詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『渋沢孝輔全詩集』を読む。(1)

2006-04-11 21:19:37 | 詩集
 『渋沢孝輔全詩集』(思潮社)を読む。(1)

 『淡水魚』(1979)。「古代風」という作品が記憶に残る。

青錆びた空間に倦怠の時を刻む
あけぼの。思いは、生まれ、去り
夢かも知れぬ階段に
朦朧として 十字架のようなものが立つ。

再びは報いをもたぬ古代風の
胸像。絃をつなぐ意志よ。
朝、ひぐらしのアトムは未知を想い
消すことの出来ない汚辱に生きる。

 あ、渋沢はこういう作品も書いていたのだ、と思った。整然とした文体は渋沢の特徴だが、それはこの作品にも共通する。それでいて何かが違う。「古代風」というタイトルそのものを具現するかのように、ここに書かれていることがらは何かしら「古代」を想像させる。しかも日本の古代ではなく西洋の古代を。
 「再び架空の存在を呼ぼう」は「道化」の書き出しである。渋沢の作品は架空のものの導入によって骨格をつくっていることが多い。作品全体が「虚構」の世界のように感じられる。しかし、それは虚構ではあっても現代である。渋沢の作品が現代詩と呼ばれるのは、渋沢のことばが現代を描いているからである。
 ところが引用した作品は「古代風」。現代であることを、少しばかり放棄している。そして、その放棄によって、ことばが不思議な伸びやかさを持っている。いま、ここに限定されず、どこか遠くまで広がっていく、あるいは遠くのものを呼び寄せる感じがする。そこがとても印象的だ。
 この作品は渋沢の代表作とは言えないかもしれない。渋沢の特徴を端的にあらわしているとは言えないかもしれない。しかし、だからこそ、私はこの作品に惹かれる。

 もうひとつ引用する。「歳月」

<この世界をわたしは望んだことはない>
<けれどもそれがおまえの運命というものさ>
日々が重ねられ
古びた地球のうえに
わたしはそれゆえ自分の運命を刻んだ
<この世界はわたしの作品なのだ>
<この世界はおまえの限界なのだ>

 「世界」が「わたしの作品」であり、同時に「おまえの限界」であるという。もちろん「おまえの限界」というときの「おまえ」は「わたし」だから、それは「わたしの限界」という意味になる。
 国語をその国の思想の到達点と呼んだのは三木清だったが、三木のことばと重ね合わせるなら、「詩」は渋沢にとって彼の思想の到達点(わたしの作品、わたしの限界)ということになる。
 そして、その作品のなかには、現実を厳しく見つめ、自己を点検するというような思想だけではなく、「古代風」のように、少し息を抜いたような、こころを自在に遊ばせてみたような作品がある。そういう息抜きのなかに、もしかすると自在な渋沢がいるかもしれない、という気持ちにもなる。そんな渋沢に出会えるよう、詩集を読み直してみようと思った。
 そして、自在な渋沢は、たぶん「歳月」の5行目に出てくる「それゆえ」とは無関係に存在する渋沢であるとも思った。

(以下は今後のための予備的メモ)
 渋沢の文体は非常に緊密である。それぞれの行の展開には、書かれていない「それゆえ」がいつも潜んでいる。「それゆえ」をどの行のあいだに挟んでも渋沢の作品の多くに違和感は生じないはずだ。そして奇妙なことに、引用した「歳月」だけは「それゆえ」が「なにゆえ」か実はわからない。説明がない。おそらく渋沢自身が意識しないままに書いた「それゆえ」だと思う。こうした作者が意識せず、しかし書かずにはいられないことばを私はキイワードと呼んでいるが、このことは詩集を読み進む過程でまた触れるかもしれない。触れないかもしれない。
コメント
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