田島安江
『トカゲの人』(書肆侃侃房
、2006年11月28日発行)。
不在の存在、不在することの意識というものについて考えた。たとえば「木と鳥と」。1連目の後半。
「もう一羽の不在」が明るみに出す「もう一本の木の不在」。不在が不在をあぶりだす--その微妙な意識が田島の「思想」の根源であると思った。「不在」をめぐって田島のことばは動くのである。
「終着駅」の2連目。
「冷たい」をめぐる会話。その「冷たい」と言われているものが何かわからない、確信の「不在」。「みえない」もの。見えないけれど、それはたしかにあるのだ。見えないからといって存在しないわけではないのだ。
この視点から「木と鳥と」を読み返してみる。
「もう一羽」の鳥は見えない。見えないから、普通は存在しないと考える。ところが、田島はその鳥が不在なのはもう一本の不在の木(あるいは枝)を明るみに出すために不在だという。
それは見たいものがある、ということかもしれない。見たいという欲望が見えないものをつくりだすのかもしれない。
「木と鳥と」では次のように語られる。
見たいもの--それは「出発」である。「出発」への欲望が田島にはあって、そのために「不在」が見えるのである。「出発」とは、ここから「不在」になることである。ここから「不在」になったとき、ここに存在したということが、「記憶」として明確になる。「記憶」として刻印される。
田島の詩を読んでいると、田島自身がどこかへ行ってしまって(ここから不在になってしまって)、そしてそのことによって「ここ」(いま)を記憶に刻印しようとしているように感じられる。
あるいは逆に言った方がいいかもしれない。
「ここ」(いま)から不在になる。その不在は、「新しい私」の誕生を証明する。もう「そこ」にはいない。「ここ」(いま)は「そこ」(あのとき)に変わってしまった。だから私は「新しい」のだ、と田島は宣言しようとしているかもしれない。
「終着駅」の全編。
2連目の「その隣に座った女」とは、田島からみて、男の向こう側にいる女を指すのだろうか。それとも田島自身を指すのだろうか。
「新しい自分」と男の関係、二人の関係は、田島にはまだ見えない。見えないけれど、それは存在する。それはけっして「不在」ではない。
不確かなもの、見えないもののなかへ自分を投げ出していく田島。その「出発」を田島は、ここで静かに宣言しているのである。
これは静かな静かな、しかし強い決意が秘められたラブソング、あるいはラブレターのような詩である。男に対して田島は半ば酩酊したまま、見えない関係に身を任せて最後までいっしょに行くと言っているのである。つねに「不在」であってもかまわない。「不在」であっても、あるいは「不在」であるからこそ、そこには「いま」「ここ」にはないほんとうのもの、欲望の対象が実在するのだという酩酊のなかでしか見えない真実がある。それを見てしまうのが恋というのもだろうと思う。
不在の存在、不在することの意識というものについて考えた。たとえば「木と鳥と」。1連目の後半。
揺れている木々の枝先に
一羽だけ鳥が止まっている
木々の揺れに沿って鳥も揺れる
たった一羽だということが
決して二羽だったりしないことが
もう一羽の不在が
木の不在でもあるかのように
「もう一羽の不在」が明るみに出す「もう一本の木の不在」。不在が不在をあぶりだす--その微妙な意識が田島の「思想」の根源であると思った。「不在」をめぐって田島のことばは動くのである。
「終着駅」の2連目。
隣に座った男が
その隣に座った女に話しかける
「冷たいだろう」
「冷たいわね」
冷たいのは男の心なのか
女の体なのか
私にはみえない二人の関係を乗せたまま
電車は最後の駅に向かう
「冷たい」をめぐる会話。その「冷たい」と言われているものが何かわからない、確信の「不在」。「みえない」もの。見えないけれど、それはたしかにあるのだ。見えないからといって存在しないわけではないのだ。
この視点から「木と鳥と」を読み返してみる。
「もう一羽」の鳥は見えない。見えないから、普通は存在しないと考える。ところが、田島はその鳥が不在なのはもう一本の不在の木(あるいは枝)を明るみに出すために不在だという。
それは見たいものがある、ということかもしれない。見たいという欲望が見えないものをつくりだすのかもしれない。
「木と鳥と」では次のように語られる。
鳥が飛び立つ日はきっと明日
ここに立ったとき
鳥はもう飛び立っているだろう
南に向かって
見たいもの--それは「出発」である。「出発」への欲望が田島にはあって、そのために「不在」が見えるのである。「出発」とは、ここから「不在」になることである。ここから「不在」になったとき、ここに存在したということが、「記憶」として明確になる。「記憶」として刻印される。
田島の詩を読んでいると、田島自身がどこかへ行ってしまって(ここから不在になってしまって)、そしてそのことによって「ここ」(いま)を記憶に刻印しようとしているように感じられる。
あるいは逆に言った方がいいかもしれない。
「ここ」(いま)から不在になる。その不在は、「新しい私」の誕生を証明する。もう「そこ」にはいない。「ここ」(いま)は「そこ」(あのとき)に変わってしまった。だから私は「新しい」のだ、と田島は宣言しようとしているかもしれない。
「終着駅」の全編。
新しい自分が見えてきたら
古い自分を脱ぎ捨てる
洋服を着替えるように
新しい自分にはなかなかなじまないから
なじまない洋服を着る時のように気恥ずかしくて
わたしは半ば酩酊したまま
電車に乗る
隣に座った男が
その隣に座った女に話しかける
「冷たいだろう」
「冷たいわね」
冷たいのは男の心なのか
女の体なのか
私にはみえない二人の関係を乗せたまま
電車は最後の駅に向かう
2連目の「その隣に座った女」とは、田島からみて、男の向こう側にいる女を指すのだろうか。それとも田島自身を指すのだろうか。
「新しい自分」と男の関係、二人の関係は、田島にはまだ見えない。見えないけれど、それは存在する。それはけっして「不在」ではない。
不確かなもの、見えないもののなかへ自分を投げ出していく田島。その「出発」を田島は、ここで静かに宣言しているのである。
これは静かな静かな、しかし強い決意が秘められたラブソング、あるいはラブレターのような詩である。男に対して田島は半ば酩酊したまま、見えない関係に身を任せて最後までいっしょに行くと言っているのである。つねに「不在」であってもかまわない。「不在」であっても、あるいは「不在」であるからこそ、そこには「いま」「ここ」にはないほんとうのもの、欲望の対象が実在するのだという酩酊のなかでしか見えない真実がある。それを見てしまうのが恋というのもだろうと思う。