和合亮一『入道雲入道雲入道雲』(思潮社)(2006年10月25日)。
何度読み返しても美しいという感想しか思い浮かばない2行がある。23ページに出てくる。
こういう行に出会ったとき、私は、その行にこそ詩人の「思想」があると思って何度も読み返すのだが、ほかの行とつながらない。和合のなかでは明確な文脈があるのだろうけれど、私には見当がつかない。
なぜ、今、ここに、この行が登場したのかわからない。
わからないままさらに繰り返して読んでいると、私の中に、何か「美しい」という感覚とは別の、私にはない何かが浮かび上がってきた。
「駅のおもて」に対して「駅のうらて」と和合は書く。「駅のおもて」から「駅のうら」へと書かず、「おもて」から「うらて」へと「て」を付け加える。「て」は方向を示している。
「方向」の意識が、和合の場合、とても強いのだ。
存在を、ただそこにある存在として見るのではなく、常に動いているもの、ある「方向」をめざしているものとして見ているのかもしれない。
その動き、運動に何かが付け加えられ、具体化するとき、それが美しく見えるのだろう。駅の表から駅のうらてへ単に子供が走るのではなく、「紫色の窓を背負って」走る。余分なもの(?)が付け加えられる。そのとき、その余分なものが方向を決定しているように感じられるのだ。過剰なものと方向が一体となって、今ここにあるものとは違った「宇宙」のようなものが見えてくる。
「過剰」と「方向」、それが「宇宙」なのである。和合にとっての「世界」なのである、と私には思えてくる。
作品の冒頭から、「過剰」と「方向」が描かれている。
「過剰」は「死後」である。「死後」は「僕」にとっては存在しないだろう。「過剰」というのはそういう意味である。「方向」は「きみ」である。「僕」からはみだしたもの、たとえば「僕の死後」が「きみ」の方向へあふれだしていく。
もちろん、和合は死んでなどいないから、これは「仮定」あるいは「想像」の話だが、そういう架空の世界へとはみだしてゆくことばのすべては「過剰」なものだが、それが「きみ」へと向かうとき、そのことばはすべてラブソングになる。ラブレターになる。
ここに書かれているのは、「過剰」な和合の思い、和合の肉体から離れ、飛び散っていくことばである。それは「きみ」へ「きみ」へと突き進んでゆく。「きみ」が受け止めるかどうかはラブソングやラブレターにとってどうでもいいことである。ラブソング、ラブレターにとって大切なことは、思いがことばになることによって、書いている本人を救い出すことだからである。ことばが、過剰なことばが出口(方向)がないまま溜まり続けたら、その重さのために和合自身が破滅するだろう。
和合自身を破滅させることばを、「きみ」へ向けて放り出し続けるということは、いわば「自殺」しながら、常に「自殺」から回復することでもある。
矛盾のなかで疾走しつづけることば。それは、和合の書いていることばで書き換えれば「ドゥカティ」に乗ってハイウェイを「きみ」へと向かって疾走する姿に似ている。二輪車だから、止まっていては倒れる。倒れないためにひた走る。そして、そのスピードのなかで「宇宙」と一体になる。「宇宙」という広大なもの、膨張し続けるものだけが、「過剰」をそのままのみこんでくれるのである。
こうした作品は、立ち止まって読んでも楽しくはない。ただ読みとばし、気に入った部分だけを、疾走するバイクのハンドルを眺めながらみつめるように、瞬時瞬時に記憶するだけでいい。
たとえば、次の3行を。(50ページ)
この3行は、まさに独楽そのもののように、同じ場所で高速で回転することによって立っている。ドゥカティ、そのバイクの動きと対立する。
しかし、しかし、しかし。
この3行は、なんとも強烈である。「方向」をもって過剰をあふれさせるものと、「方向」を拒否して、今、ここに存在し続けるために回転するものと、2種類の動きが和合のことばのなかにはあるのかもしれない。
『入道雲入道雲入道雲』は「入道雲」と「入道雲入道雲」の2部構成でつくられた詩集だが、「入道雲」にはバイクが、「入道雲入道雲」には「蔵王(独楽)」が登場する。
私にはバイクが登場する「入道雲」の方が疾走感があって読みやすい。蔵王(独楽)は重すぎる。
何度読み返しても美しいという感想しか思い浮かばない2行がある。23ページに出てくる。
色のない駅のおもてから色のないえきのうらてへと
