詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

萩原健次郎『セルロイド界隈』再読

2006-04-22 15:12:54 | 詩集
 萩原健次郎『セルロイド界隈』(書肆ガルシア)再読。
 「街の鬼」が読みやすい。唯一、この詩集で明快な作品だ。しかし、明快で読みやすいといっても、とても奇妙な部分がある。

かけていくと子供たちは
抒景になっていく。
小走りの鬼は、いまごろ銭湯あたりか、
牛乳屋のあたりか、それともうどん屋あたりか、
鬼が唯一の親なら逃走する子供たちは
ひとしく抒景の子である。

走る
走る、走る鬼。

車輪に磨かれた市電の線路が
息をつまらせ黄変したポプラが
煤けた工場の巨大な八本煙突が

分解写真のように
ギクシャクして、上下に揺れる。

 描かれているのは1960年代の街である。鬼ごっこの子供の動きにしたがって街が描写される。銭湯があり、牛乳屋がある。市電電車があり、工場の煙突がある。子供の遊び場と、そうしたものがひとつの街に共存した時代である。
 この作品が読みやすく感じるのは、街の描写と子供の走る動きが重なるからだ。

 ところが、いま引用した最後の2行目あたりから様子が変わってくる。読みにくくなる。実景ではなくなってくるからだ。もちろん1960年代の街だから実景ではない、記憶なのだが、記憶であっても実景として描くのが文学である。(というのが、普通である。)しかし、萩原は実景として描かない。記憶として描く。記憶している、という点に重きがおかれる。
 「分解写真のように」という比喩がそれを明確に語っている。鬼ごっこの子供は、走るときに見える街を「分解写真のように」はけっして見つめはしない。
 「かけていくと子供たちは/抒景になっていく。」という書き出しからすでに記憶ではあるのだから、より正確には、記憶の中でさらに記憶が生まれる。たぶん、この二重構造(あるいは多層構造)が萩原のことばの動きの特徴である。
 記憶が多層構造を持ち始めたことは、次の第4連ではっきりする。街の描写に子供の視線以外のものが入り始める。

とりのこされた
小さな空き地
雑草のあいだで2B弾が、
幼い動物たちを犠牲にして炸裂したって
逃走する義務のあるものは
ふり向かず
かけていかなければならない。

 「……したって、……しなければならない」。これは実景ではない。鬼から逃げる子供が「……しなければならない」というようなことを考えるとしたら、ただ単に「鬼に捕まらないようにしなければならない」というだけである。それ以外のことは鬼ごっこをしている子供には考える必要がない。「鬼」の立場から見れば、彼らはただただ逃げていくだけである。それを追いかけるだけである。鬼が追いかけるのだから、鬼以外は「……しなければならない」というようなことを考えながら遊ぶことはない。
 萩原が書いていることは、子供の視点で見た風景ではない。子供時代を過ぎ去って、あとから大人が考え出した論理である。感情である。したがって、そこでは感情(思い)が風景を決定している。風景が感情(思い)を決定しているのではない。
 『セルロイド界隈』はいかがわしい詩集である。うさんくさい詩集である。そこが魅力的な部分だが、いかがわしさ、うさんくささの原因はここにある。
 萩原のことばは、まず実景(存在)があり、それに触れて詩人(人間)の感情が動くのではなく、動かしたい感情があって、それにあわせて風景を選択している。萩原が詩制作当時(1984-1985年)の時代の街ではなく、記憶の街を題材に選んだ理由もそこにある。記憶の時代、記憶の街なら、風景の選択は現代よりも自由である。(と、萩原に見えたのだと思う。)
 このあとは、もっと街の実景が選択的になる。実際に子供が見たものというより、その詩を書いた時代に萩原が思い出したがったものが描かれる。

職業安定所の前
ポプラの下のわずかな土の上に
いつものアルコール死人が
あたたかい平穏な表情で横たわっている。
死人のズボンからこぼれ出た硬貨は
ざっと見積って、百二十円。

たぶん酒で死んでいるのだろう。
生活で死んでいるのではない。

それぐらいは、わかっている。

 この「それぐらいは、わかっている。」がまた非常にうさんくさい。こうしたことが「わかる」のは子供ではない。また一個人の大人ではない。「街」そのものがわかるのである。「街」として、そういう生活、そういう人がいることが人が大勢いる、いっしょに生活している街のあり方だ、それが「村」とは違うことだ、と街としてわかることがらである。
 萩原は、ここでは個人の記憶をすら語っていない。街の記憶を語っている。それはつまり、一種の宣伝である。だから、うさんくさい。
 萩原は、しかし、非常に巧妙である。このうさんくささを、とても美しいものに変えてしまう。変えてしまって詩を閉じる。

その固く閉じた瞳をのぞくようにして
素早く小銭を拾う。

それぐらいは、わかっている。

(略)

鬼が戻った路地に
轟音だけが、
ガラガラ、ガラッと
反響している。

そのとき、
ポケットの中の十円硬貨も
かすかに、鳴った。

 この作品のなかの「鬼」は萩原であった。萩原は鬼ごっこの鬼をしながら酒に酔いつぶれている人がこぼした硬貨をくすねたことがあった。そんなふうに自己反省してみせる。これが私には、またうさんくさく見える。反省がうそっぽく見える。そんな反省などしてみせなくてもいいじゃないかと思う。だいたい、他人の金をくすねるようなことをしたとき、その硬貨が「かすかに、鳴った」と子供は思うだろうか。その音はどんなに小さくても、路地の轟音「ガラガラ、ガラッ」により大きく耳に響くはずだ。ほんとうに「かすかに」しか聞こえなかったのだとしたら、途中にでてくる「それぐらいは、わかっている」という表現そのままに、大変なすれっからしである。
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