アンドリュー・モーション「狐は自らのために」(熊谷ユリヤ
訳、「現代詩手帖
」11月号)。
庭に迷い込んだ狐がひとときボールで遊んで去っていく。それを眺める詩人と連れ合い。その詩のなかに出てくる「手」がおもしろい。
この「手」は二人を二人だけにする。他人から分離する。そうやって世界をつくる。「手」は最初の世界を作り上げ、確認する肉体である。「ふたりだけの時間」は手によって作り上げられ、確認される。
その二人だけの世界へ狐が飛び込む。狐の描写はたいへん美しいのだが、ここでは引用しない。「手」が登場する部分だけ引用する。
「手」の記憶。実際に狐に触ったことがある「手」の記憶。手は、自分以外の存在に触れて、その「温かさ」を知る。そのとき「手」に何かが「移る」。狐の場合、狐の匂い。毛皮の匂い。そしてそれは直接毛皮の匂いとして確認されるのではなく、ここでは「ニンニク臭」と書かれているが、実際に狐に触れる以前に知っていた何かと比較されて肉体のなかに入り、記憶になる。「手」で狐に触れたことがなければ、こういう具体的な記憶の形は生まれない。肉体、五感が世界を拡大しながら忘れることのできない具体性を獲得することはできない。
なんでもないような印象、記憶の描写、意識の描写のように見えるが、ここに「手」が登場しなければ、この詩は「抒情詩」に終わってしまっただろうと思う。
アンドリュー・モーションにとって「手」は特別な存在、自分と世界をつなぎ、存在を自分の肉体に取り込むための出発点となるようなものなのだ。
「手を取り合って」というのは、連れ合いの肉体・精神・感情を「手」をつなぐことで、詩人の肉体のなかで融合させることなのである。ふたりはそうやって「同じ時間」を共有する。
作品の最後の3行。
微風が今一度、狐の毛をかき分け、すでに狐ではなく、
赤錆の滴りになった何かが落ちるのを見送りながら、
しばらくの間あなたの手を握り、やがて、離した。
「手を握り」は「手を取り合って」とはかなり違う。「手を取り合って」は軽い接触である。二人の信頼関係のようなものがおのずと呼び合って、触れ合っているのである。実際に手と手を重ね合わせなくても「手を取り合って」という「比喩」は成り立つのはそのためだ。「手を握り」は実際に握っている。離したくない。そして、そのとき「手」は何かを伝えあっている。この詩では狐を見たときの興奮、緊張である。そして、その興奮、緊張のなかには、狐の毛に触れた記憶も混じっている。融合している。もちろん、その手の記憶は手を握りあっているだけでは伝わらない何かである。(だからこそ、「詩」としてこの作品のなかに書かれなければならなかった。)
この作品を「詩」として存在させているのは、その「手」を「握り、やがて、離した」まで正確に書いている部分である。
「手を」「離し」、どうするのか。それぞれが自分のなかで、手を握りあうことで伝えあったものを反芻するのである。自分自身の肉体の孤独のなかで、相手の肉体が持っていたものを反芻する。自分の肉体が持っていたものとどう融合するかを確かめる。
手を握りあったままでは、それは、できないのだ。肉体には「孤独」が必要なのである。
そして、ここで浮かび上がる「孤独」--だれかと一緒に、そしてそのだれかがすぐそばにいるにもかかわらず「孤独」であるということ、それがそのまま、この作品のなかで書かれた狐の「孤独」にもつながる。
「手」を「離した」瞬間、詩人は、一気に「狐」の「孤独」と一体になる。「狐」を見続けたときも「狐」と一体ではあったけれど、連れ合いと握りあっていた「手を」「離した」そのときに、詩人は「狐」になって、その結果、この作品が生まれたのである。
もし「手」が描かれていなかったら、「手」を取り合って存在する「あなた」も存在せず、また「手」に残る「狐」の温かさ、そこから思い出される「ニンニク臭」もなく、この作品は単なる夕暮れの一風景になっただろうと思う。「狐」はこんなに生き生きと、タイトルにあるように「自らのために」存在することはなかっただろうと思う。
庭に迷い込んだ狐がひとときボールで遊んで去っていく。それを眺める詩人と連れ合い。その詩のなかに出てくる「手」がおもしろい。
人生最後のごごになっても悔いがない程のひととき。
子供たちがいなくなった家には静寂。ふたりだけの時間。
ぼくたちは言葉も交わさず窓辺に佇み、外を見下ろした。
弱々しい冬の光が、隣家のブナの木に差し
