本多明『虹ボートの氷砂糖』(花神社)(2006年10月30日)。
この詩集にはいろいろな人が登場する。宮沢賢治、芥川龍之介、彼らの作品の登場人物、タクシーの運転手、侍、ミック・ジャガー、あるいは固有名詞で書かれているが誰だかわからないわからない人。彼らは、宮沢賢治、あるいは芥川龍之介であると同時に本多明自身であるのだろう。
「惑星洞窟タクシー」に本多が見ている世界、本多が向き合っている世界が端的に書かれている。
バックミラーの中の俺とバックミラーを見る俺。古い俺と新しい俺。自己を対象化するときの、対象化された俺と対象化する俺。古い俺と新しい俺。この古い、新しいの区別は、意識がこの先動いていくか、そのままかという違いによって区別できるだろう。
バックミラーの中の俺は、その中に固定されている。対象化された俺というのも、対象化した時点で固定している。それを見る俺、それについて考える俺--その俺の考えとともに動いていく俺が新しい俺、ということになるだろう。
宮沢賢治や芥川龍之介、あるいはその作品の登場人物は、いわばバックミラーの中の俺のように対象化され、動いて行かない。俺が知らない何かをするわけではない。新しい俺が、宮沢賢治や芥川龍之介、あるいはその作品の登場人物について考えるだけである。
その瞬間、本多に何が見えるのか。
「深い層」。
重なり合うのに、あるいは重なり合うからこそ認識できる「深い層」。それを本多は見ている。
宮沢賢治を読んだ俺(古い俺)、芥川龍之介を読んだ俺(古い俺)と、読んだことを思い出し、今と結びつけ(重ね合わせ)、なにごとかを考え始める俺(新しい俺)。そこにたしかに何か「差異」があるのは確かだ。「差異」がなければ何も考えようとはしないだろう。だが、その「差異」を「深い層」と考えるかどうかは、人によって違う。
特に、その「差異」を「溝」(深淵)のようなものではなく、「層」と感じるところに
本多の特徴がある。溝は単に掘られたもの、古い俺と新しい俺を隔てている「切断」にすぎないが、「層」は違う。「層」とは重なり合ったもののことだ。
本多は「切断」とは違ったものを見ているのである。古い俺と新しい俺のあいだに「切断」があるのではなく、幾重にも重なり合った「層」があるのである。本多は、その重なり合った「層」を一枚ずつ剥がすようにして、古い俺と新しい俺を一致させようとするのである。その行為の中で、本田自身の「時間」(歴史)が浮かび上がり、それが本多の個性になっていく。
こうした「深い層」を少しずつ引き剥がしていくことを、本多は「ルーツ」探しと自覚しているようだ。そして、「ルーツ」探しをすることで、現代(間違った時代?)から本来の時代(永遠へとつながる歴史的な時間)へ立ち直っていくことだと感じているようだ。「通俗ベイビー」に次のような行がある。
「脱線できる」はもちろん本来の場へもどること、「回復」と同じ意味である。「回復」を逆説の形で表現したものである。「古い小説」には宮沢賢治や芥川龍之介が含まれている。「古い小説」のなかのことば、そのなかに潜むものを新しい俺を動かすための力にしようとする意志が、思想が、ここに表明されている。
この「古い小説」の中に、宮沢賢治や芥川龍之介だけでなく、現代の古典、ローリングストーンズのミック・ジャガーが入っていることもおもしろい。詩集の冒頭の「ブソンの手」もいいが、ミック・ジャガーが登場する「蕎麦屋で侍」もいい。というか、「蕎麦屋で侍」のような作品がもっと多ければ、この詩集は強いアピール力を獲得しただろうと思う。宮沢賢治や芥川龍之介、ブソン(与謝野蕪村)では、最初から「文学」的すぎて、「今」という感じが遠い。(ミック・ジャガーもすでに「古典」かもしれないが。)
一方、「古い小説」の作者がひとりではないのは、本多がまだ自分自身の「深い層」を引き剥がして、「本当の本多」にたどりつくための道連れをまだ見出していないということを暗示しているのかもしれない。道連れをひとりに限定して、そのひとりと一緒に「深い層」へ分け入るように進んだ方がいいのかもしれないとも思う。登場人物が多すぎて、読んでいて、すこしとまどうのである。
「深い層」をみつめ、思考する本多も魅力的だが、ふいに立ち上がってくるやわらかい感性(木坂涼をちょっと思い出す)の本多も魅力的である。最後に、そういう本多を紹介しておく。たとえば、
ここに書かれた「風」「花」は、まるで本多の肉体である。
この詩集にはいろいろな人が登場する。宮沢賢治、芥川龍之介、彼らの作品の登場人物、タクシーの運転手、侍、ミック・ジャガー、あるいは固有名詞で書かれているが誰だかわからないわからない人。彼らは、宮沢賢治、あるいは芥川龍之介であると同時に本多明自身であるのだろう。
