詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

渡辺めぐみ『光の果て』

2006-04-29 13:52:08 | 詩集

 渡辺めぐみ『光の果て』(思潮社)。
 途中まで何が書いてあるのかわからなかった。未来と思われる時代が設定されている。そこでは不毛な戦いがある。そのために、その虚構に登場する人物のこころは傷ついている。登場人物は複数であるから、こころも複数である。複数のこころが重なり合ってつくりだすものは「抒情」である。時代の抒情である。なぜ、渡辺がそうしたものを描くのに現代ではなく、未来と思われる時代を設定したのか。いま、ここにある渡辺のこころを傷つけたくなかったから、渡辺自身が傷つきたくなかったからか。なんだか、現代の「若者論」をなぞっているようで気持ちが悪い。何が書いてあるかわからなかった、と書くしかなかったのは、その気持ち悪さのせいである。
 しかし、逆なのかもしれない。渡辺は傷つきたくないのではなく、傷つきたいともがいているのかもしれない。

今日わたくしの魂は一度空に飛んでいってしまった
高く高く
さあ呼び戻しにいくぞ
そう言い聞かせて
鳥になる
そう言い聞かせて
鷹になる           (「盛夏」)

 渡辺の虚構は突然はじまるのではない。「鳥になる」「鷹になる」の「なる」がそう告げている。まず、自分自身を変形させて、たとえば鳥に、たとえば鷹に変身させて、そこから物語りははじまる。
 想像力を定義して、存在をゆがめて見る力、といったのはバシュラールだと思うが、渡辺は渡辺自身をもゆがめてしまう。ゆがんだものは脆弱である。傷つきやすいからである。より深い傷を求めて、渡辺のこころは「ゆがんだ存在」に「なる」。
 一方、自分以外のものも変形させてしまう。名づけるという行為で。

木を植える
わたしは 一本の木に
いまだ(未)よわい(齢)と書いて
みれい(未齢)と名付けた    (「植樹祭」)

 名付けるとは何かを何かに「する」行為である。「なる」と対極にある。

 渡辺は何かに「なる」、そして渡辺は何かを何かに「する」。そして、そこで今、ここに存在するものとは違った渡辺とある存在が出会う。そこから虚構の物語りがはじまる。傷つきたいからである。渡辺以外の存在には不思議な力をもった存在になってもらいたい。そして、渡辺を傷つけてもらいたい、という思いが「植樹祭」の木にはこめられている。詩は、次のようにつづいている。

出血する激戦区が拡大しても
どこまでも どこまでも
生も死も抱(いだ)き終え
吹かれてあるように
酸欠の 焦土と化した 地上にも
姿なき全身を晒し
どこまでも どこまでも
吹かれてあるように
颯爽と 稜稜と
風を食み
吹かれてあるように
わたしは未齢という名の木を植えた

 存在し続けるのは木であって、「わたし」ではない。「わたし」が名付けた木(存在)である。「わたし」が作り出した存在である、と言い換えてもいいかもしれない。「わたし」が作り出した存在が存在し続けることで、間接的に「わたし」を存在させようとしていると願っていると言い換えた方がいいかもしれない。
 「未齢」という木がある。その木が存在しているのは「わたし」が消えていってしまったからである。消滅した「わたし」が存在したことの証明として「未齢」という木がある。そういう世界を渡辺は思い描いている。その木を見るたびに誰かが「わたし」という存在を思い出してくれることを夢見ている。

 しかし、この夢は、かなり自己満足的なものにすぎないのではないか。私は再び気持ち悪くなる。一本の木に「未齢」と「わたし」が名付けたことなどだれも知りはしない。もし「未齢」という名前と木がいっしょに存在し続けるとしたら、それは木と無関係に「わたし」が存在し続けたときだけである。「わたし」が歴史として他者によって記憶されないなら、その「わたし」が名付けた「未齢」という木は単なる無名の一本の木にすぎない。「未齢」という木が残ると夢想するのは、あまりにもセンチメンタルである。

 虚構のなかで傷つく「わたし」、名もなく消滅する「わたし」を描いて感傷にひたるのではなく、いま、ここで渡辺がどんなふうに傷ついたか、それをこそことばにすべきだろうと思う。傷つける力を持った存在に出会わないのだとしたら、渡辺自身が加害者となって暴れればいいのではないだろうか。
 現実を渡辺のことばで破壊する。傷つける。そうした詩をこそ読んでみたいと思った。
コメント
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