于堅「一匹の蝶が雨季に死んだ」(「現代詩手帖」11月号、田原訳)。
「中国現代詩特集」の一片。イメージの動き方に「詩」を感じる。行と行の飛躍に詩を感じる。こころが凝縮しながら、同時に一気に拡大していく感じが同居している。とても刺激的である。
「それはたいしたことではない」。唐突にあらわれる1行が世界を攪拌する。「一匹の蝶が雨季に死んだ」そのことが「たいしたことではない」なのか。あるいは雷雨が蝶を泥水の中へ蹴りこんだことが「たいしたことではない」のか。蝶の死を木々が悼み、星がなげいたことが「たいしたことではない」のか。感傷と憂鬱が九月までつづいたことが「たいしたことではない」のか。
誰にとって「たいしたことではない」のか。
世界にとって、宇宙にとって、という意味だろうか。私は、作者にとって、たいしたことではない、という意味でこの詩を読んだ。
蝶が雷雨に打たれて雨季に死ぬ--それは詩人にとって「たいしたことではない」。「たいしたことではない」はずなのに、それが、ふいに「心」をとらえる。「心に命中する」。
そのとき「心」は「心」のままではない。一気に宇宙へと広がっていく。雷雨になって蝶を泥水の中へ蹴飛ばし、同時にそれを目撃する木になってしまう。木々の葉になって幹をしっかり抱き締める。まるで人間が何もすることができなくて、悲しみのなかで自分のからだを両手で抱き締めるように。また、遠い遠い星になって、蝶とともに泥水の中に身を投げる。--こうした動きの全てが「思い出す」ことの中にある。
「こころ」が私の肉体から離れ、宇宙の全体とすっぽり呑み込む。
「ごろごろという巨大な響きの外に座り」の「外」とは、「わたしという宇宙、心の把握する宇宙」が現実の宇宙より拾いからだ。こころは、そこまで拡大していくことができる。
*
「心」ということば。そこに于堅の「思想」がある。詩はこころの動きを書いている。わざわざ「心」ということばをつかわなくても、読者は「心」を補って読むものだ。先に引用した作品の
その「心」は他の詩人なら書かないかもしれない。「心」と書かずに「肉体」(たとえば、「肉眼」あるいは「網膜」)と書くかもしれない。なかには「頭脳」とか「神経」とか書く詩人もいるかもしれない。
しかし、于堅はそういうことばではなく、「心」ということばをつかわずにはいられないのだと思う。「心」ということばをつかわずには「詩」が成立しないのだと思う。
「長い旅の途上」にも「心」ということばが出てくる。そしてその「心」も、私なら、たぶん書かない「心」、省略してしまうことばである。荒野を旅していて、遠くに灯火をみかける。そのときの様子。
「心から」。普通に書けば「心底」ということだろうか、と一瞬思うが、どうも違う。「心底」それらを追いかけて行きたいのなら「車を止めて」が矛盾するとまでは言わないが、車を止めなくてもいけるはずである。なぜ、車を止めて、追いかけなければならないのか。。
于堅が追いかけて行きたいと思っているものは車では追いかけてゆけないものなのである。人一緒に車に乗ったままでは追いかけてゆけないものなのである。「車を止めて」は正確には、「車を降りて」であろう。車を降りて、ひとりで追いかけて行きたい。
「こころ」は于堅にあっては「ひとり」ということと同義のことばに思える。
「ひとりの人間」、無防備な、肩書も何もない裸の状態の人間、宇宙に投げ出されたままの、誕生したままの人間。それが「心」なのである。
「一匹の蝶が雨季に死んだ」の「小さな死が突然私の心に命中した」は「私」という「ひとりの人間」の「ひとり」という状態に命中したという意味であろう。
無防備な「ひとり」とは、何にでもなりうる「ひとり」でもある。「ひとり」であるということは、誰も于堅の行動を妨げない、自由という意味でもある。そういう状態で、たとえば于堅は稲妻になる、泥水になる、木々になる、星になる、そうして宇宙になる。宇宙になって、そのなかで一匹の死を体験し、またその死を悼むすべての存在の思いを追体験する。
心とは宇宙が生成する現場である--于堅の「心」ということばに触れ、そんなことを考えた。
目撃したもの、体験したことを書きながら、それが「過去」として目の前にあらわれてくるのではなく、今、ここで変化しながら動いているものとして立ち上がってくるのは、そこに「生成する心」があるからだと思う。
「中国現代詩特集」の一片。イメージの動き方に「詩」を感じる。行と行の飛躍に詩を感じる。こころが凝縮しながら、同時に一気に拡大していく感じが同居している。とても刺激的である。
一匹の蝶が雨季に死んだ
昼間 彼女がひとり地下鉄を飛び抜けるのを見て
日が暮れる前に家に着けるかどうか心配したのに
その死は青色の稲妻に囲まれて
金色の柔毛の昆虫 光と青空のダンス・パートナーは
