詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『渋沢孝輔全詩集を読む。(6)

2006-04-18 13:54:28 | 詩集

 『漆あるいは水晶狂い』(1969) 。巻末は「水晶狂い」。この作品にも不思議な「直列」がある。「弾道学」とは別の形をとった「直列」がある。

巌に花 しずかな狂い
ひとつの叫びがいま
だれにも発音されたことのない水草の周辺を
誕生と出逢いの肉に変えている
物狂いも思う筋目の
あれば 巌に花 しずかな狂い
そしてついにゼロもなく
群りよせる水晶凝視だ 深みにひかる
この比喩の渦状星雲は
かつてもいまもおそるべき明晰なスピードで
発熱 混沌 金輪の際を旋回し
否定しているそれが出逢い
それが誕生か

 「物狂いも思う筋目の/あれば 巌に花 しずかな狂い」。「あれば」は「弾道学」の「叫ぶことは易しい叫びに」のことばの結びつきとは逆に「分断」されている。分断によって、渋沢は「物狂い」「思う筋目」「巌に花」「しずかな狂い」が同等のエネルギーとして「直列」していることを提示している。直列されたそれぞれのエネルギーには差異はない。
 あるいは、こういうべきなのか。
 直列される存在が、わざと分断され、それぞれのエネルギーを強調する。明晰にする。「弾道学」では直列は隠す形(「けれども、その」の省略)によって示されたが、ここでは直列されたものを、あらためて並列を装ってみせている。「弾道学」が「隠蔽された直列」であるなら「水晶狂い」は「偽装された並列」である。
 「並列」の偽装。これは存在を明晰にするための、渋沢の方法である。
 「群りよせる水晶凝視だ 深みにひかる/この比喩の渦状星雲は」は意味的には「群りよせる水晶凝視だ/深みにひかるこの比喩の渦状星雲は」だろう。しかし、渋沢がそう書かないのは、後者の場合は単なる並列になってしまうからだ。「偽装」が消えてしまう。その結果「この比喩の渦状星雲は」のインパクトが弱くなる。インパクトが弱くなった分だけ「詩」が遠ざかる。
 ことば、そんざいの強調、そのために直列を分断し、並列を偽装する。あるいは可能性を示す。それは「金輪際」を「金輪の際」と書くところにもあらわれている。「金輪際」とひとつにして認識することが一般的なもの(隠蔽された直列)を「金輪」の「際」と分断し、偽装の並列も可能だと暗示させる。

 この詩のもっとも複雑なところは

この比喩の渦状星雲は
かつてもいまもおそるべき明晰なスピードで
発熱 混沌 金輪の際を旋回し
否定しているそれが出逢い
それが誕生か

だろう。この5行には「大いなる省略」がある。「弾道学」の「けれども、その」のように単純に省略されているものが見えてこない。
 「この比喩の渦状星雲は」いったい何を「否定している」のか。その何をが省略されている。そして、その省略に「詩」がある。渋沢の肉体のなかで完全に認識され、ことばにする必要を感じていないことば、渋沢だけのことばがある。
 何を否定しているか。
 存在してしまったことば、意味になってしまったことば、そのすべてである。一語ではあらわせない。だから省略する。完全に省略してしまう。存在してしまったことば、意味になってしまったことばは無数にある。
 すべての存在してしまったことば、意味になってしまったことば。その否定。それは、ある意味では「狂気」だろう。そうしたことを渋沢は予感している。実感している。だからこそ、「水晶狂い」は次のように書き出されなければならなかった。(先に引用した部分には先行する7行がある。)

ついに水晶狂いだ
死と愛とをともにつらぬいて
どんな透明な狂気が
来りつつある水晶を生きようとしているのか
痛いきらめき
ひとつの叫びがいま滑りおち無に入ってゆく
無はかれの怯懦が構えた檻

 ここに否定されていないものがひとつ出てくる。「無」。そしてこの場合「怯懦」はもちろん、逆説である。「無」へ入っていけるものは強靱でなくてはならない。「無」とはその後の詩の展開に出てくる「この比喩の渦状星雲」がくりひろげる世界そのものだからである。そこには何もないのではない。あらゆるものが「直列」をめざして、繋がりをもとめせめぎ合っている。新しいエネルギーにかわろうとしている。「出逢い」と「誕生」をもとめて、うごめき回っている。疾走している。そこに存在するものは「明晰」すぎて目ではとらえられない。「スピード」ありすぎてことばではとらえられない。

 「水晶狂い」の最後の6行。

いまここのこの暗い淵で慟哭している
未生のことばの意味を否定することはだれにもできない
痛いきらめき 巌に花もあり そして
来りつつある網目の世界の 臨界角の
死と愛とをともにつらぬいて
明晰でしずかな狂いだ 水晶狂いだ

 「否定している」ものは省略された。だが「否定することのできないもの」は省略されていない。「未生のことばの意味」。これが「詩」だ。「未生のことば」が「詩」である、といった方がいいかもしれない。
 渋沢は「未生のことば」を書く。そしてその方法が「直列の詩学」である。渋沢はこの詩集で方法とテーマを確立したのだと思う。

コメント
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