山本博道『パゴタツリーに降る雨』(書肆山田)。
旅の詩は難しい。詩人の個性を旅の風物が隠してしまう。描かれる存在が詩人の肉体をくぐり抜ける前に、まずことばとしてあらわれるからだろう。
「わかる」というのは、どういうことだろうか。この詩の場合、認識が確定するという意味だろうか。向こう側はタイだという認識が頭のなかで確立することだろうか。しかし、そんなことを人は「わかる」とは言わないだろう。その場限りの認識を「わかる」とは言わないだろう。(山本は、今いる場所を離れて、別の場所でもどこからがタイでどこからがラオスか認識できるわけではないだろう。そこで暮らしているひとには自明のこと、国境がどこにあるかなど「わかり」はしないだろう。)肉体のなかにしみこんで、絶対に間違えようのないこと、あるいは肉体にしみこんでしまっていて間違えているのに間違いだと気づかないようなことが「わかっている」と呼べるものである。
旅の詩は、どうしても、そこで出会ったことばに詩人がどのようにひきずりまわされたか、認識を修正させられたか、ということが「頭」のなかのできごととしての表現におわってしまう。
たとえば「マラッカ」を描いた「マラッカ」という詩の2連目。
この連が、それでも救いがあるのは「見覚えのある樹」という「肉体」がそこに介在しているからだ。目の記憶、視力の記憶という肉体があるから「それだけでも」という口語の世界が深々としてくる。
詩集中、私がもっとも好きなのは「クアンタン村まで」。特に蛍を描いた部分がいい。
「マレーシア語で」の1行がなかったら、これは「旅」の詩かどうかわからないだろう。しかし、そこがいい。ここでは山本は「知識」でものを把握していない。手と指と目で蛍をとらえている。蛍をとらえるのに手と指と目をつかう。そこに山本がたちあらわれてくる。手の動き、指の動きは描かれていないが、その描かれていないものさえ「ゆらゆら」という単純なことばの向こう側から立ち上がってくる。だからこそ「悲しみ」というようなセンチメンタルなことばがセンチメンタルを超えて肉声として胸にとどく。
どんなときにも詩は肉体をくぐりぬけてきたことばのなかに立ち現れる。
旅の詩は難しい。詩人の個性を旅の風物が隠してしまう。描かれる存在が詩人の肉体をくぐり抜ける前に、まずことばとしてあらわれるからだろう。
対岸にも同じような青い草と樹々が見えるが
そこはもう隣国のタイだという
境界も何もないので言われなければわからなかった
「わかる」というのは、どういうことだろうか。この詩の場合、認識が確定するという意味だろうか。向こう側はタイだという認識が頭のなかで確立することだろうか。しかし、そんなことを人は「わかる」とは言わないだろう。その場限りの認識を「わかる」とは言わないだろう。(山本は、今いる場所を離れて、別の場所でもどこからがタイでどこからがラオスか認識できるわけではないだろう。そこで暮らしているひとには自明のこと、国境がどこにあるかなど「わかり」はしないだろう。)肉体のなかにしみこんで、絶対に間違えようのないこと、あるいは肉体にしみこんでしまっていて間違えているのに間違いだと気づかないようなことが「わかっている」と呼べるものである。
旅の詩は、どうしても、そこで出会ったことばに詩人がどのようにひきずりまわされたか、認識を修正させられたか、ということが「頭」のなかのできごととしての表現におわってしまう。
たとえば「マラッカ」を描いた「マラッカ」という詩の2連目。
じつはマメ科の落葉樹だった
マラッカ
どことなく見覚えのある樹だと思ったら
どうやら合歓木であるらしい
夜にはそっと葉を閉じる
マラッカ
それだけでも旅は収穫だ
この連が、それでも救いがあるのは「見覚えのある樹」という「肉体」がそこに介在しているからだ。目の記憶、視力の記憶という肉体があるから「それだけでも」という口語の世界が深々としてくる。
詩集中、私がもっとも好きなのは「クアンタン村まで」。特に蛍を描いた部分がいい。
火が 火が ほんとうに火が飛んでいる
その火のひとつを船頭が掴まえて
マレーシア語で蛍はクリップクリップと
わたしの手のなかにふわっ
するとするするとわたしの手に沿って
わたしのゆびに沿ってするすると
そこだけ光の糸が 帯が 軌跡が
重さもなくゆびのかたちを辿っていく
辺り一帯はどんなに見つめても見えない闇
わたしのゆびから爪の先に
のぼってくる光は悲しみのように
ゆらゆらと
そして ちらちらと
「マレーシア語で」の1行がなかったら、これは「旅」の詩かどうかわからないだろう。しかし、そこがいい。ここでは山本は「知識」でものを把握していない。手と指と目で蛍をとらえている。蛍をとらえるのに手と指と目をつかう。そこに山本がたちあらわれてくる。手の動き、指の動きは描かれていないが、その描かれていないものさえ「ゆらゆら」という単純なことばの向こう側から立ち上がってくる。だからこそ「悲しみ」というようなセンチメンタルなことばがセンチメンタルを超えて肉声として胸にとどく。
どんなときにも詩は肉体をくぐりぬけてきたことばのなかに立ち現れる。