小池昌代『地上を渡る声』(書肆山田)。
同じことばが何度か出てくる。「身体」「言葉」「時間」「意味」「わからぬ」など。それが最終的にひとつの「場」へつながる。
「33」はこの詩集で小池が思いめぐらしてきたことのすべてが美しい形で結晶している。
「身体」「言葉」「意味」は「 4」にまず出てくる。鳥を「トリ」と呼ぶのはなぜなのか。種類の違った鳥を、違いを認識したまま同じ「トリ」とことばにできるのはなぜなのか。
「言葉」は「身体」をとおして把握する。頭ではなく、こころでもなく、体で把握する。体で把握したものだから、「言葉」は「言葉」にならない。つまり、書き表すことはできない。ただ身体で納得するしかないものなのだ。
「身体」で納得する。このことを「5」では、別の表現で小池は書いている。毛糸をまきとる作業を母と二人でやっている姿を描写した作品だ。
「身体」のなかから「時間」が繰り出される。ある時間が、いま、ここにある身体をとおしてよみがえる。重なり合う。そのとき、身体はその時間の「意味」をことばではなく、身体そのものとして把握する。納得する。
同じようなことを「11」でも書いている。ウクライナの民話の絵本に出てくる男の足の裏。土で汚れている。その真っ黒な足裏に小池はこころを動かす。
「よくわからなかった」。しかし、こころが動いた。その動き方は、「鎮まる」という動きだ。これは、身体になじむということだ。こころは、身体のなかで落ち着いた場所をみつける。こころが身体から外へ出ていくのではなく、こころが身体に落ち着く。
そこには、やはり「時間」が関係している。「11」のつづき。
過去の「時間」が身体のなかによみがえる。そして、それがウクライナの農民と重なり合う。理解する、わかる、というのは身体のなかの時間が重なり合うことだ。
「言葉の言い換え」が「意味」ではなく、ある「時間」(体験)を自分自身の身体で繰り返し、そこで納得するもの(納得したもの)が「意味」である。
「言葉」はしたがって、小池がどういう「時間」を体験したか、身体はどう動いたか。そしてそのとき、こころは落ち着いているか、落ち着いていなかったか、とうことを描写することになる。身体をとおして「時間」が重なり合うものは「わかる」、重なり合わないものが「わからない」。
さらに重要なのは「わからない」ものに出会い、しかし、こころはその「わからない」ものにむかって動くことがあるということだ。ここに「言葉」を書く意味がある。「詩」を書く意味がある。ことばをとおして「時間」を動かす。「時間」を身体のなかに引き入れる。それが「詩」だ。
「24」も、おもしろい。電車を乗り過ごし、知らない街に降り立った。そのときの「わたし」とは何者か。
「違和感」は「わからない」ことに対して起こる。(「わからない」には二種類ある。ウクライナの農民の足裏のように違和感のないものと、乗り過ごした駅での思いのように違和感のあるの、がある。)この違和感について、小池は、もう一度繰り返している。別のことばでとらえ直している。
これを別の角度から見るとどうなるだろうか。もし、わたしがわたしに追いつけた? そこには違和感がない。「わたしがわたしに追いつく」とはどういうことだろうか。
それはたとえばウクライナの農民の足裏の汚れに、小池自身の幼い時代の体験が重なり合う、そして、その「時間」を身体で受け止める、ということである。
「わたし」のなかには複数の時間がある。毛糸を巻いた時間もあれば、足裏を汚して遊んだ時間もある。それが過去ではなく、いま、ここに小池の身体をとおしてよみがえる。重なり合う。「分裂」「隙間」の対極、「違和感」の対極にあるのが、そうした時間である。ある時間が、いま、「わたし」に追いついたのだ。この瞬間が「わかる」ということだ。こころが鎮まり、身体が納得するということだ。至福の一瞬だ。
この至福の一瞬が、最初に引用した「33」に結晶している。
この「33」がおもしろいのは、その至福の一瞬が、小池の身体のなかから「時間」を引き出すものが、いま、そこにいる他人(少女)ということだ。ウクライナの農民の足裏も他人であるけれど、「33」の少女とは少し違う。少女は実際に生きており、小池と交渉している。
「生きる」とは、と小池は書いてはないけれど、生きるとは、と私は考えてしまう。生きるとは、小池のこの経験のように、他者に出会い、他者のことばによって、自分自身がもういちど生き返ること。自分のなかにある時間、見落としていた時間を引き出してもらい、自分自身を理解し直し(わかり)、私に追いつくことである。私自身に追いつき、そこからもう一度、私を行きなおすことである、と。
同じ「33」の部分。
小池昌代の新しい出発だ。
小池は小池に追いついた。そしてこれから小池は小池を追い越していくのだ、と思った。10年に 1度の大傑作の詩集だと確信した。
同じことばが何度か出てくる。「身体」「言葉」「時間」「意味」「わからぬ」など。それが最終的にひとつの「場」へつながる。
「33」はこの詩集で小池が思いめぐらしてきたことのすべてが美しい形で結晶している。
あのとき彼女が話したことを
わたしはいま
ここに書こうとして うまく書けない
少女は
刺繍の図柄やその意味や始めた動機などを語ったわけではなかった
ひたすら刺繍の時間について語り、その時間のなかの、自分について語っ
た
「あっ、わたしだ」と私は思った。
「身体」「言葉」「意味」は「 4」にまず出てくる。鳥を「トリ」と呼ぶのはなぜなのか。種類の違った鳥を、違いを認識したまま同じ「トリ」とことばにできるのはなぜなのか。
