詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

辻井喬「ミネルヴァの梟」

2006-04-04 23:44:14 | 詩集
 辻井喬「ミネルヴァの梟」(「現代詩手帖」4月号)。
 3連目が印象的だ。

いま閉ざされた空間に開いた白い穴は
地表に着いて芥箱や下水口の蓋や
港の桟橋や寺の反った屋根を覆い
ながい時間ぼくを動けなくしていた
意味の世界をすっかり見えなくして
だれの所有でもない想像力を解き放つのだ

 「だれの所有でもない想像力」とは何か。想像するものが何であれ、辻井が想像するとき、その想像力は辻井のものである。辻井が他人のことばを借りて想像すれば、それは辻井の想像力というより、そのことばを発したものの想像力だろう。
 ところが辻井は、そうは考えない。
 4連目に「だれの所有でもない想像力」の具体例が書かれている。

高い山巓の連なりの麓に
赤いトタン屋根の家が一軒二軒と見える
その下で子供が眠っているのだが
太郎でも次郎でもないことだけは確かだ

 これはもちろん三好達治の詩を踏まえての行である。しかし、それを辻井は「誰の所有でもない想像力」と呼ぶ。なぜか。三好達治のことばは三好が詩を書いた瞬間は三好のことば、三好の想像力がとらえた世界であるが、いったん詩になってしまうと、それは読者に共有されたものになる。文学は共有される。共有の思想になる。
 この行につづく次の5行はどうだろうか。

ゲームに疲れ三度の食事という週間もなくした
かれらは理想という言葉が残っていた時代の孫
両親は都会へ行ったままだから
こんな時代にすやすや眠り続けているのは
まだ幼いからだけなのだろう

 これは辻井の想像力である。しかし、それをも辻井は「誰の所有でもない想像力」と呼んでいる。辻井は共有の想像力、あるいは辻井の独創ではなく誰かが想像したものであるかもしれない想像力と呼んでいる。時代に共有された想像力と呼んでいる。
 こうした姿勢、辻井のことばなのに、それを辻井自身の想像力ではなく「誰の所有でもない想像力」と呼ぶところに、辻井のことばの大きな特徴があると思う。

 多くの詩人が「ことば」を詩人自身の固有のものと考えるのに対して、辻井はことばを辻井をとりまく時代、ともにその時代を生きる人々全体に所有されているものと考える。だから辻井は、時代と、その時代に生きた人々、つまり「歴史」を描く。
 ことばはその国の思想の到達点と定義したのは三木清だったと思うが、辻井もそう考えるのだと思う。
 そして、そのことばが「日本語」ではなく外国のことばで書かれたものである場合は、それは「世界」の思想の到達点ということになるかもしれない。
 自分の時代、歴史を描き、その空間と時間を世界規模へと広げていく辻井。それは現代の必然的な精神の運動かもしれない。

 この作品にはタイトルのことば、ヘーゲルだけでなく「ゴドー」(ベケット)も登場する。世界は、個人の想像力だけではとらえられない。複数の個人、複数の視点の想像力がからみあい、全体を運動として浮かび上がらせるしかない。辻井の作品が骨太の構想、とうとうとした時代の流れのなかで展開される根拠(?)のようなものを、「誰の所有でもいな想像力を解き放つのだ」という一行は明らかにしていると思う。その行に、辻井の思想の核が露出していると思う。

  辻井は「時代」をいま生きている人々と共有するために詩を書いている、というべきか。
コメント
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