詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透「コレッ、スッポン、ダンス」

2006-11-04 13:52:28 | 詩集
 北川透「コレッ、スッポン、ダンス」(「詩歌句」14)。
 「correspondence」と読むのではなく、「これ、スッポン、(の)、ダンス」と読みたい欲望のようなものが1行目から沸き上がってくる。

尼になりたい。尼になって、鰐に犯されたい。
鰐になりたい。鰐になって、鋏に犯されたい。
鋏になりたい。鋏になって、棺に犯されたい。
棺になりたい。棺になって、三色菫に犯されたい。

 ここに登場する「名詞」(存在)、「なる」という動詞、「犯される」という動詞をつらぬく一致したものがあると考えるのは楽しいかもしれない。尼、鰐、鋏、棺、三色菫が「なる」「犯される」という動きのなかで何らかの肉体的なもの(?)をやりとりし、その結果として(?)、精神的なもの(?)をやりとりすると想像するのは楽しいかもしれない。
 しかし、そういうことは、ちょっと(あるいはかなり)面倒くさい。詩を読むことは面倒くさいことではなるけれど、そうは思ってみても、やはり面倒くさいことは私は嫌いなので、安直に「これはスッポンのダンス」のように、「おいおい、そんなものがあるのかよ」と好奇心丸出しで、そのナンセンスを楽しみたい気持ちになる。
 こんなことをわざわざ書いたのは、先の4行につづいて「詩」につていのことばが括弧の中に閉じ込められて(まるで、肉体の中に精神があるという考えを笑うように)挿入されているからである。詩についてのことばを挟んで、先の4行のスタイルのことばは、形を変えながらつづいていく。

(人々は詩についての強固な観念を持っています。たとえば、それ
は古い大きな建物。わたしはそのなかに潜んでいる生物の正体をよ
く知りませんが……。)
三色菫になりたい。三色菫になって、靴底のウラにねちゃつくガム
に犯されたい。ねちゃつくガムになりたい。ねちゃつくガムになっ
て、制服のカタログに犯されたい。

 「意味」が生まれてきそうになると、それを拒絶するようにして、またナンセンスなことばが繰り広げられる。「詩」という建物のなかに潜んでいる「生物」とは「意味」であるかもしれない。--という考えそのものの方が「これはスッポンのダンス」というよりナンセンスなものであるかもしれない。--というような考えさえも拒絶して、北川は、ことばの自律(自由)を引き出したいと欲望しているように見える。
 その欲望に染まってしまいたい。スッポンのダンスっていったい何? あるいはスッポンのダンスのように肉体もことばも踊らせてみたい、という欲望に染まってしまいたい。そのダンスのなかに「コレスポンダンス」があるならあったでいいし、なければなくたっていい。たぶん、ことばということばがどれだけ無軌道に書かれたとしても、読者はそこから「意味」を誤読し、捏造してしまう。
 「詩」という建物のなかに潜む「生物」について、北川は、次のように補足する。

       それはどんなに比喩をかさねても語りがたい、時間
を喰い尽くす不可解な生きものです。人々は古い建物の外見だけ見
て、そこを自由に出入りする生きものの恐ろしさに気づかないので
は……。)

 「意味」とごこでも自由に出入りする。どこでもナンセンスを否定しようと待ち構えている。ナンセンスそのものに「意味」を与えようとする。--という私のことばも、また「意味」にすぎないかもしれないが。
 そういう「意味」と北川は闘っている。
 たとえば、私のように、「詩」に「意味」を付け加え、感想を各人間と闘っている。そういうことを承知で、私は、さらに今書いたようなことを書く。
 これは、北川がこの作品で書いた「詩」についての「挿入」と、それ以外の部分の関係と、それこそ「コレスポンダンス」してしまうことかもしれないが……。

 「これ、スッポンのダンス」にもどっていえば、「犯されたい」がいつのまにか「蛙」の俳句(?)の連作に変化して、この作品はおわるのだが、その俳句のなかにとても美しい句がある。

かえるなくコンキラポッキンさんらんき

 「さんらんき」がきらきら輝いている。オタマジャクシを透明な卵のなかに抱いて、水のなかで光っている。
コメント
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