紫色の窓を背負って走ってゆく子供の「お使い」である
こういう行に出会ったとき、私は、その行にこそ詩人の「思想」があると思って何度も読み返すのだが、ほかの行とつながらない。和合のなかでは明確な文脈があるのだろうけれど、私には見当がつかない。
なぜ、今、ここに、この行が登場したのかわからない。
わからないままさらに繰り返して読んでいると、私の中に、何か「美しい」という感覚とは別の、私にはない何かが浮かび上がってきた。
「駅のおもて」に対して「駅のうらて」と和合は書く。「駅のおもて」から「駅のうら」へと書かず、「おもて」から「うらて」へと「て」を付け加える。「て」は方向を示している。
「方向」の意識が、和合の場合、とても強いのだ。
存在を、ただそこにある存在として見るのではなく、常に動いているもの、ある「方向」をめざしているものとして見ているのかもしれない。
その動き、運動に何かが付け加えられ、具体化するとき、それが美しく見えるのだろう。駅の表から駅のうらてへ単に子供が走るのではなく、「紫色の窓を背負って」走る。余分なもの(?)が付け加えられる。そのとき、その余分なものが方向を決定しているように感じられるのだ。過剰なものと方向が一体となって、今ここにあるものとは違った「宇宙」のようなものが見えてくる。
「過剰」と「方向」、それが「宇宙」なのである。和合にとっての「世界」なのである、と私には思えてくる。
作品の冒頭から、「過剰」と「方向」が描かれている。
ハイウェイを濡らす僕の死後の雨
ドゥカティ …… 僕の死後にはじめて雨の降る日
みずみずしいヘルメットに映る 脳死の景色 それは
僕の死後にきみが見る テレヴィではないだろうか
「過剰」は「死後」である。「死後」は「僕」にとっては存在しないだろう。「過剰」というのはそういう意味である。「方向」は「きみ」である。「僕」からはみだしたもの、たとえば「僕の死後」が「きみ」の方向へあふれだしていく。
もちろん、和合は死んでなどいないから、これは「仮定」あるいは「想像」の話だが、そういう架空の世界へとはみだしてゆくことばのすべては「過剰」なものだが、それが「きみ」へと向かうとき、そのことばはすべてラブソングになる。ラブレターになる。
ここに書かれているのは、「過剰」な和合の思い、和合の肉体から離れ、飛び散っていくことばである。それは「きみ」へ「きみ」へと突き進んでゆく。「きみ」が受け止めるかどうかはラブソングやラブレターにとってどうでもいいことである。ラブソング、ラブレターにとって大切なことは、思いがことばになることによって、書いている本人を救い出すことだからである。ことばが、過剰なことばが出口(方向)がないまま溜まり続けたら、その重さのために和合自身が破滅するだろう。
和合自身を破滅させることばを、「きみ」へ向けて放り出し続けるということは、いわば「自殺」しながら、常に「自殺」から回復することでもある。
矛盾のなかで疾走しつづけることば。それは、和合の書いていることばで書き換えれば「ドゥカティ」に乗ってハイウェイを「きみ」へと向かって疾走する姿に似ている。二輪車だから、止まっていては倒れる。倒れないためにひた走る。そして、そのスピードのなかで「宇宙」と一体になる。「宇宙」という広大なもの、膨張し続けるものだけが、「過剰」をそのままのみこんでくれるのである。
こうした作品は、立ち止まって読んでも楽しくはない。ただ読みとばし、気に入った部分だけを、疾走するバイクのハンドルを眺めながらみつめるように、瞬時瞬時に記憶するだけでいい。
たとえば、次の3行を。(50ページ)
昨晩ずっと
独楽を
蔵王を回していた
この3行は、まさに独楽そのもののように、同じ場所で高速で回転することによって立っている。ドゥカティ、そのバイクの動きと対立する。
しかし、しかし、しかし。
この3行は、なんとも強烈である。「方向」をもって過剰をあふれさせるものと、「方向」を拒否して、今、ここに存在し続けるために回転するものと、2種類の動きが和合のことばのなかにはあるのかもしれない。
『入道雲入道雲入道雲』は「入道雲」と「入道雲入道雲」の2部構成でつくられた詩集だが、「入道雲」にはバイクが、「入道雲入道雲」には「蔵王(独楽)」が登場する。
私にはバイクが登場する「入道雲」の方が疾走感があって読みやすい。蔵王(独楽)は重すぎる。