詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

立木早『ウチニ、カエロウ』

2006-11-01 23:48:30 | 詩集
 立木早『ウチニ、カエロウ』(砂子屋書房)(2006年10月15日発行)。
 日々の暮らしのなかで、人はそれぞれ仕事を分け合って生きている。一日の最後、立木は風呂の掃除をする。

水を抜いたあとの掃除は
私の日課だが
いまどきの便利なつるりとした浴槽からは
魚の臭いがする
私らはやっぱり
湯舟に浸かりながら
どっかで
魚にもどるのではなかろうか
へばりついた湯垢を落としながら
一日
泳ぎ疲れて
たどり着いた一人分のお湯のふね
ふうう
釣り上げられた
魚の口だ

 「水を抜いたあと」「へばりついた湯垢を落としながら」、ふっとお湯に入っていた姿を思い出す。そのときの

たどり着いた一人分のお湯のふね

 の「一人分」が美しい。「一人分」と感じるときの満足感がとてもいい。「二人分」や「三人分」ではちょっともてあますだろう。「一人分」という広さ、自分の手足を実感する限定された広さ、それに対する安心感のようなものがある。
 これは、いわゆる「小市民」の満足感にすぎないだろうか。そうかもしれない。立木自身も、湯舟につかって息を吐いている姿をちょっと戯画化して

ふうう
釣り上げられた
魚の口だ

 と書いている。
 だれに釣り上げられたのか。それはわからなくていい。世の中にはわからなくていいことだってある。きょうも一日おわったな、という感じを、ただ自分の手足の大きさそのままに感じるだけでいい。
 誰かに釣り上げられた存在にすぎなくても、今、お湯につかって自分の肉体の存在を感じている。拡大も縮小もしない。あるがままの「一人分」を実感する。この幸福はたしかに美しい。

 今、私が書いた「美しい」ということばを、立木は二通りに使い分けている。「美しい」という書き方と「うつくしい」と書き方に。その使い分けに、たぶん、立木の「思想」、立木にしかわからない何かがある。「ガーデニング」の冒頭。

庭いじりを
そんなふうに呼ぶようになって
美しい花たちは
うつくしくならなければいけないので
毎朝まいあさ花がら摘みは日課だ
実をつけないように
害虫をよせつけないように
美しい花たちについての
うつくしい会話が
今日も通りのあちこちで聞かれる

 花--自分の外部に存在するものは「美しい」という表記で表現され、人間がそれにかかわるとき(人間のはたらきかけで存在が変化するとき)、「うつくしい」がつかわれているようだ。「うつくしくならなければいけない」は花そのものの義務(?)ではなく、花を育てる側(人間)の義務であり、ほんとうは「うつくしくなるように育てなければならないので」と書かなければならないところだろう。
 「うつくしい会話」も、それをうつくしくするかどうかは、人間の態度による。
 花は存在自体として「美しい」。そして、それを育てる人間は「うつくしい」。花についての会話が「うつくしい」かどうかは、人間がつかうことばによって決まるのだ。

 「一人分」のお湯、それを「一人分」と感じるこころが「美しい」と私は書いたが、ここは立木にならって「うつくしい」と書かなければいけないのだと、私は、今、反省している。
 「うつくしい」という表現方法、その「ひらがな」の表現のなかに、立木の「思想」がある。「漢字」になるまえの、肉体のなかでまだうごめいている感覚、意識、そのうごめきのようなもの、何かにかわろうとする思いのようなもの。立木は、そういうものをみつめている、それをことばとして定着させようとしているのだと思う。
 「うつくしい」をつかったもう一つの詩。「洗濯」。その末尾。

ところで教えてくれまいか
Yシャツをたたむにはどうするか
何時間も一人シャツと向き合い
店員もどきのたたみ方
知るは知ったで鼻持ちならん
うつくしく
生きるって
むずかしいわね
そばで女が
わらっている

 選択したシャツを「美しく」たたむ--それが「うつくしく」生きること。たたんだシャツが「美しい」とき、そんなふうに何かを美しくできる人間が「うつくしい」のである。「美しい」の背後には「うつくしい」人間の生き方がある。
 何かを「美しく」ととのえていく、やりとげる人間--そのなしとげたことは「美しい」が、同時に、それをしているときの人間の姿も「うつくしい」。こういうことは、多くの人が感じることだと思う。その感じを大切にしながら、「うつくしく」なろうとする生き方が、立木のことばを支えている。

 「風呂場」には「一人分」という表現があった。「洗濯」には「一人」という表現がある。ここにも、立木の「思想」がある。「うつくしく」生きることは、他人に頼らず「ひとり」でできることである。まず自分の生き方を「うつくしく」する。(その結果として「美しく」なる。)だれのためでもない、自分自身のための「うつくしさ」の実践がここにある。

そばで女が
わらっている

 この「わらい」は、肯定の「わらい」である。共感の「わらい」である。「うつくしくなってきたわね」という「ほめことば」のかわりの「わらい」である。「うつくしれ」を抱き締める、愛である。

コメント
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