詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『渋沢孝輔全詩集』を読む。(7)

2006-04-27 23:00:55 | 詩集
 『渋沢孝輔全詩集』(思潮社)を読む。(7)

 「ダクマ・だれがそれを」(『われアルカディアにもあり』)の「直列の詩学」は強烈だ。

だれがそれを沈黙の塔と呼び
しかも死者たちの最後の祭典
最初の転身の場所としているのか
ひとはそこにはいきなりは行けない
間道もなく 多くの 多くの
大地の漂う平原 光の無限の点
闇を転がる白い天体 などから命名され
命名もしている 絶え間ない爆発 連理のつばさを
連祷を 饒舌を経て それともその
あいだの ときたまの半潮を経て

 この冒頭の9行目の「それともその」の「その」とは何か。だれにもわからない。渋沢にもわからないだろうと思う。「その」とはいいながら、それは「その」ではなく「それらの」でもあるのだ。ふいにあふれてくることば、無数のことば。そのうちのどれが「その」であるかが問題ではなく、あふれてくることばと、それぞれが直列に結びつくことが重要なのだ。「それら」ではなく、複数ではあるけれど、瞬間瞬間に単独にどれかと結びつく。直列に結びつく。
 「命名され/命名もしている」と相反するふたつの動作が共存するように、すべてが常に存在し、つまり存在は常に複数であり、なおかつ結びつきは直列(単独に、それぞれ一つずつ)という一種の矛盾。いや、これはあらゆる生成が可能な混沌(カオス、無)というものに違いない。
 さきの引用に、ことばはさらにつづく。(一部を重複して引用する。)

連祷を 饒舌を経て それともその
あいだの ときたまの半潮を経て
貸し借りや物まねや 樹に大きな傷をつけすぎる
はてしない景色の照り返しなどに
飽満しながら そして樹よりも深く傷つきながら
むかでの足と吸殻の眼の
一々で歩いてゆくのだこれはもう
たかきびおろしの
ねむりぐさ うつぼほおずき ねむりむし

 「樹に大きな傷をつけすぎる」「樹よりも深く傷つきながら」という構文は、先に見た「命名され/命名もしている」に類似している。常にどちらでもありうる。それは「直列」のプラスとマイナスの極のようなのもだ。対立する極があるからこそ、それを求めて「直列」という構造が生じる。直列はプラスとマイナスの極をつなぐ、並列はプラスとプラス、マイナスとマイナスをつなぐものである。渋沢の詩において、相反するように見えるもの、対極にあるものが同時に存在しなければならないのは、渋沢の言語の接続方法が直列であるからにほかならない。
 いま引用した部分で重要な行はもうひとつある。「一々で歩いてゆくのだこれはもう」という行だ。この行は意味的には「一々で歩いてゆくのだ/これはもう」であり、「これはもう」は改行されてしかるべきものだ。しかし、渋沢は改行もしなければ句点も挿入しない。強引に結びつける。この強引な直列が渋沢の詩学の特徴だ。強引であるからこそ、ことばは、そのエネルギーは暴走する。スパークする。
 「たかきびおろしの/ねむりぐさ うつぼほおずき ねむりむし」ということばには何の意味もない。何の必然性もない。そして逆説的な言い方だが、何の必然性もないからこそ、そのことばは必然なのである。ことばの直列、直列の詩学は、エネルギーの暴発のためにまったく予想外のことばとなって爆発する。その爆発が直列の詩学の必然である。
 「一々で歩いてゆくのだ」の主語は、「ひとはそこにはいきなりは行けない」と関連づけることで「ひと」と特定できるかもしれないが、そんなことはほとんどどうでもいいことである。直列の詩学によってことばが暴発する。そのことを体験するだけでいい。
 渋沢のこの作品は「ひと」を主語としたまま、次のようにつづく。(ここでも一部重複して引用する。)

一々で歩いてゆくのだこれはもう
たかきびおろしの
ねむりぐさ うつぼほおずき ねむりむし
それというのも
逃れることができないのだから この国から
あんまり明るくて境界もなくて 夏だから
浅い裂片をいくつも数え 片割れの括弧や
中絶符や ああもう駄目だや多くの海を
泳ぐにせよ潜りぬけるにせよ
逃れることはできないのだから塔への道の
腐食画の 熱狂の痛みの一刻ずつを

 「ああもう駄目だや多くの海を」の強烈な結合、直列。そして「多くの海を/泳ぐにせよ潜りぬけるにせよ」の行の渡り。こうしたことばの行き着く先はどこにある。

しかもだれがこれを偽善や裏切りや盲目でなく
冒涜でもなく 愛などと そして
だれがそれを沈黙の塔と呼び
死者たちだけの転身の場所としているのか
ひとはそこへはいきなりは行けない
間道もなく 多くの 多くの
大地に漂う平原 無限の点………

 冒頭に引き返し(円環を描き)「………」で終わるしかない。それは渋沢のことばが「詩」であって、散文ではないからだ。散文はことばを積み重ねることでどこかへたどりつく。しかし詩はその場所にとどまりつづける。ただそこでエネルギーをため、エネルギーを炸裂させて見せる。それが詩である。その炸裂をより強烈にするために、渋沢は「直列の詩学」を実践する。
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