小網恵子『浅い緑、深い緑』(水仁社)。
「呼吸」「息」ということばが何度か出てくる。小網の詩は何かと呼吸をあわせること、同じ呼吸をする世界を描いている。「月夜」という作品の全行。
「草の呼吸になっている」とは、小網自身が草になることだ。草になってしまっているからこそ「突然 肩先から蟷螂が跳ぶ」ということがおきる。「突然」はこのとき「当然」と同じ意味を持つ。
最終連の「その呼吸さえわかれば」の「その」は「蟷螂の」「野うさぎの」という意味である。
日本語には「呼吸があう」という表現がある。「息があう」という表現がある。何かと一体になる、という意味である。小網の詩には、その「呼吸があう」という肉体的な運動がしっかりと定着している。
この作品では、そうした「意味」とは別に、3連目の「呼ばれているようで」にひどくこころが動かされた。「呼ばれている」のなかにある「呼吸」の「呼」。だからというわけではないが、何が何を呼んでいるかというと、「草の呼吸」が「小網の呼吸」を呼んでいる、と感じる。そして何よりも、それが自然に感じられるのは、それが断定ではなく「ようで」と憶測で書かれている点だ。「感じ」として書かれている点だ。
「呼吸があう」「息があう」というのは、計測しようとして計測できるものではない。ただ肉体をとおして「感じる」ものである。小網は、この「感じ」を大切にしている。その大切にする気持ちがとても静かでおだやかだ。
小網のことばは日本語の呼吸がとても深い。深いところで呼吸している。「真夜中の井戸」の第1連。
「水を迎えにいく」。この文章にこころを奪われた。「迎え」のなかには「歓迎」が含まれている。ただ単にゆくのではなく、「むかえに」いく。そこに、おのずとこころがあらわれている。だれのこころか。男の肉体のこころ、男の「身の内の魚」のこころである。「身の内の」が肉体をしっかりととらえている。
「呼吸をあわせる」「息をあわせる」とは精神的な意味合いが大きいが、小網の場合は、それは精神というより、まず肉体としての呼吸、息である。呼吸、息が肉体を感じさせるものだからこそ、「真夜中の井戸」をはじめとする散文形の詩、内容が「身内の魚」のように現実を超越している詩においても、ことばが自然に肉体に迫ってくる。
肉体の広がりを備えたいい詩集だと思った。
「呼吸」「息」ということばが何度か出てくる。小網の詩は何かと呼吸をあわせること、同じ呼吸をする世界を描いている。「月夜」という作品の全行。
取り込み忘れた毛布が月の光を浴びている
湿り気がわずかにあって
毛羽立った奥まで光が染み渡っている
毛布を抱いて眠ると
草原が広がってくる
青白くざわめいて
胸元まで寄せてくる草
呼ばれているようで
じっとしていると
呼吸が緩やかになる
月が身体をくまなく照らす
いつ息を吸っているのか 吐いているのか…
草の呼吸になっている
突然 肩先から蟷螂が跳ぶ
割り箸のような後ろ肢が視界から消える
その跳躍で私は揺れ続ける
やっとおさまると
地面を蹴る小刻みな足音
私の根元を野うさぎが走り抜ける
その呼吸さえわかれば
蟷螂にも
野うさぎにもなれる
草原を飛び出すこともできる
「草の呼吸になっている」とは、小網自身が草になることだ。草になってしまっているからこそ「突然 肩先から蟷螂が跳ぶ」ということがおきる。「突然」はこのとき「当然」と同じ意味を持つ。
最終連の「その呼吸さえわかれば」の「その」は「蟷螂の」「野うさぎの」という意味である。
日本語には「呼吸があう」という表現がある。「息があう」という表現がある。何かと一体になる、という意味である。小網の詩には、その「呼吸があう」という肉体的な運動がしっかりと定着している。
この作品では、そうした「意味」とは別に、3連目の「呼ばれているようで」にひどくこころが動かされた。「呼ばれている」のなかにある「呼吸」の「呼」。だからというわけではないが、何が何を呼んでいるかというと、「草の呼吸」が「小網の呼吸」を呼んでいる、と感じる。そして何よりも、それが自然に感じられるのは、それが断定ではなく「ようで」と憶測で書かれている点だ。「感じ」として書かれている点だ。
「呼吸があう」「息があう」というのは、計測しようとして計測できるものではない。ただ肉体をとおして「感じる」ものである。小網は、この「感じ」を大切にしている。その大切にする気持ちがとても静かでおだやかだ。
小網のことばは日本語の呼吸がとても深い。深いところで呼吸している。「真夜中の井戸」の第1連。
荒い息をしながら井戸に近寄る男がいる。石造りの井戸の縁につかまり釣瓶を下ろす。水を迎えにいく。力を振り絞って滑車を引くと漲った水が上がってくる。水の面に星々がゆらめいている。桶の水を飲み干す。昼間照りつける太陽のもとで家の土台の石を運ぶ。それが男の仕事。汗が噴出し、夜になっても喉が渇く。身体の推量が少なくなっている。身の内の魚が動かなくなっているのでそれと分かる。
「水を迎えにいく」。この文章にこころを奪われた。「迎え」のなかには「歓迎」が含まれている。ただ単にゆくのではなく、「むかえに」いく。そこに、おのずとこころがあらわれている。だれのこころか。男の肉体のこころ、男の「身の内の魚」のこころである。「身の内の」が肉体をしっかりととらえている。
「呼吸をあわせる」「息をあわせる」とは精神的な意味合いが大きいが、小網の場合は、それは精神というより、まず肉体としての呼吸、息である。呼吸、息が肉体を感じさせるものだからこそ、「真夜中の井戸」をはじめとする散文形の詩、内容が「身内の魚」のように現実を超越している詩においても、ことばが自然に肉体に迫ってくる。
肉体の広がりを備えたいい詩集だと思った。