ジャック・デリダ『触覚』(青土社)。
「われわれの目が触れ合うときは、昼か夜か」をめぐる考察。それを突き進めるに当たって、デリダは次のように書く。
ここにデリダの「詩」(あるいは思想)の基本がある。「経験そのものの無限の時間」。彼は経験のなかで「目が触れ合うとき」を調べ尽くす。どうことばにできるかを「無限の忍耐」で書き始める。
こうした激しく経験へきりこんでいく質問は、それだけで想像力を刺激する。デリダがどういう「こたえ」を引き出すがではなく、どんなふうに質問を繰り返しうるかということが「詩」となって輝きだすのがわかる。
そして、きょうのそのとき、わたしのなかに、デリダのことばに誘われて別のことばが動き始める。「眼は触れ合うことができるようになるのか、唇のように誘い合うことができるようになるのか。離れている存在が互いの引力を放出する。それを感じるとき、すでに接触は始まっているのか。誘う力はどこから放出されるのか。何が放出するのか。その運動に、私の肉体の、私の感性の何が作用しているのか。」
ふいに詩を書きたくなる。ことばを動かしたくなる。ことばがどこまで動いていけるのか知りたくなる。
読み出したばかりだが、そうした衝動をかりたてる一冊である。
*
ふいに大岡信の「さわる」を思い出す。(引用は「現代詩文庫24 大岡信詩集」から)
大岡もまた「見ること」と「さわる」を結びつけている。
この、大岡が「さわる」とひらがなで書いた部分を漢字にすると、奇妙な連想がはじまるす。「色情的な音楽ののどもと」という肉体的な表現に誘われて、私のなかでことばが動きだす。
触る。こころに触る。気に障る。そして、この「障る」は障害を連想させ、そこからデリダの書いていた「遮断」「閉ざす」「隠す」へともことばが動く。
触ると触れるはどう違うか。気が「ふれる」は気が触れると書くのか、気が振れると書くのか。あるいは気が降れると書いたときは、私の目は、想像力の目は何を見つめ、私の肉体は内部の何に触れているのだろうか。
「われわれの目が触れ合うときは、昼か夜か」をめぐる考察。それを突き進めるに当たって、デリダは次のように書く。
私は、無限、すなわち経験そのものの時間に備えた、無限の忍耐力を発揮しようとした。
ここにデリダの「詩」(あるいは思想)の基本がある。「経験そのものの無限の時間」。彼は経験のなかで「目が触れ合うとき」を調べ尽くす。どうことばにできるかを「無限の忍耐」で書き始める。
眼は触れ合うことができるようになるのか、唇のように押しつけあうことができるようになるのか。
唇は眼のどの表面と比べられるのか。ふたつの眼差しが眼で見つめ合うとき、二つの眼は触れ合っているということができるのか。両者は接触に至っているのか--互いに。もし接触がつねに二つのXのあいだに生じるものだとすれば、接触とは何か。遮断するものが隠され、閉ざされ、秘密にされ、署名され、押し込められ、締め付けられ、押さえつけられているのか。
こうした激しく経験へきりこんでいく質問は、それだけで想像力を刺激する。デリダがどういう「こたえ」を引き出すがではなく、どんなふうに質問を繰り返しうるかということが「詩」となって輝きだすのがわかる。
そして、きょうのそのとき、わたしのなかに、デリダのことばに誘われて別のことばが動き始める。「眼は触れ合うことができるようになるのか、唇のように誘い合うことができるようになるのか。離れている存在が互いの引力を放出する。それを感じるとき、すでに接触は始まっているのか。誘う力はどこから放出されるのか。何が放出するのか。その運動に、私の肉体の、私の感性の何が作用しているのか。」
ふいに詩を書きたくなる。ことばを動かしたくなる。ことばがどこまで動いていけるのか知りたくなる。
読み出したばかりだが、そうした衝動をかりたてる一冊である。
*
ふいに大岡信の「さわる」を思い出す。(引用は「現代詩文庫24 大岡信詩集」から)
さわる。
木目の汁にさわる。
女のはるかな曲線にさわる。
ビルディングの砂に住む乾きにさわる。
色情的な音楽ののどもとにさわる。
さわる。
さわることは見ることか おとこよ。
大岡もまた「見ること」と「さわる」を結びつけている。
この、大岡が「さわる」とひらがなで書いた部分を漢字にすると、奇妙な連想がはじまるす。「色情的な音楽ののどもと」という肉体的な表現に誘われて、私のなかでことばが動きだす。
触る。こころに触る。気に障る。そして、この「障る」は障害を連想させ、そこからデリダの書いていた「遮断」「閉ざす」「隠す」へともことばが動く。
触ると触れるはどう違うか。気が「ふれる」は気が触れると書くのか、気が振れると書くのか。あるいは気が降れると書いたときは、私の目は、想像力の目は何を見つめ、私の肉体は内部の何に触れているのだろうか。