詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

萩原健次郎『セルロイド界隈』再読その2

2006-04-23 22:42:46 | 詩集
 萩原健次郎『セルロイド界隈』再読その2。

 萩原の文体は主語が乱れる。主語が揺らぐ。実景からことばが始まるのではなく、抒情からことばが動きだし、実景を呼び寄せようとするからである。「水舞台」の冒頭の6行を読む。

網の目のような運河が
黒い顔
見せている
河であるのにそれは
水を漲った
遠景の劇場に見える

 3行は「見せている」の主語は運河。6行目「見える」の主語は「わたし」。もし、4行目以下も「運河」を主語とするなら「遠景の劇場に見える」は「遠景の劇場に似る」あるいは「なる」となるかもしれない。しかし、萩原は主語を統一しない。わざと揺らがせるのではなく、たぶん、主語が揺らいでいることを萩原は意識できないのだと思う。
 この主語の揺らぎは、「黒い顔/見せている」の助詞「を」の省略と重なる。助詞は主語と述語を強く結びつける。もし「を」ではなく、「に」だったらどうなるか。6行目と同じように「見える」という動詞がくるはずである。そして、この作品の場合、「黒い顔(に)/見える」だと不都合なことがあるかといえば、私には不都合なことがあるとは思えない。しかし萩原は「(に)見える」という構文を拒む。
 なぜか。
 単に「見せている」という表現をつかいたいからだ。
 これは何を意味するだろうか。萩原は実感ではなく頭で最初の3行を書いたということを意味すると思う。まず書きたいことば「見せている」があって、それにあうように情景を選択したのである。
 もちろん、そうした詩の書き方があっていい。それはそれでひとつのことばの運動のありかたである。しかし、もしそれを選んだのなら、その構文をつらぬかなければならない。その点が『セルロイド界隈』が徹底されていない。

 思うに、この詩では3行目の「見せている」が決定的に無理がある。頭で書いた無理がそこに噴出している。
 萩原の詩は、まず、抒情がある。それにあわせて情景を呼び込む。ということは、常に「私」が存在していなければならない。「黒い顔(を)/見せている」というような「私」を主語にすると成り立たない構文は、基本的に萩原の文体には合致しない。頭で書いているがゆえに、萩原のことばは、その後遺症のようなものをひきずってしまう。
 2連目を引用する。

橋上を過ぎる
電車
まっくろのガラスに
幼い目が貼り付いている
水舞台では
単調な浮沈劇がつづいている
私の目が
分厚い窓を突き破り
瞳ごと飛び込む
瞳ごと煮こごる

 いま、萩原は橋の上を通る電車に乗っている。そして車窓から「水舞台」を見ている。しかし、そこに実際に「水舞台」があるわけではなく、それは幼い萩原が見た「水舞台」であり、萩原はそれを思い出している、というのがこの作品の意識の構造である。
 萩原が描いているのは「思い出す私」である。抒情を思い出す私、が作品を貫く私であるといえるかもしれない。思い出がテーマではなく、思い出す私の抒情性、私はこんなに抒情的な人間ですという主張がテーマである。
 私の抒情性を前面に出そうとするからこそ、「街の鬼」の硬貨はどきりとする音ではなく「かすか」な音でなければならなかった。この作品でも、最後は事実ではなく「抒情」をいっそう「抒情的」に盛り上げることばが呼び寄せられる。

そして
薄い夜具の中
植物や虫たちの生命を育む
雨の夜も
布団は
溺れるように水を飲み
吐きながら
胸を
濡らしていく

 この作品で絵か描かれている「台風」(引用を省いた部分に出てくる)と「水舞台」の関係が私にはよくわからないが、「水舞台」というのはたぶん、台風が襲ったときに床上浸水か何かが起き、萩原も祖母や兄弟たちと水に浮かんで浮き沈みしたということだろう。その記憶をそう呼んでいるのだろう。そのときもちろん布団も水浸しになった。布団はすぐにはかわかない。水を奥深くにしまいこんで湿っぽい。その布団で眠る。気持ちがいいものではない。しかし、それを気持ちが悪い、思い出したくない、ではなく「胸を/濡らしていく」と悲しみの抒情にしてしまう。
 こうした抒情の操作は、私には、とてもつらく感じられる。

 頭で呼び寄せた抒情の風景。それは頭で説明するしかないときがある。そのときがもっとも詩が破綻するときである。「半ズボンの夜」。その3連目。

右へいっても、左へいっても
行方を求めていないのだから同じ。
小銭をもらって部屋をでる。
赤ら顔の主人がけげんそうに見るのもわかる。
四つのこどもが、親を残して
夕暮れの花街へと、くりだすのだから。

 「赤ら顔の主人がけげんそうに見るのもわかる。」がなんともいえず、いやらしく、うさんくさい。もちろん4歳のこどもの感受性は敏感だから「赤ら顔の主人」の目つきが何を見ているかはわかるに決まっている。しかし、そうしたとき4歳のこどもは「赤ら顔の主人」が何を見ているか(彼の頭のなかで何が生じているか)がわかる以上に、もっと切ない感情で一杯になる。いやだよ、哀しいよ、泣きたいよ、でも泣いちゃいけないんだ。そんな、ことばにならない思いをたぐりよせなければ文学の意味はない。「四つのこどもが、親を残して/夕暮れの花街へと、くりだすのだから。」では情景ですらない。説明でしかない。

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