加藤健次『紺屋記』(思潮社、2006年10月20日)
この詩集にはとてもすばらしい3行がある。「沈下橋」のなかほど。
「膝に落ちる」。特に、この1行の力に感動した。「なかば壊れた人」をどうとらえるかは難しいけれど「沈下橋」ということばから、私はある「流れ」にのみこまれ、沈んでいる人と思いながら読んだのだが、その気落ちした人の声は、「私」に届く前に、その人自身の膝の上に落ちる。
「腑に落ちる」の「腑」は「こころ」の比喩にあたると思うけれど、「膝」と対されることでより肉体に近付いた。あるいは、「腑」に対して、はっきり目に見える「膝」が登場することで、その人の全体が肉体そのものとして浮かび上がってくる--どう言えば正確になるのかわからないが、この3行を読んだとき、「壊れた人」の肉体が鮮明に浮かび上がり、それにあわせるようにこえの届く距離までが目に見えるのである。
声は対面していても必ずしも相手には届かない。声は人に届く前に、その人自身の膝の上に落ちてしまうこともある。
このリアルな肉体、心と声の在り方をたった3行で浮かび上がらせる。そのことだけでこの詩集は記憶に値するし、加藤健次自身も記憶に値する。ほんとうにすばらしい3行である。
この3行があまりにも素晴らしいために、どうも、私には他の作品があまりおもしろく感じられない。ことばのなかから肉体が浮かび上がってこない。
たとえば「こくご」。
雨の日。国語の授業。1年生が本を朗読している。それをなつかしい絵のように描写している。現代の小学校というよりも、記憶の中の小学校のような感じである。記憶の中だけの、余分なものを排除した、美しい世界である。「比喩はさみしく」も「ななめの直線を約束にのこして」美しい行だと思う。繊細で、ああ、加藤は繊細な人間なのだと感じさせる。
しかし、そこから私がほんとうに感じるのは、加藤の「美しく書きたい」という思であって、肉体ではない。肉体が見えない。「記憶の中の小学校」だから肉体がなくてもいいのかもしれない。肉体を排除して、精神だけを細い雨に打たせて、「わたしの精神はこんなに美しい」と主張し、それが伝わればそれでいいのかもしれない。
と加藤は書いているが、そのことばとはうらはらに、加藤にはそれがわかっているようにも思えるのだ。
細い雨。その細さを感じる精神までが脳である。精神が細い雨に打たれて、その細さを感じるまでが脳である。肉体は細さを伝えるためだけに存在している。ほかにも伝えられることはあるかもしれないが、細さ以外のものを除外する。それが、このときの加藤の肉体(体)だ。脳が最初から肉体(体)を限定している。
他の詩も、肉体の範囲を限定し、その限定のなかで精神を動かしている。それも、ある精神を深くつきつめるために肉体を限定してことばを動かすというよりも、肉体の思わぬ反撃にあって精神が乱れないように、あらかじめ肉体を限定している感じがする。そのうえで「抒情」を展開しているような印象が残る。
「抒情」にならなくてもいいのではないだろうか。ことばは美しくなくてもいいのではないだろうか。繊細な精神を伝えなくてもいいのではないだろうか。
そうしたことよりも、そのつど肉体を発見することの方が重要なことではないだろうか。
最初に引用した3行がなければ違った感想を書いたと思う。あの3行がすばらしいがために、私は、他のすべてのことばに不平が言いたくなってしまった。こんな経験はあまりない。不思議な詩集だ。
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この詩集にはとてもすばらしい3行がある。「沈下橋」のなかほど。
なかば壊れた人の
声は腑に落ちるのではなく
膝に落ちる
「膝に落ちる」。特に、この1行の力に感動した。「なかば壊れた人」をどうとらえるかは難しいけれど「沈下橋」ということばから、私はある「流れ」にのみこまれ、沈んでいる人と思いながら読んだのだが、その気落ちした人の声は、「私」に届く前に、その人自身の膝の上に落ちる。
「腑に落ちる」の「腑」は「こころ」の比喩にあたると思うけれど、「膝」と対されることでより肉体に近付いた。あるいは、「腑」に対して、はっきり目に見える「膝」が登場することで、その人の全体が肉体そのものとして浮かび上がってくる--どう言えば正確になるのかわからないが、この3行を読んだとき、「壊れた人」の肉体が鮮明に浮かび上がり、それにあわせるようにこえの届く距離までが目に見えるのである。
声は対面していても必ずしも相手には届かない。声は人に届く前に、その人自身の膝の上に落ちてしまうこともある。
このリアルな肉体、心と声の在り方をたった3行で浮かび上がらせる。そのことだけでこの詩集は記憶に値するし、加藤健次自身も記憶に値する。ほんとうにすばらしい3行である。
この3行があまりにも素晴らしいために、どうも、私には他の作品があまりおもしろく感じられない。ことばのなかから肉体が浮かび上がってこない。
たとえば「こくご」。
こくごのうえに
細い雨がおちている
こくごの約束はきちんとまもって
大小の円ができる
たくさんの朝のおもてを
そとへそとへひろがって
脚をゆらす
比喩はさみしく
水たまりに長靴でたっている
大人になる前だから高い声で
音読する
さくらがさいています。
さくらがちっています。
消えるために現れる意味に
かさをさして
近づく人の名をよんでみましょう。
「ん」が強くひびいてくる。
わかりません。
わかりたくありません。
どこまでが脳でどこからが体か
つめたくきらわれている
ななめの直線を約束にのこして
細い雨がおちている
一ねんせいの
こくごがめくられる
雨の日。国語の授業。1年生が本を朗読している。それをなつかしい絵のように描写している。現代の小学校というよりも、記憶の中の小学校のような感じである。記憶の中だけの、余分なものを排除した、美しい世界である。「比喩はさみしく」も「ななめの直線を約束にのこして」美しい行だと思う。繊細で、ああ、加藤は繊細な人間なのだと感じさせる。
しかし、そこから私がほんとうに感じるのは、加藤の「美しく書きたい」という思であって、肉体ではない。肉体が見えない。「記憶の中の小学校」だから肉体がなくてもいいのかもしれない。肉体を排除して、精神だけを細い雨に打たせて、「わたしの精神はこんなに美しい」と主張し、それが伝わればそれでいいのかもしれない。
わかりません。
わかりたくありません。
どこまでが脳でどこからが体か
と加藤は書いているが、そのことばとはうらはらに、加藤にはそれがわかっているようにも思えるのだ。
細い雨。その細さを感じる精神までが脳である。精神が細い雨に打たれて、その細さを感じるまでが脳である。肉体は細さを伝えるためだけに存在している。ほかにも伝えられることはあるかもしれないが、細さ以外のものを除外する。それが、このときの加藤の肉体(体)だ。脳が最初から肉体(体)を限定している。
他の詩も、肉体の範囲を限定し、その限定のなかで精神を動かしている。それも、ある精神を深くつきつめるために肉体を限定してことばを動かすというよりも、肉体の思わぬ反撃にあって精神が乱れないように、あらかじめ肉体を限定している感じがする。そのうえで「抒情」を展開しているような印象が残る。
「抒情」にならなくてもいいのではないだろうか。ことばは美しくなくてもいいのではないだろうか。繊細な精神を伝えなくてもいいのではないだろうか。
そうしたことよりも、そのつど肉体を発見することの方が重要なことではないだろうか。
最初に引用した3行がなければ違った感想を書いたと思う。あの3行がすばらしいがために、私は、他のすべてのことばに不平が言いたくなってしまった。こんな経験はあまりない。不思議な詩集だ。
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