「惑星洞窟タクシー」に本多が見ている世界、本多が向き合っている世界が端的に書かれている。
バックミラーが俺を見た
俺は俺を見るバックミラーの古い俺と俺の見るバックミラーへの
新しい俺と出会っている
古い瞳と新しい瞳の交互に重なる深い層があった
バックミラーの中の俺とバックミラーを見る俺。古い俺と新しい俺。自己を対象化するときの、対象化された俺と対象化する俺。古い俺と新しい俺。この古い、新しいの区別は、意識がこの先動いていくか、そのままかという違いによって区別できるだろう。
バックミラーの中の俺は、その中に固定されている。対象化された俺というのも、対象化した時点で固定している。それを見る俺、それについて考える俺--その俺の考えとともに動いていく俺が新しい俺、ということになるだろう。
宮沢賢治や芥川龍之介、あるいはその作品の登場人物は、いわばバックミラーの中の俺のように対象化され、動いて行かない。俺が知らない何かをするわけではない。新しい俺が、宮沢賢治や芥川龍之介、あるいはその作品の登場人物について考えるだけである。
その瞬間、本多に何が見えるのか。
「深い層」。
重なり合うのに、あるいは重なり合うからこそ認識できる「深い層」。それを本多は見ている。
宮沢賢治を読んだ俺(古い俺)、芥川龍之介を読んだ俺(古い俺)と、読んだことを思い出し、今と結びつけ(重ね合わせ)、なにごとかを考え始める俺(新しい俺)。そこにたしかに何か「差異」があるのは確かだ。「差異」がなければ何も考えようとはしないだろう。だが、その「差異」を「深い層」と考えるかどうかは、人によって違う。
特に、その「差異」を「溝」(深淵)のようなものではなく、「層」と感じるところに
本多の特徴がある。溝は単に掘られたもの、古い俺と新しい俺を隔てている「切断」にすぎないが、「層」は違う。「層」とは重なり合ったもののことだ。
本多は「切断」とは違ったものを見ているのである。古い俺と新しい俺のあいだに「切断」があるのではなく、幾重にも重なり合った「層」があるのである。本多は、その重なり合った「層」を一枚ずつ剥がすようにして、古い俺と新しい俺を一致させようとするのである。その行為の中で、本田自身の「時間」(歴史)が浮かび上がり、それが本多の個性になっていく。
こうした「深い層」を少しずつ引き剥がしていくことを、本多は「ルーツ」探しと自覚しているようだ。そして、「ルーツ」探しをすることで、現代(間違った時代?)から本来の時代(永遠へとつながる歴史的な時間)へ立ち直っていくことだと感じているようだ。「通俗ベイビー」に次のような行がある。
記号化されないものを
記号化していると疲れるよまったく
金は疲労のかたまりなのさ
そんなときはゆっくりと
黴の生えた古い小説を読むといい
意外な所にルーツは潜んでいて
間違った時代から脱線できる
「脱線できる」はもちろん本来の場へもどること、「回復」と同じ意味である。「回復」を逆説の形で表現したものである。「古い小説」には宮沢賢治や芥川龍之介が含まれている。「古い小説」のなかのことば、そのなかに潜むものを新しい俺を動かすための力にしようとする意志が、思想が、ここに表明されている。
この「古い小説」の中に、宮沢賢治や芥川龍之介だけでなく、現代の古典、ローリングストーンズのミック・ジャガーが入っていることもおもしろい。詩集の冒頭の「ブソンの手」もいいが、ミック・ジャガーが登場する「蕎麦屋で侍」もいい。というか、「蕎麦屋で侍」のような作品がもっと多ければ、この詩集は強いアピール力を獲得しただろうと思う。宮沢賢治や芥川龍之介、ブソン(与謝野蕪村)では、最初から「文学」的すぎて、「今」という感じが遠い。(ミック・ジャガーもすでに「古典」かもしれないが。)
一方、「古い小説」の作者がひとりではないのは、本多がまだ自分自身の「深い層」を引き剥がして、「本当の本多」にたどりつくための道連れをまだ見出していないということを暗示しているのかもしれない。道連れをひとりに限定して、そのひとりと一緒に「深い層」へ分け入るように進んだ方がいいのかもしれないとも思う。登場人物が多すぎて、読んでいて、すこしとまどうのである。
「深い層」をみつめ、思考する本多も魅力的だが、ふいに立ち上がってくるやわらかい感性(木坂涼をちょっと思い出す)の本多も魅力的である。最後に、そういう本多を紹介しておく。たとえば、
危ないけれど
列車の窓から
仰向けに顔を出して鷲を見た
首を突っこまれて
風はびっくりしていたが
上下 逆さまの世界が一瞬頭を打った (「鷲」)
おお 所々に民家があるじゃないか
俺はよくこんな所に出てこられたもんだ
花はきっとこんな気分で咲くんだろう (「惑星洞窟タクシー」)
ここに書かれた「風」「花」は、まるで本多の肉体である。