トリという言葉の意味はすっかり身体に入っているのです。(略)言葉の意味って、辞書に載っているものとは違う。辞書に載っている言葉は、すべて、言葉の言い換えにすぎない。意味、本質は言葉にできないのだ。それは瞬時にしか把握することしかできないもの。
「言葉」は「身体」をとおして把握する。頭ではなく、こころでもなく、体で把握する。体で把握したものだから、「言葉」は「言葉」にならない。つまり、書き表すことはできない。ただ身体で納得するしかないものなのだ。
「身体」で納得する。このことを「5」では、別の表現で小池は書いている。毛糸をまきとる作業を母と二人でやっている姿を描写した作品だ。
一人が輪を持ち、一人が巻き取る。…あのとき、思い出したのです。あの時間を。あの時間が、身体のなかから、するするするする、毛糸のように繰り出されてきたのでした。
「身体」のなかから「時間」が繰り出される。ある時間が、いま、ここにある身体をとおしてよみがえる。重なり合う。そのとき、身体はその時間の「意味」をことばではなく、身体そのものとして把握する。納得する。
同じようなことを「11」でも書いている。ウクライナの民話の絵本に出てくる男の足の裏。土で汚れている。その真っ黒な足裏に小池はこころを動かす。
こころがうごいたのは
足の裏の汚れになのか
足の裏を汚している男になのか
足の裏の汚れを描きこんだ画家に対してなのかは、よくわからなかったが
見ていると どういうわけか こころが鎮まる汚れだった
「よくわからなかった」。しかし、こころが動いた。その動き方は、「鎮まる」という動きだ。これは、身体になじむということだ。こころは、身体のなかで落ち着いた場所をみつける。こころが身体から外へ出ていくのではなく、こころが身体に落ち着く。
そこには、やはり「時間」が関係している。「11」のつづき。
むかし
家の外と内を隔てる境には
濡れた古雑巾が敷かれていた
子供のわたしは
その上に足をのせ
足裏をこすりつけては汚れをふいた
(ぞうきんで足を拭いてからあがりなさい! )
過去の「時間」が身体のなかによみがえる。そして、それがウクライナの農民と重なり合う。理解する、わかる、というのは身体のなかの時間が重なり合うことだ。
「言葉の言い換え」が「意味」ではなく、ある「時間」(体験)を自分自身の身体で繰り返し、そこで納得するもの(納得したもの)が「意味」である。
「言葉」はしたがって、小池がどういう「時間」を体験したか、身体はどう動いたか。そしてそのとき、こころは落ち着いているか、落ち着いていなかったか、とうことを描写することになる。身体をとおして「時間」が重なり合うものは「わかる」、重なり合わないものが「わからない」。
さらに重要なのは「わからない」ものに出会い、しかし、こころはその「わからない」ものにむかって動くことがあるということだ。ここに「言葉」を書く意味がある。「詩」を書く意味がある。ことばをとおして「時間」を動かす。「時間」を身体のなかに引き入れる。それが「詩」だ。
「24」も、おもしろい。電車を乗り過ごし、知らない街に降り立った。そのときの「わたし」とは何者か。
うしなった時間はもうとりかえしがつかない。そう思いながら違和感に襲われた。失った時間? いったい誰が、どのようにして失った時間のこと? あのまま、乗り越さず、きちんと下車したわたしがいる。それならばいまこのホームに発っているのは、いったい誰か。失われたものなど何もなく、分裂と隙間が生じたに過ぎない。
「違和感」は「わからない」ことに対して起こる。(「わからない」には二種類ある。ウクライナの農民の足裏のように違和感のないものと、乗り過ごした駅での思いのように違和感のあるの、がある。)この違和感について、小池は、もう一度繰り返している。別のことばでとらえ直している。
わたしはわたしに追いつけないまま、そうして永遠に別の道を歩く。
これを別の角度から見るとどうなるだろうか。もし、わたしがわたしに追いつけた? そこには違和感がない。「わたしがわたしに追いつく」とはどういうことだろうか。
それはたとえばウクライナの農民の足裏の汚れに、小池自身の幼い時代の体験が重なり合う、そして、その「時間」を身体で受け止める、ということである。
「わたし」のなかには複数の時間がある。毛糸を巻いた時間もあれば、足裏を汚して遊んだ時間もある。それが過去ではなく、いま、ここに小池の身体をとおしてよみがえる。重なり合う。「分裂」「隙間」の対極、「違和感」の対極にあるのが、そうした時間である。ある時間が、いま、「わたし」に追いついたのだ。この瞬間が「わかる」ということだ。こころが鎮まり、身体が納得するということだ。至福の一瞬だ。
この至福の一瞬が、最初に引用した「33」に結晶している。
この「33」がおもしろいのは、その至福の一瞬が、小池の身体のなかから「時間」を引き出すものが、いま、そこにいる他人(少女)ということだ。ウクライナの農民の足裏も他人であるけれど、「33」の少女とは少し違う。少女は実際に生きており、小池と交渉している。
「生きる」とは、と小池は書いてはないけれど、生きるとは、と私は考えてしまう。生きるとは、小池のこの経験のように、他者に出会い、他者のことばによって、自分自身がもういちど生き返ること。自分のなかにある時間、見落としていた時間を引き出してもらい、自分自身を理解し直し(わかり)、私に追いつくことである。私自身に追いつき、そこからもう一度、私を行きなおすことである、と。
同じ「33」の部分。
旅人は誰ひとりとして、同じところへは戻れない。あなたは常に、前と違うところへ着地する。
そこから日々を開始するのです。
小池昌代の新しい出発だ。
小池は小池に追いついた。そしてこれから小池は小池を追い越していくのだ、と思った。10年に 1度の大傑作の詩集だと確信した。