詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

財部鳥子『衰耄する女詩人の日々』

2006-11-19 23:09:05 | 詩集
 財部鳥子『衰耄する女詩人の日々』(書肆山田、2006年11月20日発行)
 「ウパニシャッド」の最終連。

それから
だれとも知れない者が内心に叫ぶ悲鳴を聴いた
ああ 消えておくれ!
ああ 残ってはならない
死は暗号だけでいいの!
女詩人はデスマスクから離れて
荒涼とした心の底の硫黄の山をよろめき歩く
ああ 栄光あるデスマスクよ
消えておくれ!
戻れると思うなよ

 「だれとも知れない者」。その叫び。悲鳴。「詩」とは、いつもそこにある。財部のこころに響くのだから、その「だれとも知れない者」が財部と別人の姿をしていても財部自身である。そうであっても、やはり「だれとも知れない者」というほかはない。その「矛盾」のなかに「詩」がある。
 そして、その「矛盾」を一番端的にあらわしているのが「衰耄する女詩人」であるかもしれない。「衰耄する」の「する」ということば。そのなかにある「変化」。財部に先立つのか、それとも財部に遅れてやってくるのか。「時差」はない。「時差」はないにもかかわらず「する」という変化ゆえに、常に「だれとも知れない者」でしかありえない。それまでの財部自身ではないのだから。
 財部は、彼女自身のなかに「他人」を見ている。「他人」がいることを知っている。その意識が「詩」を魅力的にする。
 どうして、ここで、こういうことばが? 読者は迷うかもしれない。財部はいうだろう。「だって、聞こえたんだもの」。
 そうした事情は「あとがき」に詳しく書かれている。財部は「日々老衰する詩人」ということばに出会い、そのことばは「私にとても魅力的に感じられた。日々老いゆくことは人間にとって新鮮な体験ではないだろうか」と。日々、自分の中の他人と出会う。それは、相手がどんな状態であろうと、新鮮には違いない。詩人に好奇心さえあれば。財部は、たぶん、いつまでも好奇心をうしなわない人間なのだ。自分の中の「だれとも知れない者」の声を聞くことがうれしい人間なのだと思う。
 この「だれとも知れない者」に名前をつけた作品がある。「だれとも知れない者」を「潭」と呼んでいる。「潭」が登場する作品は、どれも楽しい。「夕陽の階段」。
  
駅の回廊の窓から赤くあかく夕光がさしこんで
カメラを構えた男が光に立ちむかう
あれが潭ではないだろうか
俯瞰するレールはかがやいて浮き上がる
蛇行して化粧のように光をすばやく刷毛ではく
光がレールを移行していくと
かれは身軽に別な窓へと光を追う
あの華奢な背骨と飛ぶような脚のはこび
あれが潭だという確信もないけれど
潭ではないだろうか
足を挫いて杖をついた女詩人は
回廊で男の撮影が終わるのを待っていたが
こうも思いたい
あの夕陽の走るような速さをわたしたちは分け持っている
それが潭という時間だと
夕陽が駆け去るまでの数分が
潭という時間だと
潭が心からわたしを愛したことがあったのか
と女詩人は猜疑しているが
男に助けられて階段を上がる杖は
もういちど夕陽を見ようとして急いでいる
潭という時間はが潭が不在でもあったのだろうか

 「あれが潭ではないだろうか」「あれが潭だという確信もないけれど/潭ではないだろうか」。「だれとも知れない者」ゆえに「確信」などあるはずもない。しかし、それが「潭」だとわかる。なぜか。

あの夕陽の走るような速さをわたしたちは分け持っている

 この「分け持っている」という感覚、何かを共有する感覚があるから「潭」だとわかる。そして、もし、何かを共有する感覚があれば、そのとき、それが「だれ」であっても、その「だれか」は「潭」でもある。

潭という時間は潭が不在でもあったのだろうか

 この最後の疑問は「あれが潭ではないだろうか」と同じように、疑問の形をとっているけれど、実は「確信」である。潭という時間は潭が不在なら存在するはずがない。財部ひとりでは存在しない。「だれとも知れない者」が財部と一緒に存在するときのみ、「詩」は存在する。これは逆にいえば、「詩」が存在するとき、そこには常に潭が存在するということでもある。最後の3行は、潭に会うために階段を急いで上る女詩人を描いている。美しい夕陽とともに詩は存在し、潭は存在する。財部は夕陽を見ることで潭を存在させようとしているのである。
 潭が一緒にいるときのみ詩は存在する。そして、この一緒にいるときのみ、という感じ--そこから「時間」ということが強く意識される。
 「潭」は「だれとも知れない者」(人間)であると同時に「時間」なのである。そしてそれは「夕陽が走るような速さ」「夕陽が駆け去るまでの数分」の「走る」「駆け去る」ということばにあらわされているように、動いていく時間、とどまることを知らない時間である。動いていくということは、常に「だれとも知れない者」になりつづけるということでもある。
 そこでは人間と時間が混同されているのではなく、時間と人間が融合している、溶け合ってひとつの存在になっているのである。

 「老衰する詩人」「老衰する自分自身」--そういう存在を財部は知らない。知らないけれど、「潭」(男)のような存在だろう。常に何かを共有する存在だ。その存在を「潭」という男と想定しているのは、それが財部にとって自分自身ではないということを明確にするためだろう。「未知」なものを含んでいる存在だと明確にするためだろう。
 財部はその変化、動くものを好奇心いっぱいに受け入れている。
 財部の詩が、ふいに、今ここで新しく始まったという印象が非常に強い。「老衰する」の「する」の発見(時間の発見)、「潭」という人物の発見が、財部を生まれ変わらせたのかもしれない。新人の詩集を読むときのように、わくわくする詩集だった。


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