詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清岡卓行論のためのメモ(2)

2006-11-26 13:42:47 | 詩集
 現代詩文庫「清岡卓行詩集」(思潮社、1986年02月01日発行)。
 『氷った焔』の「決闘」。

踝へはくるおしい歯車
膕へは ひからびた地球儀
そうして 水銀をぎこちなく
口にふくむくちづけは
いけないことのような そののちに
勝利の頂上のはげしい羞恥と
敗北の底にのたうつ うつろな笑いと
なぜ ふたつながら同時に
額縁でふちどられたベッドの上で
しだいに発熱する ガラスの皮膚の
奥深く閉じこめる予感であったか
戦いはどこから来たか たがいに
ありとあらゆる愛は 造花で飾られ
なぜ 偶然に選びあった
ただひとつの肉体への殺意となったか
それはむしろ あたえあう自殺
舌には舌の 燃えつきる星たち
項には指の 魘された鍵束
瀕死の瞳が刺しちがえる二重の宇宙に
かれらそれぞれの あえぐ魂は
どのような光を また闇を
捉えようもなくかいま見たか

 セックスを「決闘」というタイトルのもとに描いたここにも「宇宙」がでてくる。「二重の宇宙」とは愛し合うふたりの「宇宙」のことである。「ふたつ」ではなく「二重の」と形容されているのは、それがすでに合体・融合している部分を含むからである。
 この詩は、その「二重の宇宙」のことばに象徴されるように、「ふたつ」と「ひとつ」が交錯する。

勝利の頂上のはげしい羞恥と
敗北の底にのたうつ うつろな笑いと
なぜ ふたつながら同時に

 羞恥「と」笑い「と」。「と」によって別々の存在と認識されたものが「ふたつながら同時に」ということばと共にある。「同時に」とは「ひとつの時間に」と同じ意味である。清岡は常に「ふたつ」のものを「ひとつ」にすること、「宇宙」として融合する状態に「詩」を感じているのだと思う。

 「ふたつ」「ひとつ」に関連していえば(関連しなくてもいいかもしれないが)、この詩のなかで一番強烈なのは、次の行である。

ただひとつの肉体への殺意となったか

 セックスするとき、肉体は「ふたつ」である。しかし、この詩では「ひとつの肉体への殺意」と「ひとつ」としか書かれていない。これは二人がかりでどちらかひとりの肉体を殺すということだろうか。そうではない。「それはむしろ あたえあう自殺」の「あたえあう」という表現からわかるように、ほんとうは「ふたつ」だけれど「ひとつ」として感じ取られているということだ。
 そこでは清岡は清岡自身ではない。清岡を超越している。
 「刺しちがえる」とき、「ふたつ」は「ひとつ」になる。そして、そのときふたつの宇宙は重なり合い「二重の宇宙」になる。

 この詩には、清岡の描きたいものが端的に出ている。
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ケン・ローチ監督「麦の穂をゆらす風」(再び)

2006-11-26 12:34:39 | 映画
 映画は映像と音でできている。そして、映画を見ていてるとき、実際にはそこにない映像が見え、聞こえない音が聞こえるときがある。そういう映画が私は好きである。
 たとえば「風の丘を越えて」。この映画のクライマックスでは目の見えない姉が弟の太鼓にあわせてパンソリを歌う。そのとき姉の声は聞こえない。太鼓の音は聞こえない。聞こえるのはフルートの音である。しかし、そのフルートの音を越えて姉の声、弟の太鼓、その掛け合いの呼吸が聞こえる。フルートの音はふたりの「呼吸」を象徴している。
 逆の例もある。「父/パードレ・パドローネ」。主人公が山で羊の世話をしていると遠くから音楽が聞こえてくる。交響曲である。だが、実際にその音楽を奏でているのはアコーディオンだけである。アコーディオンが交響曲に聞こえる--その主人公の、音楽に触れた感動がそこから伝わってくる。こういう表現も私は大好きである。
 「麦の穂をゆらす風」でも存在しないはずの音楽が聞こえてくる。
 ラストシーン。弟が兄の銃によって処刑される。
 そのとき、弟の友達の葬儀で流れた歌「麦の穂をゆらす風」が聞こえてくる。老女の歌った歌が聞こえてくる。スクリーンからではない。私の体のなかで、その歌が、音楽が静かに静かにあふれてくる。そしてその音楽は、弟だけの音楽ではなく、弟を処刑してしまった兄の悲しみをつつんでゆく。
 そして、そのとき私はまた、そこに存在しない映像を見る。弟の葬儀。親しい仲間があつまり、だれかが「麦の穂をゆらす風」を歌っている。仲間たちは、その歌をかみしめて祈っている。
 また同時に、私は、そこには存在しない別の映像も見ている。弟を処刑してしまったあと兄は涙を流すが、同じように死んでしまった弟も涙を流している映像が。弟が兄を許すわけではない。ただどうしようもない悲しみが、弟と兄をひとつにする。アイルランドをひとつにする。そういう涙が、スクリーンではなく、私のなかあふれる。

 この映画は、怒りも悲しみも祈りも観客に押しつけない。そういう映像と音を押しつけない。押しつけないけれど、そういう映像と音が、見終わったあと、こころのなかで生まれてくる。そのとき、たしかに私はいま映画と一体だったという思いを抱く。ああ、いい映画だったと思う。

 この映画には押しつけがましさがない。映像はあくまでアイルランドの湿った空気をただよわせ、そこにあるがままだ。「麦の穂をゆらす風」、そして兄が拷問を受けいるとき仲間が兄を励ますように歌う歌に伴奏はない。彼らが行進しながら歌う歌にも伴奏はない。ただむき出しの肉声が歌になる。体のなかからでてくるものだけが音楽をつくっている。そういうむき出しのものが、直接、私の肉体をつかまえてゆく。そして、私の肉体のなかに映像と音楽を残していく。
 これはほんとうにいい映画だ。2006年の映画の中では必見の1本である。

コメント (8)
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