詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小林茂『幽界より』

2006-11-12 23:02:01 | 詩集
 小林茂『幽界より』(書肆山田、2006年11月10日発行)。
 表題作「幽界より」におもしろい繰り返しがある。

その夢とは
さりげない合図のような
すごく儚い思いやりのような
言の葉にのこる葉末の雫のような
何気なく交わした指切りのような
心の裏に秘め隠した けもののようなもので

 「ような」が繰り返される。
 詩において「ような(ようだ)」は一般に直喩と呼ばれる技法である。ある存在を別の存在の「ようだ」と書くことで、先行する存在に何らかのイメージを与える。それによって存在がよりくっきりと伝わる。
 ところがこの作品では「ような」が繰り返されることで、イメージがひとつに収斂されるのではなく、逆に何がなんだかわからないものになる。「合図」「思いやり」「雫」「指切り」「けもの」。さらにそれぞれに修飾語がついている。そんなものが統一されたイメージなどあるだろうか。私には見当がつかない。私にわかるのは、それら「合図」「思いやり」「雫」「指切り」「けもの」がけっして重ならないということだけである。重なり合わないものを含んでいる。それらは繰り返されることで、それらのあいだに重なり合わないもの、「ずれ」を抱え込んでいるということだけである。
 そして、これは小林においても同じなのである。
 「ような」の繰り返しは、イメージを収斂するためにあるのではなく、「ずれ」を浮かび上がらせるためにある。何かを明確に伝えるためにあるのではなく、何かを「ずれ」を含んだとらえがたいものにするためにつかわれている。直喩とは逆のことが、この詩では「ような」をつかっておこなわれているのである。

あなたがいて ぼくがいて
あなたの夢があって ぼくの夢があって
その夢が なんとも不都合に ずれてしまうのだ
おまけに 時間までもが 具合悪く
ずれてしまうとは

 「ずれ」が存在することを浮かび上がらせるために、「ような」を繰り返す。「ような」を繰り返した分だけ「ずれ」が増えていく。

あなたがいて ぼくがいて
あなたの夢があって ぼくの夢があって
その夢が なんとも不都合に ずれてしまうのだ
おまけに 時間までもが 具合悪く
ずれてしまうとは
ぼくはそれを
一つに重ね合わせなくてはならない
もしかすると
それがぼくの使命なのかもしれない

でも
努力すれば するほど
夢がずれ 時間がずれ 空間がずれ

 ここに書いてあることは一種の「矛盾」である。「ような」を繰り返せば繰り返すほど(つまり「努力すれば するほど」)、「ずれ」は増えるのはあたりまえである。一つに重なることなどない。「ずれ」を減らし、一つに重なるためには、努力は「ような」を繰り返すのではなく、一回限りにすることが必要なのだ。だが、小林は、それを繰り返す。繰り返すことで、一つに重ね合わせようとする。徒労である。(引用した行のすぐあとに、「徒労」ということばが出てくる)。--そして、それが「矛盾」であるからこそ、ここに小林の「思想」がある。こどはになろうとしてもがいているもの、ことばになりきれない生々しい「思想」がある。

 「夢」の「ずれ」につづけて、小林は「時間」「空間」の「ずれ」に言及している。「時間」を含めた世界を4次元、空間を3次元と呼んだりする。「ずれ」を、小林は「次元」ということばでとらえ直してもいる。同じ作品の「Ⅲ」の部分。

玄のそのまた玄の
更に奥深いところでは
どうやら
次元が二つか三つ余計にあるらしい
幽玄とはよくいったもので
じつに微妙なところだが
ぼくはその朧でかすかに見える
深いところで
次元に迷ってしまった
うっかり 一つふみはずすと
まったく異なる次元に入ってしまうのだ

 「まったく異なる次元」とは「まったくずれた世界」のことである。
 「あなた」と「ぼく」のあいだには、複数の「ずれ」がある。それは複数の「次元」があるということだ。何かを明確にしようとして、たとえば「ような」をつかって説明する。声明すればするほど、複数の「次元」(ずれ)が存在することが浮かび上がり、ひとは迷うしかない。「Ⅲ」の最終連。

