詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「コウモリが住むニートの木」

2006-04-20 23:50:42 | 詩集
 豊原清明「コウモリが住むニートの木」(「SPACE」67)があいかわらず不思議だ。1行目。

木はぴんぴんとして存在する

 この1行だけで私は楽しくなる。突然、木が見えてくる。今は春なので、花びらが散ってしまったあとの辛夷の木、葉桜、淫らな八重桜、光を反射している木が見えてくる。あ、あの木もどの木も「ぴんぴんとして存在する」のか、と思う。いや、違うな。木ではなくて、本当は私の体のなかで「ぴんぴん」としてくるものを感じる。私自身が「ぴんぴんとして存在する」と感じ始める。
 描かれた木のあり方に共感するのではなく、木をそんなふうに描く豊原に直接共感してしまう。
 「ことばの垣根」というと変かもしれないが、そういうものを一気に吹き飛ばしてしまう何かが豊原にはある。ことばを生成させなおす力がどこかにある。「ぴんぴんとして存在する」ということば、その「ぴんぴんとして」と「存在する」はともにすでにだれにでもなじみのあることばだが、そういうことばの結びつき(使い方)はだれもがするものではない。むしろ、そういう使い方をしない。だから、そうしたことばに出会った瞬間、普通は、「乱れ」を感じる。ところが豊原の場合、「乱れ」としてではなく、何か新しいものがあふれてくる感じがする。あふれるものがあるから「乱れ」が浮き立たない。まるで、岩を乗り越えて流れていく水のように、ことばの表面がつやつやと光り、輝く。そして、その輝きには、当然のことながら太陽の光の届かない暗い部分もあって、その黒が水の反射をいっそうつややかにするような感じだ。

木はぴんぴんとして存在する
しかし時代は「成長」を認めない
混沌の世の中は尻尾を
ちょん切られた狐みたいに軽く
虚しい渦の中の仕事
手元が滑って白球が
校長先生の股間に当った時
微笑してボールを
返してくれた
あの姿が
かげろうの中で
くろくろしている

 このことばの動きは制御できない。そこが、とてもいい。他人のことばを制御できないのはあたりまえだが、私のいう「制御」とはことばの動きをあらかじめ推測し、安心してみつめる、というくらいの意味だ。豊原のことばの動きは推測できない。そして、推測できないものなのに、その動きは何の不安も呼び起こさない。つやつやしていて美しい、という印象を呼び起こす。

 豊原の詩と比較して申し訳ないが、同じ号の萱野笛子「五丁目電停札所」。この作品の、たとえば次の部分に私は惹かれた。

レジのところにたいがい文月さんがいた
文月さんと言うより文月さんの笑顔がいた

 情景がくっきり見える。萱野と文月さんとの関係も見える。そういう的確で美しい描写だと思う。しかし、魅力的なのは、やはり豊原のことばの動きの方である。
 何が違うのか。
 豊原のことばが世界を破っていくのに対し、萱野のことばは世界を修復していく。その違いだと思う。豊原のことばは、世界を破ることが唯一世界を修復する方法だと、体の奥の奥の方で確信している。そう感じる。
コメント
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