高橋博子『時の公園』(編集工房ノア)。
高橋はどんな気持ちで詩を書いている。「春」に高橋の詩にかける思いが静かに語られている。冒頭を飾るにふさわしい作品だ。
「私のなかの樹」それをことばにする。それが高橋にとっての詩である。木の姿を描くとき、高橋は地上の姿だけではなく地中の根に思いを巡らしている。地中に存在する根によって木がいまある形であることを知っている。それは同時に高橋のありようでもあるだろう。外から見える姿、それと相似形をなしている高橋の内部。内部をくぐることで、外に出てくることばは輝く。詩になる。そういうものを書きたい、という気持ちがあふれた行だ。
正直なこころがまっすぐに出てくる美しい作品がたくさんある。「あなたに**」は耳の不自由な若い母親に贈ることばだ。
高橋もまた焦りや不安や苦しみを好きということばに置き換えて子育てをしてきたのだろう。どんな母親も同じだろう。その体験を自分のことばで語る。ひとができることは自分の体験を自分のことばで語ることだけだ。それが相手に届こうと届くまいと、そうするしかない。高橋は、そのことばを静かに静かに差し出す。その差し出し方に、高橋の生きてきた時間のふくよかな広がりがある。
この作品には若い母親の反応は書かれていない。書かれていないが、安心して微笑むその顔、その目の色が浮かんでくる。それがわかるのは、高橋の、そのことばを読むとき、私自身のなかに安心が広がり、思わず、「ありがとう」とささやく私がいるからだ。私は「若い母親」ではないが、そのとき若い母親になってしまう。
ほんとうにありがとう。「焦りや……」の行に出会えたのは、きょうの喜びだ。
ああ、そうなんだ。焦りや不安や苦しみを感じたら、それを「好き」と言ってみよう。子育てではなくても、それは何か、私を新しい世界へ連れて行ってくれるだろう。そんな気持ちにさせられる。
高橋の作品には「あなたに**」にかぎらず、いつも他者(他人)が登場する。その他人は「あなたに**」のように必ずしも幸福で健康なひととはかぎらない。しかしそれなのに、そのひとの幸せ、こころの正直さのようなものがいつもあふれている。高橋は、他人のなかに生きている正直なこころの美しさ、強さを大切にすくいあげる。病院の 3人部屋のひとを描いた「空の話」、水俣病の患者を見守る野仏を描いた「野仏の語りごと」のような作品はもちろんだが、ある日、ネコのしっぽの落とし物(?)をみつけ、それを自分でつけてみたという「ネコのしっぽ」にも不思議な他人を抱擁する力がある。
「ネコのしっぽ」は「あなたに**」の「好き」という呪文のようなものかもしれない。好きといって相手を抱き締める。ぎゅーっとではなく、そっと、抱いているのがわからさないくらいにそっと。すると何かがわかる。好きと誰かに言ってもらいたいという「かなしみ」かもしれない。それは高橋自身にもある気持ちだろう。自分のなかにある気持ちだからこそ、そのひとがこころの奥にしまっているかなしみ、木ならば地中に隠している地上と相似形のいのちがわかるのだろう。
高橋の作品は高橋自身が母親だからだろうけれど、母親の視線がとてもあたたかい。そしてその視線は、高橋がごく自然にであう「街」だけではなく、同じ姿勢のまま世界へもつながっていく。アフガンへもバグダッドへもつづいていく。その静かな広がりはとても美しい。
高橋はどんな気持ちで詩を書いている。「春」に高橋の詩にかける思いが静かに語られている。冒頭を飾るにふさわしい作品だ。
私は樹のメッセージを受け取った
数えきれない季節を
幾層にもふり積もらせた地中で
地上と同じ相似形にひかる毛根たちから
やわらかく点滅する樹のことば
なぞっていくとここ何年も
忙しさを理由におろそかにしてきた
私のなかの私の樹がよみがえる
「私のなかの樹」それをことばにする。それが高橋にとっての詩である。木の姿を描くとき、高橋は地上の姿だけではなく地中の根に思いを巡らしている。地中に存在する根によって木がいまある形であることを知っている。それは同時に高橋のありようでもあるだろう。外から見える姿、それと相似形をなしている高橋の内部。内部をくぐることで、外に出てくることばは輝く。詩になる。そういうものを書きたい、という気持ちがあふれた行だ。
正直なこころがまっすぐに出てくる美しい作品がたくさんある。「あなたに**」は耳の不自由な若い母親に贈ることばだ。
あっ 今赤ちゃんが
あなたを見上げて笑いかけたでしょう
もをあなたの子供になりきっているのですよ
そう伝える私に
あなたは嬉しそうに微笑む
焦りや不安や苦しみは
好きという言葉に置き換えて
呪文のように唱えてみたらどうかしら
あなたの赤ちゃんが
答えをくれると思うけど
高橋もまた焦りや不安や苦しみを好きということばに置き換えて子育てをしてきたのだろう。どんな母親も同じだろう。その体験を自分のことばで語る。ひとができることは自分の体験を自分のことばで語ることだけだ。それが相手に届こうと届くまいと、そうするしかない。高橋は、そのことばを静かに静かに差し出す。その差し出し方に、高橋の生きてきた時間のふくよかな広がりがある。
この作品には若い母親の反応は書かれていない。書かれていないが、安心して微笑むその顔、その目の色が浮かんでくる。それがわかるのは、高橋の、そのことばを読むとき、私自身のなかに安心が広がり、思わず、「ありがとう」とささやく私がいるからだ。私は「若い母親」ではないが、そのとき若い母親になってしまう。
ほんとうにありがとう。「焦りや……」の行に出会えたのは、きょうの喜びだ。
ああ、そうなんだ。焦りや不安や苦しみを感じたら、それを「好き」と言ってみよう。子育てではなくても、それは何か、私を新しい世界へ連れて行ってくれるだろう。そんな気持ちにさせられる。
高橋の作品には「あなたに**」にかぎらず、いつも他者(他人)が登場する。その他人は「あなたに**」のように必ずしも幸福で健康なひととはかぎらない。しかしそれなのに、そのひとの幸せ、こころの正直さのようなものがいつもあふれている。高橋は、他人のなかに生きている正直なこころの美しさ、強さを大切にすくいあげる。病院の 3人部屋のひとを描いた「空の話」、水俣病の患者を見守る野仏を描いた「野仏の語りごと」のような作品はもちろんだが、ある日、ネコのしっぽの落とし物(?)をみつけ、それを自分でつけてみたという「ネコのしっぽ」にも不思議な他人を抱擁する力がある。
むこうから
顔見知りの主婦がやってきた
いつものように長引く自慢話
長めのしっぽを左右に振りながら聞いていると
その人のかなしみが透けてみえる
いつもよりあいづち上手になっていた
「ネコのしっぽ」は「あなたに**」の「好き」という呪文のようなものかもしれない。好きといって相手を抱き締める。ぎゅーっとではなく、そっと、抱いているのがわからさないくらいにそっと。すると何かがわかる。好きと誰かに言ってもらいたいという「かなしみ」かもしれない。それは高橋自身にもある気持ちだろう。自分のなかにある気持ちだからこそ、そのひとがこころの奥にしまっているかなしみ、木ならば地中に隠している地上と相似形のいのちがわかるのだろう。
高橋の作品は高橋自身が母親だからだろうけれど、母親の視線がとてもあたたかい。そしてその視線は、高橋がごく自然にであう「街」だけではなく、同じ姿勢のまま世界へもつながっていく。アフガンへもバグダッドへもつづいていく。その静かな広がりはとても美しい。