詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

竹田朔歩『軽業師のように直角に覚めて』

2006-04-21 22:46:59 | 詩集
 竹田朔歩『軽業師のように直角に覚めて』(思潮社)。
 書き出しに魅力的なことばがたくさん登場する。

寒雲が
灰色の石の空から
かすかに顔のかけらをのぞかせて
しずかに鼓動する  (「冬の別れ」)

拡がっていく大気の皮膚を震わすのは
陽差しあたたかいアルトの声に揺れている向日葵の群れ
           (「しなやかに奔る」)

ゆさゆさ 空をゆする欅の大樹よ
おまえは元気でやっているか
風にめくられる澄んだ青空が大樹の葉陰にみえかくれする
          (「精霊の家」)

 しかし、この魅力的なことばが持続しない。まったく違ったものへと変質していく。ことばが肉体とのつながりをなくして、堅苦しい論理にかわってしまう。なぜなんだろうか。
 「眠りの流域」まで読み進んだとき、ふと、気がついたことがある。

レム睡眠から
巻き上がってくる気流の蔓

 「レム睡眠」。これは肉体のことばではない。肉体が見つけ出したことばではなく、頭が見つけ出したことばである。もちろん頭が見つけ出したことばにも、ことばの力はあるし、それなりの運動がある。しかし、私には、竹田の場合、そのことばがうまく働いていないように感じられる。
 竹田のことばは、肉体が見つけ出したものが動きだそうとして、動きだせない。頭が見つけ出したことばが肉体のことばを動かしていこうとして、ふたつの運動の間に亀裂が入ってしまっている。そんな感じがする。
 たとえば表題作の「軽業師のように直角に覚めて」。

みひらく眼が
見果てぬ街をさまよいあるいていく
風景のなかの一本の橋上にたどりつく

 ここまでは魅力的だ。「風景のなかの一本の橋上」は抽象的であるけれど、抽象的であるがゆえに、その橋に視線が吸いよせられていく。橋をもって見たいと思う。そうした私のこころを知っているかのように、橋そのものの描写が始まる。

短くもなく長くもなく生命の肉化したかたちが細々と横たわる
真夜中の橋
焦燥と苦悩でどろどろになって
ただれている脳の眼が一切顛倒している

 「脳の眼」ということばが象徴的だ。そこではもう肉眼は何も見ていない。焦燥も苦悩も肉眼では見ていない。肉体では感じていない。ただ「脳=頭」が見ている。
 たぶん、竹田には、「脳の眼」と「肉体の眼」が見ているものの区別がつかないのだと思う。区別がつかないけれども、区別がつかないということは少しは感じているように思える。そこに竹田の詩の「救い」のようなものがある。
 「脳の眼」が「肉眼」をすり抜けて存在を見てしまう、存在ときりむすび、ことばになってしまうことを竹田は少しは自覚している。それは次の行からわかる。同じ「軽業師のように……」の3連目。

純粋に言葉を発すること
そんなことは知りつくしていることなのに
どうして自己の内部に逸れていくのか
どうしてペルソナを剥奪しないのか

 知っていても(自覚していても)、それを実現できないことがある。むしろ知っているからこそ実現できないこともある。知ってしまっていることを、それがなかったことにするのは仮面を脱ぎ捨てるような具合にはいかない。
 竹田が書いているように、自分の内部に逃れていくことは簡単だ。自分の頭のなかに逃れていくことは簡単だ。難しいのは、自分の肉体の外へ肉体そのものが出ていくことだ。そのことを竹田は少し感じ始めている。
 次の詩集で竹田はどんなふうに変わるだろう。きっと変わるだろう。そう祈りながら詩集を読み終えた。
コメント
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