現代詩文庫「清岡卓行
詩集」(思潮社、1986年02月01日発行)。
『氷った焔』の「決闘」。
セックスを「決闘」というタイトルのもとに描いたここにも「宇宙」がでてくる。「二重の宇宙」とは愛し合うふたりの「宇宙」のことである。「ふたつ」ではなく「二重の」と形容されているのは、それがすでに合体・融合している部分を含むからである。
この詩は、その「二重の宇宙」のことばに象徴されるように、「ふたつ」と「ひとつ」が交錯する。
羞恥「と」笑い「と」。「と」によって別々の存在と認識されたものが「ふたつながら同時に」ということばと共にある。「同時に」とは「ひとつの時間に」と同じ意味である。清岡は常に「ふたつ」のものを「ひとつ」にすること、「宇宙」として融合する状態に「詩」を感じているのだと思う。
「ふたつ」「ひとつ」に関連していえば(関連しなくてもいいかもしれないが)、この詩のなかで一番強烈なのは、次の行である。
セックスするとき、肉体は「ふたつ」である。しかし、この詩では「ひとつの肉体への殺意」と「ひとつ」としか書かれていない。これは二人がかりでどちらかひとりの肉体を殺すということだろうか。そうではない。「それはむしろ あたえあう自殺」の「あたえあう」という表現からわかるように、ほんとうは「ふたつ」だけれど「ひとつ」として感じ取られているということだ。
そこでは清岡は清岡自身ではない。清岡を超越している。
「刺しちがえる」とき、「ふたつ」は「ひとつ」になる。そして、そのときふたつの宇宙は重なり合い「二重の宇宙」になる。
この詩には、清岡の描きたいものが端的に出ている。
『氷った焔』の「決闘」。
踝へはくるおしい歯車
膕へは ひからびた地球儀
そうして 水銀をぎこちなく
口にふくむくちづけは
いけないことのような そののちに
勝利の頂上のはげしい羞恥と
敗北の底にのたうつ うつろな笑いと
なぜ ふたつながら同時に
額縁でふちどられたベッドの上で
しだいに発熱する ガラスの皮膚の
奥深く閉じこめる予感であったか
戦いはどこから来たか たがいに
ありとあらゆる愛は 造花で飾られ
なぜ 偶然に選びあった
ただひとつの肉体への殺意となったか
それはむしろ あたえあう自殺
舌には舌の 燃えつきる星たち
項には指の 魘された鍵束
瀕死の瞳が刺しちがえる二重の宇宙に
かれらそれぞれの あえぐ魂は
どのような光を また闇を
捉えようもなくかいま見たか
セックスを「決闘」というタイトルのもとに描いたここにも「宇宙」がでてくる。「二重の宇宙」とは愛し合うふたりの「宇宙」のことである。「ふたつ」ではなく「二重の」と形容されているのは、それがすでに合体・融合している部分を含むからである。
この詩は、その「二重の宇宙」のことばに象徴されるように、「ふたつ」と「ひとつ」が交錯する。
勝利の頂上のはげしい羞恥と
敗北の底にのたうつ うつろな笑いと
なぜ ふたつながら同時に
羞恥「と」笑い「と」。「と」によって別々の存在と認識されたものが「ふたつながら同時に」ということばと共にある。「同時に」とは「ひとつの時間に」と同じ意味である。清岡は常に「ふたつ」のものを「ひとつ」にすること、「宇宙」として融合する状態に「詩」を感じているのだと思う。
「ふたつ」「ひとつ」に関連していえば(関連しなくてもいいかもしれないが)、この詩のなかで一番強烈なのは、次の行である。
ただひとつの肉体への殺意となったか
セックスするとき、肉体は「ふたつ」である。しかし、この詩では「ひとつの肉体への殺意」と「ひとつ」としか書かれていない。これは二人がかりでどちらかひとりの肉体を殺すということだろうか。そうではない。「それはむしろ あたえあう自殺」の「あたえあう」という表現からわかるように、ほんとうは「ふたつ」だけれど「ひとつ」として感じ取られているということだ。
そこでは清岡は清岡自身ではない。清岡を超越している。
「刺しちがえる」とき、「ふたつ」は「ひとつ」になる。そして、そのときふたつの宇宙は重なり合い「二重の宇宙」になる。
この詩には、清岡の描きたいものが端的に出ている。