水嶋きょうこ『twins』(思潮社)。
最初、イメージがまとまらなかった。何かに対していらだっているということ、ことばによってそのいらだちを突き破りたいという欲望は感じられるのだが、いらだちのありようがよくわからなかった。いらだちというものは大抵本人にはわかっても他人にはわからないものだが、水嶋の描いているものは特にその印象が強い。
「レイ君の耳」まで読んで、ふいにひとつのことばが強烈に迫ってきた。
「取りつく」という表現はひとつのこことばであるけれど、「取り+つく」と分離して感じられた。そして、その「取り+つく」の表現の、特に「つく」がなぜか気にかかった。
読み進むと「つく」が何度も出でくる。
「この上なく好きだから、巻きついてゆく」「吸いついてゆく」「しがみついてくる」(以上「パラサイト」)、「巻きついた光」「まといつく」(「tatto」)、「いやらしいくらいぐるぐると絡みつく」(「葬列」)、「路上にはりつく水の花」(「海辺のマネキン」)など。
「つく」とは「密着」を意味する。そしてその密着は分離、隔絶を前提とする。本当は離れている。その存在が何らかの力で密着を強要してくる。離れることを拒否している。「つく」には、そういう印象がある。特に、水嶋の「つく」にはその印象が強い。
水嶋の詩を読んで私が感じたいらだちは、たぶん水嶋が密着を強いられているものへのいらだち、本当は分離したい、隔絶したいのに密着してしまうことへのいらだちなのだと思う。そういうものがことばの奥底に流れているから「つく」が強烈に浮かび上がるのだろう。
隔絶と密着は「犬吹公園」では次のように書かれている。
犬のにおいがいつまでも「つい」てくるということだろう。目は犬が遠ざかったことを認識する。しかし鼻は認識しない。人間の感覚は普通融合する。融合することで深い世界にたどりつく。しかし水嶋の感覚は融合しない。分離する。分離することで水嶋自体をいらだたせるとも言える。
感覚の分離、それも強要された分離は水嶋に「もう一人の わたし」(「twins」)を呼び起こす。「デジャヴュ」には次の行がある。
「わたし」と「彼女」は同じ水嶋である。(引用した部分の数行先には「わたし/彼女 彼女たち/わたし」という表現もある。)
この引用部分で見落としてならないのは「日常をゆっくりと落ちてゆく」と「肉体からは数々の物語があふれていた」という関係である。日常から落ちていくわたしを水嶋は「彼女」と呼び、その彼女に日常ではなく「物語」を担わせている。
ここに水嶋が詩を書く理由がある。
もう一人のわたし(本当のわたし)を維持するために、水嶋は、水嶋にまとわりついてくるもの、密着してくるもの、水嶋を引きずり込もうとするものへ「彼女」を差し出し、そこで「物語」を完成させる。「彼女」を物語のなかで動かし、生かすことで、水嶋自身の肉体、感性、精神を守ろうとしている。
水嶋の作品が感じさせるいらだち、痛々しさはそこから生まれていると思う。
しかし痛々しい。痛々しすぎる。「tatto」では「本当のわたし」は「ぼく」というかたちであらわれている。何かに密着され、変形した「わたし」は「蝶」になって表現されている。(そして、この「蝶」はまた「ぼく」にまとわりつく存在である。だからこそ、「物語」にしてしまわなければならない。)
こんなふうに痛々しい形で結晶する詩もある。
最初、イメージがまとまらなかった。何かに対していらだっているということ、ことばによってそのいらだちを突き破りたいという欲望は感じられるのだが、いらだちのありようがよくわからなかった。いらだちというものは大抵本人にはわかっても他人にはわからないものだが、水嶋の描いているものは特にその印象が強い。
「レイ君の耳」まで読んで、ふいにひとつのことばが強烈に迫ってきた。