境界の塀の上をかすめ、待宵草色の染みを零しながら
我が家の庭の奥深く広がっていった。
その年のはじめ、ぼくたちは庭に新たな芝を横たえた。
並べられた四角い芝の隙間の土は、まるで、廃墟の街の
人影の絶えた道路のよう。草は青々としているのに、
この角度から見ると、微風がなでてゆくたび、
芝生は真っ白に見える。ぼくたちは立ち尽くし、
手を取り合って、ロンドンの遠いざわめきを溺れさせ、
だれも知らない場所へと浮遊しようとしていた。
この「手」は二人を二人だけにする。他人から分離する。そうやって世界をつくる。「手」は最初の世界を作り上げ、確認する肉体である。「ふたりだけの時間」は手によって作り上げられ、確認される。
その二人だけの世界へ狐が飛び込む。狐の描写はたいへん美しいのだが、ここでは引用しない。「手」が登場する部分だけ引用する。
光を求めるかのように見えた。けれど、もちろん、
毛皮は柔らかく、そこに触れれば、ぼくの手は
温かくなり、ニンニク臭が移ることは知っていた。
「手」の記憶。実際に狐に触ったことがある「手」の記憶。手は、自分以外の存在に触れて、その「温かさ」を知る。そのとき「手」に何かが「移る」。狐の場合、狐の匂い。毛皮の匂い。そしてそれは直接毛皮の匂いとして確認されるのではなく、ここでは「ニンニク臭」と書かれているが、実際に狐に触れる以前に知っていた何かと比較されて肉体のなかに入り、記憶になる。「手」で狐に触れたことがなければ、こういう具体的な記憶の形は生まれない。肉体、五感が世界を拡大しながら忘れることのできない具体性を獲得することはできない。
なんでもないような印象、記憶の描写、意識の描写のように見えるが、ここに「手」が登場しなければ、この詩は「抒情詩」に終わってしまっただろうと思う。
アンドリュー・モーションにとって「手」は特別な存在、自分と世界をつなぎ、存在を自分の肉体に取り込むための出発点となるようなものなのだ。
「手を取り合って」というのは、連れ合いの肉体・精神・感情を「手」をつなぐことで、詩人の肉体のなかで融合させることなのである。ふたりはそうやって「同じ時間」を共有する。
作品の最後の3行。
微風が今一度、狐の毛をかき分け、すでに狐ではなく、
赤錆の滴りになった何かが落ちるのを見送りながら、
しばらくの間あなたの手を握り、やがて、離した。
「手を握り」は「手を取り合って」とはかなり違う。「手を取り合って」は軽い接触である。二人の信頼関係のようなものがおのずと呼び合って、触れ合っているのである。実際に手と手を重ね合わせなくても「手を取り合って」という「比喩」は成り立つのはそのためだ。「手を握り」は実際に握っている。離したくない。そして、そのとき「手」は何かを伝えあっている。この詩では狐を見たときの興奮、緊張である。そして、その興奮、緊張のなかには、狐の毛に触れた記憶も混じっている。融合している。もちろん、その手の記憶は手を握りあっているだけでは伝わらない何かである。(だからこそ、「詩」としてこの作品のなかに書かれなければならなかった。)
この作品を「詩」として存在させているのは、その「手」を「握り、やがて、離した」まで正確に書いている部分である。
「手を」「離し」、どうするのか。それぞれが自分のなかで、手を握りあうことで伝えあったものを反芻するのである。自分自身の肉体の孤独のなかで、相手の肉体が持っていたものを反芻する。自分の肉体が持っていたものとどう融合するかを確かめる。
手を握りあったままでは、それは、できないのだ。肉体には「孤独」が必要なのである。
そして、ここで浮かび上がる「孤独」--だれかと一緒に、そしてそのだれかがすぐそばにいるにもかかわらず「孤独」であるということ、それがそのまま、この作品のなかで書かれた狐の「孤独」にもつながる。
「手」を「離した」瞬間、詩人は、一気に「狐」の「孤独」と一体になる。「狐」を見続けたときも「狐」と一体ではあったけれど、連れ合いと握りあっていた「手を」「離した」そのときに、詩人は「狐」になって、その結果、この作品が生まれたのである。
もし「手」が描かれていなかったら、「手」を取り合って存在する「あなた」も存在せず、また「手」に残る「狐」の温かさ、そこから思い出される「ニンニク臭」もなく、この作品は単なる夕暮れの一風景になっただろうと思う。「狐」はこんなに生き生きと、タイトルにあるように「自らのために」存在することはなかっただろうと思う。