強い雷雨の中泥水の中へ蹴り込まれた
そのとき 木の葉たちはしっかりと幹を抱き 目を閉じ
星々は暗闇の水に溺れ死んだ
その死は夏の感傷と憂鬱の日々を
さらに九月まで長引かせた
一匹の蝶が雨季に死んだ
それはたいしたことではない
私は早朝あの水溜まりを通りかかった時
美しいかけらを見た
小さな死が突然私の心に命中した
私は思い出す 雷雨が暴行を加えた昨夜
ごろごろという巨大な響きの外に座り
一匹の蝶を悼んだことを
「それはたいしたことではない」。唐突にあらわれる1行が世界を攪拌する。「一匹の蝶が雨季に死んだ」そのことが「たいしたことではない」なのか。あるいは雷雨が蝶を泥水の中へ蹴りこんだことが「たいしたことではない」のか。蝶の死を木々が悼み、星がなげいたことが「たいしたことではない」のか。感傷と憂鬱が九月までつづいたことが「たいしたことではない」のか。
誰にとって「たいしたことではない」のか。
世界にとって、宇宙にとって、という意味だろうか。私は、作者にとって、たいしたことではない、という意味でこの詩を読んだ。
蝶が雷雨に打たれて雨季に死ぬ--それは詩人にとって「たいしたことではない」。「たいしたことではない」はずなのに、それが、ふいに「心」をとらえる。「心に命中する」。
そのとき「心」は「心」のままではない。一気に宇宙へと広がっていく。雷雨になって蝶を泥水の中へ蹴飛ばし、同時にそれを目撃する木になってしまう。木々の葉になって幹をしっかり抱き締める。まるで人間が何もすることができなくて、悲しみのなかで自分のからだを両手で抱き締めるように。また、遠い遠い星になって、蝶とともに泥水の中に身を投げる。--こうした動きの全てが「思い出す」ことの中にある。
「こころ」が私の肉体から離れ、宇宙の全体とすっぽり呑み込む。
「ごろごろという巨大な響きの外に座り」の「外」とは、「わたしという宇宙、心の把握する宇宙」が現実の宇宙より拾いからだ。こころは、そこまで拡大していくことができる。
*
「心」ということば。そこに于堅の「思想」がある。詩はこころの動きを書いている。わざわざ「心」ということばをつかわなくても、読者は「心」を補って読むものだ。先に引用した作品の
小さな死が突然私の心に命中した
その「心」は他の詩人なら書かないかもしれない。「心」と書かずに「肉体」(たとえば、「肉眼」あるいは「網膜」)と書くかもしれない。なかには「頭脳」とか「神経」とか書く詩人もいるかもしれない。
しかし、于堅はそういうことばではなく、「心」ということばをつかわずにはいられないのだと思う。「心」ということばをつかわずには「詩」が成立しないのだと思う。
「長い旅の途上」にも「心」ということばが出てくる。そしてその「心」も、私なら、たぶん書かない「心」、省略してしまうことばである。荒野を旅していて、遠くに灯火をみかける。そのときの様子。
それらの黄色い小さな星は
闇夜の大地を
暖かくて親しみのあるものに見せる
私は車を止めて
心からそれらを追いかけて行きたい
「心から」。普通に書けば「心底」ということだろうか、と一瞬思うが、どうも違う。「心底」それらを追いかけて行きたいのなら「車を止めて」が矛盾するとまでは言わないが、車を止めなくてもいけるはずである。なぜ、車を止めて、追いかけなければならないのか。。
于堅が追いかけて行きたいと思っているものは車では追いかけてゆけないものなのである。人一緒に車に乗ったままでは追いかけてゆけないものなのである。「車を止めて」は正確には、「車を降りて」であろう。車を降りて、ひとりで追いかけて行きたい。
「こころ」は于堅にあっては「ひとり」ということと同義のことばに思える。
「ひとりの人間」、無防備な、肩書も何もない裸の状態の人間、宇宙に投げ出されたままの、誕生したままの人間。それが「心」なのである。
「一匹の蝶が雨季に死んだ」の「小さな死が突然私の心に命中した」は「私」という「ひとりの人間」の「ひとり」という状態に命中したという意味であろう。
無防備な「ひとり」とは、何にでもなりうる「ひとり」でもある。「ひとり」であるということは、誰も于堅の行動を妨げない、自由という意味でもある。そういう状態で、たとえば于堅は稲妻になる、泥水になる、木々になる、星になる、そうして宇宙になる。宇宙になって、そのなかで一匹の死を体験し、またその死を悼むすべての存在の思いを追体験する。
心とは宇宙が生成する現場である--于堅の「心」ということばに触れ、そんなことを考えた。
目撃したもの、体験したことを書きながら、それが「過去」として目の前にあらわれてくるのではなく、今、ここで変化しながら動いているものとして立ち上がってくるのは、そこに「生成する心」があるからだと思う。