詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ケヴィン・レイノルズ監督「トリスタンとイゾルデ」

2006-11-20 13:19:34 | 映画
監督 ケヴィン・レイノルズ 出演 ジェームズ・フランコ、ソフィア・マイルズ

 肉体と衣装のアンバランスがおもしろい。 
 ジェームズ・フランコもソフィア・マイルズも中世の悲劇を演じようとはしていない。監督もそういうものを撮ろうとしていない。(途中までは。)
 恋愛は時代を超えるということを、感情ではなく、みずみずしい肉体で表現している。古くさい衣装も、古くさい忠誠心(王に対する忠誠心)も、肉体を生き生きと見せるための道具である。
 ソフィア・マイルズは美人とは思わないが、目が生き生きしている。目の表情で時代を超える。物語の制約を超える。ただただ恋愛感情を表面に出すことだけをこころがける。それはほんとうに相手を愛しているというよりも、まるで純粋な感情を生きてみたいという欲望そのものの発露のようでもある。その生々しさで、彼女は古くさい衣装を脱いでしまっている。古くさい衣装を身につけるほど、衣装はスクリーンから消えてしまい、ただその目の輝きと豊かな肉体がむき出しになる。
 こういう輝きに対抗する男優はなかなか大変である。この映画は、むき出しの感情ではソフィア・マイルズにジェームズ・フランコがとうていおよばないと最初からあきらめたのか、男優の活躍の場として戦場と、戦いによってできた傷を用意している。そして戦闘シーンを丁寧に描いている。これがなんだか映画を中途半端なものにしている。
 恋愛映画は女優と男優を平等(?)に描いてはだめである。女優がひたすら輝き、女優が男優を圧倒していくのが恋愛映画である。恋愛とは自分が自分でなくなってもかまわないと覚悟して相手と向き合うことだが、そうとはいうものの、自分をも他者をも破壊しながら、その一歩先を進み、世界を動かしていくのが女性であるとき、つまり男性がひきずりまわされるときのみ、本当のこころが動く。
 この映画のいちばんのクライマックス--王が用意してくれた舟に乗って逃げることを拒んで、トリスタンがいう。「愛が国を滅ぼしたと言われたくない」。そしてひとり戦いの場へ戻っていく。このときから観客は、ただただトリスタンが血を流し、死んでゆく瞬間を待っている。途中でどんなに手柄を立てようと、それは流れる血を飾るためのものにすぎないと知っている。そして、その血を見つめてヒロインが涙することを知ってしまっている。ここから、この映画は突然つまらなくなる。
 せっかくイゾルデが古めかしい衣装を脱いで豊かな裸体を輝かせ、目を感情そのものにかえたのに、ここから衣装に従属してしまう。それまでのソフィア・マイルズの演技はすべてむだになってしまった。

 これは結局、「物語」に負けてしまった映画である。映画は「物語」ではない、ということを忘れてしまった駄作である。「トリスタンとイゾルデ」ではなくなってしまうだろうが、もし、恋愛と戦場を融合させてそこにあたらしい映画を出現させるとしたら、戦場の戦いがヒロインの激情によって収拾がつかなくなるというような映画にでもしないと、新しい映像は何も生まれないだろう。
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由良佐知子「吾亦紅」、豊原清明「夏休みのない井戸」

2006-11-20 12:46:25 | 詩(雑誌・同人誌)
 由良佐知子「吾亦紅(われもこう)」、豊原清明「夏休みのない井戸」(「火曜日」88号、2006年10月31日発行)。
 由良の作品は、とても正直な作品である。
 現実に目の前にあるものを見つめながら、なおかつ、それ以外のものが見えるときがある。そういうとき、こころは動く。それがそのまま「詩」になる。
 目の前にあるものだけではなく、なにか別のものを見てしまう力のなかに「詩」はあるのだと思う。

野の晩夏に
伸びる枝先のひとつひとつ
紅い花穂(かすい)を立てている

いつか見た映画
「ブラックボード--背負う人」
イランのこどもらの大きな瞳
戦禍に負われ
黒板を背に岩山を登る髭面の先生に
続く群のこども

空は青い
聞こえてくる
野の真ん中で
「ハイ」「ハイ」と手を挙げる
吾亦紅の花

 最終連が非常に美しい。空中に揺れる吾亦紅がイランのこどもの手に見えてくる。他者への共感はこんな形で具体的になる。



 豊原清明の「夏休みのない井戸端」は「共感」をうしなって、夏に閉じ込められた自画像を描いている。その1連目。

悲しいと言われても
僕はちっとも悲しくならない。
「電気くらげ」という季語を
指で辿りながら生活という
厳しい張り手に困惑して、
世界地図を拡げ逃亡を試みる。
しかし包囲網に囲まれて
火噴き男にはならずには
逃げられなくなった。
女性のフリルを眺めたいとも思ったが
部屋から一歩も外を出ず、汗もかかず、
のうのうとした男として、
夏バテを理由にリタイア。

 「『電気くらげ』という季語を/指で辿りながら」の「指で辿りながら」に私は驚く。ことばと肉体の関係に驚く。「指」という肉体を具体的にかかわらせることで、豊原は「電気くらげ」から出発し、「電気くらげ」以外のものに行き着こうとしている。
 由良が吾亦紅の向こうにイランのこどもの手を見たように、豊原は「電気くらげ」の向こうに「電気くらげ」以外のものを見ようとしている。
 普通は(普通なら)、「詩」は見ようとして見えるものではなく、向こうから現れてきて、それに驚きながら、ことばが自然に動くのだろうけれど、そういう時ばかりではない。「詩」はどこからもやってこなくて、自分からつくりださなければ存在しないときもある。「詩」を現実に呼び込まない限りは、どうにも苦しいからである。現実の「包囲網」のなかに閉じ込められている感じがするからである。その「包囲網」を突き破るのが豊原にとって「詩」なのである。
 この詩のなかの豊原がそうした状態である。現実に「包囲」されて、どこへもゆくことができない。そうして、そんな状態から逃れるために「指」を動かしている。「指」に頼っている。
 この頼り方が悲しい。せつない。
 豊原のことばの美しいところは、そういう悲しさ、せつなさに触れながら、それに酔ってしまわないところだ。酔って、その世界へ逃げていかないところだ。つまり自分自身に「共感」などしないところにある。自分のセンチメンタルに共感するのではなく、肉体の外にあるものに共感しようとして、今、指を動かしているのだ。それだけだ。「それだけ」をきちんとことばにできるところに豊原の美しさがある。

 他者から見れば、現実に豊原のそばにいる人から見れば、もちろんそんなふうには見えないかもしれない。

のうのうとした男として

 それは、他者から豊原へ向けられた批判であろう。
 豊原は、その批判をそのまま受け止めている。そういう批判があることを自覚し、逃げもしないし、そらしもしない。
 自己のセンチメンタルに酔わずに、そうした批判をそのまま書いてしまうのは、もしかすると、豊原は、そういうものをかわしたり、そういうものから逃れる方法をまったく知らないのかもしれない。自己陶酔もひとつの逃避の方法であるが、豊原はけっして自己陶酔しない。
 目の前にあるものと真っ正面に向き合い、そこに自分の肉体をさしだすということ以外に何も知らないのかもしれない。不思議な詩人である。

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