詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

丁海玉「ゆうごはん」

2006-04-19 11:23:18 | 詩集
 丁海玉「ゆうごはん」(「ドードー」11号)が奇妙に気にかかる。

きょう
あなたはけいわしょいきです、と
男につうやくした裁判所からの
かえりみち
デパ地下に寄って
かつおのタタキを買ってから
ホームの電車に飛び乗った

一人分あいている席に尻をねじ込み
携帯電話をマナーモードにかえる
きょうの人は
けいむしょいきを聞いても
あんがい平気だったな
膝の上のビニール袋が
刺身用の氷でつめたい
かつおは
たまねぎをいっぱい
スライスして食べよう

 日常(かつおのタタキを買う、など)と非日常(あなたはけいむしょいきです)の組み合わせ、その表記の仕方が、何か意識を揺さぶる。「けいむしょ」「つうやく」など普通は漢字で表記することばがひらがなで書かれている。ひらがなで書かれることによって、何か、それが現実感のないものになって浮き上がってくる。丁にとって、それは現実感がないもの、単にことばとしてのみ存在するものかもしれない。それを現実として受け入れたくないという意識が働いているのかもしれない。「けいむしょいき」と聞いても男は平気だった。それは「あんがい」のことだった。「あんがい」であってほしくない、という気持ちが丁にはあるのだろう。
 3連目は次のようにつづく。

家についてすぐに米をあらう
はんせいしています
にどとしません
の、男のことばは
ざくざく
米のとぎ汁に流れていく
炊飯ジャーのスイッチを入れた
赤いボタンがひかりはじめる

 「はんせいしています/にどとしません」。その男のことばも丁には現実感のあるもの、真実味のあるものとして響いてこなかったということかもしれない。(刑務所へ行くことに平気な人間が簡単に反省のことばを述べるとしたら、それは嘘ということだろう。)あるいは、そういうものを丁自身の現実にはしたくなかったのかもしれない。そういう心理が働いているのかもしれない。
 「つうやく」というのは丁にとって仕事か、ボランティアか、いずれかわからないけれど、そういう仕事をしながら、ことばを「つうやく」としてつかうのではなく、違うものとしてつかいたい(たとえば、詩をかくことに)、という思いもそこには含まれているだろう。
 ちょっと切ない、いや、かなり切ない気持ちになってしまう。
 丁のことばは、たしかに「実務」ではなく「文学」「詩」の形でも美しく動く。たとえば「膝の上のビニール袋が/刺身用の氷でつめたい」という2行はとても美しい。「けいむしょいきです」というようなことばを「つうやく」してきたこころにとって、肉体の方から覚醒させるような、現実感のあることばがほしい、という気持ちが働いているのだと思う。そうした肉体とこころの交差する姿が、とても自然に、だれにでもわかるように鮮明に描かれている。
 この2行は、何度も何度も繰り返して読みたいという気持ちになってくる。電車に乗って、膝の上の氷のつめたさを感じたい、いま、これが、これこそが現実なのだと感じたい、それ以外はすべて遠い世界だと感じたい……。そんな気持ちになってくる。

 ひとこと苦言。3連目の1行。「米をあらう」。このことばには違和感を覚える。米は洗うものではなく、研ぐものである。(したがって「ざくざく」という音も、研ぐにはふさわしくない、と私は感じる。)丁はもしかすると日本語が母国語ではないのかもしれない。しかし、「膝の上のビニール袋が/刺身用の氷でつめたい」というような美しい表現ができるのだから、細部にも気を配ってもらいたい。

コメント
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