接触のしようがない。外部に触れれば、ことばは変質する。意識の純粋さをもったまま外部とは接触できない。外部に接触するには、接触するためにことばは変形しなければならない。たとえば、手になって、あるいは舌になって。ところが、渋沢のことばは変形しない。意識そのものの純粋さだ。
「盲のライオン」のなかの一節。
誇高いかれの意識のなかでは
ここはいまでも月の光に冴えわたる
原始の曠野 (105 ページ)
意識のなかで、意識されたものがいつまでも純粋な幻として存在する。それは現実ではない。現実を遠ざけるものだ。
別なことばで渋沢は次のようにも書いている。
もしもこの世に裸形でないものがあるとするなら
きみの鏡に凍てついている
きみのまぼろしの姿だけ
ここに書かれているのは、すべて幻である。それも意識のなかでとらえられた幻である。現実とは無縁である。それは何のための世界か。渋沢は、次のように認識している。
私には行動などできるわけがなかったが
しかもなお私の世界は
そこに住みつくためにあるのではない
そこから出ていくためにあるだけなのだ (112 ページ)
自分の「意識」から出ていくため、現実と触れ合い、そのなかで変化していくために渋沢は詩を書いている。そう自覚している、というふうに、最後の最後になって、私は感じた。そして、そう感じたときから、この詩集全体を覆っている不思議な遠さが、とても苦しく哀しいものに感じられ、私のなかから、ふいに息が漏れた。
よし、渋沢がどんなふうに変わっていくのか、詩集をとおして見ていこう、という気持ちにもなった。