詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『渋沢孝輔全詩集』を読む。(5)

2006-04-16 11:34:40 | 詩集
 『漆あるいは水晶狂い』(1969)。巻頭の「弾道学」で渋沢が確立したのは「直列の詩学」である。「直列」というのは電池のつなぎ方の「直列」である。

叫ぶことは易しい叫びに
すべての日と夜とを載せることは難かしい

 この2行は「易しい」と「難しい」の対比に見えるが、そうではなく緊密な結びつき、絶対に切り離すことのできないつながりにあることは15日の文章に書いた。「けれども、その」という緊密な結びつき、逆説を経由しながらさらに緊密になる結びつきがそこには隠されている。この緊密な結びつきを私は「直列」の結びつきと呼びたい。

凍原から滑り落ちるわるい笑い
わるい波わるい泡
波さわぐ海のうえの半睡の島
遙かなる島 半分の島 半影の島
喉につかえるわるい沈黙
猫撫で声のわるい呪い
血の平面天体図をめぐるわるい炎

 これらの行は、そして並列ではなく、直列を求めて動き回る精神の軌跡なのだ。反復、往復は、よりよい直列を求めて動く精神の模索である。精神の模索を、渋沢はそのままことばとして残す。模索を省略して端的な直列の素材だけを提示したのでは世界は描けない。並列に見える「わるい」の繰り返しは、いわば、直列を求めてのたうちまわる長い長いコードなのである。
 そして、長い長い経路の果てに渋沢が見つけるものは、それまで並列の形で並べてきたものとは断絶したもの、飛躍したものである。詩は、次のようにつづく。

きみは鋏のように引きちぎられて
わたしの
錠前がその闇のなかで静かに眠ることもなく
おまえはだれ鬼はだれわるいだれ
でもその木霊をすこしかしてくれ

 唐突に登場する「きみ」と「鋏」。「鋏」は「半睡」「半分」「半影」と「は」という頭韻を踏む。同時に「は」は「わるい」の「わ」とどこかで通い合う。(日本語の「は」は冒頭以外では「わ」と読まれることが多い。助詞の「は」、あるいは「は行」五段活用動詞の「は」。)その通い合うものと通い合わないものの「ずれ」。それをつくりだすのが、たとえば「鋏」だ。
 15日に、「アルミ製の筒花」が何であるかわからないと私は書いたが、「鋏」については私なりに推測ができる。渋沢のことばとわたしのことばの間に通路をつくることができる。もちろんこの通路は私がかってにつくりあげたもので渋沢の「肉体」の本質とは関係ないかもしれない。しかし、肉体に触るということは、基本的にそういう接触だろう。全体には触れない。触ったと感じた部分を肉体と思うしかない。
 この唐突な「鋏」の登場のあとで、直列の配置を呼び戻す「その」が繰り返される。
「錠前がその闇のなかで静かに眠ることもなく」の「その」は何を指しているか。「でもその木霊をすこしかしてくれ」の「その」は何を指しているか。本当のところは渋沢にもわからないかもしれない。読者には(少なくとも私には)さっぱりわからない。「その闇」の「その」は「鋏が引きちぎられて」できた闇かもしれないが、そんな闇など誰も知らない。そんな闇はことばのなかだけにしかない比喩にすぎない。だからこそ、私は思うのだが、ここで大切なのは「その」が何を指し示すかではない。「その」が引き起こす運動である。「その」は先行して発せられたことばを指し示す指示代名詞である。「その」というとき、ことばは、それ以前へ引き返す。引き返し、結びつけ、そして先へと進む。これが渋沢のことばの運動、精神の運動だ。
 「直列」は「並列」と比べてエネルギーが巨大だ。巨大なエネルギーを得たあと、ことばは大きく飛躍する。詩はさらにつづく。

わたしの中心の燃える円周となれ
涜神の言葉となってはじける歌
狂暴なサヴァンナで
有毒の花 癲癇の朝 首刎ねられる太陽の歌
         (「涜神」の「とく」は本文は旧字体)

 この行に「意味」はない。ここに何かを、つまり渋沢の思想や感情、訴えを読み取ろうとしても何もつかみ取ることはできない。ここにあるのは直列によってつくりだされたことばの光である。それは強烈な太陽のように、読むものの網膜を焼き尽くす。つまり、読者がそこに「意味」を取ろうとしても、それは拒絶される。
 ここではただことばの発光、ことばの発熱を感じればいいのだ。
 「詩」は「ことばの発光」「ことばの発熱」、太陽としてのことばが「詩」なのである。渋沢は「直列の詩学」によって「太陽としてのことば」をつくりだすことに成功したのだと思う。

コメント
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