愛敬浩一『夏が過ぎるまで』(砂子屋書房)。
「いつものこと」あるいは「いつも」という表現に何度も出会う。
「いつも」をいつも意識している詩人らしい。しかし「いつも」と書きながら、そこにあるのは「いつも」という「普遍」ではなく、それぞれのとき、「個別」の瞬間である。「いつも」でありながら、そこには差異が存在する。意識するとき、そこに存在するのは「いつも」ではなく、ある瞬間のある一瞬である。ここに矛盾がある。そして、その矛盾こそが「詩」である。
「詩」について触れた行も多い。
「いつも」という時間も、ただ投げ出されているだけのものかもしれない。意識されずに、そこに投げ出されて存在する。そして、あるとき、それに気がつく。「いつも」と同じように存在すると意識して、そこから「いつも」とは何なのだろうかという意識がどこかで動き始める。その瞬間「いつも」は「いつも」でなくなる。「詩」になる。意識化された「いつも」が「詩」である、と言い換えてもいい。
詩集中、一篇変わった作品がある。「理髪店にて」。
愛敬はいつも、いつもとは違った理髪店へ行く。ここにも矛盾が存在する。「いつも」はここにあって、ここにない。そこにも「詩」という表現が出てくる。
詩を書くとき、愛敬は興奮する。しかし、静けさを維持する。ここにも矛盾がある。
愛敬が書いている矛盾を積み重ねると、愛敬という詩人の姿が立ち上がってくる。「いつも」の中に「いつも」と違う何かを感じる。興奮する。それを書き留める。「詩」が生まれる。ただし、愛敬はそれを興奮の中にひき留めるのではなく、そっと「いつも」の静かな場所に戻す。「いつも」の場所は興奮の場であってはならない。静かな場でなくてはならない、というのが愛敬の思想のようである。「いつも」は「いつまでも」でなければならない、というのが愛敬の思想のようである。
そして、「いつまでも」という表現を含む行もある。そこに愛敬には珍しく、いわゆる「思想」のことば、観念が出てくる。たぶん、愛敬はそうしたことばを使いたくなかったと思う。しかし、そのことばしかなかった。仕方なく使うことば。そこにこそ、詩人の思想が明確にあらわれている。「いつものように/四つ角を曲がると片側二車線になるので」ではじまる「月曜日の朝」。
「一瞬」と「永遠」、「破滅」と「生成」。「反復しない」と書いてすぐに「いつも……繰り返している」と書いてしまう矛盾。ここで愛敬が書いているのは、その矛盾こそがすべてだという意識だ。「いつも」に「いつもではないもの」が出会う。その瞬間が「詩」である。そして、それを愛敬は、また別のことばで書いている。「現実」と。
同じ「月曜日の朝」。
「いつも」は「永遠」が「現実」と出会う「一瞬」である。「いつも」のなかには、いつもそうした瞬間、出会いの瞬間がある。そして、その「現実」をリアルに描き出したとき、そこに自然と「詩」が立ち上がってくる。
愛敬は、それを興奮して見つめ、それからゆっくりと「いつも」の静けさの中へ返してやる。そして「いつも」に戻る。
たぶん、こうした生き方は多くの人に共通する生き方だろう。思想とは意識しない思想だろう。
意識していないから、静かである。静かで美しい。
「いつものこと」あるいは「いつも」という表現に何度も出会う。
十字路では
右折のため長い列が出来ている
いつものことだ
いつものことだが (「吉凶の四つ角」)
真っ直ぐ急いで行ったら
いつもより早く職場に着いて (「古代エジプトの絵のような」)
振り返ると
いつもの羊 (「いつもの羊」)
いつものように
四つ角を曲がると片側二車線になるので
アクセルを踏み
一気に加速する (「月曜日の朝」)
車に乗って出かける。
いつも通りに。 (「旅の空かよ」)
詩なんていつでもくらでも書いてみせる
(「いつもの四つ角」)
