詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高良留美子『崖下の道』(その1)

2006-11-13 22:49:52 | 詩集
 高良留美子崖下の道』(思潮社、2006年10月31日発行)。(その1)
 高良がこの詩集でつきつめようとしている問題は「間」である。たとえば私とあなたの「間」に何があるか。「狭い海」。

その女の子はすこし変わった形の右手をもっていた
(それだけで この国では一つの運命を荷うのに充分だ)
その子がわたしの方へ泳いできたとき
わたしは手をさしのべた
顔に疲れが出はじめていて
右手がわたしの手に一番近かったのに
その子は右手で水を掻き
左手でわたしの手につかまった
わたしが手をひっこめると思ったのだろうか
わたしがだじろぐと?
わたしは眼をそらして笑ったが
そのときのことを忘れない
その子がもし右手でつかまったら
わたしの手の筋肉は
少しも緊張しなかっただろうか
わたしの眼の端には
少しのたじろぎも現れなかったろうか
わたしには断言できない 断言できないが……
きっと少女はそれを感じるのがいやだったのだ
それを疑うのが

あのときわたしたちの間にあったのは
少女の右手がむなしく搔いた海だった
あの海の幅は狭かったけれど
いまわたしはあの海を越えて
少女の右手をつかまえにいくことができるだろうか
海の幅はほんとうに狭く
少女のからだは沈みかけていて
眼は助けを求めているかもしれないのに

 「わたしたちの間にあったのは」何か。高良は「少女の右手がむなしく搔いた海だった」と目に見えるものを提示しているが、もちろんその「間」にあったのは海だけではない。目に見えないもの、ことばにできないものが、そこにはあった。
 このことばにできないものを、高良はできうるかぎりことばにしようと努める。それが1連目に書かれている「逡巡」である。ただし、高良は「断言できない」と断っている。「断言できない」のは「わたし」のこころに起きたことと、少女のこころに起きたことの両方である。両方であるからこそ「断言できない 断言できないが……」と2回繰り返されている。
 「断言できない」と断りながら、それをことばにしようとする誠実さ、真摯さが、高良のことばを清潔なものにしている。
 そこから「祈り」のようなものが生まれている。わたしを「間」にさしだそうとする何かが生まれている。わたしを何かに、今までのわたしではないものに変えてしまわなければ「間」はとりかえしのつかないものになるかもしれないと感じるこころが、切実に伝わってくる。

 私たちは人と接するが、そのとき私たちは、私とあなたの「間」にあるものをとおして接している。それはたとえば「少女の右手」、そしてその右手に対するこころの揺らぎ。わかっているようでわかっていな何か、正直に語ろうとすればするほど、あいまいなもの、正確ではないものが増えてくる何か。
 そこに「思想」がある。正確に書こうとすればするほど正確ではなくなるもの、常に疑念を呼び込むもの、そんなふうに疑念を積み重ねるしかないもののなかに、あるいは疑念を積み重ねることのなかにこそ「思想」がある。
 いつか、私たちは、その「思想」を自分の肉体で実現しなければならない。その「思想」に自分の肉体を投げ出し、自分が自分でなくなってもいいと覚悟し、何かをしなければならない。
 それができるか。
 できるかどうかわからない。
 その不安を高良は、とても正直にことばにしている。「できるだろうか」と自問している。その正直さにも私は「思想」を感じる。「できるだろうか」という自問は、できるかどうかわからないと言ってしまうのに等しい。そう発言するとき、その発言に対して、どんな批判がかえってくるかわからない。その批判は高良を傷つけるかもしれない。しかし、高良は傷ついてもかまわないと覚悟して、できるかどうかわからない、できるだろうか、と自分自身を疑っている。
 「思想」は自分をいつわらぬことから始まり、常に自分自身への疑問の形でうごめく。



 人と人との「間」。「間」を「あいだ」ではなく「ま」と呼べば、それは「魔」にもなる。人と人との間にあるものは不確実なものである。不確かなものである。少女にさしのべた手のように、具体的なもの、たとえば肉体であっても、それは不確かなものになる。こころが不確かだからである。
 「魔」は不気味である。人間の力がおよばない何かである。さしのべた手は、たじろげは、少女をみはなす手に一瞬のうちにかわってしまう。そのとき手は救いではなく絶望にかわってしまうだろう。だからこそ、不確かではあってもそれを「信じる」ということも起きる。ただひたすら信じて身を任せるということも起きる。
 「狭い海」の少女にさしのべられた手--それは善意の手であるが、その善意であっても「逡巡」がある。「魔」と呼ぶべき「暗い部分」がある。「暗い部分」がありながら、それでもそれを見ないようにして(?)、人間は「善意」を信じる。そうやって生きている。信じれば「魔」が「真」になることを、自分の味方をしてくれることを私たちは体験的に知っているのかもしれない。信じたものだけが実現するということを体験的に知っているのかもしれない。
 確かに「魔」は信じる力によって「真」にかわることがあるのだ。「魔」さえもが信じる力に迷って「魔」ではいられなくなるのかもしれない。
 「魔力」は、そういう不思議な力について書かれた作品である。

“軟弱外交”の担い手 幣原喜重郎は
敗戦の日 電車のなかで
当局を呪う“野に叫ぶ”民の声を聞いた
そして組閣の大命を受けたその年の十月
戦争放棄の考えがかれの頭を訪れたのだ
幣原はのちになって書いている
「それは一種の魔力とでもいうか
見えざる力が私の頭を支配したのであった」と
昭和二十二年一月二十四日のマッカーサー元帥との会談で
戦争放棄の条項を憲法に入れることを提案したのは
幣原であったとのちにマッカーサーも証言している

