詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『渋沢孝輔全詩集』を読む。(7)

2006-04-26 08:22:07 | 詩集
 『渋沢孝輔全詩集』(思潮社)を読む。(7)

 われアルカディアにもあり』(1974)。冒頭の「蓮華のしたたり」は「ひとり」「ふたり」「三にん」「四にん」「五人」「六人」「七人」という数え歌風の「形式」が素早いことばの運動を促している。その動きもおもしろいが、「の」の働き、特に行末の「の」がさらにおもしろい。

病める無限はひとり
呪われた断片はふたり
断片の思考は地平の犯し
数花ずつの白熱の
無為の祈りを
何が聞き何がさらに白熱させるか

 「ひとり」「ふたり」という数え歌風の行の展開には、意識の反復がある。2行目の「断片」が3行目で繰り返されなければならない理由は、その反復の意識にこそある。そしてこの反復のなかでは呼吸が難しくなる。息継ぎが必要になる。それが文末の「の」である。
 「数花ずつの白熱の」のあと、私は深い呼吸を聞く。思いっきり息を吸い込む渋沢の呼吸の音を聞く。ため込んだ息を一気に吐き出すようにして「無為の祈りを/何が聞き何がさらに白熱させるか」ということばがつづくとき、「白熱の」に先行するそれまでのことばを「の」のなかに凝縮し、その凝縮をバネに一挙に「白熱させるか」に結びつく。途中のことばが飛び越されている感じがする。

形式は落下せよ
たくさんの畸形の海の失踪のあとをどこまでも
桃色珊瑚は落下せよ スカンポも落下せよ
純白の擾乱渦動の
美しい全体性を窺(のぞ)き見よ

 「純白の擾乱渦動の」の行末の「の」はやはりそれに先行するイメージを凝縮し、次のことばへ飛躍するための深い深い呼吸である。文意的には「純白の擾乱渦動の」は「美しい全体性」を修飾することばだが、文末に「の」があることで一種の断絶が生まれ、そこに深い呼吸の音が響いている。そして深い呼吸(息継ぎ)の後、水泳のクロールでいえば、ぐいと新しい力で水をかくようにして新しいことばが引き寄せられ、押し出される。
 あるいは「の」が登場するたびに、ことばは、それまで先行することばを飲み込み、新しい次元へ飛躍するといえばいいのだろうか。

狂いは三にん
欠如は四にん
夢の三斜晶系は蓮華のしたたり
魂から遊離する無数の
無数の叫びは
山毛欅(ぶな)の林で息絶える

 「魂から遊離する無数の/無数の叫びは」の「の」。これが先行することばをすべて引き受けていることは明白である。先行することばを引き受けて、あらためて「無数の叫び」と「無数」が繰り返される。
 「の」は渋沢の「直列の詩学」の象徴でもある。「の」に先行するエネルギーが「の」を経由することで次のイメージに強く結びつき、新しいことばを遠く深く(あるいは高くでもいいけれど)へと押し進める。
 最後の2行。

たくさんの剥離と目覚めのうずまくなかをどこまでも
空と海との刺し交(ちが)えの苦しげな恍惚の擾乱のなかをどこまでも

 もう息継ぎの必要はない。ただひたすらことばを直列させ、エネルギーをしたたらせるだけである。
コメント
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