詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池田俊晴「いすいのことは」、白鳥信也「魚が飛んでいる」

2006-11-09 16:54:06 | 詩集
 池田俊晴「いすいのことは」(「フットスタンプ」第13号、2006年11月01日発行)。
 ことばを追いかけて詩人はどこまで行くことができるか。池田はそのことを試みている。「いすいのことは」の第1連。

ふいに
ことばが「来る」
消えようとする
一語一語区切られた音の
(いすいのことは)
なぜそのことばが「来る」のか
その音が来ようとするのか
ぼくにはわからない

 「いすい」は「遣水」「異水」「●水」(●はサンズイに胃)、「ことは」は「事は」「ことば」「古都は」なのかと池田は思いめぐらす。そういうときの状況を

運ばれてくる
音韻は脱落している
意味へと辿りつかない
発せられるまえに錯乱する
撓んだ音管を行き来する

 とても興味をそそられるけれど、のめりこむことができない。池田がのめりこんでいるようには私の意識は動いて行かない。
 たぶん「いすい」にしろ「ことは」にしろ、池田が簡単に「漢字」に置き換え、そうすることで「意味」に置き換えようとしているからだと思う。「音」と「漢字」の隔たりが簡単に結びつけられてしまっているからだと思う。「音」あるいは「ひらがな」には「意味」がない。「漢字」は「表意文字」であり、「意味」を含んでいる。そして、池田は「意味」に頼ることが性急すぎると思う。
 その性急さは「コード」「シグナル」「回路」などのことばを呼び込む。
 この性急さに、たぶん、私はどこかで拒絶反応のようなものを起こしてしまう。もちろんこれは池田のせいではなく、私の体質なのだが。
 そういうことばに頼るのではなく、たとえば、

乾いた
咽喉のずうっと奥の
吹き出してくる清音に絡まる
(ことは)という出来事の
音の
その内向する音の
背を丸めて辿ろうとする
夢のなかへ後退する

 というような、肉体の動きが描かれていれば印象は違っていたと思う。
 肉体は「意味」ではなく、「意味」に異議をとなえる存在であると私は感じている。「頭ではわかっているが、からだがついていかない」という表現があるが、からだがついていかないのは、からだのなにかが「頭」に対して「異議」をとなえているのだろうと私は感じている。そのとき、私は「頭」ではなく「からだ」の声の方が信じられると感じる人間である。
 「音」が「意味」を拒みながら、肉体のなかをどう動いていったかを読みたかったと思ってしまうのである。

乾いた
咽喉のずうっと奥の
吹き出してくる清音に絡まる

 というような行をもっともっと丁寧に描いてくれれば、この作品は、「意味」を拒絶した、あるいは超越した「意味」、つまり「詩」になったと思う。
 「詩」にならずに、では、この作品は何になったか。
 「●水」(●はサンズイに胃)が象徴しているように、今、こことは遠い、歴史の中の中国、つまり完全に「頭のなか」のできごと、空想、知的ゲームになってしまった。
 もちろん知的ゲームとしての詩もあると思う。思うけれど、もし狙いがそういうものであるなら、もっと知をばらまいて広大な歴史地図を描かないとおもしろくないだろうと思う。
 ことばを追いかけながら、結局、どこへも行ってしまわなかった池田が、その「頭」が取り残されている、という印象が残った。もっと過激に、もっと過剰に、もっと肉体的に、という思いが残った。おもしろくなりそうなのに、とても中途半端なものをみせられて、欲求不満だけが残った。



 白鳥信也「魚が飛んでいる」(「フットスタンプ」13)。
 魚といっても本物の魚ではない。ビニールでつくった魚が強風にあおられ、風船のようにふくらんで飛んでいる。

あんなふうに飛んでみよう
ビニールの魚になって
ビニールの魚になって
すうっと
すうっと
急に止まる
尾びれが痛い
風邪はビニールの魚になった俺を運ぼうとする
俺であるビニールの魚も風に乗りたいのに
ばたばたと風にあおられて俺がふるえている
ふりかえって見れば
細いチェーンで尾びれとコンクリート床がつながっている
机の上にいつも置かれているパソコンディスプレーと
キーボードのように
いつもこうなのだいつもこうなのだいつもこうなのだ

 「いつもこうなのだいつもこうなのだいつもこうなのだ」。この3回の繰り返しがいい。3回の繰り返しのなかに「詩」がある。「意味」だけ考えれば「いつもこうなのだ」は1回であろうが3回であろうが同じである。頭で考えればまったくかわらない。ところが「詩」を読むというのは「頭」だけで読むのではなく、肉体もつかって読んでしまうことなので、「いつもこうなのだ」が1回と3回ではからだのなかにたまってくる「こばにならないもの」の量が圧倒的に違う。
 白鳥のこの作品には、「いつもこうなのだ」のほかにも繰り返しがある。「ビニールの魚になって」「すうっと」は2回繰り返されている。「いつもこうなのだ」の繰り返しと違うのは繰り返しの回数だけではなく、その表記方法も違っている。「ビニールの魚になって」「すうっと」とそれぞれ行を改めて繰り返されている。「いつもこうなのだ」は1行のなかで繰り返されている。この違いにも私は「詩」を感じる。
 私は詩を朗読はしない。しかし、この詩を朗読したと仮定しよう。そして、それぞれの1行を同じ時間(たとえば1行3秒)で読んだと仮定しよう。(同じ時間で、と断るのは、詩が行わけの形で書かれているとき、その1行1行は長さに関係なく詩人のなかでは等価の重みをもっていると私は判断しているからだ。)
 「ビニールの魚になって」は普通に読めば2秒。「すうっと」は0・5秒。それを5秒かけて読むと、息の配分がゆったりするのがわかる。「すうっと」は「すうっと」であると同時にゆったりと、広々と、非常に開放された感じ、深呼吸でもしている感じがする。ビニールの魚を実ながら白鳥が感じているのはこのゆったり、ひろびろ、自由な感じなのだなあ、と実感できる。
 「いつもこうなのだ」は3秒で読むには、ちょっと「早口言葉」ふうにがんばらないといけない。「すうっと」とは対照的に、いらいらとした感じ、むかむかした感じを何かにぶつけるふうな怒りがないと3秒では読みきれない。声にならない。
 詩の1行1行を、詩人は(白鳥を含め、多くの詩人は)どれくらい気を配りながら「わけて」あるいは「わけずに」書いているのか知らないが、そこには無意識の「呼吸」、無意識の「肉体」というものが必然的にあらわれてくる。白鳥の「いつもこうなのだ」の3回繰り返しには、そうした肉体が明確に描き出されている。こうした肉体が感じられたとき、「詩」が身近になる。
 ああ、そうだよなあ、そうなんだよなあ、というのは感情や精神(頭)ではなく、肉体の反応のような気がする。


コメント (3)
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