「レイ君、耳に取りつかれたね。」(略)耳に取りつかれたレイ君。レイ君に取りつかれたわたし。わたし、何に取りつけばいいのだろうか。
とりつく/とりつきたい
とりつく/とりつきたい
「取りつく」という表現はひとつのこことばであるけれど、「取り+つく」と分離して感じられた。そして、その「取り+つく」の表現の、特に「つく」がなぜか気にかかった。
読み進むと「つく」が何度も出でくる。
「この上なく好きだから、巻きついてゆく」「吸いついてゆく」「しがみついてくる」(以上「パラサイト」)、「巻きついた光」「まといつく」(「tatto」)、「いやらしいくらいぐるぐると絡みつく」(「葬列」)、「路上にはりつく水の花」(「海辺のマネキン」)など。
「つく」とは「密着」を意味する。そしてその密着は分離、隔絶を前提とする。本当は離れている。その存在が何らかの力で密着を強要してくる。離れることを拒否している。「つく」には、そういう印象がある。特に、水嶋の「つく」にはその印象が強い。
水嶋の詩を読んで私が感じたいらだちは、たぶん水嶋が密着を強いられているものへのいらだち、本当は分離したい、隔絶したいのに密着してしまうことへのいらだちなのだと思う。そういうものがことばの奥底に流れているから「つく」が強烈に浮かび上がるのだろう。
隔絶と密着は「犬吹公園」では次のように書かれている。
電車の窓からいつも見える公園がある
取り巻く欅の木のそよぎ
犬を連れた女の人たちが楽しそうに集う姿が
ガラス窓を通し
午後の光の中でにじんで見える
風景は通りすぎても
開け放たれた窓から入る
すえた犬のにおいだけがいつまでも消えない
犬のにおいがいつまでも「つい」てくるということだろう。目は犬が遠ざかったことを認識する。しかし鼻は認識しない。人間の感覚は普通融合する。融合することで深い世界にたどりつく。しかし水嶋の感覚は融合しない。分離する。分離することで水嶋自体をいらだたせるとも言える。
感覚の分離、それも強要された分離は水嶋に「もう一人の わたし」(「twins」)を呼び起こす。「デジャヴュ」には次の行がある。
ミラーサイドから わたしの画像は切断される
天井にはりつく着衣 夜の連体形
(略)
バランスを崩し 日常をゆっくりと落ちてゆく わたし
スレ違う《彼女たち》の肉体からは数々の物語があふれていた
「わたし」と「彼女」は同じ水嶋である。(引用した部分の数行先には「わたし/彼女 彼女たち/わたし」という表現もある。)
この引用部分で見落としてならないのは「日常をゆっくりと落ちてゆく」と「肉体からは数々の物語があふれていた」という関係である。日常から落ちていくわたしを水嶋は「彼女」と呼び、その彼女に日常ではなく「物語」を担わせている。
ここに水嶋が詩を書く理由がある。
もう一人のわたし(本当のわたし)を維持するために、水嶋は、水嶋にまとわりついてくるもの、密着してくるもの、水嶋を引きずり込もうとするものへ「彼女」を差し出し、そこで「物語」を完成させる。「彼女」を物語のなかで動かし、生かすことで、水嶋自身の肉体、感性、精神を守ろうとしている。
水嶋の作品が感じさせるいらだち、痛々しさはそこから生まれていると思う。
しかし痛々しい。痛々しすぎる。「tatto」では「本当のわたし」は「ぼく」というかたちであらわれている。何かに密着され、変形した「わたし」は「蝶」になって表現されている。(そして、この「蝶」はまた「ぼく」にまとわりつく存在である。だからこそ、「物語」にしてしまわなければならない。)
それでも蝶はぼくにまといつく。蝶の影、蝶の姿を払い、追い、つぶし、鱗粉をガラス瓶に閉じこめた。移りゆく日々、日常のまといつく灰にまみれ汚れてゆくぼく自身を閉じこめたかったんだと思う。
こんなふうに痛々しい形で結晶する詩もある。