 幣原と民の「間」にあったもの。それは「呪い」である。幣原を呪う「魔」である。そして、その「魔」が「戦争放棄」という考えを幣原にもたらした。幣原が自らの力で考えたのではなく、国民の呪いが「魔力」(見えざる力)として働いて、その考えを幣原にもたらしたのである。
 それは「魔」のささやきである。「魔」のささやきであるけれど、幣原が「ささやき」に形を与え、具体的なことばにしたとき、それは幣原を「呪い」から救い出した。国民は幣原を「呪う」ことをやめ、幣原のことばに身を投げ出した。国民が全身でしではらのことばを信じたとき、「戦争放棄」ということばは「真」へ転化した。平和を築くための土台になった。
 高良は、こういう転化を肯定している。こういう転化をことばのなかで実現したいと願っているのだと思う。わたしとあなたの間にはさまざまなことばがある。そのなかから、どのことばを選び出し、定着させるか。それよって世界はかわりうるのだ。

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映画「隠された記憶」について(再び)

2006-11-13 21:10:14 | 映画

「隠された記憶」については、7月11日、
http://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/6c751bf496d3a2b91140594730e800c2
で書いた。
いろいろなブログを見ていて気がついたことがあるので、少し書き加えておきたい。
たとえば、
http://eigajigoku.at.webry.info/200605/article_3.html
の筆者「瓶詰めの映画地獄」さんは次のように書いている。

この映画、フライヤーや劇場予告篇などにもあるとおり、
“ラストカットに全世界が震撼”というのがひとつのウリになっているハズなんだけど、
あのラストカットのいったいどこに震撼すればよかったのか、
恥ずかしながら、正直ボクにはまるでわからなかった。
話によると、あの大学の玄関前の風景のなかに、
盗撮犯の正体につながるような何かが映っているらしかったんだけれど、
ボクはてっきり学生の集団の前に上からボトンと人が落ちてくるものとばかり思っていたので、
身構えているうちにまんまと見過ごしてしまったようだ。

私は、この反応はごく普通のことだと思う。
ラストシーンで主人公の息子と父親の知人の息子が親しげに話しているシーンがあり、そのことから2人が犯人ということらしい。そのことが「震撼」の理由らしい。
これは非常にふざけた話である。
2人が犯人なら犯人でかまわないが、こういう「辻褄合わせ」(後出しじゃんけん)のようなものに「震撼」してしまっては映画の面白みはない。
2人が犯人なら、もっと明確に二人の姿を映しだすべきだし、2人が会っているという伏線を明確に映像として先に提出しておかなければならない。
伏線も何もなしに、突然2人の姿を、群衆のなかでとらえ、2人が犯人というのでは観客をなめきっている。

もし、「震撼」すべきことがあるとすれば、その2人が会っているという最後の映像を誰が撮っているかということにこそ「震撼」すべきである。
主人公の家に送られてきたビデオと同じように、固定したカメラが2人をとらえている。それは犯人である2人が撮ったものではない。ということは、2人を「犯人」に仕立て上げようとしている人間が存在するということである。
それは、誰か。
監督である。脚本家である。カメラマンである。つまり、映画制作者である。
2人は監督によって犯人にでっちあげられている。「辻褄合わせ」(後出しじゃんけん)と私が批判する理由はここにある。
何もかもが監督の思いのまま、監督の辻褄合わせだけで犯人がでっちあげられる。そういう映画の作り方にこそ私たちは「震撼」しなければならない。
また、そうしたでっち上げをうたい文句にして映画を売り込む方法にこそ「震撼」しなければならない。

この映画が魅力的なところは、主人公の過去がしだいに主人公自身によって暴き出されところである。送りつけられてきたビデオが主人公の隠し続けていたものを誘い出すのであるが、あくまでそれは誘いだしであって、実際に暴くのは主人公自身である。
主人公が自分自身の秘密と向き合う。隠しておきたいものを隠しきれなくなる。人間には、そういう瞬間が来るのだ。
たとえば、ギュンター・グラスが「ナチスにいた」と告白しなければならないような、劇的な一瞬が。
そういうことを考えながら、もし、ほんとうに「震撼」すべき何かがあるとするなら、最後の2人の姿を手がかりに「震撼」すべき何かがあると仮定し、そこから「答え」を導き出すならば、ビデオは主人公自身がカメラを据えつけ撮影したもの、ということになるだろう。
自分の過去のいかがわしい部分、それを隠しきれず、つまり誰かに語ることによって、その重みを分担したいと願い、その分担してくれる人に語りかけるために、主人公自身が全てを企んだのだと考えるべきだろう。
ラストシーンを撮ったのが監督ではなく、それまでのビデオを撮った人間がやはり同じようにして隠し撮りしているのだと仮定したとき、そうした隠し撮りをできるのは主人公しかいない。主人公が2人を「犯人」にでっちあげることで、自分自身の過去を明るみに出すしかなかった責任を「犯人」に押しつけているのである。
自分自身の過去を清算するために、過去の告白を迫る「犯人」さえもでっちあげる人間がいる--それは確かに「震撼」すべきことではある。

しかし、書きながら、こんなことを書いても映画の批評にはならないなあ、と思ってしまう。
私の書いたことは「映像の論理」ではなく、「ことばの論理」である。
映画には少しも触れていないのだ。

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