詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高良留美子『崖下の道』(その3)

2006-11-15 21:35:56 | 詩集
 高良留美子崖下の道』(思潮社、2006年10月31日発行)。(その3)
 「間」について、高良はさまざまに書いている。そのひとつひとつが胸に迫る。いくつかは「時」が「間」そのものである、と指摘している。

滝の音が聞こえてくる
滝の音はむかしといまを切りはなす
むかしには むかしの記憶があり
いまには いまの忘却がある

滝の音が聞こえてくる
滝の音はむかしといまを結びつける
むかしには むかしの沈黙があり
いまには いまの放心がある   (「滝の音」)

 ここに書かれている滝の音はむかしといまを切り離し、またむかしといまを結びつける。ある存在は「間」をつくりもすれば、「間」を消しもする。それは結局、人間の想像力の問題である。「思想」の問題である。いまとむかしを切り離し「間」どころか、いっさいの関係をなくすために何かを想像することもできなれば、なんとしても結びつけよう想像することもできる。

雪は降りつづいていた
雪は降り積もって
小路をかくそうとしていた
時が 傷をかくそうとするように   (「森の小路 1」)

 「間」を結びつけることと、「間」を隠すことはまったく別のことである。「間」は結びつける必要があるが、隠してはならない。「間」を結びつけることは、実は「間」を明確に理解することである。忘れないことである。

小路の下で 傷は血を流していた
雪は降りつづいていた         (「森の小路 1」)

 「間」を隠すとき、その「間」のなかに潜む「魔」によって人間は血を流し続けることになる。それは人間にとって、とんでもない悲劇である。

 「間」をどうやって生きるか。「蔓(つる)」という作品には、高良の願いがこめられている。

小川には川霧が立ちこめていた
太い蔓は流れの上を横切って
むこう岸まで届いていた

岩に砕けた水しぶきが
絶えまなく蔓に降りかかり
厚い層となって凍りついていた

半透明の氷の奥に
つるのごつごつした膚(はだ)があった
水は間断なく降り注いでいた

蔓がそこにあること
そこでしか生きられないこと
わたしは運命ということを考えていたのだった

 高良は「蔓」になろうとしているのである。「小川」(それが小さいか、大きいか、またその川が浅いか深いかは人によって違っているだろう)がつくる「間」、こちらの岸と向こう岸。その「間」を結びつける「蔓」になろうとする。「蔓」によって、こちらの岸と向こう岸はつながり、同時にそれがなければ隔たっていることも人は意識しないのである。それは「間」を覚醒させる存在なのである。
 「間」があること、そしてその「間」は「魔」に変わりうることを、常に、高良は伝えたいと願っている。それを伝えることを「運命」と考えている。幣原にとって「戦争放棄」が「運命」であったように、「蔓」として生きることを高良は「運命」として引き受けようとしている。
 「蔓」はときには厳しい時間を生きなければならない。冷たい水がかかり、その水は氷にかわる。それでも、こちらの岸と向こう岸を結ばなければならないのだ。それが高良の「運命」なのだ。

 高良にとっての「間」は戦争が深くかかわっている。高良の過去と今との「間」には「戦争」がある。「戦争」は「魔」であるといってしまえば簡単だが、「魔」と呼んだ瞬間にあいまいになるものも含んでいる。ひとりひとりに「魔」がどんなふうにかかわったかということが、全体の悲劇のなかで見えにくくなる。
 そのことを高良は恐れていると思う。
 「戦争」全体を語るのではなく、高良自身に即して語る。常に一本の「蔓」として「間」と「魔」、それがまた「真」にかわる瞬間のことを語ろうとしている。「詩」を選んでいる理由はそこにあると思う。



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