次元から次元へ
際限もなく続く迷い道に
ぼくは くたくたに疲れ果て
もはや
人界も遠く
仙界も遠く
まなこ 縹渺として
ただよい ながれ
ゆきつくはてもない

 そうしたものを世界、現実ととらえる。そうしたとらえかたが小林の「思想」である。「詩」である。
 「徒労」と小林は書いていたが、その「徒労」を生きることが、「幽界」につながる。単純な「次元」ではなく、複数の「次元」を自在にわたりあること、固定された「次元」を揺さぶり続けるものとして「幽界」があるということだろう。
 世界をゆさぶるものとして、たとえば「桃源郷」というものがある。「幽界」のひとつといえるかもしれない。その「桃源郷」を描写した部分に、ただ、「ずれ」だけが増幅する描写がでてくる。

その周り一面見えるものといったらそれこそ桃の木ばかり、そここそにごく微妙なずれを伴った時間・空間のなかで、見渡す限り白に紅に色とりどりの桃の花がこぼれるように咲き乱れ、遠い彼方は霧のように仄かに霞み、そこにただよう桃の魂の結晶体とでもいったものが、再編成されながら宇宙に向かってきらめくように翳り、就中あの大きな桃の樹ときたらあたかも天女の舞い昇るような姿でそそり立ち、そのあでやかな美しさは、それこそ神の業とでも称してしかるべく、……

 「ずれ」の増幅が、小林の「思想」である。「世界」をとらえる方法である。

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ジャレッド・ヘス監督「ナチョ・リブレ」

2006-11-12 21:43:37 | 映画
監督 ジャレッド・ヘス 出演 ジャック・ブラック

 「スクール・オブ・ロック」で主演だったジャック・ブラックが活躍する。この役者は目が真剣である。そこがいい。そして、見苦しい肉体が、また、実にいい。
 ずんぐりした身長、でっ腹に短足をさらけだして、主役が動き回る。映画は実話だというが、そういうことを吹っ飛ばしてしまう。つまり、実話という感じがしなくなる。「マンガ」になってしまう。ばかな男の、滑稽な夢という、この感じがとてもいい。実話だと感動しなくてはいけないというような、変な義務感(?)のようなものが生まれる。主役が美形で、肉体も理想的ならなおさらそう思うかもしれない。たとえば「シンデレラマン」--感動しなければいけない、という気持ちにだんだんなってきませんか? ところが、主役の男がどう見ても「マンガ」なので、感情移入しなくていい。突き放して見ることができる。実話なのに解放感がある。
 あらゆるシーンが、現実だと思って見るな。「マンガ」だ。「マンガ」なんだぞ、と突き放している。役者の演技も同じである。主役も脇役も、みんな戯画化されている。オーバーアクションの連続である。
 そのなかで、唯一、主役のジャック・ブラックの目だけが真剣である。目だけが「現実」を演じている。その真剣さが、あらゆる「マンガ」を統一して、時間を動かしていく。全体としては「マンガ」なのに、この男にとっては「マンガ」ではないのだ、切実な現実であり、必死の夢なのだという雰囲気をつくっていく。
 そしてクライマックス。
 最後のプロレスのシーンだけが「マンガ」ではなく、「現実」になる。肉体が真剣に動く。目と肉体が一致する。彼が生きているのは「夢」ではなく、「現実」である。「現実」は常に「夢」に勝つものである。「現実」だからこそ、そのなかで実現しなければならないことがある。--そのリアルな気持ちが肉体を支配する。
 特に、最後の最後、ジャック・ブラックが場外のレスラーに飛び掛かっていくときの顔のアップ。スポーツをしている、肉体をつかって闘っているという顔そのものになる。
 映画にとって「現実」は一瞬だけ再現されればそれで充分なのである。あとは「マンガ」であっても「嘘」であってもいい。役者が役者を超越して、リアルな肉体になる。その一瞬が映像として定着されていれば、それはいい映画だ。
 最後の最後のフライングで、私は「ナチョ」という役を見ているのか、ジャック・ブラックを見ているのかわからなくなったが、こういう一瞬、役にすぎないのに、役者の肉体そのものが、役を突き破ってスクリーンに定着する一瞬が大好きだ。

 この映画を作り上げているのは、ストーリーでも映像技術でもない。これはジャック・ブラックの演技、それも見苦しい肉体が最後の一瞬、醜さを超越する肉体に変わる演技が、この作品を映画にしている。

コメント (1)
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