詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『渋沢孝輔全詩集』を読む。(3)

2006-04-13 14:47:58 | 詩集
 『不意の微風』(1966)。渋沢が自画像を書き始めた、と感じた。

月が出ていれば月を感じ
女がいれば女を感じもする
確かに世界はいつもそこにあって
あいかわらず愛し合い殺し合いしているのだが
おれの中にひとつの狂気が育たぬばかりに
石みたいに世界から拒絶されるのだ (「信じるためにも」122 ページ)

 「世界から拒絶される」と渋沢は書いているが、むしろ渋沢が拒絶しているのだろう。「女がいれば女を感じもする」の「も」。その並列の助詞は何を意味するだろうか。一体感のなさだ。渋沢は女といるとき女がいるということを感じるけれど、女と一緒にいる、おんなと渋沢とが今ここに同時にいるとは感じないのだ。渋沢がいて女「も」いる。だからこそ世界は「ここ」ではなく「そこ」という離れた場所なのだ。

おそらく世界こそすでにひとつの狂気
(略)
信じるためにも
おれはいまこそ世界の狂気に呼びかけねばならぬ (「信じるためにも」123 ページ

 「意識」から世界へと歩みだそうとする渋沢が、ここにいる。

 「三十歳」「人が盲になるとき」は、そうやって世界へ踏み出した渋沢の自画像である。

信じていないから
彼には光なんてものが存在しないのだろう
性格はあいまいだ
意識と行動との通路を探しまわっている
(略)
無責任な男である
自分勝手に世の中を真暗にして
さてそれから
この世は闇だといって嘆いてみせた

 「信じていないから/彼には光なんてものが存在しない」とは存在していると意識しないから彼には光は存在しないという意味だろう。「信じる」とは存在を意識することだ。存在していると意識できたものだけが渋沢にとって存在していることになる。
 これは「信じるためにも」も同じである。
 「信じるためにも/おれはいまこそ世界の狂気に呼びかけねばならぬ」とは存在しているものを存在していると意識するためにも、いまこそ世界の存在のあり方に向けて歩みださなければならない、という意味になる。世界へ向けて「意識と行動との通路」を築かなければならない。
 世界が真暗であるとしたら、それは単に渋沢が世界が真暗であると意識したにすぎない。ほんとうに世界が真暗であるわけではない。もし真暗なら他の人も騒いでいるだろう。ところが他の人は騒いではいない。うろたえてはいない。
 自画像を書くことで渋沢のことばは動き始めた。そう感じた。「三十歳」「人が盲になるとき」につづく作品群も自画像として読むことができる。
 「スパイラル」「パストラル」「像」「五月」など短めの作品がとても美しい。ことばが渋沢の意識のなかにとどまらず、意識を逆に世界の方から見つめなおしているという感じがする。批評が存在する。ユーモアが立ち上がってきている。世界と渋沢の相互交流がある。

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前田實「たまゆら」ほか

2006-04-13 12:09:28 | 詩集
 前田實「たまゆら」(「ガニメデ」36)。
 死んだ男が生き返る話してある。表記の仕方がおもしろい。

墓穴からやっとはいだし 自分でもどうしていたのか分からないうちに わが家にたどりついたのだ そのときは後あと俺の名をきょうふの代名しのようによんだあの邪あくな怪異はあらわれず しばらくの間それはつづいたのだ

 「代名し」「邪あく」というように漢字とひらがながの交ぜ書きになっている。書かれていることはそんなに目新しい(?)ことではなく、よみがえりの、あれこれ聞いたような話なのだが、交ぜ書きがことばの距離感をあいまいにする。近づいてきたと思ったらゆっくり遠ざかる。遠ざかったと思ったらぱっと近づいてくる。そのリズムが文字を読んでいるのに声を聞いている感じがする。声を聞いている感じに似ている。ひとの話はふいに親身に感じられたりどうでもいいものに感じられたりするものだが、そういう肉声だけが持っている揺らぎの感じがおもしろい。その感じが、書かれている内容と一致しているようで楽しい。
 前田は同じ号に「ずれる」という作品も書いている。こちらはよみがえりというような「まゆつば」の話ではなく、夫婦の日常である。

百五拾年もつづくふるい大きな家に
つまとふたりで住んでいる
いつも同じにみえる家のなかも
一秒ごと ゆるやかに変っていく
想ぞう以上にゆっくりなのだが
ここのところ
一つへんかがあった

 ここでも「想ぞう」のように漢字、ひらがなの交ぜ書きが登場する。タイトルがそうなっているからいうのではないのだが、この交ぜ書きによって、私の感覚は微妙に「ずれ」る。めのずれのなかに、たぶん、前田がいる。
 ことばのなかにある時間の感覚、すっと動くものと、ねっとりと動くもの。それを前田は見ようとしているのかもしれない。

 同じ「ガニメデ」の沼谷香澄の「むすりまタン」のタイトルで短歌を書いている。自在な音楽が楽しい。

中庭のユーカリの影にぱぱとまま。わたしコアラちゃんなのえへへ。
もふもふの、ああもふもふの家族部屋、ピクミン2のフィギュアを踏んだ
あのねのね、ミレットなの、ちゅうりっぷ、おやゆび王子がアザーンするの

 一方、音とはあまり関係なく、表記をいじっただけのものもある。

昨日着てた、ままのブルカが干されてる色とりどりの香をしたたらせ

 ちょっと古いと思う。「白妙の衣干すてふ…」の音楽にも負けていると思う。せっかくなのだから、もっと音楽を解放してほしい。
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