「いつも」をいつも意識している詩人らしい。しかし「いつも」と書きながら、そこにあるのは「いつも」という「普遍」ではなく、それぞれのとき、「個別」の瞬間である。「いつも」でありながら、そこには差異が存在する。意識するとき、そこに存在するのは「いつも」ではなく、ある瞬間のある一瞬である。ここに矛盾がある。そして、その矛盾こそが「詩」である。
「詩」について触れた行も多い。
すべて
私の詩のように
思いつくまま
投げ出されているのに (「朝の水やり」)
「いつも」という時間も、ただ投げ出されているだけのものかもしれない。意識されずに、そこに投げ出されて存在する。そして、あるとき、それに気がつく。「いつも」と同じように存在すると意識して、そこから「いつも」とは何なのだろうかという意識がどこかで動き始める。その瞬間「いつも」は「いつも」でなくなる。「詩」になる。意識化された「いつも」が「詩」である、と言い換えてもいい。
詩集中、一篇変わった作品がある。「理髪店にて」。
同じ店に行くのが嫌なのだ
愛敬はいつも、いつもとは違った理髪店へ行く。ここにも矛盾が存在する。「いつも」はここにあって、ここにない。そこにも「詩」という表現が出てくる。
剃刀を持つマスターの手も震えていたが
私の心も震えていた
まるで、しゃかりきになって詩を書いている時のように
血管はどっくんどっくん波打っていたが
私はその静けさを維持した
詩を書くとき、愛敬は興奮する。しかし、静けさを維持する。ここにも矛盾がある。
愛敬が書いている矛盾を積み重ねると、愛敬という詩人の姿が立ち上がってくる。「いつも」の中に「いつも」と違う何かを感じる。興奮する。それを書き留める。「詩」が生まれる。ただし、愛敬はそれを興奮の中にひき留めるのではなく、そっと「いつも」の静かな場所に戻す。「いつも」の場所は興奮の場であってはならない。静かな場でなくてはならない、というのが愛敬の思想のようである。「いつも」は「いつまでも」でなければならない、というのが愛敬の思想のようである。
そして、「いつまでも」という表現を含む行もある。そこに愛敬には珍しく、いわゆる「思想」のことば、観念が出てくる。たぶん、愛敬はそうしたことばを使いたくなかったと思う。しかし、そのことばしかなかった。仕方なく使うことば。そこにこそ、詩人の思想が明確にあらわれている。「いつものように/四つ角を曲がると片側二車線になるので」ではじまる「月曜日の朝」。
雨が降った翌日の若葉が風を受けている
いつまでも見ていたい風景だ
一瞬の内に流れる景色を見ながらあれこれ考えてはみたが
やはり永遠などというものはないと思う
繰り返しもない
反復しない
ただ一回限りの時間が流れるだけのことだ
世界はいつも小さな破滅と小さな生成を繰り返している
「一瞬」と「永遠」、「破滅」と「生成」。「反復しない」と書いてすぐに「いつも……繰り返している」と書いてしまう矛盾。ここで愛敬が書いているのは、その矛盾こそがすべてだという意識だ。「いつも」に「いつもではないもの」が出会う。その瞬間が「詩」である。そして、それを愛敬は、また別のことばで書いている。「現実」と。
同じ「月曜日の朝」。
いつものように
四つ角を曲がると片側二車線になるので
アクセルを踏み
一気に加速する
ファミマを過ぎ
餃子の大将を過ぎ
日通を過ぎると
たぶんそこからが現実だ
(略)
仕事は仕事
晴れても曇っても
雨でもなんでもやるしかない
雨が降った翌日は若葉が風を受けている
いつまでも見ていたい風景だ
「いつも」は「永遠」が「現実」と出会う「一瞬」である。「いつも」のなかには、いつもそうした瞬間、出会いの瞬間がある。そして、その「現実」をリアルに描き出したとき、そこに自然と「詩」が立ち上がってくる。
愛敬は、それを興奮して見つめ、それからゆっくりと「いつも」の静けさの中へ返してやる。そして「いつも」に戻る。
たぶん、こうした生き方は多くの人に共通する生き方だろう。思想とは意識しない思想だろう。
意識していないから、静かである。静かで美しい。